紅湖に浮かぶ月

紅雪

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紅湖に浮かぶ月5 -始壊-

3章 波乱の兆し

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「誰かが望む事は誰かが望んでいない事だ。万人が望む事象等存在しない。」


「ご足労頂いて感謝します。」
「いえ。で、話しと言うのは?」
リンハイア言って頭を下げると、クスカは片手を上げて応じた。クスカの視線
はリンハイアではなく、室内でお茶の準備をするアリータに向けられている。
執政統括の部屋でソファーで対面する時、今までは席を外させていた筈のアリ
ータが今日は居ることに疑問を表して。
「ある程度の事情は話してあるんです。私一人では対処しきれなくなってきま
したので、今後は彼女も同席させたいのですが。」
「そういう事でしたらこちらも問題ありません。」
リンハイアの説明にクスカは気にしていないと頷く。
「むしろこちらも人手不足故、協力者が増える事はありがたい。」
言っている事はいいが、相変わらず愛想の無い顔だなとお茶を運んで来たアリ
ータは思った。
「ありがたく頂戴する。」
目の前に置かれた紅茶をクスカは早速口にすると表情が緩む。
「ダージリンか、いい茶葉だ。煎れ方も上手い。」
一口飲んだクスカがカップをソーサーに戻すとそう言った。
「ありがとうございます。」
アリータは言って頭を下げる。北方連国に行っている何処ぞの執務諜員とは違
って、紅茶を嗜み世辞も出るクスカの態度にアリータは嬉しくなった。リンハ
イア以外に城内に気を利かせた物言いをする人間は居ない事を、改めて実感す
ると次からは安い茶葉も用意しようと心に留めて。
「早速だが用件を話しても?」
「北方連国の件ですかな。」
リンハイアの問いにクスカは頷いて、続きを促すように言った。
「そうです。私の方で得られる情報に限りがあります。」
「昨日の時点で、グベルオルが重症で暫く動けない状況になっている。」
「やはりそうですか、報告ではグベルオル殿ではと思っていましたが。」
クスカの話しにリンハイアは表情を険しくして言った。クスカも話し始めた時
から眉間に皺を寄せて話している事から、状況が芳しくないのだろうとアリー
タは思ったが、それ以前に内容についていけなかった。
「少し余談に時間を頂いてもいいですか?彼女にはあれの話しはしてますが、
あなた方の事はまだ説明していないのです。」
「その方がいいでしょう。」
アリータの状況を察したリンハイアが窺うと、クスカも同意した。
「お互い紹介も未だでしたね、彼女はアリータ・パリカーオ、表上は秘書です。
彼がクスカ・ラドバスク・ネールカヴァリ。」
リンハイアの紹介にお互い会釈で応じるとリンハイアは続ける。
「クスカ殿はアン・トゥルブという組織の一員で主に調整を担当している。」
「我々は五百年程前から、あれの監視を行っている集団と思ってもらえればい
い。」
「そんな組織があるとは、思ってもみませんでした。」
二人の説明にアリータは驚きを隠せなかった。特に五百年も前からあれの存在
を知って監視をしている事に。この大陸の一般的な呪紋式の普及はそんなに昔
ではない。まして大呪紋式に関しては殆どの人間が存在を知らないのだ。それ
をそんな昔から知っているなど、驚きを通り越してアン・トゥルブの存在事態
に疑惑や胡散臭さを感じ始めていた。
「我々の存在は知られるべきでは無いのだが、年月と共に人数も減って厳しい
状況になっている。」
「大陸の呪紋式普及は予想以上に早い、手にしようとする人間も必然的に増え
る。」
クスカが語る現状をリンハイアが引き継ぐ。リンハイアが以前警鐘を唱えたの
も、この組織との付き合いがあったからだろうかとアリータは思った。
「組織内では手が回らないのが現実だ。憂う有識者に協力を求めざるを得ない
状況なのだ。」
存在自体怪しいと思うが、あれを目の当たりにしている為、はっきりと否定は
出来ない。実際に存在して少し前に脅威を見たばかりなのだ。メーアクライズ
の件も信憑性が増したのに、組織は否定するのも道理ではないとアリータは自
分に言い聞かせる。
「私も戦争や大陸の崩壊を望んでいるわけではない。故にアン・トゥルブとは
協力関係となっている。」
「概ね分かりましたので、北方連国の話しに戻って頂いて大丈夫です。」
本当は色々と聞きたい事はあったが、北方連国の事を考えれば今ではないとア
リータは話しを進める事を促した。リンハイアの態度から時間は無いだろうと
察して。
「正直ユエトリエリだけでは厳しい。かと言ってエカラールを通る事も出来な
い。その辺はこちらの課題なので対処は考慮するとして。」
「ナベンスクですね。」
「そうだ。」
北方連国の話しから何故ナベンスク領に話しが繋がるのか、アリータには分か
らないが黙って聞くことにする。いちいち話しの腰を折っていては進むものも
進まない。二人は分かっているのだから、会話から情報を読み取るしかないと。
「グベルオルが元々ナベンスクの監視者だ。彼の国は戦争中、それに受け継ぐ
者が存在しないため北方連国へ回したのだ。」
「丁度昨日、ナベンスクより軍の派遣要請が来ています。私にとっても懸念の
一つですので、留守は此方でそれとなく預りましょう。」
「助かる。」
モフェグォート山脈で負傷した老人がグベルオルで、ナベンスク領の大呪紋式
を監視していた。人手が足りない為に北方連国へ送ったため、現在ナベンスク
領の監視が疎かになっている。アリータはここまでの話しは分かり、頭の中で
整理する。確かにグラドリア国軍はナベンスク領に向かうが、果たして余力な
どあるのだろうかと疑問が浮かんだ。
「問題は北方連国ですね。考慮すると言っていましたが、当てはあるのですか
?私がクスカ殿に来て頂いたのは北方連国の方が心配だからです。」
リンハイアの言葉にクスカは眉間の皺を深くして考え込む。言葉通りその懸念
で呼んだことをアリータも分かっている。リンハイアは当てが無くて呼ぶとも
思えないし、ナベンスク領の事も折り込み済みだったのだろう。それに対して
黙り込むクスカにアリータは疑念の目を向ける。
「人手不足故グベルオルも北方連国に行っている。向かう者が居なければ、私
が向かうだけだ。」
苦い表情をして言うクスカを見て、そこまで人が居ないのかとアリータは思わ
された。アン・トゥルブがどんな組織なのか謎のままだが、話しから思うに十
人も居ないのではないかと思えた。
「万が一が有った場合、こちらとしても伝手が無くなりますねそれは。私の事
を知っていたとしても連絡がつかなのでは意味がない。」
「近くに居るだろう。」
「組織に属さず奔放と言ったのは貴方でしょうクスカ殿。」
クスカ以外にもアン・トゥルブの人間が近くに居て、リンハイアはそれを知っ
ている。であれば自分も会っている可能性は高いとアリータは思うが、それが
誰なのかまでは想像が付かなかった。
「確かに。では、もし私が出る事になったらオーメイラに引き継ぎます。我ら
が主の側近故、話しも早いし私より融通が利くだろう。」
決別を言い渡して来たリュティを思い出して、クスカは不快な思いになったが
圧し殺して別の担い手を出した。
明らかに不機嫌な顔になって言うクスカを見て、アリータは未だ分からぬ人物
はクスカ以上に顔を合わせたく無い思いが湧いてくる。眉間に皺を寄せ、愛想
も無く、態度も良いとは思えないクスカが不機嫌になるなど、きっとろくでも
ないのだろうと思って。
「出来れば顔合わせをお願いしたいですね。クスカ殿と連絡が付かない時もそ
うですが、今後の事を考えれば今まで以上に協力が必要になるでしょう。」
「分かった。我が主に話しておこう。」
一瞬考え方クスカだが、直ぐにリンハイアの要望を承諾した。
「他に用が無ければ私はこれで。顔合わせについては近いうちに連絡しよう。」
「来て頂いてありがとうございます、連絡の方、お待ちしていますよ。」
「ああ。」
クスカは頷くとソファーから立ち上がり、執政統括の部屋を後にした。アリー
タはそれを確認すると、会いたくは無いが話しに出てきた近くにいる組織の人
間が気になりリンハイアに聞く。
「先程、話しに出た近くに居るアン・トゥルブの人間は、私も会っているでし
ょうか?」
リンハイアは冷めた紅茶を口にすると、苦笑して頷いた。アリータはリンハイ
アの態度を見ると、何故苦笑されるのかと疑問に思う。
「何度もね。」
何時もの微笑に戻りそう言ったリンハイアに、教える気が有るのか無いのか分
からないが、言うなら勿体ぶらないで欲しいとアリータは内心で少し不貞る。
「ここまで来たら隠す事でも無いが、本人の前では言わないで欲しい。」
「分かりました。」
それは本人がアン・トゥルブであることを嫌がっているのか、隠していたいの
か不明だがアリータは承諾した。それよりも誰なのかを知りたい欲求の方が勝
って。
「リュティエーノ・ムーセルカ・アリア。今はアクセサリーショップ・フーの
店員がそうだ。」
「えっ・・・ええっ!」
色々と会った事のある人物をアリータは想像していたが、あまりに予想外の人
物だったため一瞬疑問の声を出し、思わず続けて大きな声を出してしまった。
「本当、ですか?」
アリータは未だに信じられず、笑いを噛み締めているリンハイアに確認する。
「嘘は言っていない。ただ彼女がどうして、ミリア殿の店に居着いているのか
までは分からないが。」
クスカ以上の面倒そうな人物だと思っていた驚きからまだ解放されていなかっ
たが、リュティの正体にも驚いた。ミリアと一緒に居る理由は分からないが、
リンハイアが知らないのであれば本人に聞くしか知りようが無い。そう思うと
アリータは今ある事実だけ受け入れておこうと思った。クスカよりもろくでも
ないと思った事を、心の中で謝りつつ。
「さて、この後軍の派遣についてハイリ老と打ち合わせだったね。」
「はい、その予定となっています。先程の件、余裕はあるのでしょうか?」
クスカにナベンスク領に在る大呪紋式のお守りを押し付けられた形だが、大丈
夫なのかとアリータは思い加えて聞いた。
「心配しなくてもいい。その分も先の打ち合わせで決めていてね、今回の派遣
に既に含んでいるんだよ。」
「分かっていたわけですね。」
最初からそのつもりだったのだと気付いて、アリータは若干力が抜けた気がし
た。クスカにそう言わなかったのは、こちらが下手に見せないためだろうと思
ってそれ以上は問わない事にする。
「打ち合わせはアリータも出席してくれ。」
「分かりました。」
「では少し早いが、向かうとしよう。片付けは後でいい。」
リンハイアはソファーから立ち上がるとそう言って、部屋の扉に向かう。
「はい。」
出しっぱなしのカップは気になるところだったが、その様な些事で引き留める
わけにもいかないので、アリータはリンハイアに続いて執政統括の部屋を後に
した。



その男はカマルハー以上にお店に似つかわしくなかった。粗暴な雰囲気で無愛
想な表情、丸めた新聞を左手に持ち、右手はズボンのポケットの中だ。部屋着
でサンダルを履いて近所を散歩するおっさんにしか見えない男がアクセサリー
ショップとか、お店の印象が悪くなるので帰って欲しい。私の偏見だと言われ
ようとも、嫌なものは嫌なのよ。が、私はその顔に見覚えがあった。
「やっと見つけたぜ。」
「どうして此処が・・・」
おっさんはカウンターを前に座る私を見つけると真っ直ぐ近寄って来てそう言
った。悪者を見つけたような言い様がむかつく。その感情を隠さず私は不機嫌
な顔でおっさんに聞いた。
「ふん、蛇の道はなんとやらってな、商売上情報は必須だ。呪紋式の薬莢を扱
ってるとこなんざそんなに多くねぇ、見つけるのは楽だったぜ。」
そういう事か。私は大々的に扱っているとは宣伝してないが、おっさんの店は
検索すれば直ぐに見つかった。私のお店が見つからない理由は無い。だとして
も。
「何しに来たのよ。」
薬莢は自分で売っているのだから私に用は無い筈。悪いけれどアクセサリーっ
て風にも見えない。
「お前さんが寄越した薬莢、何処で手に入れたか教えてくれねぇか?」
ああ、そう言えば帰り際、投げたわね。誘き寄せる結果になるなら上げなけれ
ば良かったわ。面倒。
でも場所を知られた以上、惚けてもしつこそうね。
「教えたらさっさと帰ってくれる?」
「ああ、勿論だ。アクセサリーなんざ俺の柄じゃねぇからな。」
言わなくても見れば分かるわよ。
「私が記述した物よ。はい帰って。」
「ぁあっ!?俺ぁ記述した奴を教えろって言ったんだよ。追い返す為の戯れ言
なんざ聞いてねぇ。」
正直に言ったのにこの様だ。他のお客さんも居るのにふざけた態度を取ってく
れて、いくら私でも黙ってないわよ。
「お客さま、でしたら奥へどうぞ・・・来ないなら教えない。」
前半は営業用で話し掛け、後半は低く小さい声で言い睨み付ける。他のお客さ
んに見られている以上、このおっさんをこれ以上店内に置いておきたくない。
「此処でもいいだろうが・・・」
おっさんはぶつくさと不機嫌に言いながら渋々私の後に着いて来る。
「ミリアさん丁度良いところに・・・」
作業場に入る私が目に入るとサラーナが私に向かって、椅子から立ち上がりそ
こまで言ったが、後から入って来たおっさんを見て硬直する。
「お客さんと少し話しがあるから待ってて。」
「は、はい。」
「何だ居るじゃねぇか。まだ若ぇがこいつか?」
薬莢や記述道具を見ておっさんが言う。私は振り返るとおっさんを睨み付ける。
「な、なんだょ・・・」
私は瞬時に背後に回るとおっさんの首に左手を回し、右拳を背中に押し付けて
殺気を叩き付ける。首に手を回し軽く締めた事で、おっさんの疑問が尻窄みに
なった。サラーナが驚いて目を見開いているが無視。
「私が記述した事に嘘はない。信じる信じないはあんたの勝手だけど、他のお
客さんの迷惑になる事は止めてくれないかな。」
暫し無言で硬直したおっさんは額に汗を浮かべ、それが頬に伝い垂れてくる。
汚い。
私は首に回していた手をおっさんから離して逃れた。
「あんた、何もんだ・・・」
おっさんは私から離れて睨むと、腕で汗を拭いながら聞いてきた。
「見ての通りこのお店の店員よ。」
「あんたが記述したのに、間違いは無いんだな?」
興味が無いなら私が何者とか聞くなよ。折角答えたのにおっさんは違う問いに
移行しやがった。
「信じる信じないは勝手だって言った筈だけど。」
おっさんは顎に手を当て下を向くと何かを考え始めた。邪魔くさい。
「用が済んだのなら帰ってくれない。」
私の言葉におっさんは何かを決めたように私を見た。嫌だから帰って欲しいな。
「なぁ、薬莢を売ってくれねぇか。」
「は?何言ってんのよ、自分のお店で扱っているでしょう。」
何を言い出すかと思えば、意味が分からない。
「それなんだ。あんたの記述は質が良い、俺の店で扱いてぇんだ。」
「却下!」
馬鹿かこいつは。いや、私より高額で売っているのだから、私のところで買っ
て転売しても儲けは出るのよね。ただ私はそんな事のために記述はしない。
「なんでだ、悪い話しじゃねぇだろ。」
「このお店でも売っているのよ、なんであんたに売らなきゃならないの。転売
目的なら尚更やらないわ。」
「なにっ?」
おっさんは驚いた顔で硬直した。転売目的でもばれて焦ったのか。
「薬莢売ってんのかこの店・・・」
おぉ、それ以前の問題だったわ。蛇の道はなんたらって言ってたのは何処のど
いつだ。確認もせずに来たおっさんが悪いし、こちらもいい迷惑だわ。そう思
うと緊張が解けて疲れが身体を脱力させる。
「分かったらもう帰って。」
「いや悪かった、てっきり記述だけかと思ってよ。」
私が呆れて言うも、おっさんは帰らずにそう言いながらサラーナが記述した薬
莢を取って眺め始める。サラーナは恐がって身を竦めた。帰れよ。
「俺の店に置いてるのより良いじゃねぇか。質の良い記述師が二人も居るって
どうなってんだこの店はよ。」
「いいから帰れ。」
おっさんが使っている記述師が何者か知らないけれど、サラーナに関しては国
が抱える優秀な記述師だから当たり前だ。そんな事より流石に鬱陶しくなって
きた。だがおっさんは私の催促など聞いてなく、更に薬莢のメニューに目を止
めると掴んで目を見開いた。
「なんだこりゃぁ、卸値じゃねぇか!」
五月蝿いなもう。私はおっさんに近付くと肩に手を置いて睨む。
「いい加減仕事の邪魔なんだけど、帰ってくれないかな。」
「いて、いてぇっ。分かった分かった・・・」
肩に力を込める私の手を振りほどくと、おっさんはこちらを睨んできた。仕事
の邪魔をするあんたが悪いんだっての。
「一つ。」
「何よ。」
おっさんは人差し指を立てて真面目な顔になって言った。きっとろくでもない
事を言い出すに決まってるわ。そう思うが私は嫌な顔をしつつも一応何か確認
する。
「あの金額と質じゃ俺が商売にならねぇ、もう少し上げろ。」
「嫌よ。私は依頼を受けてから記述するし、数日待ってもらうからその価格な
のよ。」
値段あげろとか、個人商売なのだから言われる筋合いは無い。おっさんのとこ
ろで薬莢が売れなくても私の所為じゃない、おっさん自身の問題だ。やっぱり
ろくな事じゃなかったわ。
「なんだ、作りおきはねぇのか。」
「アクセサリーも創らなきゃならないし、そんなに暇じゃないわよ。」
「そうか・・・」
おっさんはそれだけ言うと何かを考え始める。まだ帰らないのか。
「もう帰ってよ。邪魔だって言ってるでしょ。」
「・・・あぁ、すまん、また来る・・・」
「いや、もう来るな。」
おっさんは考えながら作業場から出ていった。きっと私の言ったことも聞いて
ない。一応店内を見ておっさんがお店から出ていくのを確認してから溜め息を
吐き出した。本当、迷惑な奴ね。作業場の中に視線を戻すと、サラーナに何か
言われていた事を思い出す。
「ごめん、待たせたわね。」
「いえ、大丈夫です。それよりさっきの人はなんなんです?」
「私が聞きたいわ。」
怪訝な顔でサラーナは聞いて来るが、私にもさっぱり分からない。勘違いは認
識したようだから、もうこのお店には用もないでしょう。
「で、なんだっけ?」
「あ、治癒促進の記述が終わったので見てください。」
「分かったわ。」
おっさんの事は忘れる事にして、私はサラーナから薬莢を受け取って記述され
た呪紋式を確認する。記述に慣れてきたのか、元々技術は持っていて環境に慣
れたのか分からないが、安定した記述がされている。
いや、本人の資質なのだろう。カマルハーもそれが分かっていたからサラーナ
を出したんだと、今なら分かる気がする。
「良く描けているわ。これなら十分お店の商品として出せるわね。」
「ありがとうございます。ミリアさんには及びませんが精進します。」
別に私に並ばなくていいから、自分のやり方さえ確立すればいいと思うのだけ
ど。
「次は何を記述しましょうか?」
「ちょっと待って。」
私は未記述の薬莢を取り出すと描き始める。ちょっと面白そうだから試してみ
たい呪紋式があったため、幾つか確保しておこうと思って。今思い付いたので
使い道があるか不明なのだけど。
「この二つ、三発ずつお願い。」
「はい。」
サラーナは受け取って呪紋式を確認すると、怪訝な顔をした。
「火を起こす呪紋式、今は殆ど使われていませんよね、発見当時もですが。そ
れともう一つはなんですか?」
「秘密。」
「そうですか。初めての呪紋式なので時間が掛かるかもしれません。」
「構わないわ。」
特に追及もせずサラーナは笑顔で言った。秘密とは言ったが大した物でもなく、
本当に使い道が無さそうなんだけどね。
「じゃ、私は店内に戻るわ。それと薬莢の依頼が来たら呼ぶから、店内での仕
事も覚えていってもらうわ。」
「分かりました。」
サラーナの返事を聞くと私は店内に戻り、カウンターを前に座る。丁度リュテ
ィのところで会計を終わらせたお客さんがお店を出ていった。それを見て、創
ったアクセサリーが売れた事に嬉しくなる。
「さて・・・」
私はカウンターの手前に設えた作業場所で、工具を取り出す。アクセサリーは
此処で創れるようにした、お客さんの興味も惹くかなと思って。ロンカットの
お店の再開は、サラーナの記述も悪くないのでそろそろ店員の募集をかけよう
かなと考えながら、私はお店にお客さんが入ってきた音を聞きながら作業を始
めた。



会議室にある長机の端に五人が集まって険しい表情をしている。今までと違う
のはゲイラルの代わりにウアナが居ることだった。ただウアナはゲイラルの後
を継いだわけではなく、今後の作戦に隠葬隊も関わるため代表として出席して
いるだけであった。
隊長はあれだから会議には出ないと追尾作戦で一緒だった先輩二人が言い、な
らば二人うちどちらかが出るのかと思いきや一瞬で姿を消していた。同行した
手前、逃げ出す訳にもいかず仕方なくウアナは出席しているのだった。
「急襲隊の部隊は揃っています。精鋭のみを揃えた二個中隊、隊長はロドエン
とガーンリィです。」
ベナガハが報告をするとインブレッカが鋭い眼光で大きく頷いた。
「十分過ぎる程の戦力だ。」
「ゲイラル殿と仲が良かったガーンリィに至っては、弔い合戦だと既に息巻い
ております。」
「探索の方は、今日中には集まるかと。本当に五十名程で宜しかったでしょう
か?」
ベナガハに続いてゴスケヌが報告する。
「構わぬ、どうせ邪魔など入らんのだからな。明日の朝には出立可能でいいな
?」
「はい。」
ゴスケヌの懸念にインブレッカは不敵な笑みで答え、確認して返答に頷くと視
線をウアナに向けた。
「隠葬隊は我輩と一緒に急襲隊に加わってもらう。」
「分かりました。」
「将軍自ら出なくても宜しいのでは?」
ウアナが了承したところでゴスケヌが、わざわざインブレッカが出る必要はあ
るのかと疑問を口にする。
「我輩自ら引導を渡してやらねば気がすまん。せめて自らの手で、散って逝っ
た者への手向けとせねば、将軍としての立場も無いだろう。」
「出来れば今回で決着して頂ければ、還らなくなった者も無駄死にでは無かっ
たと思えるかも知れません。」
フラガニアが沈痛な面持ちで言ったのに対し、インブレッカは静かに頷いて目
を閉じた。
「無駄になどせん。」
「お願いします。」
納得などいっていなかったが、それでも自分が出来ることはこれしかないとフ
ラガニアは頭を下げた。将軍としての立場もあるだろうし、インブレッカの姿
勢も嫌いでは無かったが、大呪紋式なる眉唾物の為に死地へ向かわせる事は納
得出来ないままでいた。起きてしまった事はもう取り返しがつかないが、せめ
てこれ以上の犠牲は出ないようにと願いを込めて。
「急襲隊の出発は夕方とする。未明にはそやつらの住みかを叩き潰しに動く予
定だ。」
「確かに夜襲は有効でしょうが、雪山の移動は危険極まりないのでは!?」
インブレッカの予定にゴスケヌが強く言った。ただでさえ夜の山脈は危険なの
に、雪が積もり寒さも厳しい中での行軍は死にに行くようなものだと思って。
「ゴスケヌよ、勘違いしておらぬか。カリメウニアに入る危険はあれど、山越
えをしに行くわけではないのだぞ。」
「はい、途中までは市内の移動になります。夜襲自体は副産物であり、夜間行
動の目的はカリメウニア側に気付かれないようにする為です。」
インブレッカの言葉をウアナが引き継いで作戦の説明をする。それを聞いてゴ
スケヌが気付いたようで、頭を掻くいた。
「そうでしたな。すっかり山に気を取られておりました。」
「まあ、間道続きでしたからな。」
ベナガハが誰にでもある事のように言うと、インブレッカは頷いて口を開く。
「不足の事態に備え、今は身体を休めておいてくれ。我らが留守を任すのだか
らな。」
「はっ。」
「では夕方の出立までは解散とする。」
申し訳無さそうに返事をするゴスケヌを含め顔を見て確認すると、インブレッ
カは会議を終了とした。



静寂が流れる執政統括の部屋で、リンハイアは机に両手の肘を付き手を組み合
わせている。その表情は険しくなりそうに考え込んでいた。
「早いな・・・」
「はい。」
一言漏らしたリンハイアにアリータは頷く事しか出来ない。夕刻、ザンブオン
軍が将軍インブレッカと共に二個中隊ほど出立した事を、エリミアインから報
告が来て伝えた事に対しての態度だった。前回の敗走からそれほど時間が経っ
ていない事を考えれば、アリータも同意しか出てこない。
「向かったのはモフェグォート山脈間道ではないんだな。」
「はい。エリミアインの報告によれば、市街地の方に向かって行ったと。」
二回山脈間道に向かったにも関わらず、今回行き先が違う事にアリータも疑問
に思っていた。違う目的で出立した可能性も十分に考えられるが、カリメウニ
アとの情勢の変化は今ところ聞こえて来てはいない。それに将軍自ら夜間行動
など、不穏を感じずにはいられなかった。
「将軍にとっての障害はアン・トゥルブだ。それを排除しにこの時間に動いた
という事は、夜襲だろうね。しかも間道に行った時とは違い、連れている二個
中隊も精鋭だろう。」
知ったばかりの組織名が当たり前のように出てくる事に、アリータはまだ慣れ
ないがリンハイアの言った内容の方が思考を揺さぶった。今朝の話しからすれ
ば一人は闘える状態では無いはず。たとえクスカがあの後向かっていたとして
も、夜襲には到底間に合わないと思い至って。
「それは、モフェグォート山脈にある大呪紋式をザンブオンが手に入れる可能
性が高いのでは・・・」
「そうなる。オーレンフィネアの時のように運良く誰かが居合わせるなどの都
合は、本来有ってはならない事だ。」
リンハイアは眉間に皺を寄せて言った。自分の力が及ばない事に対しての態度
だろうとアリータは思う。オーレンフィネアもそうだが、他国内で動く不穏に
対してグラドリア国が介入する事は出来ない。要請でもあれば別だが、それで
もリンハイアは何とかしようとする。
「ナベンスクの事もありますし、厳しい状況ですね。」
ナベンスク領だけでなくバノッバネフ皇国もあり、ペンスシャフル国がそれに
同調する可能性だってある。周辺国に囲まれたグラドリア国をリンハイアは動
かしている、これからどう舵取りするのかがさらに重要だと考えてアリータは
言った。
「今のところ唯一介入が可能な場所だ。既に手は色々と考慮してあり、ハイリ
老も承知している。当の本人が出向く事になっていない、事を含めてね。」
「軍司顧問は、此処に居る事になっているのですね。」
「そうだ。戦いはヒャルア将軍に任せればいい、ハイリ老がするのは闘いの方
だからね。故に今一番の懸念はザンブオン軍というわけだ。」
「そういう事ですか。」
目に見えて危険なのはインブレッカなのだと、アリータも改めて思った。目立
った動きの無い国よりも、軍の介入が決まった戦争よりも、封鎖されて道が絶
たれたモフェグォート山脈が。
「エリミアインには引き続き頼むと伝えてくれ。それと、何時でも退避可能な
ようにとも。」
「分かりました。」
現地に居るのが危険とも限らないが、極力避けるべきなのは間違いない。メー
アクライズが本当に大呪紋式で無くなったのならば、危険を孕んでいるのは間
違いない。アリータはそう思うと返事に力を込めた。
「それとユリファラもエカラールから離しておいてくれ。」
「はい。」
モフェグォート山脈間道はザンブオンだけでなく、カリメウニアやエカラール
にも続いている。ターレデファン国も静観しているだけで、巻き込まれないと
は言えない。エリミアインだけでなく、ユリファラも危険地帯に居るのと変わ
らない。態度は良くないが、それでも無事ではいて欲しいとアリータは思って
いた。



サラーナを送り出し、私とリュティはカフェ・ノエアでいつもの晩酌をしてい
たが、リュティは浮かない顔のまま葡萄酒を飲むと、モンブランを口に運んだ。
リュティの様子の変化は今に始まったわけではなく、朝から兆候は見て取れた。
何を思っているのか分からないけれど、私から聞いてやるつもりはない。
私は麦酒のグラスを口に運んで流し込んだ。私もサラーナのお陰で色々と進展
があって、考える事が増えてきた。薬莢の記述依頼は多くない、サラーナが慣
れてくれば当然余裕が出てくる。遊ばせないように何か考えなければならない、
給与を出しているのが国とはいえ預かっている責任もある。
「ねえミリア・・・」
「なに?」
話す気になったのか、リュティは哀しそうな目で私に話し掛けてくる。
「数日、お休みが欲しいのよ。」
「良いわよ、別に。」
別に休みくらい好きに取ってくれて構わないし、以前から伝えている事でもあ
る。休まれて回らないお店でもないし、リュティは良く働いてくれるもの。
「出来ればミリアも一緒に。」
凄く言いずらそうに口にした内容は私にとって以外だった。リュティから何か
を要望してくる事など無い、だから余計にその言葉に驚いた。同時に、おそら
くリュティの都合上の我が儘だろう内容は、私にとっては目を背けている事と
向き合わせられる気がした。
「お店が軌道って程じゃないけれど、順調になってきた今の時期に数日閉店し
ろって事?」
「ええ・・・」
顔は申し訳なさそうだが、瞳ははっきりとした意思を持って真っ直ぐ私に向け
られている。今まで世話になって来ているし、お店を続けていられるのもリュ
ティのお陰だ。だから要望は出来るだけ聞いてあげたいけれど。
「それで、お店を何日も閉めて何処に行こうっていうの?」
内容によっては出来ない事もある。リュティが言いずらそうにしているので、
私は麦酒を飲みながら言葉が出てくるのを待つ。
「ターレデファン国、エカラール・・・」
リュティは葡萄酒を口に運んだ後、ゆっくりと目的地を口にした。苦しそうな
表情で言われたが、私もきっと苦い顔をしているだろう。よりによってメーア
クライズが在ったターレデファン国、リュティだって口にするのを躊躇うわけ
よね。
実のところ私自自身どう思っているのかよく分からない。小さい頃の思いなん
て分からないし、そもそも私の意思なんて関係無かった。向き合いたくもない。
でも、それで現実が変わるわけでもない、嫌な気分なのよね。
「いいわよ。一緒に連れて行こうとするからには、目的はちゃんと教えてよね
。」
「ありがとう。」
リュティは頷くとそう言った。安堵を表情に出してはいるが、苦しそうにして
いるのは変わらない。
「本当は巻き込みたくは無いのよ・・・」
その言葉が表情を意味するところなのだろう。リュティがたまに居なくなる事
情、それが関係しているだろう事は想像に難くない。
「分かっているわよ。」
話しを促す為に私は、下手な笑みを浮かべて見せた。自分の中で処理しきれな
い思いは、上手く笑わせてなんてくれない。
「オーレンフィネアと同じ事が起きようとしているのよ。私はそれを阻止した
いの、あれが人の手に触れるのを。」
あれか。あの規模の呪紋式がターレデファンにもあるという事か。オーレンフ
ィネアのあれは何とか逸らせたから良かったけれど、下手をしたらアーランマ
ルバが崩壊してお店を出すどころじゃなくなっていたわね。改めて考えるぞっ
とする。お店が出せなかったかもしれないというのと、呪紋式の正面に飛び出
した自分の行動両方に。
人が死ぬのは嫌だけど、私が出来る事なんてたかが知れている。それにお店が
続けられない状況になるのが、やっぱり嫌だ。私は出来た人間でもなんでもな
い、自分の都合が大切なのよ。あれは簡単に戦争を引き起こせるし、隷属させ
る事も可能になる代物だ。リンハイアの様に大陸の未来を考えてとかは更々無
いけれど、私がお店を続けられなくなるのはごめんだ。
「それ、私が行って役に立つの?」
「オーレンフィネアでも、被害を抑えてくれたじゃない。」
「あれは単に、何も考えていなかったというか、無我夢中だったというか・・
・」
やろうと思ってやったわけじゃない。つい、動いてしまっただけで。結果とし
て今この時間をアーランマルバで過ごせているってだけでしかない。
「その機転が必要かも知れない。私一人よりも、新たな可能性がある方がいい
わ。」
「行くと言ったのだから付き合うけれど、期待はしないでよ。」
真面目な顔で期待を口にされて面映ゆい。私はそんな人間じゃないから尚更だ。
「で、何時から行くの?」
「明日にでも。多分、時間は殆ど無いわ。」
「急すぎ・・・」
もっと早く言えよな。内心で悪態を付くが、思えばリュティはその情報を何処
で仕入れているんだ?いや、詮索はよそう、深入りなんてしたくは無い。リュ
ティが私に近付いて来た理由は知りたくも無いし、関わってなんかやらない。
「ごめんなさい。」
「時間が無いのならしょうがない。今夜中に準備しなければいけないわね。」
着替えもそうだが、薬莢や記述道具も必要になる。また移動中に記述しなきゃ
ならないか。
「朝お店に集合して駅に向かうでいい?」
「ええ。」
「そうなるとサラーナに連絡しておかないといけないわね。」
「手間を掛けさせるわね。」
「本当にねぇ。」
私は自然と笑みが零れ、そう言いいながら小型端末を取り出す。決めた事を悩
んでいてもしょうがないって何処かで思っているんだろうなって思いつつ、麦
酒を口に運んで飲みながら文書通信の文字を打つ。
「居ない間は城に出勤だよね、きっと。」
先程とは違って表情が柔らかくなったリュティに私が言うと、何時もの微笑に
戻る。
「給与の支払いが国なのだから、そうでしょうね。」
サラーナへ通信を終えると、残っている麦酒を飲み干す。グラスをテーブルに
置くと、既に立っていたリュティが空きグラスを掴んだ。
「お礼に今日は奢るわ。」
「じゃ、遠慮なく飲んじゃおうかな。」
リュティの好意を笑顔で遠慮なく受け取って、クリームチーズをクラッカーに
塗って囓る。そこでもう一つ懸念を思い出した。司法裁院の依頼が居ない間に
来たらどうするか。以前は長く留守にする時はザイランに言っていたけれど、
アーランマルバに来てからはまだ担当が決まっていない。連絡もどうするかよ
く分からない。依頼の発送先に結果を返送しているだけなので、連絡先が不明
だ。数日留守にすると封書を送るのも現実的ではない。
放置でいいか。
「お待たせ。」
「ありがと。」
おかわりの麦酒をリュティがテーブルの上に置いたので、お礼を言って口を付
けると、司法裁院の事は忘れる事にした。



2.「人の思考と行動はちぐはぐだ。何時からそれが当たり前になったのだろう
・・・」

「あの家がそうか?」
枯れ木が乱立する平地から一軒の家屋を目に、インブレッカが白い息と共に疑
問を吐いた。
「はい。」
小雪が舞う未明、空は雲っているため周囲は闇に包まれている。月明かりがあ
れば紺銀の景色が広がりそうだったが、今は人影も分からない程だった。
目的の家屋の窓からは微かな赤い灯りが漏れているのは蝋燭か暖炉か、その光
を見ながらウアナは返事をした。
「派手にはやれんな、重火器の使用は無理か。」
近くはないが、遠くに幾つかの家屋も在るようだった。重火器を使用すれば直
ぐに気付かれてしまう。出来れば短時間で終わらせての撤退が理想だった。カ
リメウニア領でザンブオン軍が夜襲など、知られるわけにはいかないと考慮す
れば。
「火矢でも放ちましょうか?」
「いや、家屋に当たると音が出る。根元に着火の呪紋式を使う。」
インブレッカはそう言うと、後ろに控えている二個中隊に身体を向けた。
「隠葬隊が火を放つ。ロドエンとガーンリィの隊は家を包囲して炙り出された
ところを殺せ。」
「すんなり殺してしまっていいのですか?」
インブレッカの指示に納得がいかないガーンリィが問う、ゲイラルを殺した奴
を簡単に殺したくはないと目で訴えながら。
「奴等は普通ではない、傷を負っても呪紋式で直ぐに回復する。危険を侵すよ
りも確実に仕留める事が優先だ。でなければ何の為に先の者が犠牲になったの
か。」
「はっ、了解です。」
ガーンリィから出る感情を咎めるようにインブレッカが言うと、感情を抑えて
返事をした。
「加えて言えばそれは隙になる。忠実に任務をこなせ。」
「はっ。」
ロドエンとガーンリィは感情を消して応えると頭を垂れる。
「ではこれより襲撃を開始する、散開。」
無言でロドエンとガーンリィが頷き音を立てずに移動を始める。隊長に続いて
兵が続くと直ぐに建家の包囲が完了した。建家の直ぐ側には黒ずくめの隠葬隊
が四手に分かれ、小銃を構える。同時に引き金を引かれた小銃から薬莢が飛び
出し、白光の呪紋式が浮かび上がる。隠葬隊はコートで覆い隠す様に光を抑え、
呪紋式は直ぐに炎に変換されていった。
場所を少し移動し、次々に小銃から呪紋式が発動すると、闇を煌々と照らす灯
りとなって家屋に引火し、次第に火力を強めて行く。火が強くなるにつれ、包
囲している兵の緊張も高まっているのが、浮かび上がった表情に見てとれた。
飛び出して来るであろう対象を葬るために。
屋根まで昇る火を見ながらインブレッカは、目を離さずに集中していたが出て
くる気配はまだ無い。既に炎は建家全体を包み、巨大な火の塊となっていた。
このまま焼け死ぬならそれもいいだろうと思った時、兵の一人の首が雪の上に
落ち、断面から鮮血が噴き上がる。
「なに!?」
インブレッカが小さく呻きを漏らしている間に、腕が宙を舞い上半身がずり落
ち、足が無くなり転倒する兵が瞳に映った。それ以外の兵は突如現れた少年を
直ぐに包囲する。
「散歩に出ている間に家を燃やしちゃうなんて酷いよね。」
剣に着いた血を振り払いながらユエトリエリは笑顔で言った。囲まれている事
は気にも留めていないようで、熱気に煽られ揺れる紺碧の髪の間からのぞく笑
顔をインブレッカに向けた。
「散歩、だと・・・」
ふざけた物言いにインブレッカは眉を吊り上げると、怒気を含んでユエトリエ
リを睨みつけた。
「恐いおじさんも居るのか、疲れそうだな。」
ユエトリエリがそう言った直後手に持った剣が消え、同時に甲高い金属音と火
花が飛ぶ。目だけを出した黒頭巾の男、メブオーグの短剣を受け止めてユエト
リエリは好奇心を露にした。
「今まで気付かなかったよ、成る程ね、家がばれちゃうわけだ。それに短剣使
いってのがちょっとむかつくよね。ただ、この前のおじさんよりは楽しめそう
だけど。」
「あ・・りまぇ・・・」
ユエトリエリは聞き取れない声を無視すると、包囲など気にせずに短剣を弾い
てメブオーグに斬りかかる。高速で何合も打ち合わされる剣戟に、包囲してい
る兵は着いて行けずに手も出せず、ただ勝負の行方を見守るしかなかった。

「隊長っ!」
メブオーグの右手首から先が赤い糸を引いて宙に舞うのを見ると、ウアナが声
を上げる。同時にユエトリエリの頭が弾けるように後方へ仰け反り、血が飛沫
く。メブオーグは止まらずにユエトリエリとの間合いを詰めると、心臓を目掛
けて短剣を突き出した。
左に避けながら右半身を後ろに回転させたユエトリエリの右腕に、短剣が刺さ
るが無視して回転を加速させる。頭部で白光している呪紋式が白い帯を引くよ
うに残光が円を描き、右手の剣が銀光を描いてメブオーグの腹部へ向かう。
左手を戻せず腰を引いてメブオーグは逃れるが、腹部を剣先が掠めると軌道が
上に跳ね上がり左手に向かう。左足を引きながら左手を戻すが、銀光は既に袈
裟斬りの軌跡を描いてメブオーグの右太腿を切り裂いた。ユエトリエリの右手
は止まらず剣は跳ね、メブオーグの顔を目掛け剣先が突き出される。
メブオーグは左に避けつつ短剣を振り上げ、ユエトリエリの右腕を斬り飛ばし
た。ユエトリエリは突き上げた剣を左手に持ち変えており、銀光がメブオーグ
を追って逆袈裟に迸る。逃げ遅れたメブオーグの右上腕から先が、血を散らし
て宙に舞った。
ユエトリエリの剣は止まる事なくメブオーグを追い横凪ぎに変化、後ろに跳び
つつメブオーグは短剣を投擲する。ユエトリエリは剣を翻し追撃の払い抜けに
移行、首を掠めた短剣が赤い飛沫を後方に撒き散らしていく。メブオーグを抜
けた銀光は右脇腹を切り裂き、逆手に持ち変えた剣はユエトリエリの後ろに突
き出されメブオーグの右肺に突き立った。
メブオーグは左に跳んで剣から逃れて距離を取る。噎せた覆面から赤黒い液体
が滴った。
「・・ぃ・・・」
ユエトリエリの頭部と右腕は修復が終わり、首筋には新たな呪紋式が白光して
いた。メブオーグは忌々しげにそれを睨んで苦しげに何かを呟く。ユエトリエ
リは既に移動しており、剣先で落ちた自分の右掌を突き刺して切断面に持ち上
げた。直ぐに呪紋式が発動し腕を繋ぎ始める。
「こんなに苦戦したのは初めてだよ。」
白い肌を赤く染めたユエトリエリが笑顔で言った。そこへ黒い影が三つ同時に
襲い掛かる。ユエトリエリの姿が消え影の一つの背後に回り込む。銀光がそれ
を追って翻ると影の股間から頭部までを逆風に駆け抜けた。
「くっ!」
「速すぎるっ!」
空を突いた短剣を握り締めウアナともう一人の隠葬隊員が驚愕の言葉を漏らし
た。目の前でもう一人の隠葬隊員が大量の血を溢しながら、二つに分かれて崩
れ落ちていく。
「そこの人に比べて弱すぎっ!・・・」
隠葬隊員に向かって言ったユエトリエリの言葉は、突如走った衝撃により中断
させられた。笑顔が消え呆けた顔を自分の胸に向けると、赤く染まった剣が生
えている。その剣はユエトリエリの背中に鍔本まで埋まり突き抜けていた。ユ
エトリエリが剣の飛んできた方向に目を向けると、右手を前に突き出したイン
ブレッカが口の端を吊り上げていた。
「やっぱり、恐いおじさんだ・・・」
口から血を溢しながらユエトリエリが苦笑する。そこへ好機とばかりにメブオ
ーグとウアナ、もう一人が斬りかかり他の兵も包囲を狭める。
「ミサラナに怒られちゃうな・・・」
苦笑しながら漏らすとユエトリエリは身体を回転させ剣を振るう。剣風と剣圧
に包囲を狭めていた兵が止まり、隠葬隊も慌てて止まるが一人が胴を両断され
る。ユエトリエリは止まらず包囲の一点に向かい駆け抜けた。
「まだ動けるの!?」
ウアナが驚愕の声を上げる中、数人の兵の首や腕が舞い上がる。
「追うなっ!」
包囲を突破したユエトリエリを追撃しようと兵が動き出したところに、インブ
レッカが一喝して止める。
「しかしっ!・・・」
ガーンリィが不服の声を上げたが、インブレッカの鋭い眼光を目にして言葉が
続かなくなった。
「これ以上の時間は掛けられない、犠牲者を回収して撤退だ。」
一瞬の沈黙が流れる。
「はっ。」
深傷のユエトリエリを追わない疑問を飲み込み、ロドエンとガーンリィが従う
と隊の兵も撤退のために動き出す。慌ただしく撤退の準備が行われる中、イン
ブレッカは終わるまでユエトリエリの消えた先を睨みつけていた。



ダークグレーの髪は何時ものテールアップ。新しく細工したバレッタで留めて
みる。ライトグレーのカットソー、上に白のシャツを着てボルドーのフレアス
カート。薄いグレーのチェックジャケットに靴はベージュのパンプス。なんか
アーランマルバより寒いらしいので、チェスターコートとマフラーも用意して
しまった。
「遊びに行くわけじゃないのよ。」
紋様を掘ったコイン型のペンダントトップが付いたネックレスを、私が着けて
いるとリュティが呆れた顔で言ってくる。
「たまにしか出掛けないんだもん、いいじゃない。どうせ現地までは電車に揺
られるしかないのよ。」
「それはそうだけど。」
自分こそ大人の女性みたいな服装しておいて何言ってやがるとは言わず、私が
創ったブレスレットを着けてくれているのは嬉しいと思った。
アーランマルバからターレデファンまでは直通の電車が通っている。ペンスシ
ャフル国を抜けて首都のランデファンまでは六時間程。そこから乗り換えて一
時間半くらいでエカラールに着くらしい。おいおい、朝出ても着いたら夜じゃ
ないか、って調べただけで疲れたのよね。
お店には数日お休みしますと扉に掲示しておいたけれど、帰って来れなかった
ら嫌だな。リュティに付き合うと言ったは良いものの、あれが発動して巻き込
まれたら必死よね、きっと。
「今日は要らないと言うから用意しなかったけれど、朝御飯はどうするの?」
「それは旅の醍醐味というものよ。オレンティア駅で何か買って行く。」
ついでに麦酒も買うけれどね。
「お洒落したはいいけれど、結局そうするのね。」
うわ、言ってないのにばれている。察しが良いのも考えものよね、やっぱり見
透かされているようで気分がいいものじゃない。
「準備も出来たし、行こうか。」
私はブレスタイプの腕時計を左手に着けると、鞄を手に言った。薬莢やら記述
道具、鉄鋼入りパンプスに小銃と、普通の旅行者が持たない物が入っているの
で重い。
「ええ。お願い。」
憂いを顔に浮かべて言うリュティと、私はオレンティア駅へと向かった。

電車に乗った私とリュティは朝御飯を食べ終わると、特にする事も無いので寛
いでいた。まあ、私は麦酒を飲んでいるが、気分が乗らないのかリュティは紅
茶を飲むに止まっている。葡萄酒をよく飲んでいるが、お酒が好きかどうかは
聞いたことないから知らないけれど。
私は記述道具と薬莢を取り出して、薬莢への記述を始める。司法裁院からの依
頼が無ければ、自分が使う薬莢なんて普段はそれほど備えていない。だから現
地に着く前に準備が必要なのよね。オーレンフィネアでの事を考慮すれば、備
えはいくら有ってもいい。まあ、持てる数は知れているけれど。
「お昼も車内ね。」
「まあ、そうよね。」
車窓から外を見ながらリュティが呟いたので、何を当たり前の事をと思って相
槌を打つ。九時発のランデファン行きの電車に乗ったのだから、終点に着くの
は三時過ぎだろう。
「退屈ね。」
「行くと言い出したのはリュティでしょう。寝てれば?」
私も薬莢の記述が終わったら寝るつもりだし。起きていてもやる事は特に無い
し、睡眠を取って現地に備えるのも一つの手だろう。
「そうね。」
リュティはそれだけ言うと車窓に顔を向けたまま目を閉じた。私は記述に集中
しようとするが、近くに座る人や車内を移動する人がもの珍しそうに私を見る。
煩わしい。
そう思っても記述するしかないので続けるのだけど。
しかしペンスシャフル国も行った事が無いのに、通り過ぎてターレデファン国
か。いや、通り過ぎるのは二回目と言った方が正解ね。二度と行く事は無いと
思っていた国。おそらくアラミスカ家が在ったので私が生まれた場所であり、
ジジイと過ごした国でもある。どうせ山奥に住むなら国を出てくれれば良かっ
たのに、忌々しい。
また思考が負の方向に傾き始めたので、麦酒を飲んで記述に集中する事にした。
私の感情の動きを察したのか、リュティが目を開けて顔を向けてきた。
寝てろ。
「気にしなくて大丈夫よ。」
私がそう言ってもリュティは憂いを顔に浮かべる。
「そう。今でもミリアに声を掛けた事が間違いだったかもって思うのよ。声を
掛けなければもう少し平穏に過ごせたかも知れないと。」
ふむ。そんな事を思っていたのか。
「今更。」
私は手を止めてリュティに顔を向けると言いながら苦笑した。
「私は別に気にしてないわよ、お店も手伝ってもらって助かっているし。それ
に、起きた事象は変えられない、だから責任持ってよね。」
リュティは表情に一瞬陰りを見せたが、続けた私の言葉に呆気に取られた様に
目を丸くする。
「まあ過去がずるずるな私に言われるのも、納得いかないわよね。」
私はそう言うと記述の続きに戻った。
「いいえ、ありがとう。」
お礼を言うのは私の方なのよね。今も気分が楽になったし、この先もまだ飲み
込まれなくて済みそうだもの。
私は顔を上げると麦酒を飲んで窓外を見る。近くにある建造物が形を認識する
暇もなく通り過ぎていく。遠くの景色は分かるが面白くもないので記述に戻っ
た。その景色をリュティは目を閉じず、ずっと眺めているようだった。

「で、エカラールの何処にあるわけ?目的のものは。」
もうすぐランデファンに着きそうなので、二人とも起きて車窓の外を眺めてい
た。薬莢の記述をしていたけれど、眠くなって寝ていたのよね。リュティが寝
ていたかどうかは分からないけれど。
いつの間にか入っていたターレデファン国は、グラドリア国に比べて建物が少
なく、畑等が多かった。と言ってもランデファンが近い今は、グラドリア国内
とさして変わらない。窓の外を見ながら、今回の最終的な目的地について私は
リュティに聞いた。
「正確にはエカラールから検問所を抜けた先のモフェグォート山脈。ターレデ
ファンと北方連国の国境あたりかしら。」
「うわ、山を登るのか・・・」
山登りとか面倒。育ちがどうとかではなく、今の私には無用だと思っていたか
ら。観光でも別に山には行きたいと思わないし。以前モッカルイア領で行こう
としたロンガデル高原は、送迎付きで美味しい料理があるから話しに乗っただ
けでしかない。
「大変よね。」
「他人事ね。」
しれっと何を言ってるんだこいつは。それはともかく、山を登るとなると今日
は無理ね。いやまて。
「まさか今夜行くとか言わないわよね?」
時間が無いような事を言っていたから、まさかと思って聞いてみる。
「流石に夜間の登山はしないわ。」
良かった。
「今の時期は雪も積もっている可能性があるし、とても寒いわ。」
「はっ?」
聞いてねぇっ!雪ってなんだよ。白くて冷たいあれだよね。生まれてこの方見
たこと無いわ。ターレデファンでも私が居た場所は降った事が無いもの。
「あら知らなかった?エカラールはたまに降るのよ。」
「うん、知らない。帰っていい?」
私は細目でリュティを見据えて言った。雪が降るところはかなり寒いと聞いた
事がある。行きたくない。
「此処まで来て何を言ってるのかしら。」
うわぁ、満面の笑みで返された。
「冗談よ。ただ、それならそうと言ってよね。グラドリアより寒いとしか聞い
てないわ。」
詐欺よね、まったく。もう、今持ってきている服じゃ厳しいかもしれない。
「それはごめんなさい。」
「まあしょうがない。いざとなったら現地調達ね。」
今更ではあるが、それしか方法はない。そもそも私、防寒着とか持ってない。
言われる以前の問題で論外だったわ。
「付き合わせているのだから、それくらいは出すわ。」
「そう。ありがと。」
好意は素直に受け取っておく事にする。だけど付き合いとはいえ、自分の為で
ある部分もあって若干後ろめたい気分もあるけれど。
「そろそろ到着ね。」
流れる車内放送を聞いてリュティが呟く。此処で乗り換える必要があるので、
私は降りる準備を始めた。薬莢への記述が途中だったので、道具を含めてまだ
出しっぱなしなので。

ランデファンに着いた私たちは電車を降り乗り換えのため、エカラール行きの
乗り場に移動した。ずっと座りっぱなしだったので身体が痛い、でもまだ乗ら
なきゃならないのよね。
「十五時半が出発時間みたいね。」
「十五分後か、少し身体が解せそうね。」
乗り場まで来た私はそれを聞くと、足を止めて両腕を伸ばす。長時間固定され
ていた関節が伸びて解放された気分だ。
丁度そこへ電車が入ってきた。
「あれが折り返すようね。」
案内を見る限り入って来た電車は、ランデファンとエカラールを往復している
ようだった。
「発車の少し前でいいか、乗るの。」
「そうね。」
到着した電車の扉が開くと乗客が降りてくる。一国の首都だけあるのだろう、
降りてくる利用者も多い。まあ私には関係ないので、乗り降りする人の流れは
興味がない。だから周囲に何か美味しいものでも売っていないかと見渡してみ
る。あと麦酒。
「ミリアじゃねーか!」
ん?なんか聞き覚えのある声が。そう思って声の聞こえた方を振り向く。さっ
き到着した電車から降りて来た人混みに紛れ、ちらほらと揺れるツインテール
が見える。偶然なんてあまり信じない、というよりはあいつの仕業なんじゃな
いかって疑ってしまう。
「こんなとこで何してんだよっ。」
「観光よ。」
「嘘つけ。」
相変わらずの笑顔できっぱり言われた。屈託なく見える笑顔は黙っていれば、
可愛らしい少女に見えるのだが。
「ユリファラこそ・・・って、仕事よね。」
「ん、まあな。」
オーレンフィネアの時も執務諜員が居た事を考えれば、今回の件もリンハイア
が見越していても不思議じゃない。ただ執務諜員も人でしかない、あれが発動
すれば容赦なく消し去るだろう。呪紋式による大陸の未来を憂うなら、ちゃん
と発動前に止めて欲しいわね、それがあんたの仕事でしょう。
「エカラールに居たんだけどよ、一旦引き上げて来たんだ。」
内心とはいえ、居もしない執政統括に悪態をついてもしょうがない。
「私たちはこれからエカラールに行くんだけど。」
「おっさんが危険だって言ってたぜ。止めた方がいいんじゃねーか。」
私の目的にユリファラが怪訝な顔で言う。そんな事だろうと思ったわ。ユリフ
ァラを引き上げさせたって事は、既に発動の危険を孕んでいるという事なのだ
ろう。他国だから介入出来ないなんて言い訳よ、しっかり止めて欲しいわね。
つまり、お店を休んでまでターレデファンに来ているのはあいつのせいって事
よね。
「その危険に用があるらしいのよね。」
私はリュティを見ながら言った。当の本人は何時もの微笑を浮かべるだけで、
何も言わずにこちらに視線を向けているだけ。
「だったらあたしも行こうかな。」
「何言ってるのよ。今自分で危険だって言ったばかりでしょう。執政統括が言
ったのならかなりの確度だって、良く分かってる筈よね。」
「そんなん言われなくても分かってる。だけど、あたしが行きてーんだ。」
もう、変に正義感が強いのよねこの娘は。どうせ言っても聞かないだろうし。
「執政統括の命令でしょ。大人しく従っておきなさいよ。」
「おっさんなら止めないぜきっと。ミリアよりもあたしの方が付き合い長いか
らな。」
はぁ、そう言われると私にはどうしようもない。執政統括直属の執務諜員が言
っているのだから、きっとそうなのだろう。わりと自由に動いているものね。
そこは本人の裁量に任せているのだろう。それより私は巻き込まれているだけ
で、付き合いがあるわけじゃない。
「まあいいわ。それより報告の時は私の事を言わないでよね、関わるとむかつ
くから。」
「ああ、分かった。」
諦めて私がそう言うと、ユリファラは笑顔に戻って言った。
「そろそろ発車の時間よ。」
「あ、本当だ。」
リュティの声で私も時計を確認した。うっかり話し込んでしまったけれど、暫
くは続くのかと考えながら電車に乗り込んだ。
「ところで、また誰かの監視?」
適当な席に座って私はユリファラに聞く。色んな場所に行かされているユリフ
ァラは、よく誰かの監視をしているようなので。機密情報なのだろうが、関わ
っている所為で話しは聞けたりするのが複雑な気分。
「いや、今回は世情の確認だけだよ。どうも北方連国との関係が怪しいらしく
てな。」
確か報道で聞いた気がする、隣同士で揉めている程度の事だけど。行く気もな
い国の事なんて興味が無いからそんなものよ。
「ミリアたちは、エカラールの何処に行くんだ?ある程度なら案内できるぜ。」
「山登り。」
聞かれて思い出してうんざりして言った。若干私の態度にリュティは不服そう
にしている。
「そりゃ無理だぜ。」
「どういう事?」
あっさり否定したユリファラの言葉に疑問を口にしようとしたが、リュティの
方が早く口を開いた。
「北方連国のカリメウニア領とザンブオン領が一触即発に近い状態なんだ。国
境を隣するターレデファン国が危険を考慮して、モフェグォート山脈に続く検
問所を封鎖しちまったからな。いつ解除されるか分かんねーぜ。」
「なんて事・・・」
「ちょっとリュティ、知ってて向かってたんじゃないの?」
ユリファラの説明に困り顔のリュティに、私は聞いた。これから向かう先の情
勢くらい知ってても良さそうなものなのに。
「国家間の諍いには興味がないもの。」
うわ、あっさり切り捨てた。そりゃ私も興味は無いけれど、行くと言い出した
のはリュティなのだから知っておけよ。
「モフェグォート山脈に入る方法は他に無いの?」
「無理だな。山脈間道以外はとても人が歩けるような地形はしてない。」
「困ったわ。」
お前が言うな。そう思ってリュティに細目を向けるが、言葉とは裏腹に顔は全
然困って無さそうだった。さっきの困り顔も演技なのだろう。実際、リュティ
だけならば抜ける事は可能な筈だ、どの程度の距離まで可能かはわからないが
空間を移動できるのだから。
「登るしかないわね。」
「まじかよっ!?」
「いや。」
ユリファラの驚きはもっともだが、私もきっぱり断っておく。人が歩けるよう
な場所じゃないところを登るとかちょっと意味がわからない。
「出来ないことは無いでしょう、その為に呪紋式はあるのだから。」
そうだとしても、山登りしたいかは別の話よね。道が在っても登りたく無いの
に、何故そんな苦行をしなければならないのか。
「仕方ないか・・・」
「結局行くのかよっ。」
ユリファラはまだ信じられないように私とリュティを見ている。それだけ登る
のが厳しい地形なのだろうか。
「そういう事だから、ランデファンまで避難していた方がいいわよ。」
「何言ってんだ?行くに決まってんだろ、山登り。」
「はぁっ?何でユリファラまで行くのよ。」
さも当たり前の様に言うユリファラに、声が大きくなってしまい他の乗客の視
線を集めてしまった。恥ずかしいけれど、ユリファラが馬鹿な事を言い出すの
が悪いのよ。
「何だかんだでミリアってさ、事の中心に居る気がするんだよな。だから見て
おきたいんだ、今何が起きているのか。」
うわぁ、嫌な現実。真面目な顔で言うユリファラ、執政統括直属に言われると
尚更現実味があって嫌だわ。好きでいるんじゃないっての。
「どうせ言っても聞かないんでしょ。」
「まあな。」
しょうがない。私は諦めて苦笑するとリュティを見る、同様に苦笑して頷いた。
いざとなったら私とリュティで庇うしかないわね。
「あれがモフェグォート山脈だ。」
車窓の外に目を向けたユリファラが、向かう方向に目を向けて言った。この先
を隔てる様に連なる山脈は、白かった。
山って白いんだっけ。
本当に白いよ。
阿呆か。
「帰る?」
「馬鹿かっ。」
「何言い出すのよ。」
いやだって、白いし。二人揃って私がおかしい事を言ってるみたいな反応をし
てくる。私の考えが普通じゃない?この場合。
「ねえユリファラ。」
「ん?」
「服が欲しいのよ、着いたら案内してくれるかしら?」 
リュティはユリファラにお店の案内を頼んでいる。防寒用の服を買いに行くの
だろう、行く事は決定事項のようだ。私は別に駄々を捏ねているわけじゃない
のよ、気分が乗らないだけで。
「いいぞ。どうせ対策なんてしてないんだろ。」
「私は家を出てから言われたのよ。」
対策をしていないのは事実だけど、そこだけは反論しておく。リュティに冷め
た視線を向けながら。
「あーはいはい。」
ユリファラが言い訳はいいよみたいに言いやがった。むかつく。私が悪いわけ
じゃないわよ、もう。

エカラールに着いたのは夕方だったが、曇り空もあって周囲は既に暗かった。
嫌なことに白いものが舞っているて、初めて見る雪はまったく嬉しくなかった。
「寒い・・・」
予想以上に寒い。電車を降りた直後に感じた寒さで、直ぐにコートとマフラー
を出して身に付けたが付け焼き刃だ。
「取り敢えず服買いに行くか。」
「そうね。」
なんでこいつら平気そうなんだ。
「洒落た格好じゃ凌げねーぞ。」
うっさい。にやにやしながら言ってくるユリファラを無言で睨む。この寒さで
山登りとかありえない。どんなに服を着たからと言っても限度ってものがある、
凌げる寒さなんて知れてるでしょう。そう思うとますます明日の山登りが嫌に
なってきた。

その後ユリファラの案内で防寒具を買った私たちは、ホテルへと移動した。途
中で晩御飯を食べるかって話しにはなったけれど、食べて温まってもまた寒い
外移動が待ってると思うと億劫だったため私が拒否した。
晩御飯はホテルのレストランで済ませた。外に出なくていいのは楽よりも寒く
なくて良かった。暖房の効いたホテル内では麦酒を飲んでいても寒くないのが
有り難い。
食事をしながら改めてターレデファン国と北方連国の話しをユリファラから聞
いた。既にザンブオン軍が目的の場所を見つけている可能性がある事も分かっ
た。その情報に関しては執務諜員のエリミアインかららしいが、私はあいつ嫌
いだ。また現地で一緒になるんじゃないかと考えると嫌気がさす。
一通り情報を聞いたところで解散となった。明日は朝早くから山登りだから、
早めに寝ようということになったのだが、本当に気分が乗らないのよね。当然
部屋に移動してからも麦酒を飲んで寛いだ。暖かい部屋は幸せだ。
ただ、気分が乗る乗らないは関係なく、既に間近まで来ている危険は嫌でも私
の心を揺さぶった。
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