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紅湖に浮かぶ月5 -始壊-
0章 休まらない日常
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作品内容
ついに王都アーランマルバにお店を持つ事が出来たミリアだったが、人手が無
いためにアイキナ市のお店は閉店状態のままになっていた。そんな時、再開の
目途が立ちそうな話しが転がり込んでくる。だが、順調に見えるミリアの展望
とは逆に、大陸の喧騒は騒がしくなり始め、その喧騒に緩やかに巻き込まれて
いくのだった。
「人は死ぬまで求める事を止めない。いや、欲が無ければ生きているとは言え
ないか。」
北方連国、モフェグォート山脈間道は、朝から降り始めた弱い雪が薄らと積も
り始め、茶色の景色を隠し始めていた。斜面は白を広げ始めているが、山頂付
近の間道は別の色が支配している。
ターレデファン国から、カリメウニア領とザンブオン領に続くこの間道は国境
を越えるために利用される主要道路のため、整備は行き届いている。当然舗装
もされており、車の往来も日々絶えない。
国境は山頂付近になっているが、入国するために通過する検問所は各国の麓に
存在する。何も無い山頂付近では、国に関係無く誰も滞在したがらないからだ。
その検問所も厳戒態勢が敷かれ、現在一般人が通る事を許されていない。
北方連国はモフェグォート山脈が東西に伸び、ペンスシャフル国の北側の方に
伸びている。そのため、山脈を挟んだ南の国とは分断されていた。山脈が分断
する北方連国に行くためには、ターレデファン国の北に位置する、エカラール
市という街を通らねばならない。
舗装されていない道を通るのであればその限りではないが、不法入国扱いされ
る上に、寒い山越えをするには危険が大きい。する者が居ないわけではないが、
普通の人はまず行わない。山脈間道はカリメウニア領とザンブオン領に、山頂
付近で道が東西に分岐する。どちらの領に行くにしても大概の人はエカラール
市を抜けて行く事になる。
北方連国は北方三国とも言われ、カリメウニア領、ザンブオン領の北にダレン
キス領が存在する。三国間は行き来が可能だが、エカラール市から向かうには
必ずカリメウニアかザンブオンを通らなければならない。
南方との往き来が山脈を越えなければならない北方連国では、文化や技術にお
いて著しい違いが存在する。山脈間道が整備され、毎日のようの車が往来する
現在では技術的に目立って差は無いが、独自の文化は今でも残っている。
山脈間道が封鎖されている理由については、カリメウニアとザンブオンの物価
変動による諍いが原因となっていた。大陸の北に位置する北方連国は、寒い時
期が長いため収穫出来る作物も時期も限られている。工業に於いてもそれぞれ
の技術、製品があるため、お互いに供与しあい発展してきた。
ところが外部から輸入している物価が上がるにつれ、自国供給とカリメウニア
への出荷物に、ザンブオンの企業が差を付け始めた事に端を発し、現在ではそ
の問題が政界にまで波及している。
当たり前のような気はするが、問題になった原因は三国間で決めている流通協
定にあった。取り決めでは、北方連国内に於いては領間での需要と供給は平等
であり、価格に差は設けないと決められている。故に、ザンブオンの企業が行
った行為に対し、カリメウニア側の取引先が異を唱えたのだ。
協定に乗っ取った行為だったにも関わらず、ザンブオン側は協定が昔のもので
あり、現在にはそぐわないとして突っぱねた。そこでカリメウニア政府がザン
ブオン政府に抗議した事により国家間での問題にまで発展したのが今に至る理
由となっている。
政府の言い合いが罵倒にまで発展すると、領境では不満の貯まった住民同士が
喧嘩を始める。止めようとした警察局の人間ですら、罵倒されると手を出し始
め収拾が付かなくなった。そうなると今度は軍部にまで争いが拡張して、一触
即発と言ってもいいほど緊張が高まっている。
微妙な状態で、何が引き金になるか分からない為、入領を制限する意味で検問
所を封鎖しているとお互いに言い張っている。だが初めに封鎖したのはとばっ
ちりを嫌ったターレデファンであり、カリメウニアとザンブオンは取り繕いと
意地の張り合いだけで封鎖したのが事実だった。
検問所と領境には多少の軍が駐留し、牽制しあっている。領民にとってはいい
迷惑だと感じている者が大半で、駐留している軍は当然いい顔をされない。そ
れは軍人とて同様で、一企業の我が儘から発展した現状況に辟易している者が
殆どだ。
ダレンキスはこの状況に中立を保っているが、馬鹿馬鹿しい諍いに関わりたく
ないのが本音で、静観を決め込んでいた。長年続けて三国の共存を今更破綻さ
せる事もないだろうし、そんな不利益を選ぶ必要を感じない。故に、一触即発
の雰囲気になろうとも、それ以上は踏み込まないと思っている。ただ、万が一
にでも戦に発展した場合は、勝った方に付けばいいとの考えはしつつ。
山頂付近の間道では降り注ぐ雪を溶かし、緩やかな下り坂を赤黒い液体が川と
なってゆっくりと流れている。山頂付近に散乱する無数の死体が川を作り出し
ていた。胴を両断された死体からはみ出る、桃色の腸からはまだ湯気があがっ
ていた。手も足も千切れ散乱し赤黒い川を作る一助となっている。潰れた頭部
は視神経を引いて眼球を垂れ下げ、押し出された脳漿が顔を汚く染めていた。
胴が潰れ、はみでた内蔵が散乱し、骨がはみ出し人の形をしていない死体も多
数転がっている。別に頭部や首、胴体や手足が千々に切断され、どれが誰のも
のか分からない程になっている残骸も多い。
まだ湯気の絶えない死体は、血臭を大気に巻き散らかし、垂れ出た糞便は空気
を汚し悪臭に変えていく。赤く煙るようなその場の空気は、雪が死体に触れる
前に溶かし雨にしていた。山間道でありながら大地を撫でる風もなく、留まる
様に悪臭を纏った大気はその場から離れなかった。
遠くからその光景を恐怖を瞳に浮かべて見ている者がいた。黒いロングコート
に身を包み、斜面の窪みに身を隠して。垂れ下げた左手からは血が滴り、乱れ
た黒髪の下には酷く疲労を浮かべた顔。左脇腹を染める血が、その顔を蒼白に
していた。
「なん、なんだ・・・あいつらは・・・」
長身で細身だが、引き締まった身体が今は弱々しく見える男性は、声にならず
疑問だけが口から漏れる。男性の目の先には、無造作に伸びた白髪を血に染め
た老人が長い顎髭を撫でていた。その隣には耳を覆い隠す紺碧の髪を揺らして、
剣に付いた血を振り払う少年が並ぶ。
男性はたまたまザンブオン軍の動向を探っていて、出兵された部隊の後を付け
ていたところでこの事態に巻き込まれた。目の前で起こる殺戮に堪えきれず飛
び出し、兵に紛れて攻撃に出てみたが返り討ちにあっただけだった。空を裂き
飛翔する剣先すら届く事はなく潰され、気付いたら目の前にいた少年の横凪ぎ
が迫っていた。咄嗟に後方に跳び退り辛うじて致命傷を回避したが、それでも
左脇腹と手を掠めた斬撃は徐々に体力を奪っていく。
二人から離れた男性は、退避しながら後方を確認したが、二人が追って来る気
配は無かったため近くの窪みに身を隠した。その後少年と老人の二人は、二百
名ほど居たザンブオン軍を殲滅させたのだ。二人の殺戮を見ていた男性は湧き
上がる恐怖を押さえながら、その光景を見続ける事しか出来ずに。
ザンブオン軍を殲滅した少年と老人は、近場の小高い岩場に移動すると、血に
煙る山間道を見下ろして何か話しているようだった。男性は自分の居場所が二
人に気付かれている事を、分かってはいたがその場から離れられず二人を遠目
に眺めている。
何故自分は殺されずに逃げられたにのか、何故今も居ることに気付いていなが
ら襲って来ないのか。疑問が頭の中を巡るが答えは出ず、目を離すことも出来
ずに硬直するしかなかった。
朝から舞う雪は嫌でも大気の寒さを認識させられる。流れた血は乾かず、濡れ
た服は徐々に体温を奪っていく。それでも男性はその場から動けなかった。
「まさか、ザンブオンの人間では無いからか・・・」
巡る疑問に一つの可能性を見いだし、喉から新たな疑問が漏れる。それは声に
ならず吐息として出ただけだった。だとしたら、何故二人はこれだけ居たザン
ブオン軍の中から自分だけが違うと分かったのかと、新たな疑問が生まれる。
その疑問は、何故ザンブオン軍だけが殺されなければならなかったのかと、疑
問の連鎖を生み出す。
だが男性にはどの疑問にも解は出せなかった。奪われていく体力のせいで、自
分を保つ事に意識の大半を使い思考の巡りも悪くなってくる。男性は一瞬気が
緩み、岩場の上から意識が外れると直ぐに取り直して意識を戻す。視線はずっ
と岩場の上に固定していた筈なのに、少年と老人は既に姿が消えていた。
まるで最初からその場に居なかったように、本格的に降り始めた雪を岩場は静
かに受け入れている。
男性は緊張から解放されると、小銃を取り出して呪紋式を自分に向かって発動
した。痛み止めの効果によって薄らいでいく痛みに安堵すると、その場に腰を
下ろした。臀部に伝わる地面の冷たさに不快を感じつつ、安堵から上空に視線
を移す。灰色の空から舞い降りる白い雪だけが、世界の中で動いているように
見えた。
「逃してよかったんか?」
長い顎鬚を撫でながら、薄茶色のローブを着た老人が言った。無造作に伸ばさ
れた白髪は黒い斑点の様に、未だに血痕を残している。老人は木製のテーブル
を前に、同じく木製の椅子に腰かけていた。
カリメウニア領、モフェグォート山脈の麓とはいえ電気が普及している。僅か
だが民家もあるからだ。にも関わらず室内は蝋燭のか細い灯りと、暖炉から漏
れ出る赤い光のみで、昼間でも部屋の中は薄暗い。
「リンハイアの部下でしょ。害にはならない、事情も知らない、殺す理由はな
い、でしょ。」
少年は微笑んで言うと、カップに珈琲を注ぐ。二つ目に注ぎ終ると、それを持
って移動して老人の前に置いた。
「まあ、そうじゃが。」
少年が珈琲を飲むのを見ていた老人は、そう言って自分も珈琲に口を付ける。
「珈琲なぞ、久々に飲んだわい。」
テーブルの向かいに移動して椅子に座った少年に、老人は言うとまた珈琲を啜
る。
「わざわざ来てもらって助かったよ。」
その仕草を見て少年も珈琲を口にすると、そう言って目を閉じて微笑んだ。穏
やかに微笑む顔はまるで少女の様にも見える。
「雑兵の二百程度、儂なんぞ必要なかろうよ。」
「僕はそこまで強くないってば。」
少年の礼に、老人は苦笑して返すと、少年は困ったようにはにかんだ。
法皇国オーレンフィネアは一ヶ月経っても姿勢を変えていない。それに対して
ペンスシャフル国は制裁を実施に移した。流通品の一部に制限を掛けただけで、
人の往来やその他の輸出入に関しては今のところ制限を掛けるつもりは無いよ
うだった。ただ、バノッバネフ皇国が国交断絶を実施する際には、制限内容を
厳しくする予定とだけ公表している。
アーリゲルが行った大呪紋式の発動は最終的に半壊、一部損壊百二棟、負傷者
百九十三名、死者四十八名を出した。被害国であるグラドリアは今のところ制
裁を考慮してはいない。オーレンフィネアの復旧支援に対する態度は真摯であ
るが、報道されるのはその情勢ばかりだ。自国の復旧度合など既に興味は無く、
被害者が取り上げられる事も無い。既に大半の人は興味が無く、隣国の諍いが
流れる報道を見るだけになっている。
アーランマルバに移ってからは、司法裁院の依頼は直接郵送されて来ることに
なった。ザイランに引っ越す事を伝えた後、司法裁院から来た指示はそうだっ
たらしい。アイキナ市を出た私に、もうザイランから依頼が回ってくる事はな
い。ついでに関わる事も無くなったわけで、あの渋い顔をもう見なくて良くな
った。数年の付き合いだったが、特に感慨もない。ザイランにとっては問題児
が居なくなってほっとしているんじゃないだろうか。
アーランマルバは首都だけあって、グラドリア国の中でも一番人口が多い。司
法裁院の依頼の数も当然多いと考えられる。直接依頼が届けられるのは、担当
が決まるまでの暫定措置だそうで。司法裁院が誰に依頼を回そうかと考慮する
程、暇では無いだろうから当然と言えばそうなのだろう。
人付き合いが苦手な私にとって、新しい担当が決まって付き合うのかと考える
と憂鬱だ。報告が面倒でも、司法裁院から直接依頼される方が楽だなと思える。
アーランマルバにお店を出す事ばかり考えて、司法裁院の事はまったく考慮し
て無かった。
そんなお店も開店して一ヶ月が経った。やはり立地がいいのか、ロンカットの
時よりお客さんの数も多い。アクセサリーの売れ行きも多少上がっている。薬
莢の依頼が無いときはアクセサリーを作っているのだが、作業場に籠っている
と新しいカウンターの使用頻度は当然少ない。たまに要らなかったかと考えさ
せられる。いや、そんな事はない。
ロンカットのお店はまだ再開の見込みが立っていない。なにより呪紋式の記述
師が見つからないのだ。通常の従業員は募集を募れば見つかるだろうと思い、
記述師が見つかるまでは探せない。もともと数の少ない記述師を、個人店で見
つけるのは難しいと言える。
サールニアス自治連国の戦争はあれから悪化の一途を辿っているため、モッカ
ルイア領への開店は諦めるしかないかとさえ思わせられる。疲弊するであろう
ゲハートに、軽々しくそんな事は話せない。嫌な話だが、モッカルイア領が存
続出来るかも、ゲハートの生死も確実ではないのだから。
それとハニミス弁護士はアイキナ市の弁護士なので、アーランマルバでの案件
を引き受けるのは厳しいと言っていた。その代わり、アーランマルバに居る知
り合いの弁護士を紹介してくれるらしい。短い付き合いなのに、面倒見のいい
事に感謝するばかりだ。だけど良いか悪いか分からないけれど、仕事は回して
あげられなかったな。私にとっては何よりだが、向こうにとってはお金に無ら
なかったのだから損だったろうな。
製薬会社の定期納品については、営業のニセイドに確認したところ、ニセイド
はアイキナ市の営業担当とのことで、アーランマルバの営業担当に引き継ぐの
で、継続して薬莢はお願いしたいとの事だった。私としても定期の仕事が無く
ならなかった事に安堵した。この定期収入は、お店の維持にかなり貢献してい
るため、続けたいなと思っていたので、ニセイドの対応には感謝している。
数年アイキナ市に住んでいたが、知り合いと言えるのはザイランくらいしか居
ない。友人もヒリルだけだし。そう考えると後腐れもなく引っ越しが出来た気
がする。顔見知りだけだったら、皮肉な事にアーランマルバの方が多い。ろく
でもない縁の方が多い気はするが。
「お客さんも捌けたし、早いけど閉店にしようか。」
二十時十五分前の時計を見て、アクセサリーのカウンターに居るリュティに声
を掛ける。
「せめて十分前くらいにした方がいいんじゃないかしら。」
何時もの微笑で言ってくるが、その五分の差に何の意味があるのかさっぱり分
からない。一体何の拘り持っているのか不明だけれど、個人店なのだから多少
の誤差はあってもいいじゃない。
「まあ、いいわ。私は郵便受を確認してくる。」
五分に特に拘りが無い私はそう言うとお店の外に移動する。住居区域の二階は
店内の作業場からも移動出来るが、外から階段で回れば二階に玄関がある。そ
の階段の横に設えられた郵便受は、前の人が利用していたものをそのまま使っ
ている。以前がアンティークショップだった為か、チーク材を使った郵便受け
は経年により艶が出て色も濃くなり、落ち着いた感じがお洒落でお店の雰囲気
にも合っている。
郵便受の鍵を外して開けると、店舗が立ち並ぶ通りもあってか広告も多い。同
通りの他店舗の広告が入っている事も卒中だ。
一応目を通すと斜め向かいのカフェ・ノエアの新商品案内が入っている。毎日
行ってるっての。
テナント募集、高価買い取りとか、お店構えたばっかりだっての。
そう思い紙片を握り潰す。
在庫入れ換えに尽き、店内商品最大七割引きと書かれた近所の服飾店。ちょっ
と気になる。
それと茶封筒。三度目になるので中身はほぼ間違いなく司法裁院の【特定危険
人物措置依頼】だろう。ザイランの時は白い殺風景な封筒だったが、茶色にな
っただけで他に変化は無い。
店内に戻るとお客さんが一人、アクセサリーを眺めていた。早めに閉店は出来
なくなったかと思い、作業場に移動すると広告はゴミ箱に捨て茶封筒を開封す
る。アーランマルバに来てからは、無茶な依頼もない。期限も普通だし、対象
も殺人犯が二回だった。封筒の中から用紙を取り出すと見慣れた文字が現れる。
「ミリア、お客さんよ。」
そこで中身を確認する前にリュティに呼ばれたので、用紙を封筒に戻して店内
に戻る。まさか記述の依頼があるなど思ってもいなかった。
「いらっしゃいませ。薬莢のご注文ですか?」
「はい。」
その女性は線の細い女性で声もか弱い雰囲気だった。ダークブルーのロングヘ
アから覗く白い肌の顔は小さく、濃紺の瞳は優しそうだが気弱に見えた。
「当店で受けられる記述はこちらになります。」
私はカウンターから、薬莢への記述リストを出して見せる。アーランマルバの
お店を出したときに作成したものだ。以前は出来るかどうか確認しながら受け
ていたのだが、効率が悪かったため新規開店のついでにリストを作成する事に
した。リストの内容も大した呪紋式しか載せていない。一般的に使われる医療
用の薬莢や、簡単な身体強化等で人を殺傷するようなものは無い。そんな物を
売って自分の立場を悪くしたくないもの。
そもそも個人店でアクセサリーショップなので、目を付けられるような真似は
したくはないし、それを目的で集まる人種が変わり、柄の悪い連中が出入りす
るようになっては、アクセサリーショップとして本末転倒になってしまう。
私はアクセサリーショップをやりたくてお店を開いたのだもの。経営上、アク
セサリーの販売だけでは難しいので、薬莢の記述はあくまで副業的なものとし
て行っているにすぎない。
「攻撃的なものは、無いのですか?」
堂々と何を言い出すんだこの女性は。
「生憎ですが。」
「そうですか。嫌な想いが詰まった家具を壊したいのですが、力が無いもので
して。」
いや、それで呪紋式を使おうとするとか、金持ちか。確かに見た目から力があ
りそうには見えない、むしろ簡単に折れてしまいそうだが。そんな理由で売る
ことは出来ない。
「呪紋式はそんなに万能なものではありませんよ。生活の一助として使われる
ものが殆どです。攻撃するなら重火器や武器を使った方が早いからなんでしょ
うね。」
そう言って惚けてみせる。一般的にはそうなのだから嘘は言っていない。家具
を壊すだけなら一発何万もする薬莢を買うよりも、工具を買った方が遥かに安
い。もしかすると、景気良くぶっ壊したいのかもしれないが。
「そうなのですね。」
女性はそう言うと少し考える素振りをする。目的の呪紋式が無かった事に残念
がる様子は無い。
「では、麻酔の薬莢を五つ、お願い出来ますか?」
なんか売りたくないなぁ。とは言え断る根拠も無いし、断って評判に関わるの
も避けたい。私は注文書を出して女性に必要事項の記載をお願いした。
「出来上がりは三日後の予定です。」
「分かりました、お願いします。」
女性は弱々しい笑顔で言うと、お店をを後にした。何故か後味が悪い気がする
が、気にしてもしょうがないか。
「さ、閉店するわよ。」
二十時を十五分過ぎた時計を見て私はリュティに言った。
店舗鍵を持ちリュティとお店を出ると鍵を掛ける。向かうのは二階では無く、
当然斜め向かいのカフェ・ノエア。家で飲むのもいいけれど、仕事上がりにお
店で飲む麦酒がいいのよねぇ。
「今日もお疲れ、ミリアさん。」
「あ、いらっしゃい。」
お店のカウンターに行くと、店主のロアネールが声を掛けてくる。人の良さそ
うな顔をした五十歳くらいのおっさんだ。続いて声を上げたのが娘のマリシェ
ル。個人店が立ち並ぶこのレニーメルナ通りは、飲食店も例外ではない。
斜め向かいに引っ越してきた事と、毎日のように来ている所為かすっかり覚え
られてしまい、私もそれに馴染んできてしまっていた。
「お疲れ様。」
「はい、いつもの。」
カウンターに行って声を掛けると、ロアネールがそう言って麦酒と葡萄酒を出
してくる。リュティについては本日のケーキがセットで付いてくる。毎回同じ
ものを頼んでいるのだから、覚えられてるしロアネールも気を遣っているのだ
ろう。
たまには違う物を食べたくならないのかと聞いた事があるが、「違うケーキを
食べているじゃない。」とか言いやがった。本人が満足しているのなら別にい
いのだけどね。
「はい、サービス。」
ロアネールが私の麦酒に小皿を添えるように出す。そこには生ハムの切れ端と
チーズの欠片が乗っていた。
「ありがと、嬉しいわ。」
私がお礼を言って受けとると、ロアネールは無言のまま頷いた。
テラス席に移動すると、空いているテーブルに座り二人でグラスを傾ける。仕
事終わりの麦酒が喉を刺激するのが心地いい。
「うん、美味しい。」
「そうね。」
葡萄酒を口にした後、オレンジピール添えガトーショコラを口に運んで同意す
る。すっかり慣れたので、その行動に疑問は無い。どちらかと言うと気にしな
い事にした。気にするだけ損だもの。
「あっという間の一ヶ月だったわ。」
感慨ってわけじゃないけど、本当にあっという間だったなと思って口にする。
「本当にね。ロンカットに居たときよりも忙しいわ。」
黙れ。
「余計なお世話よ。」
「そんなつもりで言ったんじゃないわ。」
「分かってるわよ、そのくらい。」
私は苦笑して言うとチーズを口に入れ、麦酒を飲む。色々あってあっという間
の一ヶ月だったけれど、きっと慣れたらそうでもないんだろうなって思う。お
客さんも今みたいに来続けるとも限らないし。
「早く人が見つかるといいわね。」
「そうなのよ、とりあえず記述師が見つからないと始まらないわ。」
問題はそれだけではなく、山積みなのよね。アーランマルバのお店はなんとか
なりそうだけど、他が落ち着いていなかったり決まっていなかったり。それで
も前に進むのよ、私の道だもの。
「おかわり買ってくる。」
「私のもお願いしていいかしら?」
「高いわよ。」
私は笑顔で頷いて空きグラスを受け取ると店内のカウンターに向かう。私が店
内に入るとロアネールが察知して、おかわりの準備を始めていた。
おかわりを飲み終わると解散して家に戻った。外階段から二階へ上がり、玄関
を潜って台所に移動。その前に浴室とトイレがある。以前より広くて使い易い。
室内の作りは前と大差ない。台所には前と同じで食卓と椅子を置いている。他
には別室が二つあり、一つは寝台を置いて寝室にしているが、もう一つの使い
道はまだ決めていない。台所は前より広いので使い易くなったかな。って、私
は殆ど使わないけれど。
家に戻った私は何時も通り冷蔵庫から麦酒を取り出すと、開栓して飲み始める。
「あ、依頼書。」
麦酒を一口飲んだところで、作業場に置きっぱなしにしたままの依頼書を思い
出して取りに行った。戻って椅子に座ると、司法裁院からの特定危険人物措置
依頼を取り出して、麦酒を飲みながら依頼内容を確認する。
日程は三日後と、アーランマルバに来てからは一番短い依頼だった。それでも
以前の翌日とかに比べれば大した問題ではない。心を含めてそれなりの準備期
間だと思える。それは、アーランマルバに来て私の心がまだ落ち着いているか
らって可能性も否定は出来ないけれど。
今回の対象はユニキナ・ノーデルゲ、二十四歳。写真は冴えない感じの女性で
ブラウンの髪と目をしていた。髪の色は明るめなんだけれど、目と表情が暗く
見えたので冴えないと感じたのだ。だが普通に麦酒を飲みながら眺められたの
はそこまでで、続けて依頼書に目を通しこの女性の詳細を確認するにつれ、私
は気分が悪くなっていったのだった。
ついに王都アーランマルバにお店を持つ事が出来たミリアだったが、人手が無
いためにアイキナ市のお店は閉店状態のままになっていた。そんな時、再開の
目途が立ちそうな話しが転がり込んでくる。だが、順調に見えるミリアの展望
とは逆に、大陸の喧騒は騒がしくなり始め、その喧騒に緩やかに巻き込まれて
いくのだった。
「人は死ぬまで求める事を止めない。いや、欲が無ければ生きているとは言え
ないか。」
北方連国、モフェグォート山脈間道は、朝から降り始めた弱い雪が薄らと積も
り始め、茶色の景色を隠し始めていた。斜面は白を広げ始めているが、山頂付
近の間道は別の色が支配している。
ターレデファン国から、カリメウニア領とザンブオン領に続くこの間道は国境
を越えるために利用される主要道路のため、整備は行き届いている。当然舗装
もされており、車の往来も日々絶えない。
国境は山頂付近になっているが、入国するために通過する検問所は各国の麓に
存在する。何も無い山頂付近では、国に関係無く誰も滞在したがらないからだ。
その検問所も厳戒態勢が敷かれ、現在一般人が通る事を許されていない。
北方連国はモフェグォート山脈が東西に伸び、ペンスシャフル国の北側の方に
伸びている。そのため、山脈を挟んだ南の国とは分断されていた。山脈が分断
する北方連国に行くためには、ターレデファン国の北に位置する、エカラール
市という街を通らねばならない。
舗装されていない道を通るのであればその限りではないが、不法入国扱いされ
る上に、寒い山越えをするには危険が大きい。する者が居ないわけではないが、
普通の人はまず行わない。山脈間道はカリメウニア領とザンブオン領に、山頂
付近で道が東西に分岐する。どちらの領に行くにしても大概の人はエカラール
市を抜けて行く事になる。
北方連国は北方三国とも言われ、カリメウニア領、ザンブオン領の北にダレン
キス領が存在する。三国間は行き来が可能だが、エカラール市から向かうには
必ずカリメウニアかザンブオンを通らなければならない。
南方との往き来が山脈を越えなければならない北方連国では、文化や技術にお
いて著しい違いが存在する。山脈間道が整備され、毎日のようの車が往来する
現在では技術的に目立って差は無いが、独自の文化は今でも残っている。
山脈間道が封鎖されている理由については、カリメウニアとザンブオンの物価
変動による諍いが原因となっていた。大陸の北に位置する北方連国は、寒い時
期が長いため収穫出来る作物も時期も限られている。工業に於いてもそれぞれ
の技術、製品があるため、お互いに供与しあい発展してきた。
ところが外部から輸入している物価が上がるにつれ、自国供給とカリメウニア
への出荷物に、ザンブオンの企業が差を付け始めた事に端を発し、現在ではそ
の問題が政界にまで波及している。
当たり前のような気はするが、問題になった原因は三国間で決めている流通協
定にあった。取り決めでは、北方連国内に於いては領間での需要と供給は平等
であり、価格に差は設けないと決められている。故に、ザンブオンの企業が行
った行為に対し、カリメウニア側の取引先が異を唱えたのだ。
協定に乗っ取った行為だったにも関わらず、ザンブオン側は協定が昔のもので
あり、現在にはそぐわないとして突っぱねた。そこでカリメウニア政府がザン
ブオン政府に抗議した事により国家間での問題にまで発展したのが今に至る理
由となっている。
政府の言い合いが罵倒にまで発展すると、領境では不満の貯まった住民同士が
喧嘩を始める。止めようとした警察局の人間ですら、罵倒されると手を出し始
め収拾が付かなくなった。そうなると今度は軍部にまで争いが拡張して、一触
即発と言ってもいいほど緊張が高まっている。
微妙な状態で、何が引き金になるか分からない為、入領を制限する意味で検問
所を封鎖しているとお互いに言い張っている。だが初めに封鎖したのはとばっ
ちりを嫌ったターレデファンであり、カリメウニアとザンブオンは取り繕いと
意地の張り合いだけで封鎖したのが事実だった。
検問所と領境には多少の軍が駐留し、牽制しあっている。領民にとってはいい
迷惑だと感じている者が大半で、駐留している軍は当然いい顔をされない。そ
れは軍人とて同様で、一企業の我が儘から発展した現状況に辟易している者が
殆どだ。
ダレンキスはこの状況に中立を保っているが、馬鹿馬鹿しい諍いに関わりたく
ないのが本音で、静観を決め込んでいた。長年続けて三国の共存を今更破綻さ
せる事もないだろうし、そんな不利益を選ぶ必要を感じない。故に、一触即発
の雰囲気になろうとも、それ以上は踏み込まないと思っている。ただ、万が一
にでも戦に発展した場合は、勝った方に付けばいいとの考えはしつつ。
山頂付近の間道では降り注ぐ雪を溶かし、緩やかな下り坂を赤黒い液体が川と
なってゆっくりと流れている。山頂付近に散乱する無数の死体が川を作り出し
ていた。胴を両断された死体からはみ出る、桃色の腸からはまだ湯気があがっ
ていた。手も足も千切れ散乱し赤黒い川を作る一助となっている。潰れた頭部
は視神経を引いて眼球を垂れ下げ、押し出された脳漿が顔を汚く染めていた。
胴が潰れ、はみでた内蔵が散乱し、骨がはみ出し人の形をしていない死体も多
数転がっている。別に頭部や首、胴体や手足が千々に切断され、どれが誰のも
のか分からない程になっている残骸も多い。
まだ湯気の絶えない死体は、血臭を大気に巻き散らかし、垂れ出た糞便は空気
を汚し悪臭に変えていく。赤く煙るようなその場の空気は、雪が死体に触れる
前に溶かし雨にしていた。山間道でありながら大地を撫でる風もなく、留まる
様に悪臭を纏った大気はその場から離れなかった。
遠くからその光景を恐怖を瞳に浮かべて見ている者がいた。黒いロングコート
に身を包み、斜面の窪みに身を隠して。垂れ下げた左手からは血が滴り、乱れ
た黒髪の下には酷く疲労を浮かべた顔。左脇腹を染める血が、その顔を蒼白に
していた。
「なん、なんだ・・・あいつらは・・・」
長身で細身だが、引き締まった身体が今は弱々しく見える男性は、声にならず
疑問だけが口から漏れる。男性の目の先には、無造作に伸びた白髪を血に染め
た老人が長い顎髭を撫でていた。その隣には耳を覆い隠す紺碧の髪を揺らして、
剣に付いた血を振り払う少年が並ぶ。
男性はたまたまザンブオン軍の動向を探っていて、出兵された部隊の後を付け
ていたところでこの事態に巻き込まれた。目の前で起こる殺戮に堪えきれず飛
び出し、兵に紛れて攻撃に出てみたが返り討ちにあっただけだった。空を裂き
飛翔する剣先すら届く事はなく潰され、気付いたら目の前にいた少年の横凪ぎ
が迫っていた。咄嗟に後方に跳び退り辛うじて致命傷を回避したが、それでも
左脇腹と手を掠めた斬撃は徐々に体力を奪っていく。
二人から離れた男性は、退避しながら後方を確認したが、二人が追って来る気
配は無かったため近くの窪みに身を隠した。その後少年と老人の二人は、二百
名ほど居たザンブオン軍を殲滅させたのだ。二人の殺戮を見ていた男性は湧き
上がる恐怖を押さえながら、その光景を見続ける事しか出来ずに。
ザンブオン軍を殲滅した少年と老人は、近場の小高い岩場に移動すると、血に
煙る山間道を見下ろして何か話しているようだった。男性は自分の居場所が二
人に気付かれている事を、分かってはいたがその場から離れられず二人を遠目
に眺めている。
何故自分は殺されずに逃げられたにのか、何故今も居ることに気付いていなが
ら襲って来ないのか。疑問が頭の中を巡るが答えは出ず、目を離すことも出来
ずに硬直するしかなかった。
朝から舞う雪は嫌でも大気の寒さを認識させられる。流れた血は乾かず、濡れ
た服は徐々に体温を奪っていく。それでも男性はその場から動けなかった。
「まさか、ザンブオンの人間では無いからか・・・」
巡る疑問に一つの可能性を見いだし、喉から新たな疑問が漏れる。それは声に
ならず吐息として出ただけだった。だとしたら、何故二人はこれだけ居たザン
ブオン軍の中から自分だけが違うと分かったのかと、新たな疑問が生まれる。
その疑問は、何故ザンブオン軍だけが殺されなければならなかったのかと、疑
問の連鎖を生み出す。
だが男性にはどの疑問にも解は出せなかった。奪われていく体力のせいで、自
分を保つ事に意識の大半を使い思考の巡りも悪くなってくる。男性は一瞬気が
緩み、岩場の上から意識が外れると直ぐに取り直して意識を戻す。視線はずっ
と岩場の上に固定していた筈なのに、少年と老人は既に姿が消えていた。
まるで最初からその場に居なかったように、本格的に降り始めた雪を岩場は静
かに受け入れている。
男性は緊張から解放されると、小銃を取り出して呪紋式を自分に向かって発動
した。痛み止めの効果によって薄らいでいく痛みに安堵すると、その場に腰を
下ろした。臀部に伝わる地面の冷たさに不快を感じつつ、安堵から上空に視線
を移す。灰色の空から舞い降りる白い雪だけが、世界の中で動いているように
見えた。
「逃してよかったんか?」
長い顎鬚を撫でながら、薄茶色のローブを着た老人が言った。無造作に伸ばさ
れた白髪は黒い斑点の様に、未だに血痕を残している。老人は木製のテーブル
を前に、同じく木製の椅子に腰かけていた。
カリメウニア領、モフェグォート山脈の麓とはいえ電気が普及している。僅か
だが民家もあるからだ。にも関わらず室内は蝋燭のか細い灯りと、暖炉から漏
れ出る赤い光のみで、昼間でも部屋の中は薄暗い。
「リンハイアの部下でしょ。害にはならない、事情も知らない、殺す理由はな
い、でしょ。」
少年は微笑んで言うと、カップに珈琲を注ぐ。二つ目に注ぎ終ると、それを持
って移動して老人の前に置いた。
「まあ、そうじゃが。」
少年が珈琲を飲むのを見ていた老人は、そう言って自分も珈琲に口を付ける。
「珈琲なぞ、久々に飲んだわい。」
テーブルの向かいに移動して椅子に座った少年に、老人は言うとまた珈琲を啜
る。
「わざわざ来てもらって助かったよ。」
その仕草を見て少年も珈琲を口にすると、そう言って目を閉じて微笑んだ。穏
やかに微笑む顔はまるで少女の様にも見える。
「雑兵の二百程度、儂なんぞ必要なかろうよ。」
「僕はそこまで強くないってば。」
少年の礼に、老人は苦笑して返すと、少年は困ったようにはにかんだ。
法皇国オーレンフィネアは一ヶ月経っても姿勢を変えていない。それに対して
ペンスシャフル国は制裁を実施に移した。流通品の一部に制限を掛けただけで、
人の往来やその他の輸出入に関しては今のところ制限を掛けるつもりは無いよ
うだった。ただ、バノッバネフ皇国が国交断絶を実施する際には、制限内容を
厳しくする予定とだけ公表している。
アーリゲルが行った大呪紋式の発動は最終的に半壊、一部損壊百二棟、負傷者
百九十三名、死者四十八名を出した。被害国であるグラドリアは今のところ制
裁を考慮してはいない。オーレンフィネアの復旧支援に対する態度は真摯であ
るが、報道されるのはその情勢ばかりだ。自国の復旧度合など既に興味は無く、
被害者が取り上げられる事も無い。既に大半の人は興味が無く、隣国の諍いが
流れる報道を見るだけになっている。
アーランマルバに移ってからは、司法裁院の依頼は直接郵送されて来ることに
なった。ザイランに引っ越す事を伝えた後、司法裁院から来た指示はそうだっ
たらしい。アイキナ市を出た私に、もうザイランから依頼が回ってくる事はな
い。ついでに関わる事も無くなったわけで、あの渋い顔をもう見なくて良くな
った。数年の付き合いだったが、特に感慨もない。ザイランにとっては問題児
が居なくなってほっとしているんじゃないだろうか。
アーランマルバは首都だけあって、グラドリア国の中でも一番人口が多い。司
法裁院の依頼の数も当然多いと考えられる。直接依頼が届けられるのは、担当
が決まるまでの暫定措置だそうで。司法裁院が誰に依頼を回そうかと考慮する
程、暇では無いだろうから当然と言えばそうなのだろう。
人付き合いが苦手な私にとって、新しい担当が決まって付き合うのかと考える
と憂鬱だ。報告が面倒でも、司法裁院から直接依頼される方が楽だなと思える。
アーランマルバにお店を出す事ばかり考えて、司法裁院の事はまったく考慮し
て無かった。
そんなお店も開店して一ヶ月が経った。やはり立地がいいのか、ロンカットの
時よりお客さんの数も多い。アクセサリーの売れ行きも多少上がっている。薬
莢の依頼が無いときはアクセサリーを作っているのだが、作業場に籠っている
と新しいカウンターの使用頻度は当然少ない。たまに要らなかったかと考えさ
せられる。いや、そんな事はない。
ロンカットのお店はまだ再開の見込みが立っていない。なにより呪紋式の記述
師が見つからないのだ。通常の従業員は募集を募れば見つかるだろうと思い、
記述師が見つかるまでは探せない。もともと数の少ない記述師を、個人店で見
つけるのは難しいと言える。
サールニアス自治連国の戦争はあれから悪化の一途を辿っているため、モッカ
ルイア領への開店は諦めるしかないかとさえ思わせられる。疲弊するであろう
ゲハートに、軽々しくそんな事は話せない。嫌な話だが、モッカルイア領が存
続出来るかも、ゲハートの生死も確実ではないのだから。
それとハニミス弁護士はアイキナ市の弁護士なので、アーランマルバでの案件
を引き受けるのは厳しいと言っていた。その代わり、アーランマルバに居る知
り合いの弁護士を紹介してくれるらしい。短い付き合いなのに、面倒見のいい
事に感謝するばかりだ。だけど良いか悪いか分からないけれど、仕事は回して
あげられなかったな。私にとっては何よりだが、向こうにとってはお金に無ら
なかったのだから損だったろうな。
製薬会社の定期納品については、営業のニセイドに確認したところ、ニセイド
はアイキナ市の営業担当とのことで、アーランマルバの営業担当に引き継ぐの
で、継続して薬莢はお願いしたいとの事だった。私としても定期の仕事が無く
ならなかった事に安堵した。この定期収入は、お店の維持にかなり貢献してい
るため、続けたいなと思っていたので、ニセイドの対応には感謝している。
数年アイキナ市に住んでいたが、知り合いと言えるのはザイランくらいしか居
ない。友人もヒリルだけだし。そう考えると後腐れもなく引っ越しが出来た気
がする。顔見知りだけだったら、皮肉な事にアーランマルバの方が多い。ろく
でもない縁の方が多い気はするが。
「お客さんも捌けたし、早いけど閉店にしようか。」
二十時十五分前の時計を見て、アクセサリーのカウンターに居るリュティに声
を掛ける。
「せめて十分前くらいにした方がいいんじゃないかしら。」
何時もの微笑で言ってくるが、その五分の差に何の意味があるのかさっぱり分
からない。一体何の拘り持っているのか不明だけれど、個人店なのだから多少
の誤差はあってもいいじゃない。
「まあ、いいわ。私は郵便受を確認してくる。」
五分に特に拘りが無い私はそう言うとお店の外に移動する。住居区域の二階は
店内の作業場からも移動出来るが、外から階段で回れば二階に玄関がある。そ
の階段の横に設えられた郵便受は、前の人が利用していたものをそのまま使っ
ている。以前がアンティークショップだった為か、チーク材を使った郵便受け
は経年により艶が出て色も濃くなり、落ち着いた感じがお洒落でお店の雰囲気
にも合っている。
郵便受の鍵を外して開けると、店舗が立ち並ぶ通りもあってか広告も多い。同
通りの他店舗の広告が入っている事も卒中だ。
一応目を通すと斜め向かいのカフェ・ノエアの新商品案内が入っている。毎日
行ってるっての。
テナント募集、高価買い取りとか、お店構えたばっかりだっての。
そう思い紙片を握り潰す。
在庫入れ換えに尽き、店内商品最大七割引きと書かれた近所の服飾店。ちょっ
と気になる。
それと茶封筒。三度目になるので中身はほぼ間違いなく司法裁院の【特定危険
人物措置依頼】だろう。ザイランの時は白い殺風景な封筒だったが、茶色にな
っただけで他に変化は無い。
店内に戻るとお客さんが一人、アクセサリーを眺めていた。早めに閉店は出来
なくなったかと思い、作業場に移動すると広告はゴミ箱に捨て茶封筒を開封す
る。アーランマルバに来てからは、無茶な依頼もない。期限も普通だし、対象
も殺人犯が二回だった。封筒の中から用紙を取り出すと見慣れた文字が現れる。
「ミリア、お客さんよ。」
そこで中身を確認する前にリュティに呼ばれたので、用紙を封筒に戻して店内
に戻る。まさか記述の依頼があるなど思ってもいなかった。
「いらっしゃいませ。薬莢のご注文ですか?」
「はい。」
その女性は線の細い女性で声もか弱い雰囲気だった。ダークブルーのロングヘ
アから覗く白い肌の顔は小さく、濃紺の瞳は優しそうだが気弱に見えた。
「当店で受けられる記述はこちらになります。」
私はカウンターから、薬莢への記述リストを出して見せる。アーランマルバの
お店を出したときに作成したものだ。以前は出来るかどうか確認しながら受け
ていたのだが、効率が悪かったため新規開店のついでにリストを作成する事に
した。リストの内容も大した呪紋式しか載せていない。一般的に使われる医療
用の薬莢や、簡単な身体強化等で人を殺傷するようなものは無い。そんな物を
売って自分の立場を悪くしたくないもの。
そもそも個人店でアクセサリーショップなので、目を付けられるような真似は
したくはないし、それを目的で集まる人種が変わり、柄の悪い連中が出入りす
るようになっては、アクセサリーショップとして本末転倒になってしまう。
私はアクセサリーショップをやりたくてお店を開いたのだもの。経営上、アク
セサリーの販売だけでは難しいので、薬莢の記述はあくまで副業的なものとし
て行っているにすぎない。
「攻撃的なものは、無いのですか?」
堂々と何を言い出すんだこの女性は。
「生憎ですが。」
「そうですか。嫌な想いが詰まった家具を壊したいのですが、力が無いもので
して。」
いや、それで呪紋式を使おうとするとか、金持ちか。確かに見た目から力があ
りそうには見えない、むしろ簡単に折れてしまいそうだが。そんな理由で売る
ことは出来ない。
「呪紋式はそんなに万能なものではありませんよ。生活の一助として使われる
ものが殆どです。攻撃するなら重火器や武器を使った方が早いからなんでしょ
うね。」
そう言って惚けてみせる。一般的にはそうなのだから嘘は言っていない。家具
を壊すだけなら一発何万もする薬莢を買うよりも、工具を買った方が遥かに安
い。もしかすると、景気良くぶっ壊したいのかもしれないが。
「そうなのですね。」
女性はそう言うと少し考える素振りをする。目的の呪紋式が無かった事に残念
がる様子は無い。
「では、麻酔の薬莢を五つ、お願い出来ますか?」
なんか売りたくないなぁ。とは言え断る根拠も無いし、断って評判に関わるの
も避けたい。私は注文書を出して女性に必要事項の記載をお願いした。
「出来上がりは三日後の予定です。」
「分かりました、お願いします。」
女性は弱々しい笑顔で言うと、お店をを後にした。何故か後味が悪い気がする
が、気にしてもしょうがないか。
「さ、閉店するわよ。」
二十時を十五分過ぎた時計を見て私はリュティに言った。
店舗鍵を持ちリュティとお店を出ると鍵を掛ける。向かうのは二階では無く、
当然斜め向かいのカフェ・ノエア。家で飲むのもいいけれど、仕事上がりにお
店で飲む麦酒がいいのよねぇ。
「今日もお疲れ、ミリアさん。」
「あ、いらっしゃい。」
お店のカウンターに行くと、店主のロアネールが声を掛けてくる。人の良さそ
うな顔をした五十歳くらいのおっさんだ。続いて声を上げたのが娘のマリシェ
ル。個人店が立ち並ぶこのレニーメルナ通りは、飲食店も例外ではない。
斜め向かいに引っ越してきた事と、毎日のように来ている所為かすっかり覚え
られてしまい、私もそれに馴染んできてしまっていた。
「お疲れ様。」
「はい、いつもの。」
カウンターに行って声を掛けると、ロアネールがそう言って麦酒と葡萄酒を出
してくる。リュティについては本日のケーキがセットで付いてくる。毎回同じ
ものを頼んでいるのだから、覚えられてるしロアネールも気を遣っているのだ
ろう。
たまには違う物を食べたくならないのかと聞いた事があるが、「違うケーキを
食べているじゃない。」とか言いやがった。本人が満足しているのなら別にい
いのだけどね。
「はい、サービス。」
ロアネールが私の麦酒に小皿を添えるように出す。そこには生ハムの切れ端と
チーズの欠片が乗っていた。
「ありがと、嬉しいわ。」
私がお礼を言って受けとると、ロアネールは無言のまま頷いた。
テラス席に移動すると、空いているテーブルに座り二人でグラスを傾ける。仕
事終わりの麦酒が喉を刺激するのが心地いい。
「うん、美味しい。」
「そうね。」
葡萄酒を口にした後、オレンジピール添えガトーショコラを口に運んで同意す
る。すっかり慣れたので、その行動に疑問は無い。どちらかと言うと気にしな
い事にした。気にするだけ損だもの。
「あっという間の一ヶ月だったわ。」
感慨ってわけじゃないけど、本当にあっという間だったなと思って口にする。
「本当にね。ロンカットに居たときよりも忙しいわ。」
黙れ。
「余計なお世話よ。」
「そんなつもりで言ったんじゃないわ。」
「分かってるわよ、そのくらい。」
私は苦笑して言うとチーズを口に入れ、麦酒を飲む。色々あってあっという間
の一ヶ月だったけれど、きっと慣れたらそうでもないんだろうなって思う。お
客さんも今みたいに来続けるとも限らないし。
「早く人が見つかるといいわね。」
「そうなのよ、とりあえず記述師が見つからないと始まらないわ。」
問題はそれだけではなく、山積みなのよね。アーランマルバのお店はなんとか
なりそうだけど、他が落ち着いていなかったり決まっていなかったり。それで
も前に進むのよ、私の道だもの。
「おかわり買ってくる。」
「私のもお願いしていいかしら?」
「高いわよ。」
私は笑顔で頷いて空きグラスを受け取ると店内のカウンターに向かう。私が店
内に入るとロアネールが察知して、おかわりの準備を始めていた。
おかわりを飲み終わると解散して家に戻った。外階段から二階へ上がり、玄関
を潜って台所に移動。その前に浴室とトイレがある。以前より広くて使い易い。
室内の作りは前と大差ない。台所には前と同じで食卓と椅子を置いている。他
には別室が二つあり、一つは寝台を置いて寝室にしているが、もう一つの使い
道はまだ決めていない。台所は前より広いので使い易くなったかな。って、私
は殆ど使わないけれど。
家に戻った私は何時も通り冷蔵庫から麦酒を取り出すと、開栓して飲み始める。
「あ、依頼書。」
麦酒を一口飲んだところで、作業場に置きっぱなしにしたままの依頼書を思い
出して取りに行った。戻って椅子に座ると、司法裁院からの特定危険人物措置
依頼を取り出して、麦酒を飲みながら依頼内容を確認する。
日程は三日後と、アーランマルバに来てからは一番短い依頼だった。それでも
以前の翌日とかに比べれば大した問題ではない。心を含めてそれなりの準備期
間だと思える。それは、アーランマルバに来て私の心がまだ落ち着いているか
らって可能性も否定は出来ないけれど。
今回の対象はユニキナ・ノーデルゲ、二十四歳。写真は冴えない感じの女性で
ブラウンの髪と目をしていた。髪の色は明るめなんだけれど、目と表情が暗く
見えたので冴えないと感じたのだ。だが普通に麦酒を飲みながら眺められたの
はそこまでで、続けて依頼書に目を通しこの女性の詳細を確認するにつれ、私
は気分が悪くなっていったのだった。
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