紅湖に浮かぶ月

紅雪

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紅湖に浮かぶ月4 -融解-

4章 集束の地

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「他人に流される者程、自分の事しか見えていない。」


鉄製の扉に斬れ目が入ると、自重で崩れるより早く内側に勢いよく倒れる。扉
が床に激突するより前に、開いた隙間から影が滑り込んだ。部屋の中に居た背
広姿の男はその影に気付くと、懐から銃を抜こうと手を背広の内側に入れ引き
抜く。だが銃口は影に向けられる事なく、引き抜いた勢いから腕ごと前方に弧
を描いて床に落ちた。男は驚きに切断された鮮血を撒く腕の断面に目をやり動
きが止まる。男の胸元から頭頂まで、中心に朱線が浮かび上がると赤黒い体液
が噴き出し身体が後ろに傾く。
影はもう一人の背広姿の男に一足跳びで近寄ると、長刀を逆袈裟に振り抜いた。
最初に斬られた男は床に背中から激突し鮮血を撒き散らす。影の目の前では男
が銃弾を撃つ事なく斜めに迸った軌跡から、赤黒い液体を噴き出しながら上半
身が滑り落ちる。粗末な音を立て床に落ちると衝撃で内臓がはみ出す。もう片
方の断面からは桃色の腸がはみ出し重力に引かれ垂れ下がり、傾くと床に叩き
つけられ腸が鮮血とともに飛び出した。
その結末を見ることなく影は、椅子に拘束された女性に近寄ると生死を確認す
る。
(良かった、まだ生きていたか。)
内心で呟いたが、生きているというより生かされていたと影は感じた。下着は
血に塗れ顔から下半身に至るまでも黒く染まっていた。白い肌は裂傷と打撲に
よる痣で変色し、見るに絶えない状態に影は歯を軋ませる。女性の横には同じ
様な状態で男性が横たわっており、息はしているが生きているとは言いがたい
様に見えた。
(これがラーンデルト卿か。)
下着一枚の男性を一瞥して影は確認する。
「ユーアマリウ様?」
影は椅子に拘束されているユーアマリウを解き、身体を揺さぶって声を掛ける。
ユーアマリウはゆっくりと目を開け、影に虚ろな視線を向けた。瞳はやがては
っきりとした光を宿し、部屋の中を見渡す。腐臭と汚物臭が混じる悪臭は変わ
りなく、部屋の隅の置かれた頭部も現実だと黒い目を向けてきている。今まで
と違うのは扉が斬り開かれ、アーリゲルの配下が無惨に事切れている事だった。
「あな・・・たは?」
状況を察したユーアマリウは、目の前の影に視線を戻して誰何の声を出す。噛
み切った舌のせいか、ユーアマリウは上手く喋れない事に顔を顰めた。
「グラドリア国執政統括配下、エリミアインと申します。主の命で来ておりま
すがご内密に。」
エリミアインは畏まって挨拶をすると、ユーアマリウに向かって頭を下げる。
何処まで言おうか悩んだが、目の前の女性の瞳はエリミアインにとって素直に
名乗るに値した。
「グラドリア国の・・・何故・・・」
他国が関わる事では無いことをユーアマリウは分かっているのか、小さく疑問
を漏らした。
「はっきり言いますが貴女を助ける為ではなく、アーリゲル卿を止める為に動
いております。放置しては各国との軋轢を生みかねません故。」
エリミアインの説明に、ユーアマリウは瞳に強い光を宿す。
「私は、ヴァールハイア家に伝わる、口伝を、漏らして、しまったよう、です
。」
苦渋に満ちた顔でユーアマリウは言った。何の事かエリミアインには分からな
かったが、その表情を見る限り余程の内容なのだと察する。同時にアーリゲル
がユーアマリウを拐った理由もそれなのだと理解した。
「アーリゲル卿はその口伝とやらを聞いて此処には居ないという事ですか?」
涙を流し悔いと怒りを瞳に混ぜたユーアマリウに、エリミアインは確認する。
ユーアマリウはエリミアインを見据え、ゆっくり頷いた。
「おそらく、既にボルフォンに、向かっているのだと、思います。」
エリミアインにもその地名は聞き覚えがあった。ヴァールハイア家がある場所
なのだから、当たり前と言えばそうなのだが、今は状況からかその地名に緊張
を覚える。
「場所を教えて頂きたい、アーリゲル卿を追って止める必要があります故。」
エリミアインの真摯な眼差しにユーアマリウは頷いた。護れなかった意思と家
名、圧し掛かる責に意を決する。
「私も、行きます。」
エリミアインにとってその申し出は、足手まといの何物でも無かった。死にか
けの令嬢を連れて動くなど、手遅れになるに等しいと。だが、強固な意思を宿
した真っ直ぐな瞳を見ると、拒否することが出来なかった。
「正直に言いますが足手まといです。」
はっきりと言ったエリミアインの言葉に、ユーアマリウは悔しさで顔を歪める。
「故に、衰弱した身体に鞭を打ってでも私に合わせて頂きます。」
続いたエリミアインの言葉に一瞬呆気に取られたユーアマリウだったが、直ぐ
に表情を引き締めると力強く頷いた。
「早速で申し訳ありませんが、ボルフォンに今すぐ出発します。」
ユーアマリウはエリミアインの言葉に視線を反らし、ラーンデルトに向けた。
「この中央に知人がおります故、ボルフォンに行きがてら連絡を取り此処に来
るよう伝えます。」
「あり、がとう、ございます。」
察したエリミアインに、ユーアマリウは立ち上がろうとしたが、足に力が入ら
ずによろめいて床に手を付く。それでも前に進もうと四肢を震わせ立ち上がっ
た。
「失礼。」
それを見ていたエリミアインは、時間が惜しいとばかりにユーアマリウを抱え
ようと腰に手を回す。
「す、少しだけ、時間、を、ください。」
ユーアマリウはエリミアインの伸ばした手に触れ、抱えられるの制して言った。
エリミアインが頷くとユーアマリウはゆっくり歩き、一人の女性の前に立った。
臀部から下着こと下半身を赤黒く染め、苦悶に目を見開き事切れている女性を
見て屈む。言い表せない程の何かがあったと思わせる苦悶の表情と、限界まで
開いた憎悪を宿した瞳。その女性の瞳をユーアマリウは手で閉じると、自身も
目を瞑り涙を溢す。
「ごめん、なさい、ハー、メリア・・・」
嗚咽と共に漏らした言葉は、静かだが悔恨を含んだ叫びにエリミアインは聴こ
えた。暫し涙と共に黙祷したユーアマリウは、立ち上がると決意の瞳でエリミ
アインを見据える。
「時間を、取らせ、ました。」
「では、参りましょう。」
エリミアインは頷いて言うと、ユーアマリウを抱えて地下室を足早に出た。事
切れている女性に関しては、個人と故人の事だから触れるべきではないとエリ
ミアインは思うため、今のユーアマリウに行動に対しては何も言わずに。
「電車に乗る準備をしている暇もありませんので車で向かいます。申し訳ない
ですが、そのままの格好で来てもらいます。」
地上に出て走りながらエリミアインは言った。
「構い、ません。」
ユーアマリウは自分の事よりも、事の顛末を憂慮するようにボルフォンの方角
に目をやり答えた。
「大きいとは思いますが、私の着替えで我慢してください。」
続いて言ったエリミアインの言葉に、ユーアマリウは頷いた。今の自分が着て
は、汚してしまうだけだと申し訳なく思った。が、エリミアインの気遣いと、
何よりこの男性はそんな事を気にする人ではないだろうと思わされる雰囲気だ
ったので、有り難く好意を受け取る事にした。その後に、好意等ではなく合理
性から言ったのだろうと思い少し自嘲した。
車に着くと、エリミアインはユーアマリウを後部座席に押し込み自分は運転席
へと移動する。
「そこに置いてある鞄に服が入っています、好きなのを着てください。」
直ぐに動かし走り始めると、エリミアインは言った。
「ありがとう、ございます、お借り、します。」
ユーアマリウは素直に礼を言うと、鞄の中を確認する。いくら意志が強いとは
いえ、街中を下着だけで移動するのは流石に恥ずかしさがあった。ユーアマリ
ウが鞄の中を物色している間、エリミアインは小型端末を取り出して音声通信
を始める。ユーアマリウは物色しながら、その会話に自然と意識が向いてしま
い、手は鞄の中を泳いで中身の確認には至らない。話している内容は自分の救
出と、先程の場所への救援、それから今後の動向についてだった。
それを聞いたユーアマリウは、自分がやっとあそこから抜け出せたのだと安堵
し涙が溢れてくる。解放された事が現実としてやっと認識出来た事から。そこ
で突然車が停まったので、ユーアマリウは怪訝な顔をする。
「少し待っていてください。」
いつの間にか通信を終えていたエリミアインは、それだけ言うと車を降りて行
った。向かう先を見るとそこには便利店がある。何か買いに行ったのだろうと
察すると、ユーアマリウは鞄から白いシャツと黒いズボンを取り出した。とい
うのも同じ様な衣類しか入っていなく、選択肢が無かったのだが。
「使ってください。」
服を取り出したところでエリミアインが戻り、そう言って使い捨ての濡布を差
し出す。汚れた身体を拭けるように気を遣ったのだと思い、ユーアマリウは有
り難く受け取った。
「それと水と軽食です。傷は癒えませんが体力は少しでも回復しておいてくだ
さい。」
「色々と、助かり、ます。」
ユーアマリウが受けとると、車は直ぐに動き出した、ボルフォンに向けて。
「現地に着いたら案内をお願いします。」
「分かり、ました。」
エリミアインの言葉に、ユーアマリウは顔を拭きながら応える。濡れた布が見
る間に赤黒く染まっていくと、ユーアマリウは鏡が欲しくなったが、そこまで
世話になるのは申し訳ないと思い黙々と拭いた。顔から身体、手足を。何枚も
入っている布を使い尽くしても、身体の汚れは落とし切れなかった。
「申し訳ない、足りませんでしたね。」
「いえ、大分、すっきり、しました。」
使いきった事に気付いたエリミアインが申し訳なさそうに言ったが、ユーアマ
リウはそれなりに落ちた汚れに感謝していた。シャツを羽織ってボタンで留め
ると、受け取った水を口にする。ユーアマリウは思ってた以上に飲んでしまっ
た自分に驚いた。
「まだ在りますので、遠慮せず飲んでください。」
ユーアマリウは頷き、卵サンドを手に手に取ると包装紙を剥がして囓り付く。
あっという間に食べ終わると水を飲み、次にハムサンドを口にした。食べ終わ
ると満たされたのか、窓の外に流れる街並みに目をやり、直ぐに瞼を重そうに
した。
極度の疲労と解放された安堵からだろうと思うと、エリミアインは現地に着く
まではゆっくり休ませようと思う。ボルフォンに着いたらおそらく休む暇など
無いだろうから。それでも、回復しない身体で無理はさせられないと思えば、
アーリゲルの居場所が判った時点で置いていこうとエリミアインは考えながら
車を走らせた。

地下室を目の当たりにしたクノスは、吐き気を堪えながら部屋の中を確認する。
酷い悪臭は、地下室の換気の悪さからか扉が無くなっても滞留していた。扉と、
部屋の中で未だ固まらない血の池に横たわる男二人は、エリミアインの仕業だ
なと思い部屋の中に進む。部屋の隅にある頭部のみの山を見ると、部屋の酷い
臭いはあれかと気付き、同時に堪えきれなくなった吐き気で吐瀉物を床にぶち
まけた。
「くそっ・・・」
クノスは悪態をつきながら目的の人物に近付くと、拘束を解いて身体を揺さぶ
る。
「ラーンデルト卿!生きてるか?」
下着一枚で、身体中裂傷と痣だらけの無惨な姿に顔を顰めながらクノスは大声
で呼び掛ける。
「ラーンデルト卿!」
「うっ・・・」
数度呼び掛けたところで、ラーンデルトが呻き声を上げる。だがそれ以上の反
応は無く、顔を歪めるだけだった。
「ラーンデルト卿、しっかりしろっ!」
クノスが更に呼び掛けると、ラーンデルトは濁った虚ろな視線をクノスに向け
る。
(こいつは・・・)
既に生きる気力も尽きている様に感じるその視線に、クノスは苦渋に顔を歪め
た。室内の状況を見るに、常人では正常を保てなくても当然かと思わされる。
その中、アーリゲルを追って行ったユーアマリウはどんな精神力をしているん
だと辟易した。
「おい、ラーンデルト卿。ここから出るぞ!」
思考力も無くなったのか、クノスの言葉に目を向けるだけでそれ以上の反応を
示さない。早く此処から抜け出したいクノスは、予想以上にやっかいな状況を
呪いたくなった。
「ユーアマリウ孃はもう外に出たぞ。何時までも此処で寝ているつもりか。」
諦めずに掛けた言葉でラーンデルトの目が揺れた。おそらくユーアマリウの名
前に反応したのだろうとクノスは思い続ける。
「あんたは、ユーアマリウ孃を放っておいていいのか!?」
「ユー・・・ウ、・・・ま・・・」
更に声を大きくして言うと、殆ど聞き取れない声を漏らすラーンデルトにまだ
助かりそうだとクノスは安堵した。ただこれ以上の放置は危険だとも思い、な
んとか連れだしたくて声を掛ける。
「ああそうだ、ユーアマリウ孃は此処から既に脱出している。あんたも出るん
だよラーンデルト卿!」
何時までも此処に居たくない思いも強く、クノスは声に乗せてラーンデルトを
煽った。先程よりも濁りが薄くなった目がクノスに向けられる。
「あんたは、誰だ?」
小さいがはっきり聞こえるようになった言葉は誰何の声だった。そんな事を気
にしているラーンデルトにクノスは若干苛立ちを覚える。自分ではどうしよう
もないから尚更だった。
「俺が誰かなんてどうでもいいだろう。何時までも此処で寝て、ユーアマリウ
孃を放置するのか!?」
クノスは声にも苛立ちが表れるが、そんな事を気にしてなどいられない。引き
摺ってでも連れ出したいところだったが、この状態で外を歩くのは流石に気が
引けるし目立った行動は避けたい。
「あんたは、ヴァールハイア家の生き残りを、見殺しにするつもりか!」
推進派を調べる際に穏健派の事も知っておく必要があった。特にヴァールハイ
ア家については少し前の事件もあり情報は入りやすい。そのため立場上言いた
くは無かったが、焚き付ける為にやむを得ないと思いクノスは言った。どちら
かと言えば、苛立ちから出てしまったのだが。
ただ、ヴァールハイアの名前はユーアマリウよりも効果があったようで、虚ろ
だったラーンデルトの目がはっきりとクノスを睨み付けた。
「だったらそこでずっと寝ていろ!」
おそらくカーダリアに対して何か思うところがあったのだろうとクノスは思っ
た。だからこそユーアマリウをフェーヌコリウ家で引き取るような真似をした
のだろうと。面倒臭さもあったが、これで反応しないようならと思い、クノス
は吐き捨てる様に言うと立ち上がってラーンデルトを見下ろす。
「そんな事は、しない!」
ラーンデルトはクノスを睨み付けながら、身を捩って起き上がろうとする。が、
拷問を受け何日もこの状態に晒されていたせいか、身体が思うように動かせず
に上体を起こして座るまで時間が掛かる。
「服は用意してきた、取り敢えずここから出るぞ。」
クノスは上体を起こしたラーンデルトに手を差し伸べて言った。
「お前は何者なんだ?」
ラーンデルトは不信に思いながらクノスを睨み付けるが、手を取り立ち上がる。
「それは言えない。」
よろめきながらも立ち上がったラーンデルトを見据え、クノスは言った。
「ならばそれについては問うまい。それでお嬢様は無事なんだな?」
「ああ、だがその前に取り敢えずここから出るぞ。」
窶れ蒼白な顔をしているが、目はすっかり色を取り戻したラーンデルトの問い
にクノスは相槌を打つと、扉の外を親指で指して言う。
「詳しい話しは出てからだ。」
「分かった。信用は出来ないが、礼は言っておく。ありがとう。」
「いらねーよ。」
ラーンデルトが頭を下げたのを見て、クノスは苦笑して言った。ラーンデルト
に手を貸し外に出たクノスは、背広の内側から煙草を取り出し火を点ける。深
く吸い込んだ紫煙を、溜め息と一緒に吐き出した。
「まずは風呂と飯だな。経緯は車ん中で話すから取り敢えず乗ってくれ。」
クノスはそう言うと、煙草の先を近くに停めてある車に向けた。
「お嬢様は先に行っているのか?」
誰も乗っていない車を見ながらラーンデルトが疑問を口にした。既に車に向か
って歩き出していたクノスは振り替えると、顎で乗れとだけ合図をして運転席
へと乗り込んだ。拙い足取りで歩きラーンデルトが後部座席に乗り込むと、ク
ノスは車を発進させる。
「ユーアマリウ孃はアーリゲル卿を追って、ボルフォンに向かっている。」
「なんだと!?どういう事だ !」
後部座席から身を乗り出すようにして怒鳴るラーンデルトに、クノスは五月蝿
そうに顔を顰める。
「俺に怒鳴るなよ。」
「すまん、しかし・・・」
ラーンデルトは申し訳なさそうにするが、納得がいかずに食い下がろうとする。
クノスはそれを制して続ける。
「説明するから黙って聞いてろ。俺があの場に駆けつけたのはアーリゲル卿を
追っている知り合いから連絡があったからだ。」
クノスは一旦言葉切ると新しい煙草に火を点ける。
「そのアーリゲル卿がボルフォンに向かった可能性があるんで知り合いも向か
おうとしたら、ユーアマリウ孃も連れてってくれと言うので仕方なく同行を認
めたらしい。」
「だったら私もボルフォンに連れていってくれ。」
ラーンデルトがまたも声を上げ身を乗り出そうとするが、クノスは落ち着けと
ばかりに手を振った。
「俺は中央を離れられないんでな、行くなら勝手に行ってくれ。」
「ボルフォンの何処に行ったか分からないんだ、その知り合いとやらの連絡先
も知らないし。」
食い下がるラーンデルトに、クノスは今すぐ此処で放り出そうかと考えて止め
る。自分の素性を知られる訳にはいかないから、離れられない理由を説明する
のも面倒だったため。そこまで考えた時、推進派の同行を監視させられていた
のは今回の件を見込んでの事じゃないのかと、疑問に至ったからラーンデルト
を邪険に扱う事を止まった。
「もしかすると行けるかもしれんが、確認が必要だ。あんたはその間に風呂や
飯を済ませてくれ。」
「その可能性の程は?」
「高いと思うんだがな。」
ラーンデルトの問いにクノスは、考えるようにしながら曖昧な返事をする。既
にエリミアインが向かっている事を考えれば、行く必要は感じない。推進派の
動向を確認するにはいいかもしれないが、ここ中央はマールリザンシュが死ん
だ後の動きも活発だ。とは言え今、事態の中心はボルフォンだと考えれば、一
日くらいラーンデルトのお守りは問題ないだろう。恩を売る事にも繋がりそう
だという打算も考慮しつつ。
「他に術もない、だからお願いしたい。」
「取り敢えずフェーヌコリウ家に主を届けないとな。」
ラーンデルトの言葉にクノスは頷くと、先ずはラーンデルトを家に連れて行こ
うと言った。
「それはだめだ!」
が、血相を変えてラーンデルトは拒否する。
「なんでだよ。」
「家に戻れば拘束されてしまう。今まで行方不明だったんだ、いくら私が主だ
としても出してはもらえなくなるだろう。」
ラーンデルトの勢いに尻込みして疑問を浮かべたクノスだったが、聞いていて
納得した。確かに屋敷には色んな人が居るだろう、フェーヌコリウ家の要請で
警察局員も居るかも知れない。そんな中、何日も行方知れずの上全身傷や痣だ
らけの衰弱した身体で帰れば、入浴や食事は許しても外出等させてはくれない
だろう。
「分かった。狭いが家で体裁を整えてくれ、服は俺ので我慢するんだな。」
「すまん、世話になる。」
クノスは仕方がないと思い、自分の滞在先に連れて行くことにした。グラドリ
ア国と繋がるような物は置いていないから、問題ないと思い。それに対し、申
し訳なさそうに言うラーンデルトを見て内心で苦笑した。こういう奴は放って
置けないという自分の思いに。
「そう言えば、貴殿は私を知っているようだが、私は知らないのだが。」
「そうだったな。」
ラーンデルトの言葉にクノスは笑みを漏らして相槌を打つ。連れ出すのに気を
取られ名乗ってすらいなかった事に。そもそも名乗るつもりも無かったクノス
だが。
「クノス。それ以上は秘密事項だ。」
不敵な笑みを浮かべて言うクノスの横顔を見て、ラーンデルトは一瞬呆気に取
られるが直ぐに微笑に変わった。
「そうか。ならばそれ以上は聞くまい、ユーアマリウお嬢様と私を助ける恩人
というだけの事。」
「はは、なかなか男前じゃないか。」
ラーンデルトの言葉に気分上々、クノスは車の速度を上げた。



その記述は難を極めた。いや、言い過ぎたが難し過ぎる事に変わりは無かった。
薬莢一発記述するのに半日掛かりとか初めての経験だった。開店はリュティに
任せ、朝から記述してみたが酷く疲れる。
私が朝、リンハイアが勝手に置いていった薬莢と呪紋式の紙片を取ると、リュ
ティは酷く心配そうな顔をしていた。私はリュティに笑みを浮かべて大丈夫と
言うと、何も言わず止める事も無かった。
醜態を晒したが、記述しようという気になったのは色々ある。自分の経験のた
め、はあるけれどそんな高尚でも純粋でもない。開店資金のため、リンハイア
は金払いがいいからそれもあるけれど、そこまで拘ってないし躍起になってい
るわけでもない。今の自分を昇華させるため、聞こえはいいけれど、それが近
いかも知れない。今の自分を少しでも変えたい、毎度何かある度に醜態を晒し
て、周りに八つ当たりして、麦酒を飲んで現実逃避と自己嫌悪の繰り返し。そ
んな堂々巡りでは経験もお金も手に入らないし、開店の夢すら潰えてしまう。
(思うのは簡単なんだけどねぇ。)
そう思いながら自嘲して記述を続ける。
人間、そんな簡単には変わりはしないが、やらないと何も始まらない。変わる
かどうかは自分次第だけれど、夢は叶えたいもの。しかし、アーランマルバに
お店を出したら見たくもない顔が、記述の依頼をしに来る回数が増えたりして。
そんな事を想像してちょっと嫌な気分になった。
(執政統括出入り禁止の札でも作ろうか。)
なんて阿呆な事を考えるが、切実な問題だ。
「ふぅ、やっと終わった。」
疲労と共に言葉を漏らし、私は両手を上げて伸びをする。時計を見ると十二時
を廻っていた。ランチの時間だなと思い、何を食べようかと考えながら店内に
移動する。
相変わらずお客さんが居ない店内で、リュティはカウンターで暇そうにしてい
る。が、顔は何故か何時もの微笑だ。もしかするとそれが、通常状態の表情な
のだろうかと思ってしまう。
「お昼にしようか。」
「そうね。」
私が声を掛けるとそのままの表情で、リュティは相槌を打った。私の状態を見
てなのか、今朝の懸念は見えない。出していないだけかも知れないが。
リュティがカウンターからお店の鍵を持って、二人で扉に向かおうとしたら、
扉が外から勢いよく開けられる。
「良かったぁ、今日は開いてた。」
見たことのある青年が入ってくるなり大きな声でそう言った。言葉から察する
に、私の都合で出来た臨時定休日にでも来たのだろう。
「今はお昼休憩中なのだけど。」
「まだ休憩中になってねぇじゃねーか。」
私の言葉に憤慨だと言わんばかりの態度で言い返してくる青年。見たことある
と思えば、何度か救急セット、私はそう呼ぶことにした薬莢を依頼してきてい
る青年だった。
「また休憩入る時に来るって、嫌がらせ?」
「ちげーよっ。こっちも昼休憩込みで来てるからしょうがねぇだろ。」
ああ、そういうことか。が、知った事ではない。
「しょうがないわね。リュティ、受け付けお願い。」
「ええ。」
私が面倒そうに言うが、リュティは態度を変えずに受付を始める。それを見て
いた青年が私に冷ややかな目線を向けて来た。
「客に対する態度じゃねぇよな、何時も思うけどよ。」
あ、それ言うか。
「あんたこそお客さんの態度じゃないわよ。大体、薬莢使うの早すぎじゃない
?どれだけ怪我人量産しているのよ。」
管理体制や安全意識に関わる問題だし、会社としてどうなのか突っ込んでやる。
「みっともないから止めなさい。」
「うっ・・・はいっ。」
何かを言おうとした青年だが、それより先に出たリュティの言葉に青年は素直
に従った。前から思うけど、綺麗なお姉さんが苦手なのかリュティの雰囲気が
苦手なのか、リュティには従順なのよね、むかつくわ。リュティの言葉は私に
も向けられていたのだけれど、無視する事にした。
「終わったわ。」
リュティがそう言って私に目を向ける。記述するのは私だから、日数の確認だ
と察する。
「そうね、今は立て込んでいるから五日くらい欲しいのだけ、いい?」
「ああ、分かった。じゃ、五日後に取り来るわ。」
青年はそう言うと、足早にお店を後にした。お昼休憩を利用しているのなら、
これから私たちと同じくランチなんだろうなと思う。
「じゃぁ行こうか。」
「今日は何にするの?」
頷いたリュティがカウンターから立ち上がりながら聞いてくる。まだ決めてな
いのよねぇ、と考えながら改めて二人でお店を出ようとすると、また扉が開い
た。うざい。
「良かった、居たか。」
ザイランだった。死ね。
「今お昼休憩中なんだけど、終わってからにしてくれる?」
そもそも事前に連絡くらいして欲しいものだわ。
「端末に連絡しても応答が無いから直接来たんだろうが。」
・・・
そう言えば、リンハイアが来た後から小型端末を手に取ってすらいなかったわ。
「ちょっと抜けて来たんだ、少しでいいから時間をくれ。」
面倒臭いな、絶対厄介事な気がするわ。
「私は構わないわよ。」
私が渋い顔をしているのを見ながら、リュティは私を売りやがった。
「私は嫌よ。」
「なっ。わざわざ来たってのに。」
それでもきっぱり断った私に、ザイランが眉間に皺を寄せて言った。勝手に来
ておいてなんという言い種。
「呼んでないし。」
不貞腐れ顔で言う私に、ザイランは引き下がる気はまだ無いようで続ける。
「お前も無関係ってわけじゃない話しだ、聞くだけでもいいだろ。」
無関係じゃないって言われてもねぇ。その誘い文句は一昨日くらいに使われた
事を思い出して嫌な気分になる。
「分かった、関係ない。」
そういう事にしよう。
「何が分かったんだ、聞いてもいないじゃないか。」
駄目か、面倒だなぁ。
「くだらないやりとりしているなんて余裕ね。」
うっ。なんという的確で嫌な突っ込み。それはいいとして、避けるのは難しい
か。ザイランは毎回ちょっと強引なのよね。そのザイランもリュティの言葉で
何時もの渋い顔に拍車が掛かっていた。
「分かったわよ。」
「お店は見ておくわ。」
リュティが言った事に頷き、私はそう言うとザイランにお店の奥へ来るよう促
す。何故か不服そうに付いてくるザイラン。うざい。

「で、無関係じゃないって何よ。」
「ああ、これだ。」
作業場に移動した私が早速聞くと、ザイランも時間が無いらしく封筒から既に
抜いていた用紙を私に差し出してくる。
「急過ぎるんだが、今夜対応出来るかの確認がしたいんだ。無理なら無理で構
わない。」
「本当に急過ぎるわね、阿呆裁院。」
見覚えのある依頼書を見ながら、ザイランの言葉に私は悪態を付いた。名前は
ウォーグラント・ニーベルメアズー。ん?メアズー?
「メアズーですって!?」
確かに無関係では無いが、まさかあの変態女がここで出てくるとは思わなかっ
た。しかも司法裁院の依頼で来るとは思いもしない。長ったらしい名前にまっ
たく聞き覚えはないが、添付の写真には見覚えがある。間違いなくメアズーだ
った。
「昨夜、高査官が直接来て置いていったんだ。悪いがやるやらないを考える時
間は無い、直ぐにでも返事をする必要があるからな。」
本当に急過ぎる。
「俺も驚いている。あの事件の犯人は見つからないんじゃないかと思っていた
からな。それがまさか、あっちからの依頼で来るとは。ただ、どうしても警察
局で捕まえたいってのはあるんだがな。」
まぁ、警察局の思惑なんて興味も無いのでどうでもいいが。しかしこんな危険
な奴を相手に、今夜決行で考える時間も無いなんて断るに決まっている。普通
なら。
「受けるわ。」
何故あれだけの事をして未だグラドリア国内に居るのか、しかも司法裁院に目
を付けられてまで。それが気になったのは少しあるが、何よりあの場での決着
を付けたいと思っている自分がいた。それはヴァールハイア夫妻に対しての思
いも混じっていたかも知れない。ついでに服も弁償させてやらないと。
「そうか。詳細はこれを確認してくれ、俺はもう戻る。」
それだけ言って封筒を押し付けるとザイランは出ていった。本当に忙しかった
のかと、抱いていた疑念が解消される。詳細は店内で確認しようと私は移動す
ると、リュティに視線を向けた。
「聞こえてた?」
「ええ、私も行くわよ。」
リュティの事だから黙っていても付いて来るだろうと思い、最初からは話す事
にした。だから詳細も一緒に確認しようと店内に来たのだが、予想通りの反応
だ。
「そう言うと思ったけれど、どうせ見てるだけでしょ。」
前回、死なせたく無いとか言って殆ど何もしなかったからな、この女。そんな
私の言葉にリュティは憂いの表情になる。
「酷いわ。この前も死なない程度に割り込んであげたのに。」
うわ。しれっと言いやがった。しかもそんな表情まで造りやがって。とは思う
が私の中に打算が無いわけじゃない、キャヘスの時に腕を繋げられた経緯があ
るのだから。もし私が致命的な傷を負っても、治してくれるんじゃないかとい
う打算が。
「まあいいわ。取り敢えず詳細を確認しようか。」
私はお店の扉に休憩中の札を掛けて言った。流石に営業しながら司法裁院の依
頼書を広げるわけにはいかない。封筒から用紙を取り出してカウンターに広げ
ると、リュティも視線を内容に這わせる。
場所はロンカット商業地区。ここかよ。随分と物騒な奴がアイキナ市の主要地
区に入り込んでるな。いやまて、ウェレスに一時的とは言え付いていたなら、
伝手があっても不思議じゃないか。正確な位置はモンケルヴァ住宅区、ロンカ
ット駅から徒歩十五分くらいの場所だった気がする。
人が溢れ返るロンカット商業地区でも、住宅区まで行くと他と変わらず人通り
も少ない。そんな場所に一体何の用があってメアズーは来ているのか。
「近いわね。」
リュティも場所は分かるようで、ぼそりと漏らした。
「お店に近いのは嫌よね、誰かに見られる可能性も高くなるし。」
知り合いじゃなくても、此処に住んでいれば見覚えのある顔として認識してい
る人もいるだろう。その危険を内包している今回の依頼に、私は危惧して言っ
た。
「そうね。」
リュティも相槌を打つが、資料に気を取られている所為か空返事だ。今まで国
外に居たらしいが何故か今日、グラドリアに来るらしい。何故そんな情報を司
法裁院が知ったかの経緯は不明だが、逆に胡散臭くないかこの情報。
まあメアズーの動向についてはどうでもいいが、時間が二十一時というのは早
い。お店を早く閉めるのは問題ないが、やはり気になるのは周囲の目だ。それ
ほど遅い時間でもないので、場所によっては派手にやると人が集まって来るだ
ろう。
「嫌な予感がするわね。」
私がそんな事を考えていると、リュティが呟くように言った。
「リュティもそんな時があるのね。」
「そりゃあるわよ。」
私なんて嫌な予感は良く感じるが、いやな予感というのは概ね当たる。影響の
大小はあれど。ちなみに高査官経由の依頼は予感では無く、確定ということは
理解した。それはさておき、何時も淡々としているリュティからそんな言葉が
飛び出した事に驚いた。
「時間も時間だし、準備もしたいから夕方にはお店を閉めるわよ。」
前回の戦闘から考えて、準備は入念にしておきたい。事前調査なんか出来ない
から、自分を護るためと使えそうな呪紋式を用意するくらいしか出来ないけれ
ど。
「夕方で大丈夫なの?」
リュティが心配そうに聞いてくるが、そんなにする事はない。
「ん、お店は開けておきたいわ。その為にリュティが居るんでしょ。」
そう、何も私が店内にいる必要はない。リュティにお店を任せて今から準備を
すればいいだけの事。不足の薬莢があれば記述しなければならないし。
「そういう事ね、冷たいわ。」
何を言うか。
「いや、どうせ死なない程度にしか助けてくれないなら、店番しててよ。」
「分かったわ。」
いまいち納得していない顔をしながらリュティは引き受けた。何時もの状況と
変わらないだろうに何が不満なのか、まったく。
私は店の奥の作業場に移動して、早速薬莢の確認を始める。正直メアズー相手
に正面から対峙して勝てるとは思えない。前回、私は全力だったがメアズーは
楽しんでいるだけだった。そんな相手に秘策なんて簡単に思い付く筈もなく、
今回に至っては時間もない。
勢いでやると言ってしまったが、考える程見えてくる死の影にやっぱり断って
おけば良かったなという後悔が、時間が経つと共に私の中で膨らんでいった。



2.「記憶がある以上、人は記憶に揺さぶられる。例え拒絶しようとも。」

ロンカット商業地区とはいえ、住宅区は人通りも少なく街路に設けられた照明
も光が届く範囲以外は暗闇を退けはしない。中心街の煌々とした灯りとはかけ
離れて、普段あの中で生活している者にとっては頼りない明るさだ。もっとも、
住宅街がそんなに明るいのもどうかと思うのだけど。
そんな中、私とリュティは目的である賃貸住宅に向かっている。ダオートとい
う名前の建物に聞き覚えがあると思ったら、アールメリダが住んでいた建物だ
った。準備中に思い出した私は急いでザイランに確認したが、アールメリダが
借りていた部屋は既に別の人が住んでいると言っていた。
理由が検討も付かない。何故メアズーは今更そこに現れるのか。アールメリダ
だってウェレスの下に居たときに殺したうちの一人でしかないだろう。ヴァー
ルハイア夫妻を誘き寄せる為に利用して目的を果たした今、一体何が在るとい
うのか。考えても全く思い当たらない。
そもそも生前のアールメリダに関しては殆ど知らないから、考慮する材料もな
いのだけれど。
「危険を侵してまで来る理由が本当に分からない。」
隣を歩くリュティに問うているわけじゃないが、私は聞こえるように呟いた。
「私にも分からないわ。変態の考える事なんて。」
呆れ口調とは裏腹に、リュティの顔はいつになく真剣だった。これからメアズ
ーと対峙するからなのか、それとも私の知らない情報を知っているからなのか。
まあメアズーが変態って事だけは変わらないが。
「何か知ってるの?」
一応聞いてみる。
「目的ははっきりしないわ。でも、メアズーがヴァールハイア家の存在理由を
知っていて、その秘密に触れたのなら、程度かしら。」
ヴァールハイア家の存在理由ねぇ。私には関係の無い話しよね。でもそう考え
ると、アールメリダは殺され、馬鹿夫妻はその復讐で本懐を遂げ、妹のユーア
マリウだけでその秘密を抱える事になったって事か。
待てよ、リンハイアが言っていた事と関係があるんじゃないか?ユーアマリウ
が拐われたとか言ってたわよね。それがヴァールハイア家の秘密を聞き出すた
めだとしたら。その秘密とやらは依頼してきた薬莢と関係があるとすれば。
「くそっ・・・今回の依頼は断るべきだった。」
私は思わず考えた予想から、悪態を付いた。そう考えると辻褄が合うことに辟
易しながら。そんな私の反応を見たリュティが若干驚きを表情に浮かべる。私
はリュティの態度に疑問が浮かんできた。
「まさか、この展開を予想していたんじゃないでしょうね。止めもしなかった
し。」
私の予想をリュティは最初から分かっていたなら、私を巻き込んでいく為に敢
えて止めなかったとも考えられる。そう思いリュティを睨んで私は言った。リ
ュティは私の目を正面から見返すが、何も言わずに悲しそうな顔をした。
「ごめん。」
私は目を反らして言う、分かっている事だった。それをしようと思えばいくら
でも手はあっただろう。今回わざわざ、私が気付くかもわからない可能性だけ
の話しを、利用する方が馬鹿げている。
「いいのよ。誤解を与えるような存在でもあるのだから。」
哀しそうに言うリュティに対して申し訳ないと思う。でも、一因は言うように
無いとは言えない。が、これ以上は今悩んでもしょうがないので、思考をメア
ズーに切り換える。
「メアズーの目的が何にしろ、問題はそこじゃなく勝てるかどうかなのよ。」
一番の現実問題だ。
「私はミリアを死なせない為にいるのだから、当てにはしないでよ。」
「分かってるわよ。」
リュティの事はこの際どうでもいい。私がメアズーを上回れる事があるとすれ
ば、それは相手が油断した時、若しくは不意を付けた時くらいだろう。ただ、
自分より上の相手をどうやってその状態に持ち込むかだ。下手な手では気付い
た後からでも避けられるか反撃されてしまう。
等と考えているうちに、賃貸住宅のダオート前に着いてしまった。考えは纏ま
らないが、雪華に薬莢を籠めると忍ばせるように持った。
「時間は二十一時と書いてあったけど、何時来るかは分からないわよね。」
私はリュティを見て怠そうに言う。そもそも来るかどうかすら怪しい。実は司
法裁院が偽情報に踊らされただけなんじゃないのかって気さえしてくる。
あ、その可能性考えて無かったわ。阿呆か。
メアズーの名前に気を取られ過ぎて、そんな当たり前の事すら考えていなかっ
たわ。まあそれならそれで構わないのだけど、死ぬ可能性も余計な事に触れる
可能性も無くなるのだから。
「一応、指定の時間になったわ。」
腕時計を確認したリュティが二十一時を知らせた。私は雪華の引き金を引くと
同時に左回転で振り返り、腹部に突き出されたナイフの刺突を左手で払うと、
右手でメアズーのシャツを掴み引き寄せる。メアズーが虚を突かれた目をして
前によろめき、私はその場から跳び退さる。私が離れると同時に呪紋式の白光
は、よろめき重なったメアズーに対して電撃となって迸った。耳をつんざく音
が駆け抜け、無言でメアズーが激しく痙攣する。メアズーから薄ら煙が立ち上
ぼり、焦げた臭いが鼻を付く。
「痛っ、いったいなぁ。ぶふっ。」
天を仰ぐ様に上を向いていたメアズーの顔が私に向けられ、目は愉悦の光を宿
している。
「時間は守らないとね。あひっ。」
はっ?
直撃した筈なのに。常人なら血液が沸騰して即死に至る電撃を食らって平然と
しているとか化け物じゃないか。それに時間を守るとかどうでもいいわ、問題
なのはメアズーがどうやって生きているかだ。
「痛いけど死ぬほどじゃないんだな、前回教えたのに復習かな?ぐひゃっ。」
驚いている場合じゃない、薬莢を雪華に籠めメアズーが喋っている間に一足跳
びで距離を詰めていた私は、顎を目掛けて右拳の回し打ち。同時に身体の回転
を利用して右足で膝を払うように<六華式拳闘術・華巖閃>を繰り出す。
メアズーは上体を反らして回し打ちから逃れると、地面を蹴ってそのまま後方
宙返りへ移行して鎌鼬をやり過ごす。私はメアズーの着地前に、蹴った右足で
地面を踏み込んで左手で渾身の<六華式拳闘術・華徹閃>。引いた右手で雪華
を掴んで引き金を引く。空中で身を捩って、拳が放つ透徹を避けたメアズーだ
が脇腹を掠めた所為か、着地した際によろめかせる。
その時には既に白光した呪紋式が突風を生成し、私は左足を蹴り上げ消えかけ
ている呪紋式に重ねていた。着地したメアズーに<華巖閃>の鎌鼬を纏った突
風<六華式銃拳術・裂刃>が襲い掛かる。が、メアズーは横跳びに避ける。斬
り裂いたのはシャツと左腕の表面だけだった。
「楽しいことしてくてるね。あはっ。」
メアズーは愉快そうに笑んで私を見ると、赤く染まり始めた左腕をレザーパン
ツのポケットから引き抜く。
(今まで片手だったのか。)
いや、それより今の猛攻で何一つ決定打を与えられていない。そもそも電撃が
当たった時点で油断した私の所為なのだが、電撃食らって動きが鈍ってすらい
ないのは反則じゃないか?
「さぁて、面白くなってきたね。うふっ。」
メアズーはそう言うと、いつの間にか左手に持っていたナイフを顔の前に移動
させ、刃に舌を這わせる。舌に朱線が引かれ、ナイフの刃を血が伝う。
(うっ、分かってはいたがやっぱり変態だ。)
メアズーの奇行を目の当たりにすると改めてそう思い、嫌気が差す。
メアズーの姿が霞み、直後に私の顔の前に右手のナイフが突き出されていた。
上体ごと左にずらし反射的に右足で蹴りを出そうとするが、腹部に左手のナイ
フが突き出されている。慌てて右手で払いつつ、蹴りに移行するがメアズーは
弾かれた方向に身体を回転させ足払いに移行。
私は既に右足を蹴り上げ始めていたので、諸に左足を払われ背中から地面に叩
きつけられた。直ぐ様横に転がると、私がいた場所にナイフが突き刺さる。
(あぶねっ!)
こんな時までのんびり観戦を決め込んでいるリュティが視界に映ったが、それ
どころではなく両手足で地面を弾いて跳び避って追撃のナイフから逃れる。だ
が着地場所にメアズーが追い縋って来ていた。向かってくるメアズーに<六華
式拳闘術・朔破閃>の一撃を着地と同時に放つが、メアズーは私の左方向に横
っ飛びして避けるとナイフを投擲。地面が陥没するのと同時に私も身を屈めて、
顔面に飛来したナイフを避ける。同時に左肩に熱と共に激痛。
衝撃に逆らわず、後方にに左回転しながら身体を宙に舞わせる。右手を付いて
両足で踏ん張り着地してメアズーを睨むと、既に新しいナイフを両手に持って
いた。
「おや、もう終わりかな?でひっ。」
右手のナイフを宙に放っては掴むを繰り返し、メアズーは憐れみの目を向けて
くる。顔は愉悦に歪んでいたが。
正直、左手が使えたとしても勝てる可能性は殆ど無いけれど、左手が動かない
今は終わりと言われて否定出来ないのが現実だ。
「撃ちなよ。むふっ。」
メアズーの言葉に私は睨みながら立ち上がり、紅月を抜いて痛み止の呪紋式を
撃つ。左肩のナイフを引き抜くと、続けて止血と増血の呪紋式を撃った。死ぬ
事は無くなったが左手が思うように動かない事に変わりはない。
「殺すつもりの相手を生かしてどういうつもり。」
メアズーの行動がさっぱり分からない。
「あんたは楽しいんだよね、まだ伸び代があるから今殺すのは勿体無いなって
ね。うぶっ。」
何を言っているんだこの女は。殺したく無いなら最初から襲って来るなよ。黙
って死んでおけ。
「私は殺したいから殺すわ。」
私は言うと一足跳びでまた間合いを詰める。メアズーが口の端を吊り上げて嗤
い待ち構えるが、馬鹿正直に真正面から顔面に右手の突き。引いた左手で見え
ないように死角で引き金を引く。ろくに動かないが、呪紋小銃の引き金を引く
くらいは問題無い。メアズーは顔を後方に引くと間合いぎりぎりで避け、私の
拳に舌を伸ばして来た。
(うげっ!)
同時に両手のナイフが翻り、私の右腕を斬り落としに来ていた。私は右手の手
刀で舌を避けつつメアズーの左手のナイフを斬り・・・いや弾いた。
(痛っ!)
普通のナイフなら逆に斬り落とせるのに!軌道を変え顔面に向けて突きに変化
しているメアズーの右手ナイフを、痛みで顔を顰めつつも掻い潜り直ぐに戻し
た右手でレザーパンツのベルトを掴む。痛みで痺れはあるが問題無い。既に周
囲の空気は私が撃った呪紋式の効果で高温になっていた。
その変化にメアズーは目を見開くが、瞳は愉快そうな色を浮かべている。構わ
ず私は掴んだベルトを引き寄せると、滑るようにメアズーの股下に滑り込む。
「くたばれっ!」
私が抜ける前にメアズーの翻った右手のナイフが追い縋り、左肩に突き刺さる
が無視。
(ってかまた左肩!)
直後に閃光と同時に爆発、轟音が撒き散らされる。私が撃ったのはハドニクス
の屋敷で使った、爆発する火球の改良型だが、メアズーの身体の盾なんて在っ
て無いようなものなので私も吹き飛ぶ。地面に叩き付けられ転がり痛みを堪え
るが、直撃したメアズーはそれどころじゃないだろう。
起き上がってメアズーを確認すると、紅く揺らめく大気の中で変わらず立った
まま笑っていやがった。
「やっぱ楽しいよあんた。うっひゃっ!」
化け物。
それしか思い浮かばなかった。あの変態女、どうやって殺すのよ。苦痛に顔を
歪めて見据えると、メアズーはゆっくり賃貸住宅の方へ歩き始める。
「楽しみは後。今は他の仕事中だからね、続きはボルフォンで待ってるからね。
たはっ!」
「今すぐ殺してやる!」
追い縋ろうとする私の腕をリュティが無理矢理掴み、強引に走り出す。引き摺
られるように駆ける私はリュティを睨んだ。
「何するのよ!?」
「人が集まって来てるのよ。一時の感情でお店を捨てる気なの!?」
私の怒声にリュティが静かに、だが力強い口調で言ってきた。メアズーへの敵
対心から周りが見えていなかったが、既に十人以上の人が何事かと集まってい
る。
「っ・・・」
私は唇を噛み締めてリュティに従い、夜の住宅区を疾走した。
「ありがと・・・」
横を並走するリュティに私は小さく呟く。リュティは何時もの微笑で頷いた。
リュティが手伝ってくれていればメアズーを殺せたかも知れないと、一瞬頭を
過るがもともとリュティは闘う為に来ているわけでもないし、依頼自体は私の
仕事だ。むしろリュティは私がお店を失う可能性から助けてくれたと言える。
相変わらず自分勝手な思考に辟易する。
自宅まで疾走する私は、悔しさから通り過ぎる景色も人も目に入らなかった。
浮かんだ涙が夜の街の灯りを滲ませ、煌めく光は人殺しである私を追い立てて
いるような気さえした。

家に戻ると自分の身体を確認する。本当は悔しさから八つ当たりや自棄酒をし
てしまいそうだったが、堪えて冷静な振りをした。
露出していた腕や足は擦過傷と火傷だらけだったが、致命的なものは無い。一
番はやはり肩の傷だった。全面と背後両方からナイフが突き刺さったのだから、
痛いしまだ出血も止まっていない。
「リュティはメアズーがあそこまで強いというか、化け物染みている事を知っ
ていたの?」
紅月で呪紋式を自分に撃ちながら私はリュティに聞いた。
「いいえ、強いのは分かっていたけれどあれほどとは。人間かどうか疑うわね
。」
ヴァールハイア家に居たときに知った程度ならそんなものよね。しかし、こっ
ちは傷だらけだって言うのに、電撃も爆発も直撃して私より普通に動けるとか
どうなってるんだ。
「疑うどころか人の見た目をした何かにしか思えないわ。」
「それより、傷の手当をしないと。」
納得がいかずに不貞腐れる私に、リュティが救急箱を持って来る。おかしい、
私は家にそんなものを用意した記憶はない。
「私が用意したのよ。傷は負うくせに無いのだもの。」
私の訝しむ視線から察してリュティは言った。まあ、自分で用意したものなら
構わないが、他にも私が知らない物を置いていたりしないわよね。
「後は調味料くらいかしら、勝手に用意したのは。」
それも察してリュティは言った。何時もお世話になっているので、それくらい
は構わない。私に害の有るものは持ち込まないだろう事も想像できる。
「ありがと、でも先にシャワーを浴びたいわ。」
私は全身血と土に塗れた身体を見回して苦笑する。
「分かったわ。」
私は椅子から立ち上がり浴室に向かい、脱いだ服を洗濯機に放り込んで浴室に
入るとシャワーを浴びる。痛み止を撃っていても傷口に触れるお湯は染みる。
固っていた血がお湯に流され、床に薄紅色を広げ流れていく。
(ボルフォンか。)
メアズーが残した言葉を思い出す。続き?そんなものやりたくもない。私の攻
撃が通用しないのに何で、むざむざ殺されに行かなければならないのか。と考
えたところで自分の思考に違和感を感じる。
私の攻撃が通用しない?違う、少なくとも<華巖閃>と<華徹閃>は効いていた
気がする。効いていないのは呪紋式の方だ。六華式拳闘術は何一つ決定打とし
て当たってはいない。つまりそっちは有効なんじゃないだろうか。
(だとしても、当たらなければ意味がないわ。)
一番の問題に有効な手段が思い浮かばない。ま、行く事も無いからいいかとそ
の考えは放棄する。
だけどメアズーは私の予想通りの行動だったと考えの方向を変える。アールメ
リダが住んでいた賃貸住宅、ユーアマリウの拉致、そしてボルフォン。ヴァー
ルハイア家が在る場所だ。メアズーの言った言葉が繋げているような気がして
嫌気が差す。
どっちみち嫌な思考には変わり無かった。
嫌な気分のまま、シャワーを浴びたのにすっきりしない事を呪いつつ台所に戻
ると、リュティが冷蔵庫から麦酒を取り出して私に渡す。
「分かってるねぇ。」
私は言いながら受け取ると開栓して喉に流し込んだ。結局帰ったらこれが一番
落ち着く。今日みたいな日は尚更。
「取り敢えず手当をしましょう。」
飲んでいる私にリュティが近付いてくる。しなくてもいいのだけど、ここは好
意に甘えて、飲みながら身を任せた。そこで小型端末が音声呼び出しを知らせ
る。二十四時になろうとする時間を確認して苛っとする。リュティが取って渡
してくるが、通信相手は予想が付いていた。
「就寝中。」
「嘘つけ。」
呼び出しに応じて嫌々言うがあっさり否定される。こいつは私の事をなんだと
思ってるんだ、こんな時間に通信してきて寝かせてもくれないなんて。
「終わったのか?」
「逃げられたわよ・・・」
ザイランの問いに苦い思いを吐き出す。
「そう、か。」
声から察したのか、ザイランの返事も重い。前回も逃げられているのに、それ
でも何かを期待していたのだろうか。分からないでもないけれど、無理なもの
は無理なのよ。それは今夜の戦闘で前回以上に思い知らされた、私ではあの変
態女は殺せないと。
「それはさておき連絡したのは別件だ。今更だが、現地の騒動で部屋が無人だ
った事がわかってな、賃貸住宅の借り主が気になってもう一度管理会社に確認
してみたんだ。」
本当に今更だが、私は何を思うでもなく口を開いて名前を口にしていた。
「ユーアマリウ・ヴァールハイア・・・」
「知っていたのか!?」
私が思わず言った名前にザイランが驚きの声を上げる。五月蝿い。
何となくそんな気がして口にしただけで、何か根拠があるわけではない。まあ、
仮に誰か別の人間が住んでいたとしても、メアズーの障害にはならず殺されて
いただろう。
「単にそんな気がしただけよ。」
私はそう言うと麦酒を口にする。
「でだ、お前が起こした騒ぎのお陰で部屋の中を確認出来たんだが。」
私の勘についてはもう触れる気が無いどころか、余計な事を付け加えてザイラ
ンは言った。死にたいのかしら。
「うっさいわね、好きで起こしたんじゃないわよ。」
「部屋の中には何一つ無く空き部屋状態だった。それと床下の収納庫が開いて
いたんだが、そこにも特に何も無かった。何の為に借りていたのか想像もつか
ん。」
お、私の発言は無視か。まあそれはいいとして、住むために借りたわけじゃな
いでしょうね。私には何かを隠していたとしか思えないけれど。
「何か心当たりがあったりしないか?」
「警察局で分からない事を、私が分かるわけないでしょう。」
一応聞いてみただけなのだろうが、面倒臭い。
「まあ、そうだよな。突然来るのを知っただけで、目的なんか分かるわけない
か。」
その通りなのだけど、漠然とでしかないが心当たりがないわけではない。ただ、
それは口にしても上手く説明出来ないし、私自身は記憶から消し去りたい。
「それより捜査情報をあっさり言っているけれどいいの。」
麦酒を飲むが、どんなに飲んだところで消えるものでもない。
「ん、ああ。聞き取りの為の提供だから問題ない。それより悪かったなこんな
時間に。」
「まったくよ。」
「まあそう言うな。何か分かったら教えてくれ。」
ザイランはそれだけ言うと一方的に通信を切断した。勝手なんだから。悪いと
言うから肯定したら、そう言うなってなに?阿呆なの?と、呆れながら麦酒を
空ける。
「おかわり。」
肩口に包帯を巻き終えたリュティが、冷蔵庫から麦酒を取り出して私に差し出
す。
「私は貴女の母親じゃないのよ。」
リュティはそう言って苦笑すると、自分も麦酒を開栓して口に運ぶ。
私は新しい缶を開栓して飲みながら、自分の中から沸いてくる思いに不快感を
露にする。感情が思うように調整出来ない事に苛立ち、麦酒の缶をテーブルに
叩き付けるように置いた。中身が振動で少しだけ飛び散る。リュティはそんな
私に心配そうな顔を向けていた。
リュティがメアズーの事やヴァールハイア家、ボルフォンの事を一切口にしな
いのは気遣っての事なのだろう。だが、リュティが言う言わないに関わらず現
実は私を苛んで、それを処理するのも自分でしかない。拒否とは裏腹に沸き上
がってくる思いに、気持ち悪さから私は顔を歪める。飲み下したいと思い麦酒
を一気に飲むが何も変わらず、いつの間にか涙が溢れていた。
「ボルフォン、行こうかな・・・」
拒否してもしきれない思いは、勝手に口から零れ落ちた。何でそんな事を思っ
たのだろう。何故口にしてしまったのだろう。分からない。
「そう。」
リュティはそれしか言わなかった。良くも悪くも私の思いに何も言わない。何
時も傍に居る。何なのよ。
私とリュティはその後、何かを話すことなく無言のまま麦酒を飲んだ。いつの
間にか私が眠りに落ちるまで。



深夜の暗闇の中ボルフォンの郊外にある小高い丘の上に、一組の男女が立って
いた。顔が薄汚れた女性は、大きさの合わない白いシャツを着て、長いぶかぶ
かのズボンは裾を幾重にも捲っていた。
女性が屈む横では、かなり長身の男性が背広姿で立っていた。その背中には長
刀を背負って。
「アーリゲル卿、が来た形跡は、ありましたが、入った、形跡は、無いようで
す。」
地面と同化するように埋め込まれた扉に触れ、ユーアマリウは言った。これが
なんなのかエリミアインは怪訝な顔をしたが、それ以上に口伝は真実だったの
だとユーアマリウは驚いていた。
「一体これは。」
丘とはいえ、鬱蒼と繁った低木と雑草が邪魔をして、昼間でも知らないと気付
かないだろうとエリミアインはその光景を見て思った。そもそも道もない、設
備もないこの丘に来る理由など見当たらなく、来るとすれば余程の物好きくら
いだろうと。
「申し訳、ありません。この場所が、何かを言う、ことは出来、ません。ただ、
ヴァールハイア、家に伝わる、話しで誰も、確認して、いませんので、実際の
ところ、真実は分から、ないというのも、ありますが。」
「いや、気にする事はない。」
真っ直ぐな瞳で言うユーアマリウに、エリミアインは別に話さなくてもいいと
含めて言った。
「私の目的はアーリゲル卿であって、此処ではありませんので。」
「アーリゲル卿、は必ず此処、に来ます。今居ないのは、まだ鍵を、手にいれ
て、ないからなの、でしょう。」
ユーアマリウは視線を扉に戻し、触れながら言った。
「鍵、ですか?」
暗くて鍵穴など見えなかったが、扉である以上在っても不思議ではないかと、
エリミアインは口にした後に思った。
「鍵について、も口にして、しまいました。恐らく今日、は場所の確認、に来
たのでしょう、鍵を手に、入れればまた、来ます。」
ユーアマリウは確信して言った。でなければ、あの部屋で殺されていった者達
は、何の為に殺されたのか。その思いがそうさせているのかも知れないと思っ
ても。
「一度町に引き返した方が良さそうですね。」
「はい。」
エリミアインの提案に、ユーアマリウは頷くと立ち上がった。
「都合よくホテルが空いていればいいのですが。」
エリミアインが丘を離れるため、歩き出しながら言う。場所も確認できた事か
ら、後はユーアマリウをそのホテルに置いて自分一人でくればいいと考えなが
ら。
「そうですね。運良く、アーリゲル卿に、鉢合わせ、出来れば尚、良いのです
が、都合、良すぎる、考えですね。」
後ろに続くユーアマリウが希望を口にすると、エリミアインは口許を緩めた。
「確かに都合が良いですが、可能性が零ではありません。それが一番いいと私
も思います。」
ユーアマリウを危険に巻き込む事にはなるが、手っ取り早く解決出来るならば
それに越した事はないとエリミアインは同意した。
「すいません、ちょっと失礼。例の知り合いからです。」
エリミアインはそこで、小型端末を取り出しユーアマリウに見せる。音声通信
の呼び出しだと気付くと、ユーアマリウは頷いた。それを確認したエリミアイ
ンが呼び出しに応じる。
「なんだと?」
そう言って足を止めたエリミアインの横顔を、ユーアマリウが横目に見ると険
しい表情をしていた。
「わざわざ許可をもらってまで連れて来たというのか。」
相手の声が聞こえないユーアマリウには、会話の内容は分からなかったが、現
状に関係がある事は察しが付いていた。昼間話した知り合いならば、ラーンデ
ルトの安否も分かるかも知れないとも。
「分かった・・・ああ、取り敢えず向かう、レーディラホテルだな・・・それ
じゃ後で。」
エリミアインは通信を終えるとユーアマリウに向き直る。
「すいません、お待たせしました。」
「いえ。もしかして、知り合いの、方も、ボルフォンに?」
ユーアマリウの問いに、エリミアインは言いずらそうな表情をするが、躊躇は
直ぐに止めて口を開いた。
「ええ。それとラーンデルト卿も一緒だそうです。」
遅かれ早かれ分かってしまう事だと思い、エリミアインは素直に言った。クノ
スが連れてきてしまった事には申し訳なく思いながらも。
「良かった。無事だった、んですね。しかし、私と同じく、我が儘を、言った
のでしょう、知り合い、の方には、申し訳ない、です。」
状況を察したのか、ユーアマリウは頭を下げながら言った。
「いえ、あいつの事は気にしなくていいです。部屋の手配もしてくれるそうな
ので、取り敢えずホテルに向かいましょう。」
「はい。」
再び歩き出したエリミアインに、返事をしてユーアマリウも続く。
「知り合い、の方も、同僚、ですか?」
「内密に願います。」
後ろから掛けられたユーアマリウの問いに、エリミアインは振り向く事なく言
った。肯定を含み、他言無用だと念を押して。一度素性を明かしているため、
クノスは違うと言ったところで信憑性に欠けるなと思った事もあり、素直に認
める事にして。
「はい、私は、アーリゲル卿を、止められれば、それで。それは、私の責で、
止めなければ、申し訳が、立ちません。」
背後からの強い意志は、エリミアインにも十分感じ取れていた。一方的に虐げ
られたとは言え、ヴァールハイア家の重責を背負った結果によるものだろうと
分かった。エリミアインに事情は分からなかったが、この丘の上に在るものは
それほど人を狂わせるに値するものなもだと、想像させらるには十分だった。
「それに、私も前に、進めません。」
それを、まだ少女にも見えるユーアマリウは、独りで背負うのかと思うと、他
人とはいえこの先の幸を、エリミアインは少しでもあればと思わずにはいられ
なかった。
「私は自国の為にアーリゲル卿を止めに来ました。申し訳ありませんが、貴女
の気持ちより自分の都合を優先します。」
ユーアマリウはどうしたいのかエリミアインには分からなかったが、知るつも
りも無かった。言った通り、自分の職務遂行が優先だという意志は変わらない
ため。それはユーアマリウも同じだろうと思い、敢えてエリミアインは口にし
た。
「はい、それで、構いません。」
ユーアマリウの言葉を受け取ったところで、停めてある車の傍にエリミアイン
は出た。後ろを振り替えると、感じていた意志の強さは消え、弱々しく笑みを
浮かべるユーアマリウが居た。
「もう少し我慢してください。後は車で待ち合わせのホテルに移動するだけで
す。」
「お世話に、なります。」
ユーアマリウは頷いて言うと、車の後部座席に乗り込んだ。エリミアインが車
を発車させてすぐ、ユーアマリウは眠りに落ちた。今までよく起きていたもの
だと思いながら、街灯もろくに無い深夜の道をレーディラホテルに向けて走ら
せた。



「こんな時間に呼び出して何の用かしら?」
リュティは何時もの姿勢、長机に腰掛け組んだ足を宙で固定している。緋色の
双眸は若干額に汗を浮かべるクスカを睨み据えていた。だがクスカは口を開か
ず、椅子に足を組んだまま視線を床に落としていた。
「呼んだのは貴方でしょう。何時まで黙っているのかしら?」
リュティが部屋に入った時から既に重圧を放っていたため、呼んだはいいがク
スカは話しを切り出せないでいた。少し前に遠征を頼んだばかりだと言うのに、
またも同じような事を言えば自分の身に危険が降りかかるのは目に見えて明ら
かだ。だと言うのに何故リュティへの取り次は自分なのかと、クスカは境遇す
ら呪いたくなっていた。
「此処で貴方の黙りを見ている程、私は暇ではないのよ。言う気が無いのなら
呼ばないで欲しいわね。」
どうせ断られるならこのまま黙っていれば、嵐は通り過ぎるのではないかとク
スカは思った。リュティの事だから帰るだろうと。だがそれをやってしまえば
次から呼び出しに応じなくなるだろうし、自分の立場も無くなると思うと意を
決して顔を上げる。
「確定ではなくてな、言おうかどうか悩んだのだが、情報は共有しておくべき
だろうと思い呼んだのだ。」
クスカはリュティの目を見返して、当たり障りの無いところから話す事にした。
それで様子を見ようと。
「そんな理由で此処に呼び出す必要なんて無いでしょう。そもそも私には共有
なんてする必要は無い筈よね。回りくどいのは止めて欲しいわね。」
リュティが言い終わると室内の重圧が増し、クスカに圧し掛かる。様子見等無
意味。いや、するべきでは無かったと後悔して、クスカは本題に入ることにし
た。この境遇という苦虫を噛み潰して。
「確定していないと言うのは、侵入されていないからだ。ただ、扉には触れら
れたから現地で確認をして欲しいんだ。」
クスカの言葉に緋色の双眸が鋭さを増す。
「この間ナベンスク領に行かされたばかりよね?」
「何れ来る事だと分かっていただろう。ペンスシャフルも予断を許さない状況
に推移しつつあり私も動けない。お前の我が儘が通る時代ではなくなって来た
んだ。」
それでもクスカは睨み返して言う。
「我らアン・トゥルブでも対処しきれない時代は必ず来る。だが其れまでは何
とかしようという方針で動いて来たんだ。」
「それはミサラナが決めた戯れでしょう。貴方が傾倒するのは勝手だけれど、
私を縛る理由にはならないわ。私は付き合いで居るのであって、指示される謂
れは無いと昔から分かっている筈よ。」
クスカが先の憂いと自分の立場を言うも、リュティはそれに巻き込まれる事へ
の苛立ちを隠さずに言った。クスカは気圧され言葉が次げずに歯を食い縛る。
リュティはもともとそういう理由で居るのは分かっていたし、だから勝手も許
されている。それでもアン・トゥルブに居る以上は協力するのが筋だろうと思
ってはいたが、口には出来なかった。
「私は別に抜けたって構わないのよ。」
瞳に冷徹さを宿してリュティが静に続ける。
「それは、我らを敵に回しても、とも受け取れる発言だぞ。」
クスカは刺すように睨むと、唸る様に言葉を絞り出す。額に浮かんだ汗が頬を
伝い始めるのも気付かずに。
「それでいいわよ。」
リュティが肯定すると無言で睨み合う二人の所為で、室内の時間が止まったよ
うに静寂が包む。クスカの頬を伝う汗だけが時間の流れに左右されていないよ
うに滴り落ちた。
「頼む。」
緊迫した状態の中、先に折れたのはクスカの方だった。膝に手を置き頭を下げ
てそれだけ言う。
「ミサラナの為に折れたってところかしら。」
だが、リュティの態度は変わらず、クスカの言葉を見透かして冷やかに言った。
「そうだ。」
クスカは否定せずに素直に言った。下げたままの頭をリュティは見下ろしてい
たが、飽きたように長机から降り立つと部屋の扉に向かう。
「待て!今回だけ頼まれくれ。」
それに気付いたクスカが慌てて椅子から立ち上がり引き止める。
「いやよ。」
「オーレンフィネアに在る彼処だけ見てくるだけでも。」
きっぱり断るリュティに、クスカは諦めず縋るように言った。その言葉にリュ
ティは足を止め、鋭かった緋色の双眸に驚きを浮かべてクスカに向ける。だが、
直ぐに目を反らして哀しみを顔に浮かべた。
「望む望まないに関わらず、引かれてしまう運命なのかしら・・・」
「何の事だ?」
リュティは小さく呟いただけだったが、聞こえていたクスカは意味が分からず
に疑問を口にする。
「ただの独り言よ。それと、オーレンフィネアには行ってあげるわ。」
クスカは突然の掌返しに驚いて目を見開くが、直ぐに訝しむ視線をリュティに
向けた。
「どういう風の吹き回しだ。」
「行くのだから問題ないでしょう。詮索は嫌いだわ。」
リュティの目が再び鋭くなる事で、クスカは疑問を口にした事を後悔した。本
人が行くと言ったのだからそれでいいではないか、何故水泡に帰すような事を
口にしてしまったのかと。
「すまない。」
「ただ、私の好きなようにさせてもらうわ。」
「それで構わない。」
クスカの言葉を聞く事無くリュティは部屋の扉を開けると出て行った。嵐が去
った後のように、クスカの全身を疲労感が襲う。椅子に座り背凭れに背を預け
ると、クスカは大きく溜息を吐いた。
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