紅湖に浮かぶ月

紅雪

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紅湖に浮かぶ月3 -惨映-

終章 不燃の残思

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「生とは慾を貪ってこその正常さだろう。」


黒山の人だかり。エクリアラの入り口は騒然としていた。周囲の道路も人で溢
れ帰り、まともに歩く事も出来ない。それだけの人間が集まっているのだがら、
声だけでなく動くだけでも騒がしいのは当然だろう。アーランマルバ警察局の
局員と、エクリアラの警備員が交通整理をしているが、とても追いついている
ようには見えない。
「無理ね。」
「無理だな。」
私の呆れにユリファラも同意する。エクリアラの向かいにあるカフェに居るの
だが、どう見ても開店後に入る気にはなれない。カフェも混んではいたが入れ
たので、休憩がてら入ったのだけれど。同じ様な人たちや、野次馬として見に
来た様な人たちもいる。
ホテルを出た私たちは、取り敢えずエクリアラの様子でも見るかってことで来
たのだが、まあ途中から進むのも大変になり、施設内に入る事は速攻で諦めた。
疲れたのでカフェで休憩しようという事になり今に至る。
「分かっていた事でしょう。」
うるさい、黙れ。
一度諦めたのに、目の前に広がる光景にまた諦めを発したことにリュティが突
っ込んで来た。私はリュティに半眼を向けると、グリルチキンサンドを頬張る。
ホテルは朝食を摂らずに出てきたので、遅めの朝食になっている。
十一時開店のエクリアラでは、正面出入口で式典が行われ色んな人が挨拶をし
ていた。もう興味も無いので聞いてはいないが、向かい側なのでちらほら聞こ
えてくる。内容は挨拶をする人が変わっても大差ない。
一番五月蝿いのは一人挨拶が終わるたびに鳴り響く拍手だ。轟音とも言える音
の波は会話など許してはくれない。今は十時半を廻ったところだから、後何度
かは轟音の波が来そうだ。
「今日帰るんだろ?」
ぼんやりそんな事を考えていると、ユリファラが私に聞いてくる。
「そうよ、もう用も無いしね。」
お店もあるし、のんびりしている時間は無い。本当は傷がある程度癒えるまで
ゆっくりしていたいところではあるのだけれど。アーランマルバに居ればそれ
だけ滞在費も掛かるから、帰ってゆっくりするのが最良よね。
「何時も忙しねぇな。」
「そうよね。でも、しょうがないわ。」
お互い仕事もあるし、噛み合わないのも当然。私は個人店だから時間の都合は
ある程度付くけれど、ユリファラは執務諜員でしかも自国から出ることが多い
わけだし。その辺の事情は、ユリファラも分かっているけれど言ったのだろう。
「だな。」
ユリファラは何かを考えているように頷いた。
「この後は、この前見たお店に行くのでしょう?」
「うん、買いたい服や靴があるからね。」
売れてないといいのだけど。まあ、たかだか二日で無くなる可能性は低いわよ
ね。と、考えながらリュティの問いに答える。
「決めた、あたしも行くぞ。」
考えていた事が決まったようで、ユリファラが突然そう言った。今更なので敢
えて言う必要もない事だと思い、その決意表明にちょっと吃驚する。
「当然でしょう、ランチはユリファラに案内してもらうんだから。」
結局、今日の予定は話していた通りになったのだから、ユリファラに美味しい
お店を案内してもらいたい。だから何故それを言ったのかが不明だ。
「いやそうじゃねぇ、あたしもロンカットに行くって話しだ。」
「はっ?」
「あら?」
ユリファラの突拍子もない発言に、私は間抜けな声を出し、リュティは愉快そ
うに微笑んだ。
「いや、今朝おっさんに報告に行ったらさ、少しの間好きにしてていいって言
われたんだよ。アーランマルバに居ても大してやることねぇし。」
まあ、それならそれで好きにすればいいと思う。私がどうこう言う問題でもな
いし。
「新しいアクセサリーも欲しいと言っていたわね。」
ああ、つまり私にアクセサリーの依頼をしに来るのね。それは売り上げに繋が
るから、良いことだわ。ついでに店内のアクセサリーも何点か買ってくれると
嬉しいのだけど。
「そうなんだよ。というわけだからミリア、今夜泊めてくれ。」
成る程、泊まりに。って。
「はぁっ!?」
他人事だと思っていたので自分が巻き込まれていた事に、思わず声を上げてし
まった。
「だめか?」
「このまま一緒に行くって事?」
話しの流れからそうだろうと思うが、念のため確認しておく。
「あぁ、一度準備はしに帰るけどさ。」
「駄目じゃないわ。ぼんやりしていてびっくりしただけよ。」
単にそれだけの理由なので特に断る理由はない。ただ、ゆっくり休もうと思っ
ていたのでそれが出来なくなっただけ。でも、考えてみれば誰か居た方が気が
紛れるかも知れない。昨日の今日だもの、独りになった途端色々考えてしまい
そうだから。
「じゃぁ、ランチ終わったら一旦荷物取りに行くから、どっかで合流にしよう
ぜ。」
私の答えを聞くと、ユリファラは笑顔を浮かべて言った。まるで出かけるのを
楽しみにしている子供の様に。
「分かったわ。」
「今夜が楽しみね。」
黙って聞いていたリュティが楽しそうに言ってきた。さらっと参加するような
流れで混ざってやがる。
「リュティは近いんだから帰りなさいよ。」
「冷たいわ。」
そう言って寂しそうな顔をして俯く。はいはい演技ね。近い、とは言ったが実
のところリュティが住んでいる場所を私は知らない。閉店後は普通に歩いて居
なくなるが、朝はいつの間にか住居区域に居て朝食の用意をしている事が殆ど
だ。ま、いいか。本人の存在については、今は聞かないでおこうと思っている
のだから。いや、違うか、聞くことを拒否しているが正解ね。
そう思って私は紅茶を飲むと、吹き出しそうになった。辛うじて口の端から顎
に伝う程度で済む。
「汚ねぇなミリア、何してんだよ。」
聞き覚えのある声を聞いて、恨みがましい視線をエクリアラの正面出入口に向
ける。間違いなくリンハイアの声だ。今回は関わってないだろうと思っていた
から、会うこともないと忘れていたのに、嫌がらせか。
だけど考えてみればアーランマルバの一大行事みたいなものだから、国の執政
統括が開店式典に参加しても不思議はないのよね。国の事業ではないだけに、
おそらく貴賓か何かで呼ばれたのだろうと思う。
「そいや、おっさん出るって言ってたな。」
私の行動を見て察したのか、ユリファラが思い出すように言った。
「早く言ってよ、分かっていたらこんな近くで休憩なんてしなかったのに。」
八つ当たりじゃないが不満を溢す。
「あたしのせいにすんな。」
「別に何かされたわけじゃないでしょう。気にする事はないんじゃないかしら
。」
そう言われるのは当然よね。私の我が儘だし。だけど一気に憂鬱な気分になっ
たわ。まあ数分我慢すればいいだけなのだけど、近くに居るという事に抵抗が
あるというか。
「そろそろ開店時間ね。」
リュティが時計を見て言った後、拍手と歓声が怒濤の様に轟く。十一時には若
干届いていなかったが、リンハイアの挨拶が終わり開店を迎えたエクリアラは、
堰堤の水門を開けられた水の様に人を飲み込み始めた。
誘導員の順番を守るよう促す声や、押さないよう注意する声が、歓声と移動の
地響きに負けじと張り合っている。私はその光景にうんざりした眼差しを向け
た。
「やっぱ無理だな。」
「ええ、あの中を歩きたくはないわ。」
ユリファラが嫌そうに言った言葉に、私も同調する。あんな中を歩いたら傷に
障りそうだし、怪我をしていなくても気力がないわ。麦酒でも飲んでいる方が
遥かに楽ね。
その光景を眺めていると、人の波を割って一台の車がエクリアラから出てくる。
その車は車道を横断して反対側に出ると、私たちが居るお店の近くに停車した。
その停車した車から腰まである黒い髪を揺らして、見覚えのある女性が降りる
と、続いて見たくもない青年が降りる。
「おっさん何してんだ?」
その光景を見たユリファラが怪訝な顔をして言った。私も同じ事を思って眺め
ていると二人は真っ直ぐこちらに向かってくる。
おい。
まさかこっちに来るんじゃないでしょうねと、思っていたら来やがった。リン
ハイアは私たちの席の前まで来ると、何時もの微笑を浮かべた。
「奇遇ですね。」
「嘘付け。」
私は睨むように視線を向けると、リンハイアの言葉を即否定した。リンハイア
の横ではアリータが軽く頭を下げ挨拶してきたので、そちらには軽く手を振っ
て応じておく。
「酷いですね。」
相変わらず表情は変えずにリンハイアは言った。
「勧誘ならお断りよ。」
「いえ、そんなつもりはありませんよ。」
嘘くさい。リンハイアの思考は深すぎて、感情も表さないため言っている事の
真偽はまったく分からない。
「私に用はないわよ。」
何の用とは聞かない。暗に関わるなという含みを込めて私は言った。
「そうですか残念です。ユリファラがお世話になっているので、お礼をしたか
ったのですが。」
リンハイアは残念そうに顔を軽く背けつつ俯いて見せる。紙袋を見せつけなが
ら。その紙袋にはアンパリス・ラ・メーベの店名。こいつ、シュークリームを
餌に私を釣る気か。
「エクリアラ限定濃厚ミルククリームを食べたいんじゃないかと思っていたの
ですが。」
と、続けやがった。
「性格悪いわよ。」
私がそう言うとリンハイアは真面目な表情になり、頭を下げる。なんか気持ち
悪いわ、その態度。
「ふざけて申し訳ない。実は少し話しがあるのでお付き合い願いたいのです。」
やっぱり何かあるんじゃん。リンハイアは執政統括だものね、一般人の私に無
駄な時間なんて使ってる暇なんてないでしょうから。
「私は無い。」
私はそっぽを向いて言った。毎度ろくな話しを持ってこないので関わりたくな
い。
「そう警戒しないでください。ヴァールハイア夫妻について少し話したいだけ
です。手土産もありますしどうでしょう?」
リンハイアは紙袋を掲げながら言った。確かにエクリアラ限定のシュークリー
ムは食べたい。が、それ以上に夫妻の話しというのが気になった。ユリファラ
の報告から私がその場に居たのは分かっているのだろう。その私に一体何を話
すのかと。
「分かったわ。ただ私はいいけど。」
と言ってリュティとユリファラを見る。
「また城行くのかよ、ま、いいけど。」
「話しはどうでもいいけれど、限定シュークリームは食べたいわ。」
うん、二人ともシュークリームに釣られてあっさり承諾した。いやユリファラ
はなんとも言えないが。私は決してシュークリームに釣られたわけじゃない。
「では、車にどうぞ。」
リンハイアに促され、私は重い腰を上げた。
「お会計は終わっていますので、直接車へどうぞ。」
手際のいいアリータに笑顔でお礼を言うと、私たちは車に乗り込んだ。

その部屋は何時もの執政統括の部屋ではなく、応接間の一つだった。ソファー
や低いテーブルは執政統括の部屋にあるのとさして変わらない。私たち三人が
横並びになり、テーブルを挟んで向かいにリンハイアとアリータが座る。
何時もの様にアリータが煎れたダージリンと、エクリアラ限定濃厚ミルククリ
ームのシュークリームが一人二個ずつ目の前に並べられている。二個ずつとは
なかなか贅沢よね。
「職権濫用?」
私はシュークリームを指差してリンハイアを半眼で見る。
「記念に何かどうかと聞かれたのでね、シュークリームを所望したら用意して
くれたんですよ。」
言い訳してるが変わらないじゃん。
「十個程と付け足していたのは、この為だったのですね。」
悪気は無いのだろうが、アリータが止めを刺すとリンハイアが苦笑する。
「やっぱ職権濫用じゃねーか。」
そこへユリファラが突っ込むと、アリータがユリファラを睨む。
「食べたら共犯ですね。」
リンハイアが笑顔で言うが無視して、私はシュークリームを手に取ると早速口
にした。アリータとユリファラが多少驚きの視線を向けてくる。この執政統括
をまともに相手しても疲れるだけなので無視しただけよ。もともとそんな事は
気にもしないのだろう、リュティも笑顔でシュークリームを食べている。
濃厚ミルククリームは確かに濃厚だった。ミルクの味が濃く舌に絡み付いて、
香りが鼻から抜けると幸福感に包まれる。ああ、幸せ。もう帰っていいかな。
「夫妻の最期に立ち会って頂いてありがとう。」
突如リンハイアはそう言って頭を下げてくる。その行動に食べる手が止まり、
幸福感は消え失せ、忸怩たる思いが込み上げて来る。改めて口にされると、昨
夜の出来事は鮮明に甦り気持ちの整理なんかついているわけもない。
「私は、私の意思であの場に居ただけよ。あんたに礼を言われる筋合いはない
わ。」
リンハイアは寂寥を浮かべ弱々しく微笑んだ。
「カーダリア卿とは古い知り合いでね。」
それでか。私は一昨日知ったばかりだけれど、リンハイアにとってはもっと古
い仲だったんだ。どんな思いで今回の事を受けたのかは分からないな。
「アイキナでの事件を聞いたときに、こうなる事は分かりもしたし、最悪死も
範疇だった。ただ実際に知らせを受けるとやりきれない。」
「分かっていたのなら何で止めないのよ。」
あの夫妻の事だから答えは分かっている、でも言っておきたい。思いを形にし
ないと、口にしないと辛い。
「私でもヴァールハイアの名前は止められない。」
リンハイアですら止められない事を確認したに過ぎないが、それは自分が止め
られなかった事に対しての逃げだったのかも知れない。リンハイアに言わせる
事で、自分が安堵したいが為に。
「悼むのは仕方がない、ただ気に病む必要はないよ。」
リンハイアが言った事は分かっている、夫妻の顔を見たのだから。ただ今は、
そんな直ぐに気持ちは切り替わらない。一番辛いのはそう言っているリンハイ
ア本人かも知れないし。
「まったく人騒がせな夫妻よね。」
「確かに。」
私が苦笑して言うと、リンハイアも苦笑して言った。また泣きそうになる。
「で、話しはそれだけ?」
それを誤魔化す為に私は言った、この場に居ても引き摺られそうだし。折角の
エクリアラ限定のシュークリームも味わえない。
「それと、今回もユリファラがお世話になったね。」
「たまたま一緒になっただけよ。」
別に何もしていないので、事実を言ってユリファラを見ると特に反応もせず、
やはり哀しそうな表情をしていた。昨夜のユリファラの態度を見れば当たり前
の事ではある。
「では、私はこれで失礼させてもらいます。駅までは車を出させましょう、ア
リータ後は頼んだよ。」
「はい。」
リンハイアはそう言うと応接間を出ていった。まさか本当にこれで終わるとは、
変に身構えていたので拍子抜けした。
それから紅茶とシュークリームをご馳走になった私たちは、駅まで送ってもら
った。ユリファラは途中で下車して荷物を取りに戻った。予定は前後したが、
合流してから遅めのランチを取る事にして。

「宜しかったのですか?」
執政統括の部屋に戻ったアリータは、送り届けた事を報告するとリンハイアに
確認した。
「何がだい?」
椅子に座って水の入ったグラスを机に置くと、リンハイアは惚ける様にして質
問を返した。
「ヴァールハイア家の存在について言わなくても。」
続けて言ったアリータの言葉に、リンハイアは頷くと苦笑を浮かべた。
「今はね。それに現状彼女は受け入れようとしない。私も人材を失うわけには
いかないのでね。」
リンハイアが受け入れないと言うのであれば、そうだと思いつつも人材に関し
ては、アリータは分からずに疑問に残った。それ以上の解はリンハイアからは
出そうにないので、疑問は押し込めておく事にして。
「ユリファラは何時動かしますか?」
今後の話しに切り替える。
「十日は休ませておいていい。ただ、ヴァールハイア夫妻の事を考えれば早い
ところ仕事を振った方がいいかな。」
ユリファラの目が赤いのをアリータも気付いていた。彼女にとっては辛い結果
だったのだろう事は分かっているが、それでも幾度も乗り越えて来たのも知っ
ている。きっと今回も乗り越えるだろうとアリータは思っていた。
「バノッバネフ皇国とターレデファン国、どちらがいいと思う?」
突然二つの国について聞かれて一瞬アリータは戸惑ったが、ユリファラの行き
先だろうと思う。
「決まっていて聞いてますよね。私には想像もつきませんが。」
多少意地が悪いとアリータは思ったが、どちらにしろ分からない。返す言葉に
若干の棘が混じる。
「すまない。ただ本当に決まってはいないんだ。」
リンハイアがそう言った事にアリータは驚いた。口にしたからには、既に決ま
っているものだと思っていたから。
「私は世界の動向や未来が見えているわけではないよ。」
アリータの驚きを察してリンハイアは苦笑して言うが、普通の人にはそうは思
えない。本人にとって想定外の出来事は起きているが、概ね範疇の事が多い。
それを自国だけでなく周辺諸国含めて想定出来る事が、常人ではないのだとア
リータは思わされる。
「それでもユリファラがロンカットから戻って来る時には結論は出ている。」
決まるまでの時間か何かが確定していないのだと、その言葉でアリータはそう
思えた。同時にこの数日で何があるのだろうと、不安を覚える。
「ターレデファン国だが、こちらはアリータに行ってもらう。」
ターレデファンは初めから決まっていたのだとアリータ思う。ユリファラはバ
ノッバネフ皇国に行かせるかどうかで、ターレデファンの名前を出したのは単
に自分の行先として出されたのではないかと。
「分かりました。」
「メーアクライズの跡地を見てくるといい。」
「それ、だけですか?」
当然仕事だと思い込んでいたアリータは、拍子が抜けて言葉に詰まった。
「識った者として、一度現状を見てくるといい。大呪紋式が何を齎すのか。」
リンハイアが語ったこの大陸に存在する其れは、メーアクライズに限って言え
ば厄災でしかない。実際に目の当たりにする事で、その存在を認識しろという
事だろうかとアリータは考えた。
「はい。」
話しと記録だけでは漠然とした知識にしかならない。確かに聞いた時は恐怖し
たが、現実感が乏しい所為か思考の範疇を出ない。識ったからには今後リンハ
イアの元で仕事をするには、はっきりと認知する必要があるとアリータは強く
思い返事をした。
「それとイリガートには、再びオーレンフィネアへの警戒を強めるよう伝えて
くれ。」
「オーレンフィネアですか?暫く動きは無いのでは。」
以前リンハイアが言った事を思い出し、アリータは疑問を返す。
「状況が変わった。カーダリア卿が存命であればこその歯止め。ヴァールハイ
ア家の血筋が残っているとは言え、もう名前だけになったと言っていい。」
それはカーダリアが死んだ事で、オーレンフィネアの情勢が変わるという事だ
ろうとアリータは察した。穏健派の重鎮が居なくなったのであれば、推進派が
躍進しても不思議ではない。
「それに伴ってクノスをオーレンフィネアの中央、セーティオラ・ウヌラト・
ロアーに滞在させて推進派の動きを監視させる。」
やはり推進派が動く可能性があるのだと、リンハイアの言葉でアリータは確信
した。
「マールリザンシュ卿は無茶をする人ではないが、念のためだよ。」 
そうは言うが、リンハイアの表情には陰りがあるようにアリータには見えた。
オーレンフィネアの件は懸念であればいいという様に。



お店に着いたのは夜の二十二時くらいだった。遅めのランチを摂り、目当ての
お店を回っていたらもう夕方になっていて、ロンカット駅に着いた後夕食にし
たら、まあこの時間よね。
居住区域から入り荷物を置いて椅子に座って落ち着くと、なんだか長い間帰っ
て来てなかった気がした。たった二日なのに。ただモッカルイア領に行ってい
た時に比べればそれ程でもないが。
椅子から重い腰を上げ冷蔵庫に向かうと、開けて麦酒を取り出し速攻で開栓し
て咽に流し込む。そこで帰って来て初めて安堵し、同時に疲労が全身を覆い尽
くす。終わったという実感もここでやっと得られた。床に置いた荷物の片づけ
は明日でいいやと放置する。
ユリファラは早速依頼するアクセサリーに頭を悩ませ、帰れと言ったのに聞か
ないリュティは台所でなにやら作り始めている。まあいいか、と思って椅子の
背凭れに背を預けて天井に目を向けると、思い出すのはやっぱり馬鹿夫妻の事
だった。
一人だったらきっと暗い思考の螺旋に堕ちていただろうと思うと、突然の来客
も悪くなと思えた。リュティが作った料理を肴に麦酒を飲みながら、ユリファ
ラの要望を話し半分に聞いていると、疲れのせいか何時の間にか眠りに落ちて
いた。
明け方目が覚めると、麦酒の缶を片手に持ったままテーブルに突っ伏していた。
リュティも椅子で寝ていたが座った姿勢のまま目を閉じていたので、実際に寝
ていたのかは不明。ユリファラは床に転がって寝ていたが、その光景はどれも
乙女のする事じゃないなと思いつつ、女性だけだとこんなものよねと思い苦笑
した。



「わざわざお前から出向くとは珍しいな。」
何時もながら飾り気も何も無い、毎度の小さい四人しか入らない会議室。机の
上には何も用意されていない。いや、不味い珈琲は置いてあるが。私から連絡
して来たのだから、無いことに対して文句を言うほど我が儘じゃない。
「報告を含めて色々とね。」
早朝にザイランへ連絡をして、報告がてらアイキナ市警察局へ私は出向いた。
どちらかと言えばウェレスの報告よりも、二グレースについて情報を伝えてお
きたかった。
「で、その色々とは?」
ザイランが早く言えとばかりに促してくる。まあ私も長居はしたくないので、
要件だけのつもりで来ているのだから報告から始める事にした。
「あっちの仕事は終わったわよ。」
「ああ、報道で見たから知っている 。うちの局員も朝からネヴェライオに何人
も出向いているしな。」
状況から推測しか出来ないが、殺されたのは明らかだから、警察局が動くのも
当然よね。私は結果のみを伝え、ヴァールハイア夫妻がウェレスを討った事は
言うつもりは無い。夫妻には申し訳ないけれど、司法裁院の報酬は生きている
私が有効に使ってあげるわ。アーランマルバにお店を出せたら、夫妻の死の上
にお店がありその一部となる。いつか私が朽ちるまで記憶と共に。自分勝手な
話しよね、そう思って内心で自嘲する。
「それとニグレースの正体が分かったわ。」
「本当か!?」
ウェレスの時とは食い付きが違う。そりゃそうよね、市内で起きた変死体事件
の手掛かりだもの、警察局が躍起になって調べていた事なのだから。ザイラン
は早く続きを話せとばかりに身を乗り出している。
「ウェレスが雇っていた女性がその名前だった。」
「ウェレス絡みか。で、そいつはどうした?」
結果が気になってしょうがないのだろう、早く続きを言えと態度が語っている。
「逃げられたわ。」
言い訳も何も出来ない、完全に私の落ち度なのだから。
「なんだとっ。」
ザイランが声を荒げる。
「一般人の私に言ってもしょうがないでしょう。情報提供だけでも良しとして
よ。」
逃げられた事は私自身悔しいけれど、ザイランに責められるのは腑に落ちない
わ。
「だが目の前に居たなら確保してもいいだろう。一般人と言うが警察局の局員
じゃないってだけで、出来ない事はないだろうが。」
呆れ顔で言うザイランに、何時もはザイランが担当の苦い顔を私が向ける。ザ
イランは私の表情に怪訝な顔をした。
「私では手も足も出なかったのよ。メアズーは強すぎる。」
「待て、メアズーってなんだ?」
そっか、ザイランがその名前を知っているわけ無いわよね。思わず言った名前
にザイランが困惑する。
「ニグレースがオーレンフィネアに居たときに名乗っていたのが、メアズーら
しいわ。」
私がそう言うとザイランは眉間に皺を寄せ、何時も以上に苦い顔をした。いや、
これが平常運転かな。
「そうなると、どっちの名前も偽名臭いな。」
「そうね。」
それは私も思ったけれど、どうでもいい。次逢うことがあったら許さない。夫
妻の運命を弄んだあの女は。あと服を弁償させる。
「しかし、お前で手も足も出ないとは、警察局にとっては厄介だな。」
「下手に手を出すと死体が増えるだけかもね。」
私が強いわけじゃなく、メアズーが強いのよね。しかしここ最近は生きるのが
やっと、というよりは生きているのが不思議な程の状況に巻き込まれてばかり
だわ。
「まあ、どのみち手配は掛ける。直接対峙したんだから特徴は覚えているんだ
ろ?」
忘れたくても忘れられないわ、あの変態は。
「ええ。」
「取り敢えず特徴を教えてくれ。」
ザイランは言いながら、使い古した手帳を取り出して記帳の準備をする。
「身長は百八十程で細身、アッシュブロンドのショートボブ。レザーパンツが
特徴だったので何か拘りがあるのかも。」
ザイランはある程度記帳すると手を止めて視線を私に向ける。
「終わりか?」
ザイランの言葉に思い出す様な仕草をする。
「肌は色白だったかな。目尻が上がりぎみだけどきつい印象はなく、妖艶な笑
みを浮かべるのよ。瞳は茜色だったかなぁ。両手は何時もパンツに入れている。
あと、語尾が変よ。」
「なんだそりゃ?」
書く手を止めて怪訝な顔をザイランは向けてきた。そうよね、と言ってもどう
説明したらいいものか。まったく言いたくはないが、言わないと伝えられない
わよね、あれは。
「何か言った後に必ず、うへっとか、いひっとか必ず言うのよ。」
「意味が分からん。」
「私だって分からないわよ。」
私が言われているみたいでちょっと腹が立つ。言って損したわ。
「まあいい、後で絵が出来たら確認してくれ。画像は送る。」
まあいいって何よ。結局私が変なこと言ったみたいで終わってるじゃない。本
当に言うんじゃなかったと後悔した。
「分かったわ。」
面倒なので相手にするのは止めておく。あまり休めてもいないし、身体の傷も
癒えていないから早く帰って休みたい。
「他に何かあるか?」
「無いわ。」
ザイランの問いに席を立ちながら答えて、会議室を出ると私はアイキナ警察局
を後にした。


「お疲れ。」
カフェ・マリノのテラス席ででグラスを打ち鳴らして麦酒を飲む。リュティと
ユリファラ、今日たまたま来たヒリルの四人で夕食になった。今の時間は十九
時を廻ったところだ。今日は警察局も行ったし、疲れも取れていないのでお店
は早めに閉めた。
マリノでの夕食は、飛び入りのヒリルが居る事で湿っぽくなりそうな三人より
良かったのかなと思い、ヒリルに目を向ける。
「なに?」
と言って首を傾げるが、鶏のもも肉を骨を持って囓りついたままなのはどうか
と思う。
「何でもないわ。」
私は微笑を浮かべて言うと、海老とサーモンのマリネを口に入れる。
「そいや、四人って初めてじゃね?」
厚切りの牛肉ステーキを頬張りながらユリファラが言った。言われてみればそ
うよね。この四人が揃って食事なんて、無かった気がするわ。ヒリル以外はよ
く分からない出会い方をしたが。
「ほんとだ。」
ヒリルが私たちを見て言うと、葡萄酒を飲んでもも肉の続きを囓りにいく。今
はそんな事より肉の方が大事らしい。リュティは特に何も言わずに微笑を浮か
べたまま、サラダをつついている。
「何かみんな、疲れた顔をしてるね。」
骨だけになったもも肉の残骸を皿の端に避けながら、私たちの顔を見てヒリル
が言った。
「そんな歳じゃねぇぞ。」
私とリュティは苦笑したが、ユリファラはポークソテーを丸ごとフォークに刺
し、囓りながら抵抗していた。結局昨夜も泣いていたくせに。
「いや顔に出てるって。」
だが笑顔でヒリルに言い返されいる。
「生きていて良かったわ。」
「本当にね。」
ヒリルとユリファラが言い合っている中、憂いの表情をしてリュティは静かに
言った。私だけに聞こえるように。
私は同意しながら空を見上げる。晴れ渡った夜空に輝く三日月は、嘲笑う様に
私の紅い瞳に浮かんでいた。
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