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紅湖に浮かぶ月3 -惨映-
6章 尊厳の在処
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1.「人は同じ過ちを繰り返す、それだけが歴史から学ぶ事だ。でなければ繰り
返す事などしないだろう。」
「んまい。」
ホテルの朝食は当然の如く美味しい。朝からロストポークとか贅沢この上無い。
薄く切られこんがり焼いたバゲットに玉葱や水菜を一緒に挟んで頬張るのもま
た絶品。
「そう言えば、スモークチキンも在ったわね。」
それも食べようかな。クロワッサンが在ったわね、チーズも在ったからレタス
やトマトと一緒に挟んだら美味しそう。しかし麦酒が無いのが残念、在ったら
パンではなく迷うことなくそっちを選んだのに。
「よく食べるわね。」
テーブルの向かいに座るリュティは、ヨーグルトにフルーツ盛り合わせを、紅
茶を飲みながら食べている。気取りやがって。
「朝から私の五倍は食べる、ヒリルとかいう女もいるわよ。」
リュティの言葉で、少し前に行ったモッカルイア領への旅行を思い出した。ホ
テルのモーニングビュッフェを大量に食べていた時に、私がヒリルに言ったよ
うな事を言われて。
五倍は言い過ぎか?ま、いいか。
「あの娘は本当によく食べるわよね。ただ朝からは驚きだわ。」
まあ私も食べる時は食べるけど、ヒリルの様に朝からあの量は無理だわ。
「ここに居たらその光景に呆れるわよ。」
私がそう言うとリュティは軽く吹き出す様に笑った。私でも既に呆れていると
言わんばかりに。私はまだローストポークしか食べてないっての。
「今日の予定は?夕方まで時間があるでしょう?」
そうなのよね。来てから色々と予定が変わりっぱなしで、どうしていいのか分
からなくなってきたのよ。いい方向に変わったのは良かったけれど。
「買い物は明日がいいのよねぇ。」
ユリファラは今日一日はヴァールハイア夫妻に付いてるから案内も頼めないし。
「アンパリス・ラ・メーベは行くのでしょう?」
「それはもちろん。」
そこに行かなければ王都アーランマルバに来た意味がない。私の中ではアーラ
ンマルバはアンパリス・ラ・メーベみたいなものよ。実はリュティも気になっ
てしょうがないんだな。
「向かいながら考えたら?」
「そうね。」
それが妥当なところよね。朝食が終わったら、ホテルを出なきゃいけない時間
になるし。寛いでもいられない。
「その前にまずは。」
そう言って椅子から立ち上がる私に、リュティが怪訝な顔を向けてくる。
「スモークチキンよ。」
直ぐ様呆れ顔になった。失礼ね。
「どうよ。」
「別にミリアが作ったわけじゃないでしょう。」
アンパリス・ラ・メーベの店内に併設されたカフェ区域で、シュークリームを
食べたリュティに胸を逸らして言った私に対して、リュティが冷めた反応を返
してきた。
「いやまあ、そうだけど。」
美味しいものを紹介した事くらい、態度に出してもいいじゃない。自分が異常
なくらい好きという自覚は一応あるけれど、人気があるのも美味しさの表れで
しょ。
「でも、本当に美味しいわ。」
「でしょう。」
併設されたカフェでも一時間程待って入れた。当然、持ち帰りの行列も出来て
いるが、以前来た時よりも長い。もしかすると、エクリアラの開店に伴ってお
客さんが増えている可能性もありそうだ。
分店が出店前に本店のを食べておこうとか、食べ比べなど。エクリアラ開店に
備えてアーランマルバに来ている人など、明日開店なのだから前泊で来ている
人も多そう。
「しかし、本当に凄い人気なのね。」
お店に来たときからリュティは驚いているのか、感心しているのか分かりずら
い態度だが、ずっとそんな調子だ。
「食べて分かったでしょ?」
リュティは首を少し傾げた。そこまでじゃなかったのだろうか。
「確かに凄く美味しいわ。ただ、デザートの美味しいお店なら他にもあるじゃ
ない。」
そういう事か。
「違うのよ。美味しい上に一つ二百よ、金額。価格的に気軽に楽しめるし、喜
ばれるからお土産にもしやすい。お土産にしたって買いやすい金額なのよ。た
だ美味しいってだけじゃないの。」
私の説明にリュティが目を丸くした。
「成る程、そういう理由があったのね。これ程の混雑を見せるわけが分かった
わ。」
理解してくれたようだ。というか、他でも美味しいデザートが食べられるとか、
お金持ちの発想よね。
「並んででも、より安価で幸福感が得たいのよ。そりゃお金があったら、美味
しいものが食べられる範囲は広がるけれど。」
私の言葉にリュティは苦笑する。
「そういう意味で言ったのではないのよ。」
そうか。貧しいのは私の思考だったのね。その発想がお金持ちの、と安直な考
えをする事の方が。考え方は人それぞれだ、リュティは単に疑問を口にしただ
けなのだろう。
「私が浅慮だったわ。」
「そんな事無いわよ。ミリアの説明で状況は理解出来たのだから。」
リュティは微笑んで言った。そう言われると嬉しいというか、救われた気持ち
になる。
「なんか、知ったら余計美味しく感じるわ。」
リュティはそう言って三つ目のシュークリームを頬張る。カスタードクリーム
とチョコレートクリームを二つずつという我が儘注文をしている。私は三つだ
ったのだが、既に食べ終えている。ちなみにチョコレートクリーム二つ。リュ
ティのプレートにはまだ一つ余っている。
「上げないわよ。」
くそっ。気付いたか。私は思わず舌打ちをしそうになる。
「手を伸ばしているのだから気付くわよ。素直に追加注文したら。」
「そうね。」
阿呆なやり取りする前にその方が早いよね。
「出てくる間での時間を省こうとしたのよ。」
「苦しい言い訳ね。」
リュティはにこやかに言った。なんだか負けた気分だわ。
「イリガートからの報告ですが、やはりオーレンフィネアの動きは沈静化した
ようです。」
アリータは何時もの様に、リンハイアの机の横に立ち報告をした。リンハイア
はグラスから水を飲むと無言で頷く。
「気になっているんじゃないのかい?」
リンハイアが口にしたのは報告に対しての言葉ではなく、予想外の問いにアリ
ータは戸惑う。
「何が、でしょうか?」
意味が分からずにアリータは問い返す。
「ペンスシャフル国の地下に何があるのか、何故法皇国オーレンフィネアは躍
起になってそれを探したのか。」
アリータはその内容に目を少し大きくした。気にならない筈はない、ただ聞い
ていいものかどうか分からなかった。むしろリンハイアが言わないのであれば、
知るべき事ではないとさえ思っていた。それをリンハイアの方から話しを振っ
て来るとは思いもしなかったから。
「はい。」
それが聞けるのであれば、是非知りたいとアリータは短く返事をする。
「今後の周辺国の動向について考慮すれば、動くにあたり知っていてもらいた
い。ただこれは、ほんの一握りの人間が秘匿しているこの大陸の秘密の一部と
なる情報だ。覚悟が無いのならば聞く事はお奨めしない。」
「聞かせてください。」
リンハイアは脅すように言ったが、アリータは即答した。リンハイアにとって
は、アリータの返事は分かっていた事だったが、念のため口に出して確認をし
たのだ。
「ペンスシャフル国の東にある、ターレデファンとういう小さな国に、嘗てメ
ーアクライズという町が在ったのを知っているかい?」
「確か、二十数年前に壊滅した町だったでしょうか?」
アリータはまだ子供の頃の話しだったので、執務諜員となってから読んだ資料
を記憶から呼び起こして確認する様に言った。それに対してリンハイアが頷く。
「確か、一晩で原型すら残らなかったとか。」
「そう。正確には夜のうち、ものの数分で荒野と化した。今でもメーアクライ
ズが在った場所は植物が育たないそうだよ。」
リンハイアはそう言うと水を口に含む。アリータは続きを待った。
「メーアクライズは人口九千二百八十六人の町で、呪文式に精通し小銃の開発
も盛んだった。当時では大陸でも有数の町だったのだよ。緑も豊かで景観の綺
麗な町だったと聞く。」
それだけの規模の町が数分で無くなった事にアリータは驚きを隠せなかった。
一夜で滅んだと資料にあり、不可解ではあったが原因は記載されていなかった。
過去の話しで原因も分からなかったため、その資料の事はそのうち忘れてしま
っていたが、その答えを目の前の執政統括は知っているのだと、その事実は怖
くすらあった。
「一体何が、その様な惨事を。」
それでも、原因を知りたいとアリータは踏み出す。
「大呪紋式だよ。」
「え・・・」
初めて聞くその言葉にアリータは戸惑いと、得体の知れない不安を感じた。
「その様なものが存在するのですか?」
リンハイアはいつの間にか真面目な表情になっていた。アリータの問いに頷く
と話しを続ける。
「未だに未知の呪紋式は数多くある。メーアクライズを滅ぼした大呪紋式がど
の様な効果なのかも解明されていない。だが、それは確実に存在する。」
数分で町を荒野に変え、一万人弱の人間を死滅させるような呪紋式が存在する。
その事実にアリータは恐怖を隠しきれない。
「誤発動ではないかと言われている。」
リンハイアは表情に苦さを浮かべて付け足した。
「そんなっ!?」
誤って発動しただけで起きる惨事としては、あまりに酷過ぎる。アリータは衝
撃から思わず声を大きくしていた。
「その大呪紋式が、ペンスシャフル国の地下にあるのだよ。オーレンフィネア
の推進派はそれを欲して動いていたわけだ。」
明かされた内容は、大陸の均衡を軽く覆す様な内容だった。オーレンフィネア
が何故躍起になっていたのか、リンハイアの情報開示でアリータはやっと理解
した。使用せずとも所持しているだけで威力を発揮する兵器なのだと。同時に
疑問が出てくる。
「どうして、ペンスシャフルはそれを利用しなかったのでしょう。」
もしその大呪紋式が在るのならば、ラウマカーラ教国が戦争を始めた時、あっ
さり敗戦などしなかったのではないかと。
「大呪紋式はペンスシャフル国にだけ在るわけではないからだよ。」
「っ!?」
続いて明かされた内容に、アリータは言葉も出なかった。同時にこの国にも存
在するのでは疑問も浮かぶ。
「私が知っている限り、ペンスシャフル国、法皇国オーレンフィネア、バノッ
バネフ皇国、ターレデファン国、サールニアス自治連国ナベンスク領、ラコン
ヌ大国、モルガベルスリ共和国、そしてこのグラドリア国。」
周辺国を含め自国にも存在する事を聞き、アリータは疑問が解消されると同時
に、恐怖が増した。
「在る、というだけで明確な所在は判明していないところが殆どだが、その存
在だけで驚異なのは言うまでもない。」
リンハイアも大呪紋式の脅威にか、何時もよりも真剣な面持ちで語っていく。
聞いている側だけではない、話しているリンハイアにも恐怖は在るのだとアリ
ータはその表情を見て思った。
「所在がはっきりしている所はあるのですか?」
アリータの問いに、リンハイアはゆっくり頷いた。
「今回の事で、ペンスシャフル国は明確になっただろうね。存在自体は代々の
剣聖が引き継いでいるらしい。」
アリータは最近報告していた件がそうだったのだと、ここで理解に達した。
「グラドリア国は代々の国王と執政統括が引き継いでいる。」
話しの流れから予想はしていたアリータだったが、実際に本人の口から聞くと
驚きは隠せなかった。
「法皇国オーレンフィネアはヴァールハイア家が語り継いでいる。私が知って
いるのはこのくらいだよ。」
「カーダリア卿が・・・」
オーレンフィネアの推進派は自国とペンスシャフルの大呪紋式を求めていたと
すれば、何に利用しようとしていたのかは想像に難くない。
「そう、彼はメーアクライズの件があったからこそ、ボルフォンに引いたのだ
よ。危険だからこそ、その所在と歴史を秘かに継ぐために。丁度推進派の動き
が活発になり始めた頃でもあったのも、要因の一つではあるのだが。」
それでユリファラを監視に付け、推進派の動きを警戒していたのだと、ここに
来てアリータは気付いた。ただ、リンハイアの言うとおりであれば、カーダリ
ア卿は既に枢機卿の立場に戻らないだろう。逆にそれは好都合なのではないか
とさえ思えた。
「推進派の計画は頓挫したからね、暫くオーレンフィネアに動きはない。おそ
らく剣聖オングレイコッカも、隣国の惨劇から使おうとは思わないだろう。」
「大呪紋式は、どれもその様な効果なのでしょうか?」
数分でもたらされる大惨劇を起こすのであれば、その存在自体があまりに危険
過ぎる。そんなものを自国含め周辺国は抱えているのだろうかと、アリータは
不安を口にした。
「分からない。似たような効果なのか、全く別の結果をもたらすのか、どちら
にしろメーアクライズの惨劇が在ったことが歯止めになっている事は間違いな
い。」
「そう、なのですね。」
確かに、そうなのだろうと思えた。だが、人の世ではそれを進んで使用してし
まう狂気を持った人間も必ず居るだろうとアリータは思う。何れその時が来る
のではないかと、不安が込み上げて来る。
「だからこそ、継ぐ為政者が選ばれるのだよ。」
アリータの不安を察した様に、リンハイアは言った。そのくらいの事を考えな
いリンハイアではないと分かってはいる。
「人がする事だ。懸念は消える事は無い。だからこその戒めとなったのだよ、
メーアクライズは為政者にとって。だが、それでも何時かは。」
リンハイアはそこで言葉を切ると、憂いの瞳を中空に向けた。今の時代は大丈
夫かも知れない。ただ、継ぐ為政者が変わった未来は分かりはしない。それを
思っての事ではないかと、アリータはその憂いの瞳を見た。
「話しが大き過ぎます。」
個人どころか、人が抱えるには過ぎた代物だと、思わざるを得なかった。
「私もそう思う。」
リンハイアはアリータに視線を戻すとそう言って微笑んだ。
「この話しはここまでにしよう。」
「はい。」
リンハイアが話題の打ちきりを告げた事で、アリータは重圧から解放されたよ
うな感じがした。
「ところでユリファラからの連絡は?」
「はい、昨夜受けております。」
アリータは一度言葉を止め、気持ちを切り替える様に軽く咳払いをして続ける。
「ヴァールハイア夫妻は、アーランマルバで宿泊中でした。このまま同行する
そうですが、如何いたしましょう?」
「このままでいいよ。最後まで見ておけと言ったのは私なのだから。」
リンハイアは苦笑して言った。アリータにその意味は分からなかったが。
「分かりました。それと、ミリアさんもアーランマルバに滞在中らしいですよ
。」
その報告にはリンハイアも怪訝な顔をした。が、直ぐに何時もの微笑に戻る。
「司法裁院だろうね。」
「おそらくは。」
リンハイアは続きが無いのか、特に何も言わないのでアリータは続ける。
「どうしますか。」
聞かれた事にリンハイアは以外な表情を一瞬すると苦笑した。その態度がアリ
ータにはよく分からなかった。
「彼女は私の配下ではないし、好きにさせておいて問題ないよ。」
今までの執着振りから何か言うかと思いきや、掌を返したリンハイアの態度に、
アリータは疑問を抱いた。
「時間が必要なのだよ、彼女には。彼女の歴史を識る時間がね。」
含みのあるリンハイアの言葉は、アリータには理解出来なかった。その解を口
にしないのは時期ではないからだろうとアリータは思うと、その先は考えない
事にした。時間が必要ならば満ちるまで待とうと。
「では二人に関しては傍観する事にします。」
「それで構わないよ。」
リンハイアは何時もの微笑で言うと、空になっていたグラスに水差しから水を
注ぐと口に運んだ。
十九時直前、ニーザメルベアホテル前に着いた私とリュティ。ヴァールハイア
夫妻とユリファラは既に集合していた。
「ミリア、ぎりぎりじゃねぇか。」
お決まりのツインテールを揺らしながら少女は頬を膨らませる。小生意気な口
調は相変わらず似合っていない。まあ、それがユリファラなのだけど。ヴァー
ルハイア夫妻は質のいい背広とドレスで着飾っている。とは言っても質素で落
ち着いた雰囲気がある。
「ちょっとした事件が。」
私は目を伏せ気味に言った。リュティ以外の三人が心配顔を向けてくる。あ、
やってしまったわ。
「ええ、麦酒と料理一品が十九時前なら金額五百という看板に釣られる事件が
ね。」
あーあ、言っちゃったよ。リュティの馬鹿。
「あほかてめぇっ!」
ユリファラが吼えながら跳び蹴りを放ってくる。私は軽く身体を捌きながら夫
妻に目をやると、笑いを堪えているようだった。
これから敵陣に乗り込むんだ、大義も何もありはしない。娘を殺した相手と対
峙しなければならないんだ。その前にこんな茶番があってもいいじゃない。私
らに出来ることなんて、そんなに在りはしないのだから。
再び舞う蹴りを避けながら、夫妻に笑みを向ける。リュティは苦笑していたが。
「どういうことだ?」
四人の雰囲気に気付いたユリファラが、私への攻撃を止め怪訝な顔をする。
「準備は出来たってことよ。」
私がニーザメルベアホテルの正面口に目を向けると、既に全員が目にしていた。
アッシュブロンドのショートボブを揺らしながら出てきた長身の女性を。
「よく分かんねぇけど、これ終わったら覚えとけよ。」
ユリファラは未だ分かっていないようだったが、解消はウェレスの事が済んで
からに持ち越したようだ。
「これは珍妙な顔ぶれだね。知った顔もいるよ。うへっ。」
メアズーはそう言うと、口の端を吊り上げて妖しく笑った。出で立ちはこの前
見た時と変わらず、白いシャツにレザーパンツ。パンツの前ポケットに両手を
差したまま怠そうに歩いているが、足運びには隙を感じない。
「早速で悪いがウェレス殿のところに案内頂こうか。」
カーダリアがメアズーを急かす様に言った。その表情には今までの温和さは欠
片もなく、目には冷利な光を宿していた。
「りょーかいっ。積もる話しはないからね。たはっ。」
メアズーは目を細めて笑うと、踵を返してホテルの正面口へと戻る。カーダリ
アを先頭にサーマウヤとユリファラ、その後ろに私とリュティが続く。しかし
相変わらず意味不明な語尾がうざい。
ホテルの中に入ると真っ直ぐに昇降機に向かう。他に用も無いので当たり前だ
けれど。レストランに入り歓談する為に来たわけじゃない。カウンターの受け
付けに居る従業員が、メアズーを目にすると頭を下げるのが目に入る。
昇降機に乗るとメアズーが、行き先釦の下にある鍵穴に鍵を差し込んで回す。
二十階の表示が点り、扉が閉まると昇降機は上昇を始めた。
「昨日も居たよね。もしかして偵察かな。ぬふっ。」
昇降機が動き出して直ぐ、私に絡み付くようにメアズーが近寄って言ってくる。
昇降機の中央付近に居たのだが、近寄られる事に気付かなかった。
「ヴァールハイア家の使用人が、偵察に来ていても不思議は無いだろう。家の
使用人にちょっかいを出すのは止めて頂きたい。」
メアズーの行動を牽制するようにカーダリアが低い声音で言った。
「へいへいっと。ぐはっ。」
メアズーは操作釦の前に音も無く戻ると、細めた目を私に向けてくる。
「人殺しの臭いがプンプンだよ。物騒な使用人だね。でひっ。」
私はその言葉に鼓動が跳ねるのと、分かり過ぎている現実を他人から突き付け
られた事に、自分に対して嫌気が差す。
「家柄的に、安穏とは暮らせないのでね。」
カーダリアがメアズーの言葉を私の代わりに受け流した。その行動に出来た人
だと思い、私は目でお礼を示すとカーダリアは軽く頷いて見せた。
「着いたよ。うほっ。」
そこで昇降機が二十階に着いて、メアズーが言いながら真っ先に降りるとその
まま通路を歩いて行く。私たちの動向を待つ気も、気に止める事も無いようだ。
別に案内役としては求めていないが、客人を扱う態度としては奔放過ぎる。
「さ、入った入った。いひっ。」
扉の前に着いたメアズーは、扉を叩いて伺う事もなく開けるとさっさと部屋の
中に入っていく。自由過ぎる。扉の前に立っている背広姿の男性二人も気にす
る風もなく動かない。
昇降機から無言のまま、私たちは部屋の中に入ると奥にウェレスが居た。片側
に五人は座れそうな長方形の机には、もてなしのつもりか料理とお酒が並べら
れている。ウェレスはその手前に立ち、私たちが入ると深々と頭を下げた。
「ようこそお出で下さいました、ヴァールハイア枢機卿。」
「こちらこそ、急な申し出を受けて頂いて感謝しております。」
カーダリアも挨拶を返すと頭を下げる。メアズーはいつの間にか、部屋の窓に
寄り掛かると横目で夜の街を見下ろしていた。街を一望出来る部屋は、やはり
豪華と言うしかない。入った部屋には料理が乗った机に、応接用の机とソファ
ー、一人用のテーブルとソファーくらいで、奥への扉の先はどうなっているの
かは不明。出来れば見たいところだが、難しいだろう。その扉の前にも背広を
来た男性が二人立っている。
「知人とは伺っていたのですが、失礼な者の出迎えはご容赦ください。」
ウェレスはメアズーを見ながら言った。が、パンツのポケットに差し入れた両
手も、外に向けられた視線も変える事が無かった。
「気になさらず。こちらも大勢で押し掛けてしまい、申し訳ない。」
「構いません。宜しければご紹介頂けますか?」
カーダリアの言葉に、ウェレスは人の良さそうな笑顔で応じると、私たちを一
瞥してそう言った。
「これは失礼。こちらが妻のサーマウヤと娘のユリファラ。それと使用人の
ミリアとリュティです。」
紹介されるごとに一礼する。肩書きは昨夜決めた通りだが、名前はそのままだ。
偽名でも考えておけば良かったわ。
「既にご存知でしょうが、遅ればせながら自己紹介を。私はウェレス・カール
バンカと申します。ネヴェライオ貿易総社の社員をしております。立ち話しも
なんですから、お席にお着きください。」
自己紹介で一礼すると、続けて席に着くことを促すウェレス。本人は長机の向
かいに回り込み、私たちが席に着くのを待った。カーダリアが先頭をきり、中
央の席に着くと左にサーマウヤ、右にユリファラが座る。私とリュティはその
背後で控える形になった。
使用人という肩書きは悪く無かったようで、背後に控えて立つことに違和感が
ない。何か在った時に直ぐに行動に移れるのも良い点と言える。
「出先で大した物も用意できず申し訳ありませんが、宜しければ晩餐などしな
がらの会話はどうでしょう?」
カーダリア達が席に着くと、ウェレスは両手を広げて長机に並べた料理とお酒
を示す。本人にとっては最後の晩餐になるだろう事は、予想もしていないだろ
うけれど。
「押し掛けたにも関わらず、お気遣い感謝します。」
カーダリアがそう言うと、夫妻は軽く頭を下げる。ウェレスは椅子に座ると夫
妻の前に置かれたグラスに葡萄酒を注ぎ、動きを止める。
「これは気付きませんで失礼。お嬢さんには別の飲み物を。」
ウェレスは室内に待機している背広姿の男性に指示を出すと、自分のグラスに
も葡萄酒を注ぐ。
「直ぐに用意させますので、お待ち下さい。」
ウェレスはユリファラにそう言ったが、ユリファラは頷いただけで特に喋りは
しない。事前の話しで、小生意気な口調は封じられたからだ。
「後ろの女性方もどうですか?」
ウェレスは私とリュティにも勧めてくる。
「いえ、大丈夫です。」
私が断り二人で頭を下げた。既に居心地が悪いのだけれど、何時までこの茶番
は続くのかしら。と、早く解放されたい気持ち悪いが湧きあがる。ただ、カー
ダリアは本人に自白させてから遂げたいと言った手前、協力する事にしたので
付き合うしかない。それ自体が嫌なのではなく、ウェレスに付き合うのが嫌な
のだけど。
そんな事を考えていると、ユリファラにオレンジジュースが運ばれて来た。
「それでは、好機なる出会いに感謝して。」
ウェレスは夫妻の方にグラスを傾けると、一気に煽った。夫妻もグラスに口を
付けるが、ウェレスはもう飲み終わり次を注いでいる。早すぎ。
しかし、ローストビーフにポークソテーやラムチョップの香草焼き、海老の丸
焼きから貝類の葡萄酒蒸しまで色々並んでいる。良いもの食べてるなぁ、麦酒
があったら飲みたい。これが世に言う生殺し。
「何でもオーレンフィネアに店を出したいそうで、どの様な事を聞きたいので
しょう?」
カーダリアは頷いてグラスを置く。
「ご存知かもしれませんが、オーレンフィネアは先進国と言えど、此処アーラ
ンマルバ程の発展はしておりません。中央であるセーティオラ・ウヌラト・ロ
アーですらロンカット商業地区の様な場所もありません。」
カーダリアがそこで言葉を途切ると、ウェレスは頷いて後を継ぐ。
「エクリアラのような施設が在れば、という事でしょうか。」
カーダリアがそれに頷いた。
「エクリアラのような施設があれば、人が集まり行く行くは周囲の発展も促す
のではないかと、わたくしも考えております。」
サーマウヤが展望を言うと、ウェレスが深く頷いた。
「確かに、それも一理あるかと思います。しかしながら実際は、発展するかど
うか分かりません。先ずは現地で色んな情報を元に、様々な要因を洗い出すと
ころから始めなければなりません。」
ウェレスの言葉は、表の顔としては真っ当な事を言っている。エクリアラをア
ーランマルバに開店するだけの事はあるのだろう、発言内容も慎重だ。私はそ
んな事は考えもしなかったわ。ロンカット商業地区にお店を出せたらいいな程
度で始めたもの。
「成る程、仰る通りです。詳しい話しは何れ聞きたいところですが本日は顔合
わせ、その手腕から今までの事を聞きたいところです。」
カーダリアは穏やかに言うが、声には隠しきれていない感情が混じっている気
がする。
「はは、私は大した事はしていません。お耳汚しになるかもしれませんよ。」
「是非お聞かせ願いたいわ。」
苦笑して言うウェレスに、サーマウヤの言葉は社交的だがこちらは感情を殺し
ている様だった。仇を目の前にしてのその態度は、どれ程心を縛り付けて対峙
しているのだろうか。
「私の功績ではなく、配下の者が優秀なんですよ。彼等のお陰で会社は成り立
っているのですから。」
笑顔で言うウェレスの言葉は薄っぺらい。ウェレスへの嫌悪から来る偏見では
なく、本当に上部だけの言葉にしか聞こえないのは、実際そうなのだろう。
「ご謙遜を。」
「いえ、本当です。」
カーダリアも思っていない事を言っているため、乾いた言葉だけが長机の上を
漂っていく。単刀直入に言って欲しいわ、夫妻には申し訳ないけれど聞いてい
て苛々するもの。
「先ほど言われた優秀な社員に、ヤミトナ殿がいると聞いたのですが、ご健在
かな?実際に優秀であれば彼とも話してみたいものです。」
ウェレスの発言からカーダリアは上手く話しを繋げた。報道になっているのだ
から、知っている人は知っているだろうが、オーレンフィネアの枢機卿が他国
の一事件など知らないのが普通だろう。あくまでネヴェライオにそういう人材
がいるという噂程度の内容であれば、不自然な気はしない。それは効果があっ
た様で、ヤミトナの名前が出たときウェレスの目が一瞬鋭くなったのが見えた。
「ヤミトナさんも名前が知れているとは嬉しい限りですが、彼は少し前に退職
してしまいまして。非常に優秀だったのでとても残念です。」
ウェレスは憂いの表情をしながら言った。
「そうですか、それは残念です。」
カーダリアの言葉にウェレスは何かを思い出した様に目を見開く。
「そういえば、ヤミトナさんはオーレンフィネアで結婚すると言ってました。
探してみてはどうでしょう?」
流石にそれは白々しいでしょう。私はそろそろ限界なのだけど、それより先に
カーダリアが踏み込んだ。
「死人を探せとは異な事を。」
まったくよね。ウェレスはカーダリアのその言葉で笑顔が消えている。
「知っているのだよ、ヴァールハイア家の娘が結婚相手だったのだから。」
沸き上がる憤激を押さえているのだろう、それでもカーダリアの言葉にはその
感情が滲み出ている。
「そうだったのですか、退職後の彼の動向は知りませんでしたが、非常に残念
です。」
ウェレスはその言葉とは裏腹に、鋭い目でカーダリアを見据えている。
「おかしな事を。ヤミトナ殿と娘のアールメリダはあなたの元を訪れた後に消
息を断っている。」
カーダリアが核心に触れると、ウェレスの顔から表情が消えた。見るものをぞ
っとさせるような能面の顔に、何も映さない様な深い闇を纏った瞳を携えてい
た。
(これが本性?)
私はその顔に恐怖を感じた。
「視察は建前でそれが狙いですか。確かにヤミトナさんは女性と退職時に来ま
したが、アルメイナという女性でしたよ。」
「アールメリダ・ヴァールハイア。グラドリアではアルメイナ・レヴェティス
と名乗っていたのよ。」
私は思わず口を挟んだ。挟まずにはいられなかった。何時までも惚けられるも
のでもないし、メアズーが情報を漏らしているのだから。惚けるウェレスにう
んざりして来た。
「それは知りませんでした。が、二人はちゃんと帰りましたよ。」
能面の顔を私に向けてウェレスは言ってきた。
「辛うじて生きて、な。」
え?ウェレスが殺したんじゃないの?辛うじて生きてとはどういう事?どうや
ら私の知らない事情があるようだ。しかし、その内部事情を知っているのは内
部の人間だけの筈だ。ウェレスも当然気付いたのだろう、能面をメアズーに向
ける。メアズーはウェレスに見られると、目を細めて口の両端を吊り上げ妖し
く笑う。
「全部言っちゃった。ぶひゃっ。」
うわ、あっさりぶちまけた。メアズーの愉悦に歪んだ顔は、その言葉を切っ掛
けにこれから起こる事態が楽しみでならないと語っている様だった。
2.「生者と死者の違いとはなんだ。そもそも死者は者なのか物なのか、器が物
であれば者は何処にあるのか。」
ウェレスはゆっくりと立ち上がると、メアズーに身体を向けて能面のまま見据
える。
「これはどういう事か説明して欲しいですね、ニグレースさん。」
「ニグレースですって!?」
ウェレスの言葉に私は思わず叫んでいた。一斉に視線が集まる中、名前を呼ば
れた当人だけは愉快そうにしている。
「此処ではね。メアズーじゃないなんて一言も言ってないよ。てへっ。」
愉快そうにメアズーが言った。この女がニグレースだったのか、これでアイキ
ナ市で起きた変死体の事件の容疑者が見つかったわけだ。私が知っている二件
は少なくともこの女の仕業だろう。ということは、ヤミトナとアールメリダを
殺したのはこの女か。ご丁寧に名前を残していた事を考えれば。しかし、今は
悠長に考えている場合じゃない。
「カーダリア卿、アールメリダを殺したのはその女よ。」
だがカーダリアは私の言葉に軽く頷くだけで動揺などしなかった。
「知っている。」
「え?」
カーダリアの返答は私の思考を一瞬停止させた。知っていたって。知っていて
微塵もそんな素振りを見せずにここまで来たってこと?ウェレスが殺したのじ
ゃないなら、何故ウェレスに復讐なんて言ったの?私はまだ状況が理解出来な
くて戸惑いだけが頭の中を巡る。
「知っているなら矛先を向けるのは私ではないのではありませんか?」
カーダリアの言葉に反応して、ウェレスは能面をカーダリアに向けて言った。
「勿論、瀕死だった娘に止めを刺した彼女も対象だが、助からない状態までい
たぶり辱しめ、壊したのはお前だろう。」
もう隠すことなく出した殺気をウェレスに向けて、カーダリアは言った。
「何を根拠に言っているのです?」
カーダリアの言及にもウェレスは白を切る。
「あー、映像付きで全部教えたからね。ぐひゃっ。」
メアズー、いやニグレース、どっちでもいいか。メアズーはそう言うと腹を抱
えて笑い出した。
「ニグレースさん、貴女は何がしたいのですか。」
ウェレスは背広の上着の内側から銃を引き抜くとメアズーに向ける。室内に居
た配下の男性二人も銃を抜いてニグレースに向けた。
「決まってるよ、私が愉しいこと。うはっ。」
メアズーが喋り終える直後、銃声が鳴り響き場の状況が一変する。ウェレスは
撃った銃を手放し、後ろへ跳躍している。弾丸はメアズーが避けて、窓硝子に
食い込んでいた。ウェレスが手放した銃は、銃身がカーダリアの斬撃により空
中分解して落下する。何処から抜いたのかは分からないが、両手に細身の剣を
握っていた。
同時にサーマウヤが配下の男性二人に向かい駆けながら、ドレスのスカートか
ら細身の剣を二本抜いて両手に持つ。配下の男性は虚を突かれた様に硬直する
が、直ぐ様銃口をサーマウヤに向けて撃つ。サーマウヤは足を狙った弾道を見
切り横跳びに避けると、直角に軌道を変え一気に間合いを詰め二刀を振るい、
男性二人の銃を持った手を手首から斬り落とした。そのまま勢いを殺さず駆け
抜けながら身体を回転させたサーマウヤの斬撃は、男性二人の鼻から上を斬り
飛ばし、続いて首を斬り付けた。
(あのおばちゃん強すぎじゃないか。)
と考えている間に紅月で身体強化の呪紋式を撃ち終えていた私は、開け放たれ
たばかり扉に駆け出す。銃声を聞いて外で待機していた男性二人が部屋へ入っ
てくる。その手には既に銃を持っており、駆け寄る私に銃口が向けられた。
手前の男性の銃を持った腕を右手の<六華式拳闘術・華流閃>で斬り落とし、勢
いを殺さず左の肩当てで吹き飛ばす。男性は壁に叩き付けられて呻きを洩らす。
もう一人の男性が私の胸を目掛けて発砲。既に腰を落としていた私はその体勢
から跳ね起きるように踏み込んで<六華式拳闘術・華咬門>を胸へ放ち、当たる
直前で腕が伸びきり止まる。直後、胸骨が折れ肺を潰し、原形を失った心臓が
動脈を引き千切って赤黒い体液を撒き散らし背後へ噴き出す。壁に赤い斑点を
作った男性は自分の胸に開いた穴に目を向けるが、邪魔なので左手で張り倒す。
視界が開けた私は直ぐに、壁に叩き付けた男性目掛けて右足を蹴り上げ<六華
式拳闘術・華巖閃>を放つ。生成された真空の刃が、男性の左顎から右耳の上
まで駆け抜け頭を割った。断面から血と脳漿を溢して崩れ落ちていく。
振り上げた足を降ろす前に私は悪寒を感じ、左膝を折って前転。一瞬視界に入
ったのはナイフを振って交差したメアズーの両手だった。危なく背中を斬り裂
かれるところだった。
転がり終わると両手足を使って真横に跳ねる、私がいた場所をメアズーの左手
の振り下ろしが空を凪ぐ。その振り下ろしが終わる前にメアズーは直角に軌道
を変え私に追いすがった。
(速いっ。)
メアズーが私に向かってナイフを突き出そうとするが、止めて後ろに身体を捌
く。メアズーがいた場所をリュティの爪が空を裂いて通り過ぎたため、それを
察知したのだろう。
「やっぱり人殺しだったね、あはっ。」
メアズーは愉しげに笑みを浮かべて、ナイフの刃を舐める。刀身に赤い筋を引
いて舐め終わると、目を恍惚とさせた。出血した舌で舐めた唇が、真っ赤な口
紅を塗ったように染まる。
(うげっ、完全に変態だ。)
「いや、愉快だね。ぶへっ。」
「こっちはちっとも愉快じゃないわ。」
体勢を整えて私は吐き捨てた、横にリュティが並んでくる。
「ありがと。」
リュティにお礼を言うと頷き返して来る。横目に夫妻を見ると、夫妻の四刀を
捌いているウェレスが目に入る。
(やっぱ強いじゃねーか、阿呆裁院め。)
「あっちが気になってるんだね。私はあなたが気になちゃって。あへっ。」
メアズーは私に妖しく笑むと、両手は垂らしたまま急加速で突進を開始した。
ウェレスはカーダリアの二刀を右手に持った曲刀と左手に逆手で持ったナイフ
で受けると、右手で受けた剣を弾いて、サーマウヤの打ち降ろしをカーダリア
の剣で防ぎ、後ろに跳び退さって続く突きをかわす。
「私はあなた方にもう用は無いんですが。」
カーダリアが右手で左凪ぎ払いをすると、ウェレスは曲刀を縦にして受け止め
左手でカーダリアの右手を突く。同時にカーダリアが出す首に向かう左手の刺
突を上体を僅かにずらし、曲刀を跳ね上げて弾きつつ、横から来たサーマウヤ
の突きをナイフで叩き落とす。
「私たちにはある! 」
サーマウヤの続く横凪ぎ払いを後ろに退いて避けると、カーダリアが追いすが
り両手の剣を袈裟斬りに振り抜く。
「ヤミトナさんと一緒になろうとしたのが運の尽き、ですかね。」
ウェレスは言いながら袈裟斬りを横に身体を捌いて避けつつカーダリアに曲刀
で斬りつける。が、跳ね上がったカーダリアの左手が視界に入ると咄嗟に右手
を引くが、切り上げた剣先が腕を掠めた。切り裂かれた背広から鮮血が飛沫く
と、黒く背広を染めていく。
「なかなかやりますね。」
サーマウヤの横凪ぎをナイフで打ち払いつつウェレスは言った。
「わたくしたちも、衰えたものですわ。」
続けて繰り出すサーマウヤの突きをウェレスはナイフで下から跳ね上げると同
時に、曲刀を打ち降ろしてへし折る。甲高い音を立てて折れた刀身が宙に舞う
中、カーダリアが連続の突き放つ。ウェレスはその突きを避け、弾き、受けつ
つ下がり始める。遠く長机の上では折れた刀身が料理の皿を砕いて木製の机に
突き刺さった。
「双朱華は現役だと思っていたのだがな。」
突きを出す手を緩めず、カーダリアは顔に苦いものを浮かべて言った。姿勢を
低くして背後に回り込んだサーマウヤが、ウェレスの背中に切り上げを放つ。
ウェレスは突きを身体を回転させて弾き、切り上げも避けるとサーマウヤに踏
み込んで体当たりをかます。吹き飛ばされたサーマウヤが壁に叩き付けられ、
同時にウェレスが投擲したナイフがサーマウヤの左上腕を貫いた。
「あぐっ!」
サーマウヤが苦鳴を漏らす。直後、ウェレスはナイフを投擲した左手が、手首
より先が吹き飛んだ事に驚愕する。続いたカーダリアの首への凪ぎ払いを、身
体を落とし避け、顔に来た突きを曲刀で弾くと両足で床を蹴って大きく跳躍し
て距離を取る。
「あなたですか。」
ウェレスは壁を陥没させ柄までめり込んだ短剣とユリファラを交互に見る。
「悪ぃ、邪魔しちまった。」
ユリファラはウェレスから目は離さずカーダリアに言った。
「いや、感謝する。」
「ええ、可愛い娘の援護ですもの。」
カーダリアは頷き、サーマウヤはユリファラに笑みを向けると体勢を立て直し
てウェレスに向き直る。ユリファラはサーマウヤの言葉と笑顔に、唇を噛んだ。
血に染まる左手は未だに折れた剣を離しはせず、顔から闘志も消えていないサ
ーマウヤを見ると、言い表せない感情が込み上げて来て。
「やっかいですね。」
血を流し続ける左手に、能面が携える暗い瞳で一瞥すると、三人に目を向ける。
「サーマウヤ、行けるか。」
「ええ、いつでも。」
カーダリアは笑みを浮かべて言うと、サーマウヤも笑顔で応じた。
突進してくるメアズーに対して軽く左足を前に出し床を踏みつけ、胸部に肘を
打つ。当たれば肺が潰れる必死の攻撃をメアズーは余裕で避けると、左手のナ
イフを下から閃かせてくる。肘は相手の攻撃を誘うつもりで出しただけなので、
直ぐに次の行動に移る。メアズーの左手を破壊するために、右手の拳で腕を打
ちに行くが、メアズーは瞬時に逆手に持ち替え防御に切り替える。私は右手を
引く流れで左手の回し打ちをメアズーの胸部に放つが、メアズーは左手のナイ
フを上に放り投げる。
(はっ?)
ナイフを放り投げた意味が分からないが、考えている暇はない。その左手の掌
底で私の左手を払い、直ぐ様右手のナイフで切り上げて来た。
(っ!)
私は咄嗟に左手を引くが腕に熱。赤い糸を引いてナイフが通り過ぎると、私は
後ろに跳ぶ。私の手を弾いたメアズーの左手は上に伸ばされ、投げたナイフを
掴みそのまま振り下ろされて、跳んだ直後の私が居た空間を切り裂いていた。
誘ったはいいが速すぎて切り返された。
(あぶないわね。曲芸師か。)
と思うが曲芸にしては危険で速すぎる。メアズーは私を追う形で右足で踏み込
み、右手のナイフで刺突を繰り出して来る。雪華を抜いていた私は自分の背中
に向かい引き金を引いていた。ナイフを横に跳躍して避けると、白光の呪紋式
が既に指向性を持った暴風に変化して猛威を奮う。目を見開いたメアズーが咄
嗟に横に跳ぶが、暴風の範囲から抜け出す事が出来ず巻き込まれ、回転しなが
ら壁に激突した。私が背中に向かって撃ったのは、呪紋式の発動を見られない
ためだったが吹っ飛ばす以外の効果は無い。
暴風はその先にあったテーブルとソファーを飲み込んで行く。吹き飛ばされた
テーブルは奥の部屋を隔てている壁を粉砕しもろとも砕け、ソファーは窓硝子
を砕いて床に落下した。割れた硝子からは外気が流れ込んで来る。
(うっ、修理費私じゃないよね。)
雪華の薬莢を籠め変えた私がメアズーを見ると、跳ね起きてこちらに突進を始
めるが直ぐに軌道を変える。部屋の入り口にはホテルの従業員と警備員が、騒
ぎを聞きつけ駆け付けたようだ。最初の銃声がきっかけになったのだろう。メ
アズーが方向転換して向かったのは、その現れた従業員と警備員に対してだっ
た。
それはまずい。
「まっ・・・」
止めようとしたが最初に入った警備員の首半分を、メアズーの左手に持ったナ
イフが通り抜ける。
(くそっ!)
私はメアズーへ向かって駆け出す。警備員の首から鮮血が吹き出し紅い霧が作
られていく向こうで、従業員が恐怖に目を見開き呆けたように口を開いて硬直
している。逃げる事を促したところで身体は動かないし、思考も回らないだろ
う。メアズーは警備員を斬った反対の手を、従業員に向かって振る。
(間に合わないか?)
背後に追い付いた私は踏み込んでメアズーの背中に右拳で突きを放つ。同時に
左腹部に激痛。見るとメアズーの左手がナイフを逆手に持ち、後ろに突きだし
ていた。メアズーは私の突きを身を捩って避けつつ従業員に振っていた右手を
そのまま私に向かって旋回させてきた。その顔は舌を出して笑っていやがった。
(初めから私が狙いかっ!)
慌てて後ろに跳ぶが左上腕と左胸をナイフが掠めて行く。
「ミリア!」
後ろからリュティの声がするが、相手にしていられる状況じゃない。メアズー
は私が跳んだと同時にナイフを手から放す。私の左胸を掠めたナイフは、跳ん
だ私に追い縋って来る。
(っ!)
遠心力で勢いの付いたナイフは、私の右肩を切り裂いて後方へ抜けた。対応力
が尋常じゃない。けれど、幸いどれも深手には至っていないから未だいける。
メアズーが左手のナイフを順手に持ち替えて、腹部目掛けて追い討ちの突きを
繰り出してくる。
私はさらに後ろへ跳びながら雪華を正面に撃つ。メアズーに照準を合わせる必
要はない。目の前に浮かんだ白光は直ぐ様剣身を生成、私は次の薬莢を籠めな
がら、生成された剣身を蹴っていく。無作為に飛んだ六本の剣は、一本は外れ
壁に突き刺さり、二本は床に刺さり、残り三本はメアズーに飛来するが全て叩
き落とされる。私はそれを待たずにメアズーに向けて雪華の引き金を引いた。
一瞬浮かんだ白光の後、電撃が迸ると刺さった剣身を避雷針にしてメアズーの
周囲を閃光とともに駆け抜けた。
(これでどう?)
メアズーは硬直し、口を半開きにして白目を見せている。口角から滴った涎を
舌で舐めると、恍惚とした目を私に向けてきた。
(効いてない!?)
直撃すれば血液が沸騰して瞬時に死ぬ筈の電撃なのに、いくら分散されたとは
言えそんな筈は。
「痛いなぁ。でも愉しいことしてくれるね。うへっ。」
あったわ、効いてないし。それに気持ち悪いなこいつ。とか言ってる場合じゃ
なく、地味に左脇腹と右肩の裂傷がきつい。
「もう一発撃っちゃいなよ、何れ力尽きるよ、今のままじゃ。いひっ。」
こいつ、身体強化の呪紋式の事を言ってるのか。ベイオスもやって生きていた
なら、私も可能だろうか。
「駄目よ。」
背後からリュティが静止してくる。何時もより口調が強いので、駄目なんだろ
う。どんな効果、若しくは副作用が起きるのか想像も出来ないが、呪紋式を教
えた本人が言ってるのだからこの方法は却下ね。
「一緒に狂おうよ。ぶひゃっ。」
メアズーは知ってて言った気がする。余計に却下だ。私は雪華に別の薬莢を籠
める。
「さっきのなら効かないと思うよ。あへっ。」
私は苦い顔をして雪華を仕舞うと、メアズーが動く気配を見せないので紅月を
出して止血と痛み止めの呪紋式を撃った。それでもメアズーに動く気配はない。
私は後ろに跳んで距離を取ると、リュティに小声で話し掛ける。
「何か方法は無いの?」
「ないわよ。」
即答するリュティ、使えないわね。
「私はあなたを死なせない為に来たのよ。」
何度も死にかけているのだけど。手伝いって一体何?手伝うとか言ってなかっ
た?何が手伝いのかまったく分からないわ。そう思い半眼をリュティ向けると、
視界に左手の手首から血を撒きながら跳び退さるウェレスの姿が見えた。サー
マウヤも左上腕にナイフが刺さりかなり出血しているようだ。その手で折れた
剣を持っている。
(向こうも長くなさそうね。)
こっちも長くないのよ、私の体力的に。向こうを気にしていたら、メアズーの
右手が動くのを目にする。右手で新しいナイフを取り出したところだった。
「休めたかな、続き行こう。むふっ。」
余裕くれて私に休憩時間を与えていたのか。いや、自分が休んでいた可能性も
ある。何から?例えば電撃のダメージから。と、これは私に都合のいい考えだ
が試してみる価値はあるか。それかカーダリア達の闘いを気にしていただけか
も知れないが。とりあえず試そうと雪華の薬莢を籠め変える。メアズーには先
程籠めた薬莢が電撃で、効かないから薬莢を変えたと思わせられたらいいなと
思う。
メアズーはそう言うと、左手を振って後ろにナイフを投げ捨て新しいナイフを
抜く。
「っぎゃああぁぁっ!」
直後に聞こえる絶叫。背後で硬直したままで居た従業員の左目を貫いてナイフ
が突き刺さっていた。メアズーは口の両端を吊り上げて顔に愉悦を浮かべる。
(こいつはっ!)
私は感情に任せてメアズーとの距離を一気に詰めると、右足で踏み込んで右拳
を突き出す。間合いから逃れる様にメアズーは後ろに退がるが気付いたのか身
体を捩って、<六華式拳闘術・華徹閃>が放つ衝撃をかわす。が、僅かに右脇
腹を掠め肉を抉る。その隙に雪華を撃ち呪紋式を発動、同時に私は前転でメア
ズーを通り過ぎる。白光に気付いたメアズーが横に跳ぶ。私は床に落ちた刀身
を拾い、跳んだメアズーの軌道へ投擲する。白光から放たれた電撃が刀身を追
尾するように唸り迸る。メアズーは驚きに目を見開いて、ナイフで刀身を弾く
が電撃はメアズーを駆け抜けた。
着地と同時にメアズーが硬直、どうせ死んでないだろうと思い右足を蹴り上げ
る。<六華式拳闘術・華巖閃>で放たれた鎌鼬を追うように私はメアズーに向
かって駆け出し、メアズーが身体を捩って鎌鼬を避けたところへ、追撃の<六
華式拳闘術・朔破閃>。が、大きく後方へ跳躍したメアズーの居た床を大きく
陥没させただけだった。
(くっ、やっぱり効かないの?)
そう思いながらメアズーを見ると、鼻から血が垂れていた。
「だから痛いってば。あひっ。」
メアズーはそう言って鼻から流れる血を舐める。効いてない事はないようだけ
ど、電撃の薬莢はもう無いのよね。しかし頑丈過ぎる。
「それとね、掛心の技は大体知ってるから当たらないと思うよ。ぶふっ。」
メアズーは可笑しそうに肩を震わせ笑う。むかつく。それよりまた?なんなの
よその掛心って。
「でも、呪紋式と合わせてる奴は初めて。あひゃっ。」
目を細め愉快そうに笑むと私に視線を這わせる。うげっ。気持ち悪い。
「ああ、そろそろ飽きたよ。うへっ。」
メアズーはそう言うとウェレスの方へ目を向ける。私も釣られて横目に見ると、
向こうは終わりそうだった。
距離を取ったウェレスにユリファラが短剣を投擲、身を捩ってかわしたウェレ
スにカーダリアが右の袈裟斬りを打ち降ろす。ウェレスが曲刀で受けたところ
へカーダリアの左突きが胴へ繰り出される。ウェレスは受けた剣を弾いて、横
へ身体を捌いて避ける。そこへサーマウヤの突きが頭部を狙う。身を屈めてウ
ェレスは避けるがサーマウヤの突きは打ち降ろしへ変化。ウェレスは横転して
回避、続く弾丸の様に飛来したユリファラが投擲した短剣を跳んで回避する。
短剣は床を破砕して斜めに突き刺さった。
「ちょこまかとうぜぇ!」
ユリファラが吠えている間にカーダリアが間合いを詰め、左の突き。ウェレス
は曲刀で軌道を逸らすと刃を滑らせてカーダリアの頭部に斬り上げる。カーダ
リアは上半身を反らして躱しつつ右の突きを繰り出す。ウェレスは左腕振って
弾くと曲刀を斬り降ろし変化させる。それを読んでいたかの様にカーダリアの
右手の剣が変化した直後の曲刀を頭上で受け止め、弾かれた左手の剣が横凪ぎ
に変化してウェレスの胴を薙ぎにいく。
身を退いてかわしたウェレスの首にサーマウヤの凪ぎ払いが襲いかかるが曲刀
を縦に防ぐと受け流し、そのまま刀身を滑らせてサーマウヤを切り払う。反対
方向へ跳んだサーマウヤが曲刀から逃れると、入れ替わりでカーダリアが左手
の剣を上段から振り下ろす。それを読んでいた様にウェレスはカーダリアの懐
に身を滑る様に移動させると渾身の突きを繰り出した。カーダリアの剣が振り
降ろされより速く曲刀がカーダリアの腹部を貫通し、背中から血と一緒に剣先
が飛び出す。
「サーマウヤ!!」
カーダリアは叫びながら踏み込んで、右手をウェレスの腰に回して自分の身体
に押し付け拘束すると、左手の剣をウェレスの右腕から腹部へ貫通させ縫い止
める。
「はい!」
「おっさん!!」
サーマウヤが応え走り出す中、ユリファラは何も出来ず悲痛な叫びを上げただ
けで、顔は今にも泣き出しそうな表情になる。ウェレスはその状態でも能面の
表情を変えることなく、カーダリアの首筋に噛みついた。そこへサーマウヤの
刺突がウェレスの背中から胸を貫通しカーダリアごと貫いた。
ウェレスはその反動で顔を仰け反らせる様に後ろに頭を振る。皮膚が千切れる
音と共にカーダリアの首から鮮血が吹き出した。ウェレスはさらに左手でカー
ダリアを殴ろうとするが、サーマウヤが折れた剣で左上腕を斬りつけながら押
さえ込む。
「アールメリダ・・・」
サーマウヤが娘の名前を呟いて笑みを見せたところで、胸を剣が貫いた。カー
ダリアが右手の剣をウェレスの左脇腹から突き入れ、サーマウヤまで貫いてい
た。
すべての動きが止まる。ほんの一時だが長い静寂に包まれように部屋の中が静
まる。血が床に滴る音だけを残して。
「ごほっ・・・」
一時の静寂を破り、サーマウヤの口から声と一緒に血が吐き出される。
「あなた、幸せでしたよ・・・」
サーマウヤはそう言うと笑顔をカーダリアへ向けるが、挟んだウェレスによっ
て届かない。だが、ウェレスの存在は無いかの様にカーダリアもサーマウヤの
方へ笑みを向けた。
「ああ、私もだ・・・」
カーダリアはそれだけ言うと目を閉じて、二度と口を開くことは無くなった。
それを分かっている様に、サーマウヤも笑みを浮かべ、目から涙を流しながら
動かなくなった。
「あんたらは馬鹿かっ!!」
大粒の涙を零しながらユリファラの声が静かになった部屋に虚しく響く。
そこでウェレスの身体が揺らぎ、カーダリアに頭突きをいれると左腕を身体の
間に挿し込んでカーダリアを引き剥がす。カーダリアは鈍いを音を立てて床に
仰向けで倒れた。ウェレスは血に染まった顔は能面のままで、何も映さない闇
を纏った瞳も変わらずに、前へ踏み出しながら左肘でサーマウヤの身体も引き
剥がす。サーマウヤも同様に仰向けでその場に背中から床に激突した。
「まったく、ふざけた人達ですね。」
ヴァールハイア夫妻から解放されたウェレスは、何処を見るともなく呟いた。
「まだ、生きてん、のか・・・」
その光景に驚愕してユリファラが言葉を詰まらせながら驚きを漏らした。だが、
ウェレスは一歩踏み出そうとして、床に出来た血溜まりで滑り崩れるように横
に倒れ込んだ。その様子をユリファラは、まだ起き上がるのではないかと見て
いたが、ウェレスは二度と動くことは無かった。
「なんかね、冷めたよ。うへっ。」
夫妻に壮絶な最後を見せつけられ、メアズーに手こずっていなければ死なせず
にすんだのじゃないのかと、忸怩たる思いを嘲笑されたようで怒りが込み上げ
る。ただ、自分の弱さが恨めしい。メアズーを殺せていれば、夫妻を助けられ
たかも知れないと思い、メアズーを睨みつける。
「いや、自分の力不足を棚に上げるなよ。ぶひっ。」
当然の様に私の思いは見透かされ、図星を突かれる。メアズーに言われなくて
も自分が一番良く分かっている。そんな事とは別にどうにもならない感情が沸
き上がって止まらない。
「そうだとしても、あんたを許す事は出来ない。これの一体何が面白しろいの
よ!?」
メアズーは肩を竦めて見せると、ナイフを仕舞いながら溜息を吐いた。
「さっきまでは愉しかったんだけどね、もう飽きたよ。たはっ。」
その態度に理性が飛んで、メアズーに向かって私は突進した。右足を蹴りあげ
<六華式拳闘術・華巖閃>を放ち、左に避けたメアズーに対して蹴り上げた右
足を踏込に使い<六華式拳闘術・華徹閃>で追い打ちをかける。
だがその拳は左手を軽く添えられ軌道を逸らされ、メアズーはそのまま身体を
回転させ、右の肩当で私を吹き飛ばした。
「くっ!」
体制を立て直し飛び起きると、メアズーは既に窓の方に走っていた。私が暴風
で破壊した窓に向かって。
「待て!逃げるな!」
「機会があったらまた遊ぼうよ。うぷっ。」
私も急いで追いかけるが、メアズーは妖しい笑みでそう言うと窓の外に飛び出
して行った。
(逃がさない!)
私も走る速度は緩めずに窓に向かう。
「止めなさいミリア!」
窓に向かって走っている私の前に、リュティが立ち塞がって言った。
「何にもしないなら引っ込んでてよ!」
押しのけて窓に向かおうとしたが、押しても押してもリュティは動かなかった。
私の目からは何時の間にか涙が溢れていた。
「私なんか放って置いて、夫妻助けてよ!何で黙って見てたのよ!」
私が不甲斐ないのは分かっている。それでもこの場に居たなら何かして欲しい
と当たる事しか出来ない。それは更に自分を惨めにするだけだと分かっていて
も。
「あの夫妻に割り込むのは、無理なのよ。」
リュティの悔しそうな顔をこの時初めて見た。普段は飄々として軽くあしらっ
たり演技掛かった表情しか見せないくせに。今は唇を噛んで自分を責めている
ような目をしていた。
「夫妻の顔、見たら分かるわよ。」
仰向けに事切れている夫妻へリュティは目を向ける。間にはユリファラが床に
両手をついて泣き崩れていた。私は力無い足取りで倒れている夫妻へ向かう。
ユリファラを通り過ぎる時、泣き声に混じり夫妻への悪態が聞こえた。それは
リュティと同じく、悔しさを表している内容だった。
カーダリアのもとに着くと顔をみる。全身血塗れで、顔も血に染まり未だに出
血は止まっていなく、ゆっくりと漏れ出している。ただ表情は穏やかな笑みを
浮かべていた。サーマウヤに近付くと、こちらはもっと幸せそうに微笑んでい
る。二人の顔を見ると昨夜の夕食を思い出して、また涙が溢れて来る。カーダ
リアの耳を引っ張り膨れて見せるサーマウヤ。以外と話し好きだったカーダリ
アに、終始笑顔でいらん事を聞いてくるサーマウヤを。
二人は幸せだったのだろうか。ヴァールハイアの名前に縛られていたのとは別
に。答えは分からない。今の二人の顔が答えなのかも知れない。受け取る側の。
サーマウヤの頬を伝った涙に気付き触れてみると、既に冷たかった。止まらな
い私の涙は冷たくないのに。
「なんで、生きてくれなかったのよ・・・」
その場で呻く私の肩に、いつの間にか近付いて来ていたリュティがそっと掌を
乗せた。
「警察局が来ているわ、もうすぐこの階にも人が雪崩れ込んで来るわよ。」
私は立ち上がるとリュティを見て頷いた。
「ごめん。」
私がそう言うとリュティは弱々しいが笑みを浮かべて頭を小さく振る。私の言
葉は、リュティの言った夫妻の事を肯定したものなのか、弱い自分を見せてい
る事なのか分からない。両方かも知れないし、違う事かも知れないが自然と口
にしていた。
「行こうか、見つかっても困るものね。」
リュティが頷くと、メアズーが飛び出した窓に向かう。
「ユリファラ、行くわよ。あんたも此処で見られるとまずいでしょ。」
「あいつら置いてけってのか!?」
床についていた手を離し勢いよく立ち上がると、ユリファラは私を睨んでそう
言った。
「私の想像だけどあの馬鹿夫妻はこう言うのよ、行けってね。しかも笑顔で。」
その言葉にユリファラは涙の量を加速させる。言わなくても分かっていたのだ
ろう。ヴァールハイア夫妻は私の中で馬鹿夫妻に決まった。それで十分でしょ。
そう思い、最期に夫妻の亡骸を一瞥して窓の方に歩きだす。
「うおっ、こえぇっ。」
先に走って窓に着いたユリファラが、窓の外を見て言った。恐いも何も出るな
らそこしか無い。
「じゃぁ、先に行くわね。」
私はそう言って窓の外を見て配管を見付けると、壁を伝って辿り着き素早く降
りる。慎重に降りて見付かるのも嫌だし。身軽なユリファラは私に倣い難なく
後を追ってきた。五階くらいからは飛び降りて、拳圧で勢いを殺して着地する
が、思った以上に身体にきているのかよろめく。それをリュティが支えてくれ
た。
(こいつは・・・)
私より先に降りていたリュティに呆れつつ、身体への負担が思った以上な事に
辟易する。
「大丈夫かしら?」
リュティが心配して声を掛けてくる。丁度降りたユリファラも心配そうに寄っ
てきた。
「ええ。」
と、返事はしたものの結構出血していた所為と、緊張が解けた所為とで思うよ
うに動けない状態だった。ただ、此処で立ち止まるわけにもいかない。
「早くここを離れないといけないわね。」
「だな。」
ユリファラがそう言い、リュティが頷くと足早にホテルから距離を取った。
リュティは途中でいなくなったが、ユリファラの案内で公園に着いた私は増血
の呪紋式を撃った。よろめいた時に使いたかったが一瞬とはいえ呪紋式の白光
は出したくなかったから。その後手洗い場で血を洗い流す。
(また服が駄目になったなぁ。)
勿体ないと思うが諦めるしかない、それは仕事上避けては通れない事だから。
今回の件は何れメアズーを見付けた時に払わせてやる。
「あたし、二人を死なす為に案内したんじゃねぇ。」
公園の椅子に座り落ち着くと、ユリファラが思い出したのかまた泣き出した。
「ああ、そういう事言われると、困るわよきっと。」
思ったより深い右肩の傷に、顔を顰めながら私は言った。
「なんでだよ・・・」
こちらを見ずに、呟くようにユリファラは言った。
「きっと感謝してるもの。」
私がそう言うとユリファラはそれ以上何も言わず、静かに泣いていた。私が言
った事も想像でしかないし、答えなんてもう知ることも出来ない。でも、たっ
た二日の知り合いだけどあの夫妻なら、そう思うんじゃないかと思えた。
そんな事を思っていると、リュティが紙袋を持って現れる。
「飲み物を買ってきたわ。」
何処に行ったのかと思えば、気を遣ってくれたのか。
「麦酒はないわよ。」
「えぇ・・・」
「その傷なのだから止めておきなさい。」
不満を口にする私にリュティは呆れて言った。仕事終わりの麦酒を飲みたいと
ころではあるが、ここはリュティの気遣いに感謝して、ホテルに戻ってから飲
む事にしよう。リュティが何処かのカフェから買ってきてくれた、フルーツを
交ぜた飲み物は、身体に沁み込むような感じがした。
それから殆ど会話もなく、リュティが買ってきてくれた飲み物を飲み終えると
その場で解散した。
翌朝、早めに目覚めた私は備え付けの冷蔵庫から麦酒を取り出すと、開栓して
喉に流し込む。昨夜は帰って来て、寝台に倒れ込んだ途端意識がなくなったの
で飲めていないから。
部屋のテレビを点けると、ネヴェライオ貿易総社の幹部暗殺か!?という見出
しで昨夜の事件がもう報道されていた。部屋で死んでいた身元不明の男女は現
在、アーランマルバの警察局が調査中らしい。
あの階で死んだのはウェレスとその配下四人、ニーザメルベアホテルの警備員
と従業員が一人ずつと報道が不明と言っている男女、ヴァールハイア夫妻だ。
何れ身元が明らかになるだろうが、真相は分からないだろう。グラドリア国で
殺害された法皇国オーレンフィネアの枢機卿、カーダリア・ヴァールハイアの
娘アールメリダ。グラドリア国内で死んだヴァールハイア夫妻。そこから娘の
敵討ちではないかという想像までは行き着くだろうけれど。その真相を知るあ
の場に居て生き残っている四人は、私を含めて誰かに言うとは思えなかった。
メアズーは変態だから頓着しないと思えたから。
「痛いな、いろいろ・・・」
私はテーブルに昨夜帰って来たときに置きっぱなしにした紅月を取ると、薬莢
を籠めて痛み止の呪紋式を自分に撃つ。だけど、消えない痛みもある。麦酒を
飲み干した私は浴室に行くと、シャワーを浴びた。こびり付いた血を、涙と一
緒に流すが焼き付いた記憶までは流せない。ただ今回は、夫妻の笑顔だけは流
したくはなかった。
浴室を出ると、冷蔵庫から麦酒を取り出しまた飲む。点けっぱなしのテレビか
らは繰り返し昨夜の事件が報道されている。ぼんやり見ているとネヴェライオ
の社長が緊急会見の見出しで映っていた。
(そう言えばウェレスは今日、エクリアラの開店式典に出る予定だったのよね
。)
内容を見る前に思い出した。昨夜の事ばかりですっかり忘れていたわ。内容は
良くあるもので、急に起きた出来事に驚きが隠せないとか、殺されたのであれ
ば犯人を許せないとか、エクリアラは待っている人の為に予定通り営業すると
か、そんな内容だ。
当初予定していたユリファラへの案内依頼は、昨夜の状態で頼めるわけもなく、
今日は一人で散策しようかと考えていた。折角開店日に現地入りしているのだ
から、エクリアラを眺めるのもいいし、適当な店でランチをしながら麦酒もい
いなと考えてみたり。
買い物は控えめにせざるを得ない。この傷で大荷物は無理なので、初日に目を
付けておいた数点の衣類や靴くらいかな、買うとしても。本当はいろんなお店
を見て回りたかったが、その気力もない。
(さて、そろそろ出る準備をしないとな。)
内心で呟くと、麦酒を飲み干してホテルを出る準備をする。大した荷物でもな
いので、それ程掛からずに支度が終わると、テレビを消して部屋を出る。
「一人で行こうとするなんて、冷たいわ。」
扉を開けると、横の壁に凭れ掛かっていたリュティがそう言った。昨夜はリュ
ティとも今日の話しはしなかった。お互い無言で部屋に戻ったのだから。今の
状態では、当初の予定通りに楽しめるかと言われても、分からないし。
「子供じゃないんだから、帰れるでしょ。」
私はそう言って通路を歩き始めると、リュティも並ぶように歩き始めた。結局
は一緒に行動するんだなと思い、それでもいいかと受け付けで手続きを済ませ
る。
「エクリアラ、冷やかしに行こうか。」
ホテルの出口へ向かいつつ、私が苦笑を浮かべてリュティに言うと、何時もの
微笑で頷いた。
「あたしも行くぞ。」
「っ?」
その声に吃驚して立ち止まる。入口付近で、パーカーのポケットに両手を突っ
込んで壁に寄りかかっているユリファラだった。
「リンハイアへの報告は?」
「もう済ませて来た。」
私の問いにユリファラは笑顔で返す。
「無理しなくてもいいのよ。」
昨日の今日だし、気持ちなんて簡単に整理がつくものでもない。そう思って言
ってみたが、ユリファラは首を振った。
「一人で居る方が、いろいろ考えて嫌なんだよ。」
よく知っている。痛い程。だから私はユリファラに笑顔で頷いた。
「じゃぁ、行きましょう。」
リュティに促され、私たちはエクリアラに向かうべく、ホテルを後にした。
返す事などしないだろう。」
「んまい。」
ホテルの朝食は当然の如く美味しい。朝からロストポークとか贅沢この上無い。
薄く切られこんがり焼いたバゲットに玉葱や水菜を一緒に挟んで頬張るのもま
た絶品。
「そう言えば、スモークチキンも在ったわね。」
それも食べようかな。クロワッサンが在ったわね、チーズも在ったからレタス
やトマトと一緒に挟んだら美味しそう。しかし麦酒が無いのが残念、在ったら
パンではなく迷うことなくそっちを選んだのに。
「よく食べるわね。」
テーブルの向かいに座るリュティは、ヨーグルトにフルーツ盛り合わせを、紅
茶を飲みながら食べている。気取りやがって。
「朝から私の五倍は食べる、ヒリルとかいう女もいるわよ。」
リュティの言葉で、少し前に行ったモッカルイア領への旅行を思い出した。ホ
テルのモーニングビュッフェを大量に食べていた時に、私がヒリルに言ったよ
うな事を言われて。
五倍は言い過ぎか?ま、いいか。
「あの娘は本当によく食べるわよね。ただ朝からは驚きだわ。」
まあ私も食べる時は食べるけど、ヒリルの様に朝からあの量は無理だわ。
「ここに居たらその光景に呆れるわよ。」
私がそう言うとリュティは軽く吹き出す様に笑った。私でも既に呆れていると
言わんばかりに。私はまだローストポークしか食べてないっての。
「今日の予定は?夕方まで時間があるでしょう?」
そうなのよね。来てから色々と予定が変わりっぱなしで、どうしていいのか分
からなくなってきたのよ。いい方向に変わったのは良かったけれど。
「買い物は明日がいいのよねぇ。」
ユリファラは今日一日はヴァールハイア夫妻に付いてるから案内も頼めないし。
「アンパリス・ラ・メーベは行くのでしょう?」
「それはもちろん。」
そこに行かなければ王都アーランマルバに来た意味がない。私の中ではアーラ
ンマルバはアンパリス・ラ・メーベみたいなものよ。実はリュティも気になっ
てしょうがないんだな。
「向かいながら考えたら?」
「そうね。」
それが妥当なところよね。朝食が終わったら、ホテルを出なきゃいけない時間
になるし。寛いでもいられない。
「その前にまずは。」
そう言って椅子から立ち上がる私に、リュティが怪訝な顔を向けてくる。
「スモークチキンよ。」
直ぐ様呆れ顔になった。失礼ね。
「どうよ。」
「別にミリアが作ったわけじゃないでしょう。」
アンパリス・ラ・メーベの店内に併設されたカフェ区域で、シュークリームを
食べたリュティに胸を逸らして言った私に対して、リュティが冷めた反応を返
してきた。
「いやまあ、そうだけど。」
美味しいものを紹介した事くらい、態度に出してもいいじゃない。自分が異常
なくらい好きという自覚は一応あるけれど、人気があるのも美味しさの表れで
しょ。
「でも、本当に美味しいわ。」
「でしょう。」
併設されたカフェでも一時間程待って入れた。当然、持ち帰りの行列も出来て
いるが、以前来た時よりも長い。もしかすると、エクリアラの開店に伴ってお
客さんが増えている可能性もありそうだ。
分店が出店前に本店のを食べておこうとか、食べ比べなど。エクリアラ開店に
備えてアーランマルバに来ている人など、明日開店なのだから前泊で来ている
人も多そう。
「しかし、本当に凄い人気なのね。」
お店に来たときからリュティは驚いているのか、感心しているのか分かりずら
い態度だが、ずっとそんな調子だ。
「食べて分かったでしょ?」
リュティは首を少し傾げた。そこまでじゃなかったのだろうか。
「確かに凄く美味しいわ。ただ、デザートの美味しいお店なら他にもあるじゃ
ない。」
そういう事か。
「違うのよ。美味しい上に一つ二百よ、金額。価格的に気軽に楽しめるし、喜
ばれるからお土産にもしやすい。お土産にしたって買いやすい金額なのよ。た
だ美味しいってだけじゃないの。」
私の説明にリュティが目を丸くした。
「成る程、そういう理由があったのね。これ程の混雑を見せるわけが分かった
わ。」
理解してくれたようだ。というか、他でも美味しいデザートが食べられるとか、
お金持ちの発想よね。
「並んででも、より安価で幸福感が得たいのよ。そりゃお金があったら、美味
しいものが食べられる範囲は広がるけれど。」
私の言葉にリュティは苦笑する。
「そういう意味で言ったのではないのよ。」
そうか。貧しいのは私の思考だったのね。その発想がお金持ちの、と安直な考
えをする事の方が。考え方は人それぞれだ、リュティは単に疑問を口にしただ
けなのだろう。
「私が浅慮だったわ。」
「そんな事無いわよ。ミリアの説明で状況は理解出来たのだから。」
リュティは微笑んで言った。そう言われると嬉しいというか、救われた気持ち
になる。
「なんか、知ったら余計美味しく感じるわ。」
リュティはそう言って三つ目のシュークリームを頬張る。カスタードクリーム
とチョコレートクリームを二つずつという我が儘注文をしている。私は三つだ
ったのだが、既に食べ終えている。ちなみにチョコレートクリーム二つ。リュ
ティのプレートにはまだ一つ余っている。
「上げないわよ。」
くそっ。気付いたか。私は思わず舌打ちをしそうになる。
「手を伸ばしているのだから気付くわよ。素直に追加注文したら。」
「そうね。」
阿呆なやり取りする前にその方が早いよね。
「出てくる間での時間を省こうとしたのよ。」
「苦しい言い訳ね。」
リュティはにこやかに言った。なんだか負けた気分だわ。
「イリガートからの報告ですが、やはりオーレンフィネアの動きは沈静化した
ようです。」
アリータは何時もの様に、リンハイアの机の横に立ち報告をした。リンハイア
はグラスから水を飲むと無言で頷く。
「気になっているんじゃないのかい?」
リンハイアが口にしたのは報告に対しての言葉ではなく、予想外の問いにアリ
ータは戸惑う。
「何が、でしょうか?」
意味が分からずにアリータは問い返す。
「ペンスシャフル国の地下に何があるのか、何故法皇国オーレンフィネアは躍
起になってそれを探したのか。」
アリータはその内容に目を少し大きくした。気にならない筈はない、ただ聞い
ていいものかどうか分からなかった。むしろリンハイアが言わないのであれば、
知るべき事ではないとさえ思っていた。それをリンハイアの方から話しを振っ
て来るとは思いもしなかったから。
「はい。」
それが聞けるのであれば、是非知りたいとアリータは短く返事をする。
「今後の周辺国の動向について考慮すれば、動くにあたり知っていてもらいた
い。ただこれは、ほんの一握りの人間が秘匿しているこの大陸の秘密の一部と
なる情報だ。覚悟が無いのならば聞く事はお奨めしない。」
「聞かせてください。」
リンハイアは脅すように言ったが、アリータは即答した。リンハイアにとって
は、アリータの返事は分かっていた事だったが、念のため口に出して確認をし
たのだ。
「ペンスシャフル国の東にある、ターレデファンとういう小さな国に、嘗てメ
ーアクライズという町が在ったのを知っているかい?」
「確か、二十数年前に壊滅した町だったでしょうか?」
アリータはまだ子供の頃の話しだったので、執務諜員となってから読んだ資料
を記憶から呼び起こして確認する様に言った。それに対してリンハイアが頷く。
「確か、一晩で原型すら残らなかったとか。」
「そう。正確には夜のうち、ものの数分で荒野と化した。今でもメーアクライ
ズが在った場所は植物が育たないそうだよ。」
リンハイアはそう言うと水を口に含む。アリータは続きを待った。
「メーアクライズは人口九千二百八十六人の町で、呪文式に精通し小銃の開発
も盛んだった。当時では大陸でも有数の町だったのだよ。緑も豊かで景観の綺
麗な町だったと聞く。」
それだけの規模の町が数分で無くなった事にアリータは驚きを隠せなかった。
一夜で滅んだと資料にあり、不可解ではあったが原因は記載されていなかった。
過去の話しで原因も分からなかったため、その資料の事はそのうち忘れてしま
っていたが、その答えを目の前の執政統括は知っているのだと、その事実は怖
くすらあった。
「一体何が、その様な惨事を。」
それでも、原因を知りたいとアリータは踏み出す。
「大呪紋式だよ。」
「え・・・」
初めて聞くその言葉にアリータは戸惑いと、得体の知れない不安を感じた。
「その様なものが存在するのですか?」
リンハイアはいつの間にか真面目な表情になっていた。アリータの問いに頷く
と話しを続ける。
「未だに未知の呪紋式は数多くある。メーアクライズを滅ぼした大呪紋式がど
の様な効果なのかも解明されていない。だが、それは確実に存在する。」
数分で町を荒野に変え、一万人弱の人間を死滅させるような呪紋式が存在する。
その事実にアリータは恐怖を隠しきれない。
「誤発動ではないかと言われている。」
リンハイアは表情に苦さを浮かべて付け足した。
「そんなっ!?」
誤って発動しただけで起きる惨事としては、あまりに酷過ぎる。アリータは衝
撃から思わず声を大きくしていた。
「その大呪紋式が、ペンスシャフル国の地下にあるのだよ。オーレンフィネア
の推進派はそれを欲して動いていたわけだ。」
明かされた内容は、大陸の均衡を軽く覆す様な内容だった。オーレンフィネア
が何故躍起になっていたのか、リンハイアの情報開示でアリータはやっと理解
した。使用せずとも所持しているだけで威力を発揮する兵器なのだと。同時に
疑問が出てくる。
「どうして、ペンスシャフルはそれを利用しなかったのでしょう。」
もしその大呪紋式が在るのならば、ラウマカーラ教国が戦争を始めた時、あっ
さり敗戦などしなかったのではないかと。
「大呪紋式はペンスシャフル国にだけ在るわけではないからだよ。」
「っ!?」
続いて明かされた内容に、アリータは言葉も出なかった。同時にこの国にも存
在するのでは疑問も浮かぶ。
「私が知っている限り、ペンスシャフル国、法皇国オーレンフィネア、バノッ
バネフ皇国、ターレデファン国、サールニアス自治連国ナベンスク領、ラコン
ヌ大国、モルガベルスリ共和国、そしてこのグラドリア国。」
周辺国を含め自国にも存在する事を聞き、アリータは疑問が解消されると同時
に、恐怖が増した。
「在る、というだけで明確な所在は判明していないところが殆どだが、その存
在だけで驚異なのは言うまでもない。」
リンハイアも大呪紋式の脅威にか、何時もよりも真剣な面持ちで語っていく。
聞いている側だけではない、話しているリンハイアにも恐怖は在るのだとアリ
ータはその表情を見て思った。
「所在がはっきりしている所はあるのですか?」
アリータの問いに、リンハイアはゆっくり頷いた。
「今回の事で、ペンスシャフル国は明確になっただろうね。存在自体は代々の
剣聖が引き継いでいるらしい。」
アリータは最近報告していた件がそうだったのだと、ここで理解に達した。
「グラドリア国は代々の国王と執政統括が引き継いでいる。」
話しの流れから予想はしていたアリータだったが、実際に本人の口から聞くと
驚きは隠せなかった。
「法皇国オーレンフィネアはヴァールハイア家が語り継いでいる。私が知って
いるのはこのくらいだよ。」
「カーダリア卿が・・・」
オーレンフィネアの推進派は自国とペンスシャフルの大呪紋式を求めていたと
すれば、何に利用しようとしていたのかは想像に難くない。
「そう、彼はメーアクライズの件があったからこそ、ボルフォンに引いたのだ
よ。危険だからこそ、その所在と歴史を秘かに継ぐために。丁度推進派の動き
が活発になり始めた頃でもあったのも、要因の一つではあるのだが。」
それでユリファラを監視に付け、推進派の動きを警戒していたのだと、ここに
来てアリータは気付いた。ただ、リンハイアの言うとおりであれば、カーダリ
ア卿は既に枢機卿の立場に戻らないだろう。逆にそれは好都合なのではないか
とさえ思えた。
「推進派の計画は頓挫したからね、暫くオーレンフィネアに動きはない。おそ
らく剣聖オングレイコッカも、隣国の惨劇から使おうとは思わないだろう。」
「大呪紋式は、どれもその様な効果なのでしょうか?」
数分でもたらされる大惨劇を起こすのであれば、その存在自体があまりに危険
過ぎる。そんなものを自国含め周辺国は抱えているのだろうかと、アリータは
不安を口にした。
「分からない。似たような効果なのか、全く別の結果をもたらすのか、どちら
にしろメーアクライズの惨劇が在ったことが歯止めになっている事は間違いな
い。」
「そう、なのですね。」
確かに、そうなのだろうと思えた。だが、人の世ではそれを進んで使用してし
まう狂気を持った人間も必ず居るだろうとアリータは思う。何れその時が来る
のではないかと、不安が込み上げて来る。
「だからこそ、継ぐ為政者が選ばれるのだよ。」
アリータの不安を察した様に、リンハイアは言った。そのくらいの事を考えな
いリンハイアではないと分かってはいる。
「人がする事だ。懸念は消える事は無い。だからこその戒めとなったのだよ、
メーアクライズは為政者にとって。だが、それでも何時かは。」
リンハイアはそこで言葉を切ると、憂いの瞳を中空に向けた。今の時代は大丈
夫かも知れない。ただ、継ぐ為政者が変わった未来は分かりはしない。それを
思っての事ではないかと、アリータはその憂いの瞳を見た。
「話しが大き過ぎます。」
個人どころか、人が抱えるには過ぎた代物だと、思わざるを得なかった。
「私もそう思う。」
リンハイアはアリータに視線を戻すとそう言って微笑んだ。
「この話しはここまでにしよう。」
「はい。」
リンハイアが話題の打ちきりを告げた事で、アリータは重圧から解放されたよ
うな感じがした。
「ところでユリファラからの連絡は?」
「はい、昨夜受けております。」
アリータは一度言葉を止め、気持ちを切り替える様に軽く咳払いをして続ける。
「ヴァールハイア夫妻は、アーランマルバで宿泊中でした。このまま同行する
そうですが、如何いたしましょう?」
「このままでいいよ。最後まで見ておけと言ったのは私なのだから。」
リンハイアは苦笑して言った。アリータにその意味は分からなかったが。
「分かりました。それと、ミリアさんもアーランマルバに滞在中らしいですよ
。」
その報告にはリンハイアも怪訝な顔をした。が、直ぐに何時もの微笑に戻る。
「司法裁院だろうね。」
「おそらくは。」
リンハイアは続きが無いのか、特に何も言わないのでアリータは続ける。
「どうしますか。」
聞かれた事にリンハイアは以外な表情を一瞬すると苦笑した。その態度がアリ
ータにはよく分からなかった。
「彼女は私の配下ではないし、好きにさせておいて問題ないよ。」
今までの執着振りから何か言うかと思いきや、掌を返したリンハイアの態度に、
アリータは疑問を抱いた。
「時間が必要なのだよ、彼女には。彼女の歴史を識る時間がね。」
含みのあるリンハイアの言葉は、アリータには理解出来なかった。その解を口
にしないのは時期ではないからだろうとアリータは思うと、その先は考えない
事にした。時間が必要ならば満ちるまで待とうと。
「では二人に関しては傍観する事にします。」
「それで構わないよ。」
リンハイアは何時もの微笑で言うと、空になっていたグラスに水差しから水を
注ぐと口に運んだ。
十九時直前、ニーザメルベアホテル前に着いた私とリュティ。ヴァールハイア
夫妻とユリファラは既に集合していた。
「ミリア、ぎりぎりじゃねぇか。」
お決まりのツインテールを揺らしながら少女は頬を膨らませる。小生意気な口
調は相変わらず似合っていない。まあ、それがユリファラなのだけど。ヴァー
ルハイア夫妻は質のいい背広とドレスで着飾っている。とは言っても質素で落
ち着いた雰囲気がある。
「ちょっとした事件が。」
私は目を伏せ気味に言った。リュティ以外の三人が心配顔を向けてくる。あ、
やってしまったわ。
「ええ、麦酒と料理一品が十九時前なら金額五百という看板に釣られる事件が
ね。」
あーあ、言っちゃったよ。リュティの馬鹿。
「あほかてめぇっ!」
ユリファラが吼えながら跳び蹴りを放ってくる。私は軽く身体を捌きながら夫
妻に目をやると、笑いを堪えているようだった。
これから敵陣に乗り込むんだ、大義も何もありはしない。娘を殺した相手と対
峙しなければならないんだ。その前にこんな茶番があってもいいじゃない。私
らに出来ることなんて、そんなに在りはしないのだから。
再び舞う蹴りを避けながら、夫妻に笑みを向ける。リュティは苦笑していたが。
「どういうことだ?」
四人の雰囲気に気付いたユリファラが、私への攻撃を止め怪訝な顔をする。
「準備は出来たってことよ。」
私がニーザメルベアホテルの正面口に目を向けると、既に全員が目にしていた。
アッシュブロンドのショートボブを揺らしながら出てきた長身の女性を。
「よく分かんねぇけど、これ終わったら覚えとけよ。」
ユリファラは未だ分かっていないようだったが、解消はウェレスの事が済んで
からに持ち越したようだ。
「これは珍妙な顔ぶれだね。知った顔もいるよ。うへっ。」
メアズーはそう言うと、口の端を吊り上げて妖しく笑った。出で立ちはこの前
見た時と変わらず、白いシャツにレザーパンツ。パンツの前ポケットに両手を
差したまま怠そうに歩いているが、足運びには隙を感じない。
「早速で悪いがウェレス殿のところに案内頂こうか。」
カーダリアがメアズーを急かす様に言った。その表情には今までの温和さは欠
片もなく、目には冷利な光を宿していた。
「りょーかいっ。積もる話しはないからね。たはっ。」
メアズーは目を細めて笑うと、踵を返してホテルの正面口へと戻る。カーダリ
アを先頭にサーマウヤとユリファラ、その後ろに私とリュティが続く。しかし
相変わらず意味不明な語尾がうざい。
ホテルの中に入ると真っ直ぐに昇降機に向かう。他に用も無いので当たり前だ
けれど。レストランに入り歓談する為に来たわけじゃない。カウンターの受け
付けに居る従業員が、メアズーを目にすると頭を下げるのが目に入る。
昇降機に乗るとメアズーが、行き先釦の下にある鍵穴に鍵を差し込んで回す。
二十階の表示が点り、扉が閉まると昇降機は上昇を始めた。
「昨日も居たよね。もしかして偵察かな。ぬふっ。」
昇降機が動き出して直ぐ、私に絡み付くようにメアズーが近寄って言ってくる。
昇降機の中央付近に居たのだが、近寄られる事に気付かなかった。
「ヴァールハイア家の使用人が、偵察に来ていても不思議は無いだろう。家の
使用人にちょっかいを出すのは止めて頂きたい。」
メアズーの行動を牽制するようにカーダリアが低い声音で言った。
「へいへいっと。ぐはっ。」
メアズーは操作釦の前に音も無く戻ると、細めた目を私に向けてくる。
「人殺しの臭いがプンプンだよ。物騒な使用人だね。でひっ。」
私はその言葉に鼓動が跳ねるのと、分かり過ぎている現実を他人から突き付け
られた事に、自分に対して嫌気が差す。
「家柄的に、安穏とは暮らせないのでね。」
カーダリアがメアズーの言葉を私の代わりに受け流した。その行動に出来た人
だと思い、私は目でお礼を示すとカーダリアは軽く頷いて見せた。
「着いたよ。うほっ。」
そこで昇降機が二十階に着いて、メアズーが言いながら真っ先に降りるとその
まま通路を歩いて行く。私たちの動向を待つ気も、気に止める事も無いようだ。
別に案内役としては求めていないが、客人を扱う態度としては奔放過ぎる。
「さ、入った入った。いひっ。」
扉の前に着いたメアズーは、扉を叩いて伺う事もなく開けるとさっさと部屋の
中に入っていく。自由過ぎる。扉の前に立っている背広姿の男性二人も気にす
る風もなく動かない。
昇降機から無言のまま、私たちは部屋の中に入ると奥にウェレスが居た。片側
に五人は座れそうな長方形の机には、もてなしのつもりか料理とお酒が並べら
れている。ウェレスはその手前に立ち、私たちが入ると深々と頭を下げた。
「ようこそお出で下さいました、ヴァールハイア枢機卿。」
「こちらこそ、急な申し出を受けて頂いて感謝しております。」
カーダリアも挨拶を返すと頭を下げる。メアズーはいつの間にか、部屋の窓に
寄り掛かると横目で夜の街を見下ろしていた。街を一望出来る部屋は、やはり
豪華と言うしかない。入った部屋には料理が乗った机に、応接用の机とソファ
ー、一人用のテーブルとソファーくらいで、奥への扉の先はどうなっているの
かは不明。出来れば見たいところだが、難しいだろう。その扉の前にも背広を
来た男性が二人立っている。
「知人とは伺っていたのですが、失礼な者の出迎えはご容赦ください。」
ウェレスはメアズーを見ながら言った。が、パンツのポケットに差し入れた両
手も、外に向けられた視線も変える事が無かった。
「気になさらず。こちらも大勢で押し掛けてしまい、申し訳ない。」
「構いません。宜しければご紹介頂けますか?」
カーダリアの言葉に、ウェレスは人の良さそうな笑顔で応じると、私たちを一
瞥してそう言った。
「これは失礼。こちらが妻のサーマウヤと娘のユリファラ。それと使用人の
ミリアとリュティです。」
紹介されるごとに一礼する。肩書きは昨夜決めた通りだが、名前はそのままだ。
偽名でも考えておけば良かったわ。
「既にご存知でしょうが、遅ればせながら自己紹介を。私はウェレス・カール
バンカと申します。ネヴェライオ貿易総社の社員をしております。立ち話しも
なんですから、お席にお着きください。」
自己紹介で一礼すると、続けて席に着くことを促すウェレス。本人は長机の向
かいに回り込み、私たちが席に着くのを待った。カーダリアが先頭をきり、中
央の席に着くと左にサーマウヤ、右にユリファラが座る。私とリュティはその
背後で控える形になった。
使用人という肩書きは悪く無かったようで、背後に控えて立つことに違和感が
ない。何か在った時に直ぐに行動に移れるのも良い点と言える。
「出先で大した物も用意できず申し訳ありませんが、宜しければ晩餐などしな
がらの会話はどうでしょう?」
カーダリア達が席に着くと、ウェレスは両手を広げて長机に並べた料理とお酒
を示す。本人にとっては最後の晩餐になるだろう事は、予想もしていないだろ
うけれど。
「押し掛けたにも関わらず、お気遣い感謝します。」
カーダリアがそう言うと、夫妻は軽く頭を下げる。ウェレスは椅子に座ると夫
妻の前に置かれたグラスに葡萄酒を注ぎ、動きを止める。
「これは気付きませんで失礼。お嬢さんには別の飲み物を。」
ウェレスは室内に待機している背広姿の男性に指示を出すと、自分のグラスに
も葡萄酒を注ぐ。
「直ぐに用意させますので、お待ち下さい。」
ウェレスはユリファラにそう言ったが、ユリファラは頷いただけで特に喋りは
しない。事前の話しで、小生意気な口調は封じられたからだ。
「後ろの女性方もどうですか?」
ウェレスは私とリュティにも勧めてくる。
「いえ、大丈夫です。」
私が断り二人で頭を下げた。既に居心地が悪いのだけれど、何時までこの茶番
は続くのかしら。と、早く解放されたい気持ち悪いが湧きあがる。ただ、カー
ダリアは本人に自白させてから遂げたいと言った手前、協力する事にしたので
付き合うしかない。それ自体が嫌なのではなく、ウェレスに付き合うのが嫌な
のだけど。
そんな事を考えていると、ユリファラにオレンジジュースが運ばれて来た。
「それでは、好機なる出会いに感謝して。」
ウェレスは夫妻の方にグラスを傾けると、一気に煽った。夫妻もグラスに口を
付けるが、ウェレスはもう飲み終わり次を注いでいる。早すぎ。
しかし、ローストビーフにポークソテーやラムチョップの香草焼き、海老の丸
焼きから貝類の葡萄酒蒸しまで色々並んでいる。良いもの食べてるなぁ、麦酒
があったら飲みたい。これが世に言う生殺し。
「何でもオーレンフィネアに店を出したいそうで、どの様な事を聞きたいので
しょう?」
カーダリアは頷いてグラスを置く。
「ご存知かもしれませんが、オーレンフィネアは先進国と言えど、此処アーラ
ンマルバ程の発展はしておりません。中央であるセーティオラ・ウヌラト・ロ
アーですらロンカット商業地区の様な場所もありません。」
カーダリアがそこで言葉を途切ると、ウェレスは頷いて後を継ぐ。
「エクリアラのような施設が在れば、という事でしょうか。」
カーダリアがそれに頷いた。
「エクリアラのような施設があれば、人が集まり行く行くは周囲の発展も促す
のではないかと、わたくしも考えております。」
サーマウヤが展望を言うと、ウェレスが深く頷いた。
「確かに、それも一理あるかと思います。しかしながら実際は、発展するかど
うか分かりません。先ずは現地で色んな情報を元に、様々な要因を洗い出すと
ころから始めなければなりません。」
ウェレスの言葉は、表の顔としては真っ当な事を言っている。エクリアラをア
ーランマルバに開店するだけの事はあるのだろう、発言内容も慎重だ。私はそ
んな事は考えもしなかったわ。ロンカット商業地区にお店を出せたらいいな程
度で始めたもの。
「成る程、仰る通りです。詳しい話しは何れ聞きたいところですが本日は顔合
わせ、その手腕から今までの事を聞きたいところです。」
カーダリアは穏やかに言うが、声には隠しきれていない感情が混じっている気
がする。
「はは、私は大した事はしていません。お耳汚しになるかもしれませんよ。」
「是非お聞かせ願いたいわ。」
苦笑して言うウェレスに、サーマウヤの言葉は社交的だがこちらは感情を殺し
ている様だった。仇を目の前にしてのその態度は、どれ程心を縛り付けて対峙
しているのだろうか。
「私の功績ではなく、配下の者が優秀なんですよ。彼等のお陰で会社は成り立
っているのですから。」
笑顔で言うウェレスの言葉は薄っぺらい。ウェレスへの嫌悪から来る偏見では
なく、本当に上部だけの言葉にしか聞こえないのは、実際そうなのだろう。
「ご謙遜を。」
「いえ、本当です。」
カーダリアも思っていない事を言っているため、乾いた言葉だけが長机の上を
漂っていく。単刀直入に言って欲しいわ、夫妻には申し訳ないけれど聞いてい
て苛々するもの。
「先ほど言われた優秀な社員に、ヤミトナ殿がいると聞いたのですが、ご健在
かな?実際に優秀であれば彼とも話してみたいものです。」
ウェレスの発言からカーダリアは上手く話しを繋げた。報道になっているのだ
から、知っている人は知っているだろうが、オーレンフィネアの枢機卿が他国
の一事件など知らないのが普通だろう。あくまでネヴェライオにそういう人材
がいるという噂程度の内容であれば、不自然な気はしない。それは効果があっ
た様で、ヤミトナの名前が出たときウェレスの目が一瞬鋭くなったのが見えた。
「ヤミトナさんも名前が知れているとは嬉しい限りですが、彼は少し前に退職
してしまいまして。非常に優秀だったのでとても残念です。」
ウェレスは憂いの表情をしながら言った。
「そうですか、それは残念です。」
カーダリアの言葉にウェレスは何かを思い出した様に目を見開く。
「そういえば、ヤミトナさんはオーレンフィネアで結婚すると言ってました。
探してみてはどうでしょう?」
流石にそれは白々しいでしょう。私はそろそろ限界なのだけど、それより先に
カーダリアが踏み込んだ。
「死人を探せとは異な事を。」
まったくよね。ウェレスはカーダリアのその言葉で笑顔が消えている。
「知っているのだよ、ヴァールハイア家の娘が結婚相手だったのだから。」
沸き上がる憤激を押さえているのだろう、それでもカーダリアの言葉にはその
感情が滲み出ている。
「そうだったのですか、退職後の彼の動向は知りませんでしたが、非常に残念
です。」
ウェレスはその言葉とは裏腹に、鋭い目でカーダリアを見据えている。
「おかしな事を。ヤミトナ殿と娘のアールメリダはあなたの元を訪れた後に消
息を断っている。」
カーダリアが核心に触れると、ウェレスの顔から表情が消えた。見るものをぞ
っとさせるような能面の顔に、何も映さない様な深い闇を纏った瞳を携えてい
た。
(これが本性?)
私はその顔に恐怖を感じた。
「視察は建前でそれが狙いですか。確かにヤミトナさんは女性と退職時に来ま
したが、アルメイナという女性でしたよ。」
「アールメリダ・ヴァールハイア。グラドリアではアルメイナ・レヴェティス
と名乗っていたのよ。」
私は思わず口を挟んだ。挟まずにはいられなかった。何時までも惚けられるも
のでもないし、メアズーが情報を漏らしているのだから。惚けるウェレスにう
んざりして来た。
「それは知りませんでした。が、二人はちゃんと帰りましたよ。」
能面の顔を私に向けてウェレスは言ってきた。
「辛うじて生きて、な。」
え?ウェレスが殺したんじゃないの?辛うじて生きてとはどういう事?どうや
ら私の知らない事情があるようだ。しかし、その内部事情を知っているのは内
部の人間だけの筈だ。ウェレスも当然気付いたのだろう、能面をメアズーに向
ける。メアズーはウェレスに見られると、目を細めて口の両端を吊り上げ妖し
く笑う。
「全部言っちゃった。ぶひゃっ。」
うわ、あっさりぶちまけた。メアズーの愉悦に歪んだ顔は、その言葉を切っ掛
けにこれから起こる事態が楽しみでならないと語っている様だった。
2.「生者と死者の違いとはなんだ。そもそも死者は者なのか物なのか、器が物
であれば者は何処にあるのか。」
ウェレスはゆっくりと立ち上がると、メアズーに身体を向けて能面のまま見据
える。
「これはどういう事か説明して欲しいですね、ニグレースさん。」
「ニグレースですって!?」
ウェレスの言葉に私は思わず叫んでいた。一斉に視線が集まる中、名前を呼ば
れた当人だけは愉快そうにしている。
「此処ではね。メアズーじゃないなんて一言も言ってないよ。てへっ。」
愉快そうにメアズーが言った。この女がニグレースだったのか、これでアイキ
ナ市で起きた変死体の事件の容疑者が見つかったわけだ。私が知っている二件
は少なくともこの女の仕業だろう。ということは、ヤミトナとアールメリダを
殺したのはこの女か。ご丁寧に名前を残していた事を考えれば。しかし、今は
悠長に考えている場合じゃない。
「カーダリア卿、アールメリダを殺したのはその女よ。」
だがカーダリアは私の言葉に軽く頷くだけで動揺などしなかった。
「知っている。」
「え?」
カーダリアの返答は私の思考を一瞬停止させた。知っていたって。知っていて
微塵もそんな素振りを見せずにここまで来たってこと?ウェレスが殺したのじ
ゃないなら、何故ウェレスに復讐なんて言ったの?私はまだ状況が理解出来な
くて戸惑いだけが頭の中を巡る。
「知っているなら矛先を向けるのは私ではないのではありませんか?」
カーダリアの言葉に反応して、ウェレスは能面をカーダリアに向けて言った。
「勿論、瀕死だった娘に止めを刺した彼女も対象だが、助からない状態までい
たぶり辱しめ、壊したのはお前だろう。」
もう隠すことなく出した殺気をウェレスに向けて、カーダリアは言った。
「何を根拠に言っているのです?」
カーダリアの言及にもウェレスは白を切る。
「あー、映像付きで全部教えたからね。ぐひゃっ。」
メアズー、いやニグレース、どっちでもいいか。メアズーはそう言うと腹を抱
えて笑い出した。
「ニグレースさん、貴女は何がしたいのですか。」
ウェレスは背広の上着の内側から銃を引き抜くとメアズーに向ける。室内に居
た配下の男性二人も銃を抜いてニグレースに向けた。
「決まってるよ、私が愉しいこと。うはっ。」
メアズーが喋り終える直後、銃声が鳴り響き場の状況が一変する。ウェレスは
撃った銃を手放し、後ろへ跳躍している。弾丸はメアズーが避けて、窓硝子に
食い込んでいた。ウェレスが手放した銃は、銃身がカーダリアの斬撃により空
中分解して落下する。何処から抜いたのかは分からないが、両手に細身の剣を
握っていた。
同時にサーマウヤが配下の男性二人に向かい駆けながら、ドレスのスカートか
ら細身の剣を二本抜いて両手に持つ。配下の男性は虚を突かれた様に硬直する
が、直ぐ様銃口をサーマウヤに向けて撃つ。サーマウヤは足を狙った弾道を見
切り横跳びに避けると、直角に軌道を変え一気に間合いを詰め二刀を振るい、
男性二人の銃を持った手を手首から斬り落とした。そのまま勢いを殺さず駆け
抜けながら身体を回転させたサーマウヤの斬撃は、男性二人の鼻から上を斬り
飛ばし、続いて首を斬り付けた。
(あのおばちゃん強すぎじゃないか。)
と考えている間に紅月で身体強化の呪紋式を撃ち終えていた私は、開け放たれ
たばかり扉に駆け出す。銃声を聞いて外で待機していた男性二人が部屋へ入っ
てくる。その手には既に銃を持っており、駆け寄る私に銃口が向けられた。
手前の男性の銃を持った腕を右手の<六華式拳闘術・華流閃>で斬り落とし、勢
いを殺さず左の肩当てで吹き飛ばす。男性は壁に叩き付けられて呻きを洩らす。
もう一人の男性が私の胸を目掛けて発砲。既に腰を落としていた私はその体勢
から跳ね起きるように踏み込んで<六華式拳闘術・華咬門>を胸へ放ち、当たる
直前で腕が伸びきり止まる。直後、胸骨が折れ肺を潰し、原形を失った心臓が
動脈を引き千切って赤黒い体液を撒き散らし背後へ噴き出す。壁に赤い斑点を
作った男性は自分の胸に開いた穴に目を向けるが、邪魔なので左手で張り倒す。
視界が開けた私は直ぐに、壁に叩き付けた男性目掛けて右足を蹴り上げ<六華
式拳闘術・華巖閃>を放つ。生成された真空の刃が、男性の左顎から右耳の上
まで駆け抜け頭を割った。断面から血と脳漿を溢して崩れ落ちていく。
振り上げた足を降ろす前に私は悪寒を感じ、左膝を折って前転。一瞬視界に入
ったのはナイフを振って交差したメアズーの両手だった。危なく背中を斬り裂
かれるところだった。
転がり終わると両手足を使って真横に跳ねる、私がいた場所をメアズーの左手
の振り下ろしが空を凪ぐ。その振り下ろしが終わる前にメアズーは直角に軌道
を変え私に追いすがった。
(速いっ。)
メアズーが私に向かってナイフを突き出そうとするが、止めて後ろに身体を捌
く。メアズーがいた場所をリュティの爪が空を裂いて通り過ぎたため、それを
察知したのだろう。
「やっぱり人殺しだったね、あはっ。」
メアズーは愉しげに笑みを浮かべて、ナイフの刃を舐める。刀身に赤い筋を引
いて舐め終わると、目を恍惚とさせた。出血した舌で舐めた唇が、真っ赤な口
紅を塗ったように染まる。
(うげっ、完全に変態だ。)
「いや、愉快だね。ぶへっ。」
「こっちはちっとも愉快じゃないわ。」
体勢を整えて私は吐き捨てた、横にリュティが並んでくる。
「ありがと。」
リュティにお礼を言うと頷き返して来る。横目に夫妻を見ると、夫妻の四刀を
捌いているウェレスが目に入る。
(やっぱ強いじゃねーか、阿呆裁院め。)
「あっちが気になってるんだね。私はあなたが気になちゃって。あへっ。」
メアズーは私に妖しく笑むと、両手は垂らしたまま急加速で突進を開始した。
ウェレスはカーダリアの二刀を右手に持った曲刀と左手に逆手で持ったナイフ
で受けると、右手で受けた剣を弾いて、サーマウヤの打ち降ろしをカーダリア
の剣で防ぎ、後ろに跳び退さって続く突きをかわす。
「私はあなた方にもう用は無いんですが。」
カーダリアが右手で左凪ぎ払いをすると、ウェレスは曲刀を縦にして受け止め
左手でカーダリアの右手を突く。同時にカーダリアが出す首に向かう左手の刺
突を上体を僅かにずらし、曲刀を跳ね上げて弾きつつ、横から来たサーマウヤ
の突きをナイフで叩き落とす。
「私たちにはある! 」
サーマウヤの続く横凪ぎ払いを後ろに退いて避けると、カーダリアが追いすが
り両手の剣を袈裟斬りに振り抜く。
「ヤミトナさんと一緒になろうとしたのが運の尽き、ですかね。」
ウェレスは言いながら袈裟斬りを横に身体を捌いて避けつつカーダリアに曲刀
で斬りつける。が、跳ね上がったカーダリアの左手が視界に入ると咄嗟に右手
を引くが、切り上げた剣先が腕を掠めた。切り裂かれた背広から鮮血が飛沫く
と、黒く背広を染めていく。
「なかなかやりますね。」
サーマウヤの横凪ぎをナイフで打ち払いつつウェレスは言った。
「わたくしたちも、衰えたものですわ。」
続けて繰り出すサーマウヤの突きをウェレスはナイフで下から跳ね上げると同
時に、曲刀を打ち降ろしてへし折る。甲高い音を立てて折れた刀身が宙に舞う
中、カーダリアが連続の突き放つ。ウェレスはその突きを避け、弾き、受けつ
つ下がり始める。遠く長机の上では折れた刀身が料理の皿を砕いて木製の机に
突き刺さった。
「双朱華は現役だと思っていたのだがな。」
突きを出す手を緩めず、カーダリアは顔に苦いものを浮かべて言った。姿勢を
低くして背後に回り込んだサーマウヤが、ウェレスの背中に切り上げを放つ。
ウェレスは突きを身体を回転させて弾き、切り上げも避けるとサーマウヤに踏
み込んで体当たりをかます。吹き飛ばされたサーマウヤが壁に叩き付けられ、
同時にウェレスが投擲したナイフがサーマウヤの左上腕を貫いた。
「あぐっ!」
サーマウヤが苦鳴を漏らす。直後、ウェレスはナイフを投擲した左手が、手首
より先が吹き飛んだ事に驚愕する。続いたカーダリアの首への凪ぎ払いを、身
体を落とし避け、顔に来た突きを曲刀で弾くと両足で床を蹴って大きく跳躍し
て距離を取る。
「あなたですか。」
ウェレスは壁を陥没させ柄までめり込んだ短剣とユリファラを交互に見る。
「悪ぃ、邪魔しちまった。」
ユリファラはウェレスから目は離さずカーダリアに言った。
「いや、感謝する。」
「ええ、可愛い娘の援護ですもの。」
カーダリアは頷き、サーマウヤはユリファラに笑みを向けると体勢を立て直し
てウェレスに向き直る。ユリファラはサーマウヤの言葉と笑顔に、唇を噛んだ。
血に染まる左手は未だに折れた剣を離しはせず、顔から闘志も消えていないサ
ーマウヤを見ると、言い表せない感情が込み上げて来て。
「やっかいですね。」
血を流し続ける左手に、能面が携える暗い瞳で一瞥すると、三人に目を向ける。
「サーマウヤ、行けるか。」
「ええ、いつでも。」
カーダリアは笑みを浮かべて言うと、サーマウヤも笑顔で応じた。
突進してくるメアズーに対して軽く左足を前に出し床を踏みつけ、胸部に肘を
打つ。当たれば肺が潰れる必死の攻撃をメアズーは余裕で避けると、左手のナ
イフを下から閃かせてくる。肘は相手の攻撃を誘うつもりで出しただけなので、
直ぐに次の行動に移る。メアズーの左手を破壊するために、右手の拳で腕を打
ちに行くが、メアズーは瞬時に逆手に持ち替え防御に切り替える。私は右手を
引く流れで左手の回し打ちをメアズーの胸部に放つが、メアズーは左手のナイ
フを上に放り投げる。
(はっ?)
ナイフを放り投げた意味が分からないが、考えている暇はない。その左手の掌
底で私の左手を払い、直ぐ様右手のナイフで切り上げて来た。
(っ!)
私は咄嗟に左手を引くが腕に熱。赤い糸を引いてナイフが通り過ぎると、私は
後ろに跳ぶ。私の手を弾いたメアズーの左手は上に伸ばされ、投げたナイフを
掴みそのまま振り下ろされて、跳んだ直後の私が居た空間を切り裂いていた。
誘ったはいいが速すぎて切り返された。
(あぶないわね。曲芸師か。)
と思うが曲芸にしては危険で速すぎる。メアズーは私を追う形で右足で踏み込
み、右手のナイフで刺突を繰り出して来る。雪華を抜いていた私は自分の背中
に向かい引き金を引いていた。ナイフを横に跳躍して避けると、白光の呪紋式
が既に指向性を持った暴風に変化して猛威を奮う。目を見開いたメアズーが咄
嗟に横に跳ぶが、暴風の範囲から抜け出す事が出来ず巻き込まれ、回転しなが
ら壁に激突した。私が背中に向かって撃ったのは、呪紋式の発動を見られない
ためだったが吹っ飛ばす以外の効果は無い。
暴風はその先にあったテーブルとソファーを飲み込んで行く。吹き飛ばされた
テーブルは奥の部屋を隔てている壁を粉砕しもろとも砕け、ソファーは窓硝子
を砕いて床に落下した。割れた硝子からは外気が流れ込んで来る。
(うっ、修理費私じゃないよね。)
雪華の薬莢を籠め変えた私がメアズーを見ると、跳ね起きてこちらに突進を始
めるが直ぐに軌道を変える。部屋の入り口にはホテルの従業員と警備員が、騒
ぎを聞きつけ駆け付けたようだ。最初の銃声がきっかけになったのだろう。メ
アズーが方向転換して向かったのは、その現れた従業員と警備員に対してだっ
た。
それはまずい。
「まっ・・・」
止めようとしたが最初に入った警備員の首半分を、メアズーの左手に持ったナ
イフが通り抜ける。
(くそっ!)
私はメアズーへ向かって駆け出す。警備員の首から鮮血が吹き出し紅い霧が作
られていく向こうで、従業員が恐怖に目を見開き呆けたように口を開いて硬直
している。逃げる事を促したところで身体は動かないし、思考も回らないだろ
う。メアズーは警備員を斬った反対の手を、従業員に向かって振る。
(間に合わないか?)
背後に追い付いた私は踏み込んでメアズーの背中に右拳で突きを放つ。同時に
左腹部に激痛。見るとメアズーの左手がナイフを逆手に持ち、後ろに突きだし
ていた。メアズーは私の突きを身を捩って避けつつ従業員に振っていた右手を
そのまま私に向かって旋回させてきた。その顔は舌を出して笑っていやがった。
(初めから私が狙いかっ!)
慌てて後ろに跳ぶが左上腕と左胸をナイフが掠めて行く。
「ミリア!」
後ろからリュティの声がするが、相手にしていられる状況じゃない。メアズー
は私が跳んだと同時にナイフを手から放す。私の左胸を掠めたナイフは、跳ん
だ私に追い縋って来る。
(っ!)
遠心力で勢いの付いたナイフは、私の右肩を切り裂いて後方へ抜けた。対応力
が尋常じゃない。けれど、幸いどれも深手には至っていないから未だいける。
メアズーが左手のナイフを順手に持ち替えて、腹部目掛けて追い討ちの突きを
繰り出してくる。
私はさらに後ろへ跳びながら雪華を正面に撃つ。メアズーに照準を合わせる必
要はない。目の前に浮かんだ白光は直ぐ様剣身を生成、私は次の薬莢を籠めな
がら、生成された剣身を蹴っていく。無作為に飛んだ六本の剣は、一本は外れ
壁に突き刺さり、二本は床に刺さり、残り三本はメアズーに飛来するが全て叩
き落とされる。私はそれを待たずにメアズーに向けて雪華の引き金を引いた。
一瞬浮かんだ白光の後、電撃が迸ると刺さった剣身を避雷針にしてメアズーの
周囲を閃光とともに駆け抜けた。
(これでどう?)
メアズーは硬直し、口を半開きにして白目を見せている。口角から滴った涎を
舌で舐めると、恍惚とした目を私に向けてきた。
(効いてない!?)
直撃すれば血液が沸騰して瞬時に死ぬ筈の電撃なのに、いくら分散されたとは
言えそんな筈は。
「痛いなぁ。でも愉しいことしてくれるね。うへっ。」
あったわ、効いてないし。それに気持ち悪いなこいつ。とか言ってる場合じゃ
なく、地味に左脇腹と右肩の裂傷がきつい。
「もう一発撃っちゃいなよ、何れ力尽きるよ、今のままじゃ。いひっ。」
こいつ、身体強化の呪紋式の事を言ってるのか。ベイオスもやって生きていた
なら、私も可能だろうか。
「駄目よ。」
背後からリュティが静止してくる。何時もより口調が強いので、駄目なんだろ
う。どんな効果、若しくは副作用が起きるのか想像も出来ないが、呪紋式を教
えた本人が言ってるのだからこの方法は却下ね。
「一緒に狂おうよ。ぶひゃっ。」
メアズーは知ってて言った気がする。余計に却下だ。私は雪華に別の薬莢を籠
める。
「さっきのなら効かないと思うよ。あへっ。」
私は苦い顔をして雪華を仕舞うと、メアズーが動く気配を見せないので紅月を
出して止血と痛み止めの呪紋式を撃った。それでもメアズーに動く気配はない。
私は後ろに跳んで距離を取ると、リュティに小声で話し掛ける。
「何か方法は無いの?」
「ないわよ。」
即答するリュティ、使えないわね。
「私はあなたを死なせない為に来たのよ。」
何度も死にかけているのだけど。手伝いって一体何?手伝うとか言ってなかっ
た?何が手伝いのかまったく分からないわ。そう思い半眼をリュティ向けると、
視界に左手の手首から血を撒きながら跳び退さるウェレスの姿が見えた。サー
マウヤも左上腕にナイフが刺さりかなり出血しているようだ。その手で折れた
剣を持っている。
(向こうも長くなさそうね。)
こっちも長くないのよ、私の体力的に。向こうを気にしていたら、メアズーの
右手が動くのを目にする。右手で新しいナイフを取り出したところだった。
「休めたかな、続き行こう。むふっ。」
余裕くれて私に休憩時間を与えていたのか。いや、自分が休んでいた可能性も
ある。何から?例えば電撃のダメージから。と、これは私に都合のいい考えだ
が試してみる価値はあるか。それかカーダリア達の闘いを気にしていただけか
も知れないが。とりあえず試そうと雪華の薬莢を籠め変える。メアズーには先
程籠めた薬莢が電撃で、効かないから薬莢を変えたと思わせられたらいいなと
思う。
メアズーはそう言うと、左手を振って後ろにナイフを投げ捨て新しいナイフを
抜く。
「っぎゃああぁぁっ!」
直後に聞こえる絶叫。背後で硬直したままで居た従業員の左目を貫いてナイフ
が突き刺さっていた。メアズーは口の両端を吊り上げて顔に愉悦を浮かべる。
(こいつはっ!)
私は感情に任せてメアズーとの距離を一気に詰めると、右足で踏み込んで右拳
を突き出す。間合いから逃れる様にメアズーは後ろに退がるが気付いたのか身
体を捩って、<六華式拳闘術・華徹閃>が放つ衝撃をかわす。が、僅かに右脇
腹を掠め肉を抉る。その隙に雪華を撃ち呪紋式を発動、同時に私は前転でメア
ズーを通り過ぎる。白光に気付いたメアズーが横に跳ぶ。私は床に落ちた刀身
を拾い、跳んだメアズーの軌道へ投擲する。白光から放たれた電撃が刀身を追
尾するように唸り迸る。メアズーは驚きに目を見開いて、ナイフで刀身を弾く
が電撃はメアズーを駆け抜けた。
着地と同時にメアズーが硬直、どうせ死んでないだろうと思い右足を蹴り上げ
る。<六華式拳闘術・華巖閃>で放たれた鎌鼬を追うように私はメアズーに向
かって駆け出し、メアズーが身体を捩って鎌鼬を避けたところへ、追撃の<六
華式拳闘術・朔破閃>。が、大きく後方へ跳躍したメアズーの居た床を大きく
陥没させただけだった。
(くっ、やっぱり効かないの?)
そう思いながらメアズーを見ると、鼻から血が垂れていた。
「だから痛いってば。あひっ。」
メアズーはそう言って鼻から流れる血を舐める。効いてない事はないようだけ
ど、電撃の薬莢はもう無いのよね。しかし頑丈過ぎる。
「それとね、掛心の技は大体知ってるから当たらないと思うよ。ぶふっ。」
メアズーは可笑しそうに肩を震わせ笑う。むかつく。それよりまた?なんなの
よその掛心って。
「でも、呪紋式と合わせてる奴は初めて。あひゃっ。」
目を細め愉快そうに笑むと私に視線を這わせる。うげっ。気持ち悪い。
「ああ、そろそろ飽きたよ。うへっ。」
メアズーはそう言うとウェレスの方へ目を向ける。私も釣られて横目に見ると、
向こうは終わりそうだった。
距離を取ったウェレスにユリファラが短剣を投擲、身を捩ってかわしたウェレ
スにカーダリアが右の袈裟斬りを打ち降ろす。ウェレスが曲刀で受けたところ
へカーダリアの左突きが胴へ繰り出される。ウェレスは受けた剣を弾いて、横
へ身体を捌いて避ける。そこへサーマウヤの突きが頭部を狙う。身を屈めてウ
ェレスは避けるがサーマウヤの突きは打ち降ろしへ変化。ウェレスは横転して
回避、続く弾丸の様に飛来したユリファラが投擲した短剣を跳んで回避する。
短剣は床を破砕して斜めに突き刺さった。
「ちょこまかとうぜぇ!」
ユリファラが吠えている間にカーダリアが間合いを詰め、左の突き。ウェレス
は曲刀で軌道を逸らすと刃を滑らせてカーダリアの頭部に斬り上げる。カーダ
リアは上半身を反らして躱しつつ右の突きを繰り出す。ウェレスは左腕振って
弾くと曲刀を斬り降ろし変化させる。それを読んでいたかの様にカーダリアの
右手の剣が変化した直後の曲刀を頭上で受け止め、弾かれた左手の剣が横凪ぎ
に変化してウェレスの胴を薙ぎにいく。
身を退いてかわしたウェレスの首にサーマウヤの凪ぎ払いが襲いかかるが曲刀
を縦に防ぐと受け流し、そのまま刀身を滑らせてサーマウヤを切り払う。反対
方向へ跳んだサーマウヤが曲刀から逃れると、入れ替わりでカーダリアが左手
の剣を上段から振り下ろす。それを読んでいた様にウェレスはカーダリアの懐
に身を滑る様に移動させると渾身の突きを繰り出した。カーダリアの剣が振り
降ろされより速く曲刀がカーダリアの腹部を貫通し、背中から血と一緒に剣先
が飛び出す。
「サーマウヤ!!」
カーダリアは叫びながら踏み込んで、右手をウェレスの腰に回して自分の身体
に押し付け拘束すると、左手の剣をウェレスの右腕から腹部へ貫通させ縫い止
める。
「はい!」
「おっさん!!」
サーマウヤが応え走り出す中、ユリファラは何も出来ず悲痛な叫びを上げただ
けで、顔は今にも泣き出しそうな表情になる。ウェレスはその状態でも能面の
表情を変えることなく、カーダリアの首筋に噛みついた。そこへサーマウヤの
刺突がウェレスの背中から胸を貫通しカーダリアごと貫いた。
ウェレスはその反動で顔を仰け反らせる様に後ろに頭を振る。皮膚が千切れる
音と共にカーダリアの首から鮮血が吹き出した。ウェレスはさらに左手でカー
ダリアを殴ろうとするが、サーマウヤが折れた剣で左上腕を斬りつけながら押
さえ込む。
「アールメリダ・・・」
サーマウヤが娘の名前を呟いて笑みを見せたところで、胸を剣が貫いた。カー
ダリアが右手の剣をウェレスの左脇腹から突き入れ、サーマウヤまで貫いてい
た。
すべての動きが止まる。ほんの一時だが長い静寂に包まれように部屋の中が静
まる。血が床に滴る音だけを残して。
「ごほっ・・・」
一時の静寂を破り、サーマウヤの口から声と一緒に血が吐き出される。
「あなた、幸せでしたよ・・・」
サーマウヤはそう言うと笑顔をカーダリアへ向けるが、挟んだウェレスによっ
て届かない。だが、ウェレスの存在は無いかの様にカーダリアもサーマウヤの
方へ笑みを向けた。
「ああ、私もだ・・・」
カーダリアはそれだけ言うと目を閉じて、二度と口を開くことは無くなった。
それを分かっている様に、サーマウヤも笑みを浮かべ、目から涙を流しながら
動かなくなった。
「あんたらは馬鹿かっ!!」
大粒の涙を零しながらユリファラの声が静かになった部屋に虚しく響く。
そこでウェレスの身体が揺らぎ、カーダリアに頭突きをいれると左腕を身体の
間に挿し込んでカーダリアを引き剥がす。カーダリアは鈍いを音を立てて床に
仰向けで倒れた。ウェレスは血に染まった顔は能面のままで、何も映さない闇
を纏った瞳も変わらずに、前へ踏み出しながら左肘でサーマウヤの身体も引き
剥がす。サーマウヤも同様に仰向けでその場に背中から床に激突した。
「まったく、ふざけた人達ですね。」
ヴァールハイア夫妻から解放されたウェレスは、何処を見るともなく呟いた。
「まだ、生きてん、のか・・・」
その光景に驚愕してユリファラが言葉を詰まらせながら驚きを漏らした。だが、
ウェレスは一歩踏み出そうとして、床に出来た血溜まりで滑り崩れるように横
に倒れ込んだ。その様子をユリファラは、まだ起き上がるのではないかと見て
いたが、ウェレスは二度と動くことは無かった。
「なんかね、冷めたよ。うへっ。」
夫妻に壮絶な最後を見せつけられ、メアズーに手こずっていなければ死なせず
にすんだのじゃないのかと、忸怩たる思いを嘲笑されたようで怒りが込み上げ
る。ただ、自分の弱さが恨めしい。メアズーを殺せていれば、夫妻を助けられ
たかも知れないと思い、メアズーを睨みつける。
「いや、自分の力不足を棚に上げるなよ。ぶひっ。」
当然の様に私の思いは見透かされ、図星を突かれる。メアズーに言われなくて
も自分が一番良く分かっている。そんな事とは別にどうにもならない感情が沸
き上がって止まらない。
「そうだとしても、あんたを許す事は出来ない。これの一体何が面白しろいの
よ!?」
メアズーは肩を竦めて見せると、ナイフを仕舞いながら溜息を吐いた。
「さっきまでは愉しかったんだけどね、もう飽きたよ。たはっ。」
その態度に理性が飛んで、メアズーに向かって私は突進した。右足を蹴りあげ
<六華式拳闘術・華巖閃>を放ち、左に避けたメアズーに対して蹴り上げた右
足を踏込に使い<六華式拳闘術・華徹閃>で追い打ちをかける。
だがその拳は左手を軽く添えられ軌道を逸らされ、メアズーはそのまま身体を
回転させ、右の肩当で私を吹き飛ばした。
「くっ!」
体制を立て直し飛び起きると、メアズーは既に窓の方に走っていた。私が暴風
で破壊した窓に向かって。
「待て!逃げるな!」
「機会があったらまた遊ぼうよ。うぷっ。」
私も急いで追いかけるが、メアズーは妖しい笑みでそう言うと窓の外に飛び出
して行った。
(逃がさない!)
私も走る速度は緩めずに窓に向かう。
「止めなさいミリア!」
窓に向かって走っている私の前に、リュティが立ち塞がって言った。
「何にもしないなら引っ込んでてよ!」
押しのけて窓に向かおうとしたが、押しても押してもリュティは動かなかった。
私の目からは何時の間にか涙が溢れていた。
「私なんか放って置いて、夫妻助けてよ!何で黙って見てたのよ!」
私が不甲斐ないのは分かっている。それでもこの場に居たなら何かして欲しい
と当たる事しか出来ない。それは更に自分を惨めにするだけだと分かっていて
も。
「あの夫妻に割り込むのは、無理なのよ。」
リュティの悔しそうな顔をこの時初めて見た。普段は飄々として軽くあしらっ
たり演技掛かった表情しか見せないくせに。今は唇を噛んで自分を責めている
ような目をしていた。
「夫妻の顔、見たら分かるわよ。」
仰向けに事切れている夫妻へリュティは目を向ける。間にはユリファラが床に
両手をついて泣き崩れていた。私は力無い足取りで倒れている夫妻へ向かう。
ユリファラを通り過ぎる時、泣き声に混じり夫妻への悪態が聞こえた。それは
リュティと同じく、悔しさを表している内容だった。
カーダリアのもとに着くと顔をみる。全身血塗れで、顔も血に染まり未だに出
血は止まっていなく、ゆっくりと漏れ出している。ただ表情は穏やかな笑みを
浮かべていた。サーマウヤに近付くと、こちらはもっと幸せそうに微笑んでい
る。二人の顔を見ると昨夜の夕食を思い出して、また涙が溢れて来る。カーダ
リアの耳を引っ張り膨れて見せるサーマウヤ。以外と話し好きだったカーダリ
アに、終始笑顔でいらん事を聞いてくるサーマウヤを。
二人は幸せだったのだろうか。ヴァールハイアの名前に縛られていたのとは別
に。答えは分からない。今の二人の顔が答えなのかも知れない。受け取る側の。
サーマウヤの頬を伝った涙に気付き触れてみると、既に冷たかった。止まらな
い私の涙は冷たくないのに。
「なんで、生きてくれなかったのよ・・・」
その場で呻く私の肩に、いつの間にか近付いて来ていたリュティがそっと掌を
乗せた。
「警察局が来ているわ、もうすぐこの階にも人が雪崩れ込んで来るわよ。」
私は立ち上がるとリュティを見て頷いた。
「ごめん。」
私がそう言うとリュティは弱々しいが笑みを浮かべて頭を小さく振る。私の言
葉は、リュティの言った夫妻の事を肯定したものなのか、弱い自分を見せてい
る事なのか分からない。両方かも知れないし、違う事かも知れないが自然と口
にしていた。
「行こうか、見つかっても困るものね。」
リュティが頷くと、メアズーが飛び出した窓に向かう。
「ユリファラ、行くわよ。あんたも此処で見られるとまずいでしょ。」
「あいつら置いてけってのか!?」
床についていた手を離し勢いよく立ち上がると、ユリファラは私を睨んでそう
言った。
「私の想像だけどあの馬鹿夫妻はこう言うのよ、行けってね。しかも笑顔で。」
その言葉にユリファラは涙の量を加速させる。言わなくても分かっていたのだ
ろう。ヴァールハイア夫妻は私の中で馬鹿夫妻に決まった。それで十分でしょ。
そう思い、最期に夫妻の亡骸を一瞥して窓の方に歩きだす。
「うおっ、こえぇっ。」
先に走って窓に着いたユリファラが、窓の外を見て言った。恐いも何も出るな
らそこしか無い。
「じゃぁ、先に行くわね。」
私はそう言って窓の外を見て配管を見付けると、壁を伝って辿り着き素早く降
りる。慎重に降りて見付かるのも嫌だし。身軽なユリファラは私に倣い難なく
後を追ってきた。五階くらいからは飛び降りて、拳圧で勢いを殺して着地する
が、思った以上に身体にきているのかよろめく。それをリュティが支えてくれ
た。
(こいつは・・・)
私より先に降りていたリュティに呆れつつ、身体への負担が思った以上な事に
辟易する。
「大丈夫かしら?」
リュティが心配して声を掛けてくる。丁度降りたユリファラも心配そうに寄っ
てきた。
「ええ。」
と、返事はしたものの結構出血していた所為と、緊張が解けた所為とで思うよ
うに動けない状態だった。ただ、此処で立ち止まるわけにもいかない。
「早くここを離れないといけないわね。」
「だな。」
ユリファラがそう言い、リュティが頷くと足早にホテルから距離を取った。
リュティは途中でいなくなったが、ユリファラの案内で公園に着いた私は増血
の呪紋式を撃った。よろめいた時に使いたかったが一瞬とはいえ呪紋式の白光
は出したくなかったから。その後手洗い場で血を洗い流す。
(また服が駄目になったなぁ。)
勿体ないと思うが諦めるしかない、それは仕事上避けては通れない事だから。
今回の件は何れメアズーを見付けた時に払わせてやる。
「あたし、二人を死なす為に案内したんじゃねぇ。」
公園の椅子に座り落ち着くと、ユリファラが思い出したのかまた泣き出した。
「ああ、そういう事言われると、困るわよきっと。」
思ったより深い右肩の傷に、顔を顰めながら私は言った。
「なんでだよ・・・」
こちらを見ずに、呟くようにユリファラは言った。
「きっと感謝してるもの。」
私がそう言うとユリファラはそれ以上何も言わず、静かに泣いていた。私が言
った事も想像でしかないし、答えなんてもう知ることも出来ない。でも、たっ
た二日の知り合いだけどあの夫妻なら、そう思うんじゃないかと思えた。
そんな事を思っていると、リュティが紙袋を持って現れる。
「飲み物を買ってきたわ。」
何処に行ったのかと思えば、気を遣ってくれたのか。
「麦酒はないわよ。」
「えぇ・・・」
「その傷なのだから止めておきなさい。」
不満を口にする私にリュティは呆れて言った。仕事終わりの麦酒を飲みたいと
ころではあるが、ここはリュティの気遣いに感謝して、ホテルに戻ってから飲
む事にしよう。リュティが何処かのカフェから買ってきてくれた、フルーツを
交ぜた飲み物は、身体に沁み込むような感じがした。
それから殆ど会話もなく、リュティが買ってきてくれた飲み物を飲み終えると
その場で解散した。
翌朝、早めに目覚めた私は備え付けの冷蔵庫から麦酒を取り出すと、開栓して
喉に流し込む。昨夜は帰って来て、寝台に倒れ込んだ途端意識がなくなったの
で飲めていないから。
部屋のテレビを点けると、ネヴェライオ貿易総社の幹部暗殺か!?という見出
しで昨夜の事件がもう報道されていた。部屋で死んでいた身元不明の男女は現
在、アーランマルバの警察局が調査中らしい。
あの階で死んだのはウェレスとその配下四人、ニーザメルベアホテルの警備員
と従業員が一人ずつと報道が不明と言っている男女、ヴァールハイア夫妻だ。
何れ身元が明らかになるだろうが、真相は分からないだろう。グラドリア国で
殺害された法皇国オーレンフィネアの枢機卿、カーダリア・ヴァールハイアの
娘アールメリダ。グラドリア国内で死んだヴァールハイア夫妻。そこから娘の
敵討ちではないかという想像までは行き着くだろうけれど。その真相を知るあ
の場に居て生き残っている四人は、私を含めて誰かに言うとは思えなかった。
メアズーは変態だから頓着しないと思えたから。
「痛いな、いろいろ・・・」
私はテーブルに昨夜帰って来たときに置きっぱなしにした紅月を取ると、薬莢
を籠めて痛み止の呪紋式を自分に撃つ。だけど、消えない痛みもある。麦酒を
飲み干した私は浴室に行くと、シャワーを浴びた。こびり付いた血を、涙と一
緒に流すが焼き付いた記憶までは流せない。ただ今回は、夫妻の笑顔だけは流
したくはなかった。
浴室を出ると、冷蔵庫から麦酒を取り出しまた飲む。点けっぱなしのテレビか
らは繰り返し昨夜の事件が報道されている。ぼんやり見ているとネヴェライオ
の社長が緊急会見の見出しで映っていた。
(そう言えばウェレスは今日、エクリアラの開店式典に出る予定だったのよね
。)
内容を見る前に思い出した。昨夜の事ばかりですっかり忘れていたわ。内容は
良くあるもので、急に起きた出来事に驚きが隠せないとか、殺されたのであれ
ば犯人を許せないとか、エクリアラは待っている人の為に予定通り営業すると
か、そんな内容だ。
当初予定していたユリファラへの案内依頼は、昨夜の状態で頼めるわけもなく、
今日は一人で散策しようかと考えていた。折角開店日に現地入りしているのだ
から、エクリアラを眺めるのもいいし、適当な店でランチをしながら麦酒もい
いなと考えてみたり。
買い物は控えめにせざるを得ない。この傷で大荷物は無理なので、初日に目を
付けておいた数点の衣類や靴くらいかな、買うとしても。本当はいろんなお店
を見て回りたかったが、その気力もない。
(さて、そろそろ出る準備をしないとな。)
内心で呟くと、麦酒を飲み干してホテルを出る準備をする。大した荷物でもな
いので、それ程掛からずに支度が終わると、テレビを消して部屋を出る。
「一人で行こうとするなんて、冷たいわ。」
扉を開けると、横の壁に凭れ掛かっていたリュティがそう言った。昨夜はリュ
ティとも今日の話しはしなかった。お互い無言で部屋に戻ったのだから。今の
状態では、当初の予定通りに楽しめるかと言われても、分からないし。
「子供じゃないんだから、帰れるでしょ。」
私はそう言って通路を歩き始めると、リュティも並ぶように歩き始めた。結局
は一緒に行動するんだなと思い、それでもいいかと受け付けで手続きを済ませ
る。
「エクリアラ、冷やかしに行こうか。」
ホテルの出口へ向かいつつ、私が苦笑を浮かべてリュティに言うと、何時もの
微笑で頷いた。
「あたしも行くぞ。」
「っ?」
その声に吃驚して立ち止まる。入口付近で、パーカーのポケットに両手を突っ
込んで壁に寄りかかっているユリファラだった。
「リンハイアへの報告は?」
「もう済ませて来た。」
私の問いにユリファラは笑顔で返す。
「無理しなくてもいいのよ。」
昨日の今日だし、気持ちなんて簡単に整理がつくものでもない。そう思って言
ってみたが、ユリファラは首を振った。
「一人で居る方が、いろいろ考えて嫌なんだよ。」
よく知っている。痛い程。だから私はユリファラに笑顔で頷いた。
「じゃぁ、行きましょう。」
リュティに促され、私たちはエクリアラに向かうべく、ホテルを後にした。
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