紅湖に浮かぶ月

紅雪

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紅湖に浮かぶ月2 -鳴動-

5章 荒れる凶風

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1.「手向けは生者の傲慢である」


頭の中が真っ白な感じがした。視界が白いのかとも思ったが、瞼は閉じている
感覚がある。瞼を閉じても視界が白を認識しているのか、頭がそれを認識させ
ているの判らない。
目を開いて見ると、白い世界だった。だったら何故、目を閉じていたときも白
かったのだろう。
わからない。
仰向けになっていた私は起き上がろうとしたが、背中に抵抗がない。まるで水
に浮いているような感じだ。身体がゆらゆらと揺蕩っている感覚がそう思わせ
た。
(夢かな。)
何故かその白い水は私の心を落ち着かせた。身体が何かに包まれるようにやん
わりと暖かい気がする。水の中で身体を縦にしようと思ったが、拒否するよう
に身体は動かない。感覚はあるのに、身体は存在しないとかないよねと思って
視線を身体の方に向ける。
(げ、私裸じゃん。)
今更ながら気付くが、私以外は見当たらないからいいかと思う。何かに包まれ
るような感覚が、何か着ていると誤認したのだろうか。何れにせよどうしよう
もない。広いお風呂に浮いてると思えばいいか。白さに目が慣れてくると、其
の白い世界はただの白でない事が判った。
(これ文字?記号?)
何だか判らない文字のような、記号のようなものが密集して出来た世界だった。
私が浮いている水も高密度で出来た其れの集合体のようだった。集合体のそれ
らは、よく見ると停滞などしておらず、蠢いていた。気持ちわる。
(私、知っている気がする。)
そう、この景色を、この密集体を、文字だか記号だかわからないこれは。
(っ!?)
突然、頭に痛みが走る。刺すような痛みに私の視界が明滅し、やがて暗転して
いく。



「ジジイ、私村に行って美味しいもの食べたい。」
少女は鹿肉を囓りながら、テーブルの向かいに座って、同じく鹿肉を囓る老人
に言う。
「今食ってる肉の方が旨い。」
身も蓋もなく、少女の言葉を老人は切って捨てる。
「ここじゃ食べれないやつが食べたい。お菓子とか。」
「儂に勝ったら連れて行ってやる。」
老人の言葉に、少女は少しばかり口を尖らせる。
「意地悪。」
少女はそれだけ言うと、無言で食事を続けた。老人も同様に、お互い無言無表
情のまま。
食べ終わった後片付けをしていると、来客が来た。少女にとっては、何時ぞや
も来た事のある老人だったが、興味が無いので黙々と片付けをする。当然、会
話にも興味が無いので耳にも入らない。
少女が片付けを終えた時には、来客の老人は居なかった。
「前にも来た?」
「ああ。」
少女の問いかけに、老人はそれだけ答えた。
「そう。」
少女もそれだけしか応えなかった。

家の裏手にあるいつもの広場で、いつもの様に少女と老人は向かい合っている。
少女は全身土に汚れ、汗が土を顔に貼り付けていた。息が上がり肩を大きく上
下させている。
「どうした、もう終わりか?」
そう言った老人は疲れも汚れも無い。
「まだ。」
少女が言った後その姿が霞む。老人との間合いを一気に詰め、腹部に向かって
抜き手を繰り出す。老人は、抜き手が届かない距離を見切り退がると、間髪入
れずに右拳で少女の頭部目掛けて突き出す。
少女はその拳を潜る様に老人の右手に回ると、右足で地面を叩くと同時に肩当
てを放つ。が、肩当ては大気だけを震わせる。
老人は少女の背後に回って左足の横蹴りを放つ。少女は肩当てをした方向に勢
いのまま前転回避で、老人の蹴りを避ける。老人は左足が地面に着くと、それ
を軸に踏み込んで右足を蹴りあげる。少女は辛うじて蹴りを避けて立ち上がろ
うとしたが、老人の蹴りで巻き上げられた土までは避けられなかった。一瞬目
を閉じた隙に、顎に掌底を受けた少女は、目の前が暗くなり意識の底に沈んで
いった。



そうか、あれハイリだったのね。私、子供の頃何度か会っていたのね。
目が覚めた私は、昔の嫌な記憶を見せた夢に忌々しさを感じた後、血と汚物の
臭いに気分が悪くり、惨憺とした領主館内で意識が飛んだのを思い出した。同
時に、左腕がかなり熱くなっているのを感じた。
(そうだ!左腕!)
失った事を思い出した。
はは、一年と経たずに廃業か。せっかく、お店持てたのにな。じんわりと涙が
浮かんでくる目で、現実を確認するために左腕を見る。
え?
左腕は呪紋式に包まれていた。痛みは無いが違和感を感じる。切断面から先が
繋がっているようで、結合部の赤い線が段々と消えていくのが見えた。その呪
紋式が目に入ると、頭の中を刺すような痛みが駆け抜ける。苦痛に顔をしかめ
るが、その光景から目が離せなかった。頭の中か眼球の奥か判らないけど、白
い光が明滅しているような気がする。
仰向けになっていた私の横では、左腕に手を添えているリュティの姿。
(まさか、自分の再生だけでなく他人も可能なの?)
「気が付いたみたいね。もう少しで終わるから待ってて。」
リュティは柔らかい微笑みを私に向けてそう言った。
「なんで?・・・」
此処にいるのか、腕を繋げたのか、私を助けたのか、続く疑問が溢れて結局次
の言葉は続かなかった。
「前にも言ったけど、気に入ったからよ。」
それは本当に意味がわからないのだけど。ただそれだけの理由でこんなことす
るか?あ、だったら最初の傷も治せよな、まったく。
「言っておくけど、私は慈善事業をしているつもりは無いわよ。」
リュティの言葉は優しいが、内容はそうじゃないと理解した。こんな事をする
のは私だけだと、暗に伝えたのだろう。ただ、私にそれをどうこう言う権利は
無い。私も此処に居るのは気分の問題だし、何より人殺しなのだから。私は察
して軽く頷く。リュティは何も言わずに柔和な瞳だけを向けて微笑んだ。
「それにね、条件というか、資質が必要なのよ。」
普段なら何か聞いているかもしれないが、今の私にその気力は無かった。かな
り身体が怠い上に頭の痛みも酷い。それに、リュティ相手じゃ答えが出るか怪
しいし。考えたところで、存在自体が不明なのだから解には至らないだろう。
「終わったわよ。」
左腕から呪紋式が消えていた。指を動かしてみると問題なく動くし、頭痛も消
えていた。今度は安堵感から涙が浮かんできた。
お店、続けられる。
「ありがとう。」
「安心して、そのうちちゃんとお返ししてもらうから。」
含みのある笑顔で、にっこりと言いやがった。私の純真返せ。
「うぉぉ!マジでくっついてやがる!」
そこへユリファラが駆け寄ってきて、目を見開いて言った。
「ねーちゃんすげーな!」
「まあね、ミリアへの愛かしら。」
は!?
「待てこら!聞き捨てならないわよ。」
私が咎めようとした時には、リュティの姿は消えていた。いらん一言を置き去
りに。
「ま、ミリアとあのねーちゃんの関係は詮索しないでおくよ。」
「だから、ただの知り合いだってば。」
実際にただの知り合い程度なのだけど、ユリファラのにやにやした顔を見る限
り聞いてる気がしない。放っておくしかないな、これ。
私は起き上がって周囲を見渡すが、気絶している間に惨憺たる光景が変わった
わけじゃない。破損した人体、撒き散らされた臓器、飛び散った血、それらが
放つ臭気に吐き気が込み上げて来ることも。それと、キャヘスに跳ねられた女
性の頭部が向ける色を失った瞳。
「私が気絶してからそんな経ってない?」
ユリファラに確認すると、「ああ」とだけ短く返事した。ユリファラの半身は
私のせいで血に塗れている。
「服、後で弁償するわ。」
流石に気が引けるので。そう言えば、似たような事あった気がするな。あの時
は既に用意されたものを押し付けられたけど。
「ん?ああ、いいよ。おっさんに金出させるから、必要経費として。気にする
なら、アルディオッソで飯でも奢ってくれ。」
「わかったわ。」
ユリファラの笑顔に、私も少しだけ頬を緩める。それくらいでいいなら、好き
なだけ食べてくれればいい。あのお店美味しかったし、私もまた食べたい。あ、
麦酒が飲みたくなってきた。
「それよりミリアって掛心の使い手とは聞いてたけど、ほんとだったんだな。」
「かしん?」
ユリファラの言葉に疑問を返す。何を言ってるかわからない。
「あれ、そう聞いたんだけどな。掛心華隠拳って体術使うって。」
確かに体術は使うけど、それは聞いた事ないな。
「私のは六華式拳闘術。」
「あのジジイ、嘘言いやがったな。」
ユリファラが忌々しげな顔をする。あれは内心舌打ちしてるな。待てよ。
「ジジイって、灼帝のこと?」
「そうだよ。」
それはおかしい。ハイリは私が使っているのは六華式拳闘術と知っている筈。
以前、伸された時に言っていたから間違いない。それ以前は私の事を知ってい
たとも思えない、あの夜会ったのはたまたまだろうし。
さっきの夢で思い出したが、私は子供の頃ハイリに会っている。うちのジジイ
が六華式拳闘術の使い手なのも知っているから、以前会った時に聞いてきたの
だろう。だから私があの時の子供だと、ハイリも気付いた筈。
そう考えると、なんか私に関わることが、本人が知らないのいに裏で情報とし
て流れてるのは気持ち悪いな。
「それがどうした?」
考えに耽っていた私に、ユリファラが怪訝な顔を向けてくる。ユリファラには
関係の無い話しなので、気にさせてもしょうがない。
「何でもないわ。」
「君たち、大丈夫か?」
そこへオーメラが近づいてきて声を掛けてくる。
「巻き込んでしまって、申し訳ない。」
オーメラは丁寧に頭を下げた。が、私個人としては赦すつもりはない。結果、
加担していた事には変わり無いのだから。それについては私よりも、領民や祭
りの参加者たちの方が憤っているでしょうね。
「言う相手、私たちじゃないでしょ。」
睨んだ私の目をオーメラは正面から受け止める。
「分かっている。ただ、その中には君たちも含まれている。」
憤りからか、なんなのか分からないけど、最初に会った時の丁寧な口調ではな
くなっている。知った事ではないけど。別に含まなくていいし、声を掛けて来
なくてもいいから、助けられる人の方に行けよと思う。
「虫の良い話だとは思うけど、少しの間此処にいる人達を護ってくれないだろ
うか?」
おぉ、この惨事の一端でありながら、よく言ってこれるわね。
「あたしパス。」
ユリファラは即答する。まあ、立場上そうだろうね。グラドリア国の執務諜員
である事が知られるのはまずいし、公になるのも良くないだろう。リンハイア
がそれを命じたのなら別でしょうけど。
「確かに虫が良すぎるわね。」
私は立ち上がりながら言うと、オーメラの胸ぐらを掴む。
「それをやるのがあんたの仕事でしょうが!」
私の不遜な態度を気にした風もなく、やはり正面から見返してくる。
「だから、お願いしている。」
見返してくる瞳に揺らぎは無い。性格としては真っ直ぐなのだろうし、不浄を
赦せない質でもあるのだろう。只、今更でしょ、そんなの。私は突き飛ばすよ
うに掴んでいたオーメラのシャツを離す。
「じゃあ、美味しい食事用意してよね。あと紅茶も。」
仕方ない。オーメラの為ではない、巻き込まれたとは言え、このまま立ち去る
のは何故か後ろめたい気がしたから。
「分かった。直ぐにでも用意しよう。出来る限り行き渡るように。」
オーメラは毅然として言うと、足早に館の方へ向かっていった。私だけではな
く用意する、その姿勢は嫌いじゃないが、遅いのよ。
って、人の事を言えた立場じゃないが。人殺しであり、辛酸を舐めさせられた
記憶は刻みつけられて、苛まれる。オーメラも今後同じ様な思いをするだろう。
後は、どう生きるかよね。
「それなら、あたしは飯だけでも食ってくかな。」
「おい。仕事しろ。」
笑顔で言うユリファラに私は突っ込んだ。



「閣下、報道はご覧になられましたか?」
執務机の前に立っている背広姿の男性が、ヤングレフカに確認をする。先程、
部屋の扉を叩いて来たので入室の許可をしたのだが、最初の言葉がそれだった。
今のヤングレフカに取って苦慮させれている案件を聞かれたことで、熱いうち
に啜った珈琲の苦さが引き立った気がした。
「ああ。」
ヤングレフカは短く返事をする。
「具申ではありますが。」
男性の言葉をヤングレフカは遮る。
「分かっている。我とてこの様な結果を望んだのではないし、指示もしておら
ぬ。」
予感が無いわけではなかった。それは、昔のキャヘスが出るかも知れないとい
う可能性だったのだが。
「今後は、どうされますか?」
ヤングレフカは額に手をやり考える素振りをする。
キャヘスの悪い癖が出た。なりを潜めていただけだったのだろう。何年もそん
な素振りを見せなかったから、落ち着いたのだろうと思っていた。と言えば言
い訳になるが、見抜けなかった事に変わりはない。その事にヤングレフカは忸
怩たる思いだった。
「切るしか、ないな。」
苦鳴の様に漏らした言葉は、離別の言葉だった。やむを得ない、キャヘスを暴
走として片付けるしかないと。
「無かった事にする、という事でしょうか?」
男性の問いに、ヤングレフカは首を振る。
「それは出来ない。モッカルイア領にも今回の内情を知っている者は何人もい
る。無かった事にするためには、それら全てを口封じしなければならい。故に
出来ない。」
領事館爆破後、キャヘスもモフェックも、オーメラとすら連絡が取れなくなっ
ている。特に、現地での実行を任せたキャヘスと連絡が取れないというのが問
題だった。
「しかし、キャヘス殿を切ってしまって大丈夫でしょうか?」
「そこが問題よな。」
男性の懸念に、ヤングレフカも頭を悩ませる。穏剣としてのキャヘスは、メフ
ェーラスにも名前が知れている。キャヘスの名前が、紛争に対してある程度の
抑止力になっているのは事実だからだ。
「それは後で考えるとして、キャヘス殿を切るのは決定事項だ。でなければ、
示しがつかないだろう。」
ただ、ヤングレフカにとって一番の問題は、切った場合に報復の可能性が高い
事への不安だった。キャヘスは自分の立場に拘っている者ではなく、自分の気
分で動く手合いだからだ。故に何時矛先が変わっても不思議ではない。
「引き続き、オーメラとキャヘス殿、モフェックへの連絡は試みてくれ。」
現地の状況は、モッカルイア領に居る者から伝わっては来るが、それ以上の事
はわからないし、連絡を取りたい者の居場所も分からない。せめて誰かに連絡
が付けばとも思うが。
「分かりました。」
失策だったのは認めざるを得ない、ヤングレフカは苦い思いをしていた。今回
の事でオーメラの抗議は目に見えている。そういう話しで進めていたのだから、
オーメラが反発すればそもそもの計画が破綻する。領主補佐官まで登りつめ、
生真面目だからこそ領主への道も開け、その信頼も利用出来るだろうと算段し
ていたのだから。
「特にキャヘス殿に連絡が付いたなら、直ぐに戻るよう伝えてくれ。」
これ以上の被害が出る前に戻さなければキャヘスの性質上、更なる被害が出る
だろうとヤングレフカは考えていた。それ以上に、今回の計画を台無しにした
どころか、ロググリスに向く敵意を造り出した事への憤激があった。
「はい。」
男性は一礼すると、ヤングレフカに背を向けて部屋を出ようとする。
「それと、遠征中の者は引き上げさせてくれ。」
「宜しいので?」
男性は顔だけをヤングレフカに向けて確認する。
「構わん。むしろモッカルイア領に居る意味が既に無い。」
「分かりました。」
男性は軽く目礼だけすると、部屋を出て行った。
計画が頓挫した以上、ロググリスの人間をモッカルイア領に入れておく意味は
無い。引き際の迅速さも重要だが、引き際だけではないかと、まだ温い珈琲を
飲みながらヤングレフカは自嘲した。



領主ゲハート・ンシンが戻ったところで、門前で生き絶えていた、真明の遣徒
は爆弾と共に片付けられた。これから領主による声明が出されるためだ。砲撃
により混乱が生じても、集まった報道局員は逃げずに領主館前に陣取っている。
警察局員は間を隔てるように集まっていた。
モフェックは震える手で、呪紋式銃を持ち領主が登場するのを待ち構えていた。
額から流れ落ちる汗にも気付かずに、目は血走り見開かれている。
「まずは、ゲハートだ。ふはは。」
口の端を吊り上げ、笑みを浮かべながら漏らす。次にオーメラと三頭の残り二
人も殺してしまえば、有力候補は自分だけになると。モフェックは単純に考え
ていた。むしろ盲進でしか考えられない状態になっていたと言える精神状態だ
った。
「未だか。」
呪紋式銃を持つ左手を震わせ、痺れを切らせながらその時を待つ。右手から流
れる血を、流れるままにしているため、未だ止まってはいない。そのせいか、
顔色は青くなっていた。
その時、黒い背広姿の男たちに囲まれて現れるゲハート・ンシンの姿が目に入
る。モフェックは歓喜に顔を歪め、呪紋式銃の銃口を領主館の門へと持ち上げ
る。
「儂の時代が始まる。」
銃口が門を捉えた瞬間、突如視界から呪紋式銃が消滅する。
「!?」
声になら無い疑問がモフェックの口から漏れる。失くなったのは呪紋式銃だけ
でなく、自分の手首から先だと気付いた。
「ゲハートを殺してはいかんの。」
突然横から聞こえた声に、モフェックは振り向くとそこにはキャヘスが立って
いた。血に塗れた仕込み杖を携えて。
「ぐあっぁぁ!」
後から襲ってくる焼ける激痛に、モフェックは苦鳴を漏らしながら顔を歪める。
「何故、貴様が此処に。」
「折角の御膳立てを台無しにしてもらっては困るからの。」
モフェックは忌々しげにキャヘスを睨めつける。その眉間を仕込み杖が貫き後
頭部へと剣先が抜けた。
「所詮、塵は塵じゃな。先の塵の後を追うがよい。」
驚愕に見開かれたモフェックの目は身体の痙攣が治まっていくのと一緒に光も
失っていった。キャヘスはモフェックの身体を蹴り倒しつつ、仕込み杖を引き
抜くと、呪紋式銃を拾い外した手は持ち主の腹の上に投げ捨てる。丸くなって
いるモフェックの腹は受け止める事は出来ず、赤い線を引きながら床に転げ落
ちた。
「この銃は儂が有効に使うでの。」
キャヘスはその言葉を置き去りに、建物の屋上を後にした。

モフェックの砲撃が回避された、領主館の門前に立ったゲハートは、その瞳に
嚇怒を宿らせて話し始める。
「まずは、今回犠牲になった人々に哀悼を。」
その憤りは態度には表さず、ゲハートは黙祷を捧げた。一分ほどの静寂が辺り
を包み込んだ。再び目を開くと、宿っている光に変化は無い。
「亡くなった者は決して還る事はない。其の事実は誰でも知っている事だ。に
も関わらず凶行に走り、容易く尊い命を奪う行為に私は憤激と、起きてしまっ
た事に忸怩たる思いだ。」
軽く右手を上げると、掌を天へと向ける。
「彼等には命の分だけ思いが在り、生活が在り、そこから繋がる思いは繋がる
数だけ存在する。その全てを断ち切って、失われた者は残された者からも削り
取って往く。その様な理不尽が赦される道理は無い。他の誰にも奪う権利など
あろう筈もない。」
天に向けて開いていた掌を拳にして強く握る。
「私の退陣要求を促すだけの為に及んだ凶行の様だが、私は退陣する気も屈す
る気も無い。此処には人の数だけの思いと生活が存在する。その生活を脅かす
存在を決して赦すつもりはない。私が退いたところで、この凶行が終わる保障
など何処にも存在しない。」
握った拳をゆっくりと開いていく。
「何故なら、私が退いたところで驚異が消えるわけではないのだから。私の存
在が邪魔であるならば、最初から私だけを狙えばいい。」
右手を胸の前に移動させ、掌を胸に当てる。
「今此処で、この凶行を終わらせなければ意味が無い。私の命が欲しければ持
って行くがいい。但し、この凶行を行った鉄槌を受けさせてからだ。赦されざ
る行為を身に刻ませてからだ。」
ゲハートは目を閉じた。
「だが、それを成した所で失った事実は変わらない、誰の心も晴れはしない。
在るのは深い悲しみと、理不尽に対する憤激となる。」
目を開いて、胸の前にある手で再び拳を握る。
「我々の前には未来への道しか存在しない、明日を往く為には目の前の脅威を
払わなければならない。」
ゲハートはそこで手を下ろす。
「その後で、私が不要と判断するのならば、その時こそ退こう。」
敷地内で苦しむ者への対応があると、軽く頭を下げたゲハートは身を翻して門
前を後に、敷地内に戻って行った。



「で、ユリファラはこれからどうすんの?」
ブールパン囓りながら私は聞いた。
「連絡ないし、休憩。モフェックも死んだし、キャヘスの動向も不明。」
ユリファラもブールパンを同じく囓る。
オーメラが近所のパン工房に連絡して、焼けたら届けられるを繰り返していた。
パン屋さんもフル稼働だろう。近くの飲食店では、出張してきて炊き出しをし
てくれている。暖かいスープやパスタも食べられる。
流石に外は片付けが進んでいないので、私たちは会議室を使って食事している。
大小の会議室や休憩室、食堂から事務室まで解放して、食事出来る人達は皆移
動して食事をしていた。自宅や滞在先に戻れる人は戻ったが、私はオーメラに
協力することにした。
ヒリルには音声通信で状況を説明して納得してもらった。向こうも今回の事件
で祭りどころじゃなかったらしい。ふふん。
ユリファラは当初食事はパスして、モフェックの監視に戻ったのだが、最初に
いた建物をまず確認に行ったら死んでいることを確認。屋敷も使用人含めて全
員殺されていて、警察局の管理下に既に置かれていたとの事だった。おそらく
やったのはキャヘスだろう。
あの時、逃がしたのが悔やまれる。刺し違えてでも殺しておくべきだった。
「ミリアが悔やむ事じゃねぇぞ。」
私の考えている事を察したのか、ユリファラが気を使う。
「十中八九、呪紋式銃はキャヘスが持っていっただろうな。モフェックの死体
の周りには無かったし、手首を斬り落とされていたからな。」
手首を切り落としてって事は、強引に奪ったのだろう。そうだとすれば、今こ
の時でも砲撃してくる可能性があるということ。
「油断ならないわね。」
ユリファラは頷く。
「あの呪紋式銃な、最新式の中型六連式だ。」

そんな。連続で発動すればこの領主館も別館もまとめて瓦解させられる。
「ちなみに、羽振りの良かった商人な、さっさと立ち去ればいいのに祭りに興
じていやがってさ。」
阿呆だ。
「問い詰めてきたんだが、モフェックに売った薬莢は全部で十二発。つまり、
残り十一発残ってる。」
それをあの狂人が手にしたってことね。
危険過ぎる。そんな奴が手にしたのなら、ろくな使い方しない。今日のロググ
リス領事館以上の事を平気でやりそうだ。
「でも、今は打つ手がない。」
「そうなんだよな。明日にはリンハイアのおっさんこっちに来るからな。あた
しは忙しくなりそう。」
「はぁっ!?」
私はうっかり間の抜けた声を出してしまった。リンハイアがわざわざ来る?執
政統括自ら他国の紛争に首突っ込むの?
「そんな驚くことねぇだろ。自国の領事が不祥事起こしたんだ、誠意じゃね?」
誠意程度で来るか?あの執政統括が。絶対何か企んでいるわね。
「信用出来ないわね。」
「だよな、わかる。」
ユリファラは、私の不信に同意して笑顔を見せた。おそらく私よりも多くの、
その様を目の当たりにしてきたか、当てられてきたかだろう。
「苦労してきたのね。」
「いや、出張先で好き勝手してるからそんなに。」
なら良いのだけど。
奔放そうだものね、ユリファラ。しかし、私はどうしようか。オーメラには今
日だけと言われたし、ユリファラは現状やることが無い。明日は自由と言われ
ても、もうお祭りどころじゃないだろう。明日ホテル戻ってから考えるか。
「こちらに居たか。」
そこへオーメラが現れた。
「少し話がしたいのだが、いいか。」
言いながら私の横に座る。会議用の長机なので、囲んでとはいかない。向かい
のユリファラの隣じゃない理由は分からないが、それより確認なら座る前にし
てよ。
「別に良いけど。」
特に用があるわけでもないし、私は了承する。
「大した食事も用意出来ずすまない。」
「それ用意してる人が言うことだし、あんたが言ったら用意している人に失礼
よ。」
別に食事は不満じゃないが、オーメラ気持ちは汲んでやらない。
「その通りだな。後でちゃんと感謝を伝えておこう。」
そうしてくれ。私が言える事じゃないが。
「で、」
「何時まで待たせるのかな。」
私が何の話か聞こうとした所に言葉を遮って、背後で待機していたおっさんが
現れる。整えられたブロンドの顎髭と、首もとで外側に跳ねている髪が胡散臭
いが、鋭利な眼光と精悍な顔立ちはそれを感じさせない。少し前、耳障りの良
い言葉を並べ立て演説していた張本人、領主ゲハート・ンシンだ。
「すまん。」
オーメラは一言言うと、私に向き直る。
「ゲハートが話したいらしいがいいか?」
ゲハートは既にユリファラの横、オーメラの向かいに腰を下ろしていた。こい
つら、確認の意味を知っているのか?
「もういいから、好きにして。」
私は諦めて言った。するとゲハートが机に頭を擦り付けそうな程下げる。
「話は聞いた。感謝しかない。ありがとう。」
うわ、領主も真面目だ。
「いいわよ別に、勝手にやっただけだし。」
ゲハートは顔を上げると笑顔を向けてくる。隣にいたユリファラが何時の間に
か、隣の机に移動してにやにや私を見ている。あいつ逃げやがった。
「どうだ、モッカルイア領で、領主補佐官をやってみないか?」
は?突拍子もない事をゲハートが言ってくる。
「ゲハート!」
オーメラが声を大きくする。ユリファラはお腹を抱えて笑いを堪えていた。
「まあ、半分以上は冗談だ。」
呆気に取られている私にゲハートは笑いながら言ってくる。冗談でない部分は
聞きたくないけど。
「私はこの件が終わったら領主を辞めるつもりだ。」
「ゲハート!何を考えている!」
オーメラが驚きに声を荒げる。そりゃそうだろうな。しかし、ゲハートとオー
メラは旧知の仲、という奴だろうか。お互い言葉に遠慮を感じない。だけど、
領主を辞めるって、大層な演説をしたくせに逃げるのか?
どうでもいいがそれより、そもそも何で私の前でそんな話をする。
「次の領主はお前だオーメラ。民主制とは言え、そうなるだろう。」
「私の事情は先程説明した筈だ。資格も無いし、補佐官を辞めて他にやる事が
ある。」
深刻な面持ちで行く末の話をしているが、他でしてくれないかな。
「報復は止めておけ。お前には向かない。」
ゲハートの言葉にオーメラは苦い顔になる。あれか、ロググリスの領主、名前
は忘れたがその領主に報復でも考えていたんだな。
「どうでもいいけど、そんな話なら他でしてくれない?」
いい加減うんざりしてきて私は言った。
「ああ、すまない。実は頼みがあってな。」
あぁ、あからさまに嫌な予感がする。
「いや。」
その予感に思わず拒否反応の様に言葉が出た。
「補佐官の話では無い。確かミリアと言ったね、君には向いていない。」
しれっと失礼な事を言いやがった。私はゲハートを睨めつける。
「言われなくても分かってるわよそんなこと。がさつだし、態度悪いし、調整
やらなんやら出来ないって思ってるんでしょ。」
言ってて悲しく、なんかないぞ、うん。
「思ってはいるが口にはしていない。」
「してるわ!」
私の突っ込みにゲハートは快活に笑う。
「むしろ、そのくらいの方が向いているのかもな。補佐官は一人で仕事をする
わけでもないし。」
多少の寂寥を浮かべてゲハートはオーメラを見て言った。オーメラが目を逸ら
すとゲハートは私に向き直る。
「話と言うのは、事が落ち着くまで 此処に居てもらえないだろうか。」
妥当なところだけど、そんな事だろうと思った。
「私、旅行で来ているだけだし、お店もあるんだけど。それに、一人じゃない
のよ。」
長期滞在は勘弁して欲しい。というか私を巻き込もうとしないで欲しいわ。
「なに、数日の間だ。滞在費と休店の補填はしよう。お友達も良ければだが。」
と言ってゲハートはユリファラを見る。
「あたしはいいぞ。」
ユリファラは必死に笑いを堪えながら返事しやがった。
「そいつじゃないし、お前も返事するな!」
私はゲハートとユリファラに言う。まったく。まあ、私は記述の仕事は終わら
せて、その後も受けてもいないからいいけど。ヒリルは無職といえ、巻き込み
たくないな。
「はぁ、一応聞いてみるけど。駄目だったら帰るからね。」
「それで構わない、話してもらって決まったら教えてくれ。」
「それと、もし残るとなった場合、一度ホテルに荷物を取りに行きたいんだけ
ど。」
「それは駄目だ。」
私の要求はオーメラに即却下された。言いたい事はわかるけど、着替えたいし
準備もしたい。
「小銃用の薬莢とか準備したいのよ、襲撃に備えて。」
「ホテルに行っている間に襲撃されたらどうする?」
「それ置いていくから。」
私はユリファラを指差す。
「ちょ、待て!」
我関せずを決め込んでいたユリファラが慌てる。
「ふふ、友達でしょう?」
私は笑顔で言ってあげる。さっきのお返し。
「あ、てめ!」
「どうしても行く必要があるんだな?」
「そうよ。」
不服顔のユリファラは無視して話しを進める。
「分かった。車を出そう、時間の短縮の為だ。」
「それでいいわ。」

私は了承を貰うと、小型端末でヒリルを呼び出し事情を説明した。残る事自体
は全然問題ないと言って来た。それは安堵したのだけど、あろうことか領主館
で手伝うとか言い出した。そしてそれが残る条件だと。帰っても良いかと思っ
たが、私の心はそれを赦しそうにない。
いくら危険を解いて惨状を説明しても頑として受け入れてくれないので、折れ
るしかなかった。まったく、頑固なんだから。

「了承は取れたけど条件が付いたわ。」
通信が終わった私は、ゲハートに向き直り伝える。
「聞こえていたから察しは付く。こちらとしては人手不足なので願ったりだ。」
話が早くて助かる。
「但し、危険な状況になったら直ぐに避難させて。正直に言えば、私にとって
他の人より優先なのよ。」
誰にだって在ることだと思う。家族や恋人、友人、身近な人ほど贔屓する。そ
れは当たり前の事だと思っている。自分勝手な話だが、私は素直に言った。
「分かった。考慮しよう。」
ゲハートはそこで立ち上がり、「ではよろしく」と言って部屋を後にした。
「早速行くのだろう?」
「ええ。」
私はオーメラの言葉に頷く。
「ちょっと行って来るから、何かあったら連絡して。」
「しょうがねぇな。さっさと行ってこい。」
ユリファラは笑顔で了承してくれた。
「では行こうか。」
オーメラの先導に従って、私も部屋を後にした。

「折角のお祭りなのに、何でこんなことするのかな。全然楽しくないよ。」
領主館に着いて一息付いたところで、ヒリルが不満顔で言った。ホテルはまだ
宿泊の予約が残っていたが二人ともキャンセルして、滞在先を領主館へと変更
した。今までの宿泊費はオーメラが負担してくれたが、経緯を考えれば喜べな
い。
ホテルを出ると車に乗り込み、これから向かう領主館をヒリルは楽しみにして
いた様だったが、着いた途端げんなりしていた。私があれほど説明したのに忘
れていたようだ。
ヒリルも部屋を充てがわれ、荷物を置くと会議室に集まってお茶を飲むことに
した。いや、私は麦酒だけど。その中でのヒリルの不満だ。
「ほんとにね、これからが本番だったのに。」
一日しか楽しめていない。それよりも、巻き込まれていった人の事を思うとや
るせない。嫌な事を言うが、私はモッカルイアの豊穣祭と聞いたら、この事を
ずっと思い出す事になるんだろうな。前のラウマカーラ教国が起こした戦争と
同じように、脳に焼き付いた記憶は消えないだろう。
「あたしなんか殆ど楽しめてねぇよ。」
机で向かい合う私とヒリルとは別の声が割り込む。言わずと知れたユリファラ
だが、ヒリルは以前現地の娘だと説明していた。そのユリファラが近付いてき
て私の横に座る。さて、どうするか。
「あら、ミニアル通りでお店教えてくれた娘よね。あなたも巻き込まれて避難
して来たの?」
「あたし、は。」
ユリファラは言葉に詰まりながら私を見てくる。どうしたものかと問い掛けて
いるようだ。いや、聞かれてもねぇ。話しに割って入ってきたのあんたでしょ。
自業自得。自分でなんとかしなさいよ、変な事言いそうになったら突っ込むけ
ど。私の思いを察したのか、話し始める。
「んー、まあ避難と言えば避難だよなぁ。」
まあ、そうよね。
「ミリアの友達と勘違いされるしなぁ。」
それは関係ないでしょうが。
「話しが見えないよ。」
はっきりしないユリファラに、ヒリルは痺れを切らしそうだ。
「その、今日ミリアに仕事の依頼したのあたしなんだ。詳細は言えねぇけど。」
うわ、概ね本当の事を言いやがった。実際にはリンハイアからの依頼だけど、
流石にそれは口に出来ないよね。
「え、そうなの!?」
そりゃ驚くよね。むしろ、子供が何の依頼するんだと困惑するんじゃなかろう
か。
「実は、」
おい、何を言う気だ。私は歯切れの悪いユリファラに内心焦る。
「あたしモッカルイアの領民じゃなて、グラドリアの国民なんだ。」
まあ、そうよね。まだ安心は出来ない。
「あ、そうなんだ。でも教えてもらったお店美味しかったよ。ね、ミリア。」
笑顔で同意を求めてくるヒリル。話しが逸れたか。
「そうね。なかなかだったわ。」
「おぅ、そりゃ良かったな。」
「で、観光?」
駄目だった。ヒリルの追求にお店の件を笑顔で応えたものの、また困惑の表情
になるユリファラ。
「いや、頼まれ事で来てたんだが、一人じゃ辛くて頼んだ。悪いがこれ以上は
。」
「ふーん。ま、いいや。ミリアの仕事についても聞かないようにしてるし。」
「そうか、悪ぃな。」
良かった。ユリファラは本当にすまなそうな顔に、安堵の心情が混じった顔を
する。
「しかし、災難よね。二人とも怪我とかしてない?」
「ああ。」
即答したユリファラと違って、私は一瞬止まった。腕落とされたとは、言えな
いよなぁ。と、逡巡する。
「ま、この通り元気だけど。疲労を除けば。」
「それなら良かった。」
ヒリルは微笑に安堵を混じえると、直ぐに興味を浮かべた表情に変化する。相
変わらずよく変わる表情だ。
「何でユリファラっておっさんみたいな言葉遣いなの?」
「なっ!可憐な乙女に向かっておっさんはねぇだろ!」
心外だと顔に不満を浮かべて頬を膨らませる。仕草は女の子なんだよね、ユリ
ファラは。
「あはは、ごめんごめん。気にしたなら謝るよ。ちょっと気になっただけなん
だよ。」
「いやまぁ、特に気にしてないけどさ。」
笑って言うヒリルに、ユリファラも気にしてないとばかりに笑顔を向ける。
「さて、明日もあるしあたしは寝るわ。」
そう言ってユリファラは立ち上がる。そうか、明日はリンハイアが来るんだっ
け。どうでもいいし、会いたくもないけど。
「おやすみ。」
私とヒリルが同時に言う。ユリファラは手を振って自室に戻っていった。
「面白い娘だよね。」
「そうよね。」
ヒリルの言葉に私も同意する。それに、いい娘でもあると内心で付け加えた。
「ヒリル、こんな危険に首を突っ込んでほんとに良かったの?」
改めて、今の状況を確認する。敷地内の惨状も目の当たりにした筈だ。それで
心情に変化があればと。
「うん。困ってる時はお互い様だよね。大した事は出来ないけど、滞在の間は
手伝うよ。」
変化無し。
「危険だったら、直ぐに避難してよね。」
「分かってるってば。」
ヒリルはしつこいなと言わんばかりに微苦笑を浮かべる。
「ならいいけど。そろそろ私たちも休もうか。」
「そうね。明日から体力使いそう。」
苦笑するヒリルに、体力だけでなく精神も疲弊するとは言わなかった。本人も
おそらく分かっているだろう、口にしたくないだけで。
席を立つと、私たちはそれぞれ充てがわれた部屋に向かった。

会議室の雑談から戻った私は薬莢の記述をするために、荷物から記述セットを
取り出す。もともと予備と含め二発か三発しか用意していないので、ユリファ
ラに撃った分補充しなければいけない。念のため持ってきていた記述セットが
役に立つ時だ。それ以前に使うときが来た方が悲しい。
私休暇中!
使ってしまった身体強化を記述している時、私はその呪紋式に違和感を感じた。
普段から良く使うので記述には慣れたものなのに。
(あれ、ここ書き換えるのが効率的にいい筈だよね?)
ふとそんな事が脳裏を過ぎる。
え?
何でそんな事を思ったのだろう。普段とは違う呪紋式に戸惑う。でもそれは判
りきっていた。私はそれに対して顔を歪める。忌々しい思いと共に。決して忘
れたくても忘れられない記憶。否、記憶ではない。忘れていたのに。二度と思
い出したくなかった業の礎を。それは記憶などではない、思い出したのではな
く知っていたものが蘇る、刻み付けられた業。
でも、我が儘は言っていられない。今を乗り切らなければ、続く未来が無い気
がした。だって、今のままじゃ良くて相討ち。むしろ、一度会ってしまった以
上次ぎは通用しない気がする。あれだけの手練れならばそんな油断はしないだ
ろう。
もともと仕込み杖は刀身が短いとは言え、体術では明らかに不利。そりゃ獲物
持ってる方が有利に決まっている。補うにはそれ以上の体術か、別の方法。呪
紋式で上回るのは無理がある、私の小銃は単発式だから高速戦での利用は不利
だ。効果も呪紋式が現れてから生成されるためどうしても時間が必要になる。
効果が現れる前に、斬って捨てられるのが関の山だろう。
だったら一択しかない。忌々しい記憶に頼るしか。
(だけど、使ってない知識で何処まで出来るかしら。)
そう思ったが、やらなければ結果は見えているのでやるしかない。使わなくて
済むのが一番だけど。そうはならないだろう、キャヘスはきっとまた来る。
一通り何時もの薬莢は用意したが、使っていないので今日使用した分の補填し
かしていない。何故なら、記述は基本的に疲れる。薬莢への記述は集中し過ぎ
て疲労度が半端ない。そう思うとあの時は良く記述したなと、自分に感心する
程だ。命が懸かっている事には変わりがないのに。




2.「恐怖は供与も享受も摂理である」

「いやぁ、車で旅をするのは楽しそうではあるのだけど、寝ている間に現地に
着いてしまうのは風情がないね。」
光量の落とされた夜の王城内を歩きながら、リンハイアがいつもの微笑で言う。
後ろを腰まである黒髪を揺らしながらアリータが追従していた。
「夜間移動ですので、景色は楽しめないと思いますが。」
「夜は夜の景色ががある。星や月が照らし出す世界を見るのも一興。それに、
街中で市政の人達がどんな営みをしているのか視るのもまた一興。」
アリータの言葉に、楽しそう表情を緩めてリンハイア言った。普段から各地を
飛び回っているのだから、見ていそうなものとアリータは思ったが口にはせず、
別の事を伝える。
「生憎と今夜は曇り空です。」
「そうか、それは計算外だった。残念。」
残念そうな雰囲気は全く見せずに言ったリンハイアは、実際残念等とは思って
いないのは、アリータにも分かった。天気が考慮されていないのも、今の情勢
に影響が出ないからだろう。でなければ、これだけ思慮を巡らす人が今夜の天
気も気付かない事は無いんじゃないかと。
「しかし、毎回私の我が儘を手配してもらってすまないね。」
「いえ、仕事ですし。問題ありません。」
「彼らは外に?」
「はい、既に移動用の車と共に待機頂いてます。」
リンハイアの予想通りメイ・カーは帰還した。休みも無くまた出張とは気の毒
な気はしたが、気にしている素振りすらなかった。それともともと予定してい
たクノス・ノーバンが現在外で待機している。
「そうか、ありがとう。」
「私の方は予定通り、法皇都オーレンフィネアの情報を集める、という事で問
題ないでしょうか?」
リンハイアは軽く頷く。
「頼む。」
「分かりました。」
アリータ自身、リンハイアの秘書ではあるのだが、出張に付き従う事は殆ど無
い。概ね城内に残るか、別件で行動する事が多い。リンハイアが留守にしてい
る間に、別件での情報収集等によって補えるのであればそれでいいとも思って
いる。が、やはり付いて行けたらという思いの方は強い。
話している間に王城内を抜け、駐車場に向かう。敷地内は城壁に沿って歩道に
なっており、花壇を挟んで車道がある。
「しかし、穏剣はかなり過激だね。」
歩道を歩きながら言うリンハイアの顔からは微笑が消えている。
「ユリファラからの報告によれば、死傷者は千人を越えている様です。一度穏
剣と交戦したそうですが、間もなく引いていったとのことです。現在は成り行
きで領主館に居るようですが。」
「ユリファラでは穏剣相手は荷が勝ちすぎるね。彼の御仁はまた来るだろうし、
ここは彼女に頑張ってもらうしかなさそうだね。」
リンハイアの言葉にアリータは同意する。ユリファラは戦闘に特化しているわ
けではない。牽制と自分の身を守れるだけの技量はあるが、仕事上必要だから
だ。投擲技術は特異ではあるが、穏剣のような相手には通用しない。
「ミリアさんも災難ですね。」
アリータなりにミリアへの気遣いはあった。それはミリアを見たときからの事
だったが、それが懸念であればいいと。
「ユリファラがいたく気に入っておりました。」
その懸念は胸の奥に仕舞っておき、話題をユリファラに戻した。リンハイアが
そこで顔を綻ばせる。
「通じるものがあるのかな、不遜なところとか。」
「ユリファラと一緒にしないで下さい、失礼ですよ。」
ユリファラの態度の方が遥かに酷いとアリータは思っていた。そもそも、ユリ
ファラはリンハイアの部下なのだからと。だが、リンハイアは肯定も否定もせ
ず、微笑を浮かべている。
「どうやったら、靡くと思う?」
リンハイアが唐突に発した短い疑問は、ミリアを配下に置きたいのだろうとア
リータは解釈したが、彼女はきっと何をしても無駄だろうと思い答えられずに
いた。
「難しいね。」
察したようにリンハイアは言うが、それも分かっていての問いだったのだろう。
そこで視界に入ってきたクノスとメイが、リンハイアに気付き頭を下げてくる。
二人とも何時もの黒の背広に身を包んでいる。リンハイアは軽く右手を上げて
応じた。
「随分、物々しい車だね。」
目の前にある箱形の車を目にしてリンハイアは言った。高さは三メートル弱で
全長が七メートル程の黒い箱は、言葉の通り物々しく其処に存在していた。
「はい、王家専用とは別ですが要人用の寝台車両です。」
「防弾は勿論ですが、対呪紋式の記述も施されてもいます。振動抑制構造の駆
体と騒音軽減構造の内装になっておりますので、快適な移動空間としてご利用
頂けます。」
メイの言葉を継いでアリータが説明する。
「商品紹介みたいだね。」
苦笑しながら言うリンハイアに、アリータは気恥ずかしくなってしまう。
「私は電車でも良かったんだが。」
「ご自分の立場を理解してください。それに電車では、ルッテアウラまでの夜
間運行はありません。」
アリータは気恥ずかしさを隠そうとしたのか、諭す言葉の語勢が多少強くなる。
「それは残念。」
夜間運行があったとしても利用はさせてくれそうに無いなと思いながら、リン
ハイアは言う。
「では、行って来るよ。」
「お気をつけて。」
アリータに軽く手を上げると、クノスが開けて佇んでいる扉を潜ってリンハイ
アは寝台車両に乗り込んだ。続いてメイが乗り込む。クノスは扉を閉めると、
別の乗用車に乗り込み、寝台車両の先導として走り始めた。
アリータは、城門を抜けて出ていく車両を見送って、城内に戻った。



それは私が朝食を摂っている時だった。今朝も昨日同様にパンの供給や炊き出
しが行われていた。その最中、爆音が建物を震わせる。私はクロワッサンを咥
えたまま椅子を勢いで倒して立ち上がる。続けて襲ってきたのは衝撃音と爆音、
震えた大気は建物を揺さぶった。
同じく周囲で食事をしていた人達は固まって食事を止めている。驚愕に硬直し
たであろう人達は、驚きより恐怖で硬直したのだろう。表情がそれを物語って
いた。昨日の今日だ、否応なく心に刻まれた恐怖は本人を蝕んでいく。それに
追い打ちをかけるように鳴り響いた爆音に、硬直するのも当然だろう。
それをいちいち気にしているわけにはいかないので、私とユリファラは部屋を
飛び出した。ヒリルには避難してと伝えてから。
「キャヘスだよな。」
隣を走るユリファラが確認してくる。
「でしょうね。他に可能性も思い付かないし。」
私は応えながら紅月を抜いて撃つ。いつも通り白い呪紋式が一瞬浮かび上がり
消えていくが、効果については未知数。昨夜試に記述した身体強化の呪紋式は
どういう影響を齎すかわからない。
「お、あたしにも。」
グラスに水を注ぐ時、ついでに私にもみたいな感覚に聞こえる。そんな気軽な
ものじゃないのだけど。
「しょうがないな。」
私はそう言って昨日と同じ効果の呪紋式をユリファラに撃った。私は自分で試
すけど、流石に他人を実験台には出来ない。呪紋式が浮かび上がって消えると、
ユリファラは私に笑顔を向けてくる。
「わりぃな。役に立てそうだったら頑張るわ。」
「うわ。使わせておいてその言い種。」
私は半眼を向けて言ったが、ユリファラは気にした風もなく笑顔だ。実際、役
に立たないなんてことは無いだろう。小柄で身軽なうえに、素早い。なにより
異常なのは昨日見た短剣の威力。とても少女が投げたとは思えない速度と貫通
力だった。どういった原理であれだけ強力な投擲を行っているのか不明だけど、
執務諜員って変人の集まりかしら。
エントランスを抜けて外に出ると、左手に呪紋式銃を持ったキャヘスがいた。
右手には杖をついているが抜刀はしていない。単身で乗り込んでくるとは。人
手不足なのか一人で十分だと考えたのかは判らないけど。
私はキャヘスから注意を逸らさずに、横目で被害の状況を確認をする。爆音は
聞こえたが本館に衝撃はなかった事を考えれば、敷地内の何処かである可能性
が高いが、地面にはそれらしい形跡は無い。視線をさらに動かすと、着弾した
であろう箇所が目に入ると、私はキャヘスを睨み付ける。
「なに、ただの警告じゃ。」
キャヘスは薄ら笑いを浮かべながら言った。その警告で別館の最上階、五階部
分が半壊している。彼処にも避難してきた人が居た筈なのに。
「キャヘス!」
横から放たれた怒声は、駆けつけて来たオーメラが放ったものだった。
「また来る、そう言ったと思ったがの。」
「何度来ようとも私の答えは変わらん。大人しくロググリスに帰れ!」
キャヘスは諭す様な笑みを浮かべると、左手が霞んだ。その左手は呪紋式銃を
別館に向けると同時に引き金を引いていた。
こいつ!
そう思った瞬間にはもう、身体が勝手に飛び出していた。彼我の距離を一瞬で
縮めると、右手で<六華式拳闘術・華流閃>をキャヘスの首に向かって水平に
薙ぐ。
キャヘスは後ろに飛び退きながら、更に引き金を引いた。一発目の呪紋式が砲
弾を生成していく中、新たな白光が浮かび始める。
私は飛び退いたキャヘスとの距離を更に踏み込んで縮めると、着地する前に左
拳で胴に向かって突きを放つ。。キャヘスは目に驚愕を浮かべながらも、杖で
私の手を弾こうとする。抜き身で無いのならと思い、私は突き出した勢いを緩
めない。腕を杖で叩かれ、私の鳩尾を狙った突きは軌道を逸らされたが、キャ
ヘスの右胸を強打する。
胸骨を折られながらキャヘスは後方に勢いよく吹き飛んだ。
私は追撃を緩めないようにキャヘスを追って跳ぶ。地面に叩きつけられる直前、
キャヘスは体制を建て直すと、両足と杖を使い平衡を保って着地する。追い付
いた私に直ぐ様反応し、右足で踏み込みつつ、右手の杖の柄尻を水平に打ち出
してくる。私の胴に向かって弾丸の様な速度で打ち込まれる柄尻を、右に軸を
逸らしつつ右足で地面を踏み抜いて、掌底を放つ。
だが、キャヘスは柄での攻撃を牽制に使いつつ鞘を抜いていた。左手に呪紋式
銃を持っていたので、水平にかつ高速で柄を打ち出す事で抜いていたのだ。翻
った刀身は掌底が当たっても私の胴を薙ぎ払うだろう。
踏み込んでいるため、後ろには退けない。飛ぶにも間に合わず屈むには軌道が
低い。転がるしかない。私は右側面から倒れる様に地面を転がる。
(こいつ、胸に当たった私の攻撃効いてないの?)
その時砲弾が撃ち出される爆音が大気を震わせた。耳を打つその波に一瞬身体
が硬直する。そこへキャヘスが追撃の突きを放ってくる。両手両足を使って地
面を蹴って跳び退るが、左脇腹が熱を感じ血が飛沫く。
っ!
着地したところへキャヘスが、追い討ちの袈裟斬りを打ち下ろしてくる。お腹
の傷が気になるけど、確認している余裕はない。
そこで離れたところから衝撃音に爆音が続く。建物に着弾した砲弾の咆哮が大
気を蹂躙した。私は右に身体を移動しつつキャヘスの仕込み杖を持つ手に、右
手で手刀を放つ。キャヘスの袈裟斬りは途中で翻り、私の右手を狙った切り上
げに変化する。
視界の隅には別館の五階が粉塵を撒き散らしている光景。
間合い外に跳び退がりながら、右足で<六華式拳闘術・華巖閃>を放つ。が、
それを仕込み杖でキャヘスは斬った。甲高い音を立てて霧散した真空の刃はキ
ャヘスの皮膚に裂傷を刻むが、致命傷には程遠い。
ハイリとは違うがこいつも潰すのか。
「楽しませてくれる女子じゃの。」
キャヘスが下卑た笑みを強くしたところで、大気を切り裂く爆発音が再び撒き
散らされる。二発目の砲弾が獲物に向かって猛進を開始した。キャヘスは間合
いが開いた隙に再び呪紋式銃を構えた。
動作が見えていた私は撃たせない為に、一気に間合いを詰める。本館へ向けよ
うとしている銃口の先を手で押さえようとするが、仕込み杖で突きを繰り出し
つつ牽制して下がる。
再び衝撃と爆発の大音声が大気を振るわせる。
追い縋ると再度右手を銃に伸ばす。素振りをして左手での<六華式拳闘術・朔
破閃>。右手を薙ぎに来ていた仕込み杖を強引に押し下げる。何で出来ている
のか不明だが、その仕込み杖は折れること無く地面だけが陥没した。私は同時
に右拳をキャヘスの左手に叩き込んだ。<六華式拳闘術・朔破閃>に一瞬だが
驚愕したことが、その隙を生んだ。
視界の隅では別館の四階が崩落していく。
私の攻撃に反応が遅れ、逃げ切れなかったキャヘスの左手の甲を私の拳が捉え
る。骨が粉砕され、呪紋式銃を持てなくなり落とす。
(くそっ!)
攻撃が当たる前にキャヘスは引き金を引いていた事に気付き、内心で自分を罵
る。浮かび始める白光は本館を向いている。
(本館にはヒリルが!)
だが気にしてる暇もなく、攻撃で硬直した私にキャヘスの切り上げが迫ってく
る。私は後方に跳躍しながら雪華を抜くと、追撃の袈裟斬りを避けつつ薬莢を
籠める。
左に避けた私に、袈裟斬りは橫薙ぎに翻り追随してくる。私は仕込み杖の腹を
手刀で叩くと、生成が終わりかけている砲弾へ雪華を向ける。
やはり折れなかったキャヘスの仕込み杖は、下から私の喉へ目掛けての突きへ
移行していた。身体を反らせて突きをかわした私は、砲弾の生成が完了する直
前に雪華の引き金を引いた。一瞬現れた白光の後、生成された砲弾が音速を超
える射出の爆音を撒き散らす。そこへ雪華からの雷撃が激突。
耳を劈く音に脳を揺さぶられているところに、近距離での砲弾の爆発が追い討
ちをかける。私は爆風に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられて転がった。痛む
身体を無視して起き上がると周囲を確認する。
(キャヘスは何処へ!?あれで気絶や死んだりしたとは思えない。)
雪華を仕舞い、紅月を取り出しながら見回す。
(後ろ!?)
思う時には身体を橫に動かしつつ、紅月で鎮痛の呪紋式を発動。直後、右脇腹
に熱を感じる。背後から突き出された仕込み杖が切り裂いた脇腹から鮮血。痛
み止めが作用して意識がはっきりしてくる。
キャヘスからの追撃はなかった。全身血と泥に塗れて仕込み杖が杖として機能
している。ただその瞳に宿す剣呑な光は衰えてすらいない。
「終わりよ。」
私の言葉にキャヘスは喜悦の笑みを浮かべる。
「まさかの。女子にここまでしてやられるとはの。」
直後、キャヘスの姿が霞む。
(まだやれるの!?)
最短距離で私の心臓を狙った高速の刺突は、避けきれず右上腕を掠める。橫薙
ぎに変化した斬撃を飛び退いて避けると、キャヘスは反対方向へ疾駆していく。
一瞬の硬直。
(あ!逃がすか!)
気付いて直ぐに追いかけようと駆け出した私は、足が縺れて身体が傾く。両手
を地面に着いて顔からの激突は回避した。
(思ったより、出血が酷い?)
紅月を抜いて薬莢を籠めると増血と、次いで治癒能力向上の呪紋式を撃つ。よ
くよく見れば脇腹からの出血は足まで赤く染めている。特に右側が酷い。爆風
で飛ばされた時の擦過傷も数えきれないし、満身創痍ね、これじゃ。
しかし、思った程の効果は無かったわ、身体能力の向上は。キャヘスの動きに
辛うじてついていける程度には変化があったって感じかしら。
キャヘスから目が離せなかったので、周囲がどうなっているのか確認出来てい
ない。視界の端には映っていたが、改めて周囲を見渡してみる。
別館に走っていくオーメラの姿が見えたので、別館に目を向ける。五階は全壊
していて、四階と三階が半壊。一発目の砲撃が残りの五階部分を吹き飛ばした
のだろう。二発目の砲撃は三階に当たり、支えを失った四階部分が崩落したと
思われる。
最初にあった襲撃時の砲撃で避難していてくれればと思ったが、建物の外で落
下した瓦礫に叫んでいるオーメラが目に入った。外に出た後、次の砲撃で落下
した瓦礫に潰されたのだろう。外に居ても中に居ても危険に晒されるのは変わ
らないから、なるべく遠くに逃げるしかない。だけど、当事者は昨日からの恐
怖や怪我でそれどころではなかったに違いない。
その光景を見て、止められなかった事に忸怩たる思いが込み上げる。
本館の方は、窓硝子が割れている程度で建物自体に損壊は殆ど見られない。爆
風で飛ばされた小石等が壁に多少傷を残す程度だ。
(そうだ、ヒリル。)
私は立って駆け出そうとしたが、身体が思うように動かない。
(これ、続けていたら殺されていたわね。)
ふらふらと本館に向かって歩きながらぞっとした。役に立たない知識に苛立つ。
いや、むしろ呪紋式に頼り過ぎか。
「ミリア!」
名前を呼ばれた事で意識が声の方を向く。考え事をしていて、ヒリルが本館か
ら出て来ていることに気が付かなかった。その姿を見て安堵する。
(良かった、無事だった。)
ヒリルが蒼白な顔をして駆け寄って来る。
「大丈夫、じゃないよね。医者、医者!」
落ち着け。
「大丈夫、死にはしないわ。」
慌てふためくヒリルを落ち着かせようとしたが、弱々しくしか笑みを返せない。
「でも、血だらけで酷いよ?」
右脇腹からの出血は止まらないし、傷だらけなのも分かるけど、鎮痛の呪紋式
が効いているので正直、よく分からない。
「少し休めばなんとかなるわ。」
「でも。」
ヒリルはそこで言葉が止まる。実際どうしていいかわからないのだろう。私も
分からないけど。
「ミリア!?」
地面に座り込んだ私にヒリルが悲鳴のように名前を言う。
「ああ、大丈夫。少し疲れちゃって。」
「ほんとに?」
「ええ。」
心配顔のまま疑問を言うヒリルに私は微笑む。立っているより楽なのは確かだ。
キャヘスが戻ってこないとも限らないので警戒は怠れないが、他に出来る事も
ない。
「いつも、こんな危険な事をしてるの?」
そうか。以前の仕事の時から、こんな状態を見られたのは初めてか。ヒリルの
問いに、私は首を左右に振って否定する。
「こんなのは、初めてよ。正直、勘弁して欲しいわ。」
私は苦笑する。だが、いつも笑顔のヒリルにまだそれは戻らず心配顔のままだ。
「以前、命に関わるとか言っていたからなんとなく、予想は出来てたけど。実
際目の当たりにするまで現実感無かった。」
そう言うヒリルの表情は、自分の無知を悔やんでいるようだった。実際、普段
の生活には無い事なのだから、現実感が無くても当たり前だろう。気に病む事
でもない。
「それが普通なのよ。だから巻き込みたくなかった。」
「今なら、ミリアが心配してくれていたのが、よく分かるよ。」
やっと分かってくれた。分かってくれたのなら、この場所を離れた方が良い事
も理解してくれるだろう。
「だったら今からでも、」
「帰らないよ。」
私の言いたいことを察して、先に拒否される。その顔には弱々しいが笑みがあ
った。困惑の色は消えていないので、葛藤もあるのだろう。それでも決意を表
したのなら、これ以上は私がどうこう言う事ではない。
「危険だから、帰った方がいいわ。」
だけど、理解と感情は別なのよね、人間って。
「一緒に旅行来たんだから、帰るまで一緒だよ。」
まあ、聞いてくれそうにはない。この頑固者め。結局折れるしかない。
「危険な時は直ぐに逃げてよ。」
「うん、私は戦えないもん。」
「素直でよろしい。」
いつものヒリルに戻ってきた感じがする。私も少し身体が楽になってきた気が
するが気のせいだろう。疲労を回復する呪紋式とかないかな。
「くそぅ、逃げられた。あのジジイ後ろにも目があんじゃねぇの。」
そこへユリファラが悪態をつきながら現れる。言った内容からすればキャヘス
を追っていたのだろうか。
「聞いてくれよぅ、足撃ち抜こうとしたら振り返りもしねぇで全部避けやがっ
た。」
うげ。ますます変態ね。何処にそれだけの感覚と機動力が残っていたのか。胸
骨を折ったから呼吸も低下しただろうし、骨の砕けた左手の痛みもあるはず。
それに<華巖閃>を弾いて散った真空での裂傷に、爆風に吹き飛ばされた怪我
もあったのに。
「ね、二人とも今回の事件に関わってるの?」
ヒリルが、私とユリファラを交互に見て聞いてくる。何処まで話していいもの
やら。ユリファラも腕を組んで気難しい顔をする。私と違ってユリファラは自
分の立場を言う事は出来ないと思うし。
「まぁ、そうなるな。」
ユリファラは渋々肯定する。執政統括の部下でもなんでもない私は違うのだけ
ど。昨日はユリファラの手伝いを頼まれて手伝ったけど、この事件は自分で首
を突っ込んだだけとも言える。
「私は巻き込まれただけなのよ。」
ユリファラが半眼を私に向け何か言おうと口を開きかけたが、ヒリルが先に口
開く。
「まあ、詳しい事は聞かないけどさ、あんまり無茶しないでよ。」
「分かってるわ。」
「おう。」
ヒリルは夕べの話しからか詳細を聞いては来なかった。それは今、私やユリフ
ァラがいる世界を、現実を見たからかも知れない。単に気を使ってって可能性
もあるけど。
「君らは無事だったか。」
別館の方からオーメラが近寄ってくる。
「状況は?」
私の問いにオーメラは苦渋の表情になる。予想はしていたが酷い状況なのだろ
う。また死者が増えたのだから。
「五階はそれほど人は居なかったが、直撃を受けた場所以外は避難していて、
次の砲撃は問題なかった。が、別館から離れようと避難している所に瓦礫が降
って来たためかなりの人数が巻き込まれた。」
やはり、予想通りの状況か。
「申し訳ないわ、発動を阻止出来なくて。」
私はオーメラに頭を下げる。私がもう少し速く動けて発動を阻止できていたら
と、悔やんでしまう。
「いえ。これが現在の最小限です。しかもあの穏剣を追い詰め、追い返してし
まうとは驚きです。」
追い詰められていたのは私とは、言わなかった。最小限なんて無い、犠牲は無
いに越したことはないのだから。
「逃がしたのは失敗だった。また来る可能性は十分にあるわ。」
「確かに、あの砲弾はやっかいだな。」
オーメラが唸るように吐き出す。
「ミリアみたいに自爆覚悟で止めたくねぇしな。」
「別にやりたくてやったんじゃないわよ。あ!」
ユリファラに突っ込んでいる時に思い出した。呪紋式銃はその辺に転がってい
るんじゃないか。
「爆風で飛んだと思うけど、多分その辺に落ちてるかも。回収されてなければ
。」
外に向かって疾駆して行ったとき何かを回収した様には見えなかった。
「そういや、持ってる風には見えなかったな。」
ユリファラが同意する。
「本当か!?早速敷地内を探させよう。誰かが悪用しても困るからな。それに、
砲撃の驚異が無くなったのは僥倖だ。」
オーメラはそう言うと、一礼して足早に本館へ向かって行った。確かに、今朝
みたいな襲撃は無くなったかもしれない。けれど、キャヘスなら気付かれずに
入り込んで殺すことなど容易だろう。
「とりあえず、シャワー浴びたいわ。」
私は立ち上がりながら言った。血と泥に塗れて気持ち悪い。
「確かにね、汚いもんね、ミリア。」
「存在が汚いみたいに言うな。」
私の反論は無視して、笑いながら「みんなの手伝いしてくる」と言ってヒリル
は駆けて行った。
「あたしは朝飯の続き。ろくに食ってねぇし。」
「そう言えばそうね。とりあえず、本館行こうか。」
「だな。」
私はまだ思うように動かない身体を動かして、ユリファラと共に本館へ向かっ
た。



「また接触したようだな。」
「いいでしょ別に。依頼は終わっているのだから、後は個人の自由よ。」
リュティは正面からクスカの睨む眼差しを見返して言った。いつもの様に机に
座り、組んだ足は床に付いていないが重力は感じさせない。表情は穏やかに微
笑んでいる。
「それに、あの娘を死なせるわけにいかないもの。」
リュティの発言に何かを察してクスカの眼光が更に鋭くなる。
「まさか力を使ったのか?」
「ええ、反応は見られたわ。本来なら自分で出すべきなのだけど、何故かあの
娘は深層から拒否しているよう。」
リュティは瞳に若干寂寥感を浮かべる。
「アン・トゥルブは人間に対しての干渉行為は禁じられている筈だろう!」
怒鳴るクスカにリュティは目を細める。
「それには承諾していないわよ、私は。決めた本人は三百年前に消滅している
し、人間であるあなたに指図される謂われも無いわ。」
リュティから漂い始めた圧力にクスカは硬直する。
「片鱗が現れたのであれば、報告に差違が生じる事になる。」
「報告後の事象まで責任を持つ必要は無いわ。それにあの人はそこまで侠矮で
はないわ。」
クスカは逃れる事が出来ずに顔をしかめる。
「勝手にしろ、それで何か問題が起きても知らんからな。」
「もとより承知しているわ。最初からそう言ってたと思うのだけど。」
リュティの圧力が解けると、クスカはシャツの襟をただす。
「但し、勝手にしていいのはあの娘に関しての事だけだ。それ以外は今まで通
りにしてもらう。」
リュティはいつも通りの微笑みに戻る。
「分かっているわ。」
クスカは返事を聞くと、居心地の悪い部屋から早々に立ち去った。リュティは
組んだ足を解き机から降りると窓の前に立って外に視線を流す。
「死なせたくないのよ。」
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