紅湖に浮かぶ月

紅雪

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紅湖に浮かぶ月2 -鳴動-

0章 暗雲への兆候

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内容紹介
夢の一歩を踏み出したミリアは、多少は軌道に乗り出したので、羽を伸ばす事
にした。そして休暇を過ごすためにサールアニス自治連国にあるモッカルイア
領を訪れるが、そこで司法裁院の知らない部分を見せられる結果となる。
それはまたしもても、望まぬごたごたにミリアを巻き込んでいく。
「私、羽を伸ばしに来たんだけどな・・・」


「享楽の享受も簒奪も招くは人災のみである」


「ジジイ、魚獲ってきた。」
細い木の枝を、鰓から口に通された魚が四匹ほど。その細い木の枝の片方は枝
分かれした部分が残っている。下の方に向けられたその分岐は、枝を通された
魚の落下を止めている。
朝の陽光に翳すようにその魚を通した枝を高々と掲げ、十歳程の少女が誇らし
げでもなく淡々と告げる。
「火は起こしてある。」
ほぼ白くなり、それほど長くも無い頭髪は綺麗に後ろに流され、同じく白くな
った立派な口髭を鼻の下に蓄えた老人。六十程の老人は、鋭利な目つきで顔に
は生気が溢れ、とても老人とは言えない雰囲気を放っていた。
その老人が包丁で葱を刻みながら少女を見ることも無く、ただその言葉だけを
口から発する。
「わかった。」
自分で焼けと見向きもしない老人に、少女は特に不満を露わにするでもなく返
事をすると、老人の近くまで移動する。
板の上で葱を刻んでいる老人の後ろには、少女の頭程に近い大きさの石が幾つ
も積み上げられて出来たかまどがあった。かまどの中では木材がぱちぱちと音
を立てながら、朱の光を撒き散らしている。
「腸抜かなくてもいいよね。」
「ああ。」
お互いがお互いを見ることも無く、必要最低限の会話が交わされる。少女は老
人の近くにある道具置き場から鉄串を取ると、魚の口を開き突き入れる。慣れ
たように魚の身体を軽く波打たせながら貫いていく。わけもなく尾の方から串
が出るのを確認すると、次の魚に作業を移す。四匹に鉄串を通し終ると、少女
は近くの流し場で手を洗い、魚に塩を振り掛けていく。
少女は塩振りが終わった魚をかまどまで運ぶと、鉄串を地面に突き刺し熱に晒
す。その横では老人がかまどの上で鉄棒にぶら下げられぐつぐつ煮立つってい
る鍋から灰汁を取り除く。根野菜と鶏肉を細かく切り、塩で味付けをしたスー
プだ。スープの隣では、別の釜が木蓋を押し上げるように白い泡を吹いている。
「二十分程待ちね、魚が焼けるまで。」
「米も蒸らしを入れるとそんなものだ。」
少女の言葉に老人が相槌を打つ。

山間に建つ丸太造りの一軒家。周りには一軒も民家らしきものは無い。そのロ
グハウスの横では庭に造られたかまどが食材に火入れをしている。家のウッド
デッキに設えられた、やはり木製のテーブルでは少女が料理を盛り付けるため
の食器を用意していた。
老人は刻み終わった葱を板ごと運んで、鍋の中に入れる。板を戻してから、鍋
をウッドデッキにあるサイドテーブルに運んで置く。鍋の隣には蒸らしていた
米の釜が湯気を立ち昇らせていた。
老人はテーブルに用意された器を掴むと、スープを盛り付ける。二つの器に盛
り付け終ると釜から木蓋を取る。開放されるのを待っていたように、白い湯気
が一気に天へと向かい霧散していく。湯気より白さを放つ米を、老人はかき混
ぜてテーブルの皿に盛りつける。
そこへ、かまどから焼きあがった魚を少女が持ってきて、二匹ずつに分けて皿
の上に置いた。
「今日は贅沢ね。」
椅子にちょこんと座りながら少女が言った。
「いつもこんなものだろ。」
老人はそう言って魚にかぶりつく。魚の齧り盗られた部分から湯気が昇ってい
く。咀嚼している老人の顔には変化がない。
「かまどで料理して、外で食べるのが。」
少女も魚にかぶりつく。
「おいし。」
と、言うが老人と同じくその表情に変化はなく淡々と咀嚼している。その後食
事が終わるまで会話は無かった。

「米、家の中に運ぶね。」
食器を洗い終わった少女が、釜からボール状の容器に移しながら言う。
「余ったスープは昼だな。」
老人はそう言うと、鍋を持って家の中に向かっていく。家の中で鍋をコンロに
置いたところで、少女が容器を抱えて入って来る。少女はコンロの横に容器を
置くと、引出しから真っ白な布を取り出すと、流しでそれを湿らせる。絞った
布を広げると、容器を覆うように丁寧に包む。米が乾かないように。
「お昼も外がいいな。」
「気に入ってるようだな。」
「うん。」
少女がぼそりと漏らした言葉に、老人が察したように言う。それに応えた少女
の声は、はっきりと頷いた。だが、そんなやりとりでも二人の表情に変化はな
く、感情があるのかないのか判別がつかない。

山中を駆け巡る少女。それを少し離れた所から老人は見ていた。少女は音もな
く木々の間を縫って移動していく。やがて、老人の瞳には茂みの奥へ移動した
少女が映らなくなるが、気配で追っていく。
老人は目を閉じて気配を探っていたが、少しすると目を開き茂みに視線を向け
る。と同時に少女が茂みから飛び出してきた。
茂みから出た少女の左手には白い兎の足が握られており、死んでいるのか気絶
しているのか逆さ吊り状態で動く気配はない。少女は老人に近づきながら、霞
んで見えない程の速さで右手を振った。
止まった手は手刀の形をしており、多少の時間を置いて兎の首から血が流れ始
める。その赤は白い毛を染めながら地面にもその色を広げていく。
「血抜きしないとね、臭くなるから。」
少女は血を滴らせる兎を軽く掻かげて見せる。
「仕留める時、対象気配が揺らいだな。」
兎の事は気にも留めていないのか、老人は別の事を口にすると踵を返して歩き
始める。
「そう?」
疑問を口にしながら少女もそれに続く。
「家着いたら捌いて。私塩水用意する。」
「ずいぶんと楽な作業だな。」
「獲ったのわたしだし。」
「いい加減、自分で捌け。」
「いや。」
少女と老人が他愛ない会話をするが、やはり表情は変化せずにお互いを見るこ
ともなかった。

「さて、下準備も終わったことだ、昨日の続きといくか。」
老人は兎を捌いた後片付けが終わり、洗った手を拭きながら言った。
「わかった。」
少女は塩水に使った肉から目を離さずに返事をする。
「兎と戯れただけでは、準備運動にもならないだろう。」
「そうだね。」
そんなことを話しながら二人は家の裏手に向かう。
家の裏手はちょっとした広場の様に草むらが広がっていた。山の中にあるので
その広場の周りは高木に囲まれている。二人はその広場の中央付近まで進むと
向き合った。
「基本の組型からだ。」
「うん。」
少女の頷きと同時に、お互いが右足を踏み込み、右の拳を上段に突きだして、
左手の手の甲で相手の繰り出した突きを払う。そこから繰り出した左の膝蹴り
を、右の掌で弾き、弾かれた左足を踏み込みに回し、鳩尾に出された左手の鉤
突きをお互いの身体が立ち位置を入れ替えて回避する。
直ぐ様右足の中段蹴りに移行、それを左掌で打ち払い右の上段突きを、払われ
た右足を踏み込みに使い打ち込む。
大小、と人影の大きさにはかなり差があるが、まるで鏡の様に同じ動きをしな
がら演武していた。それは息の合った舞のように続いていく。

「うさぎ焼けた。」
少女はそう言いながらかまどから、焼けた兎を運びテーブル上に用意された皿
の上に乗せる。朝、余っていたスープは老人が既に盛り付けて並んでいる。朝
と同じく、外での食事に少女は嬉しそうな態度を取っていたが、表情は変わら
ない。
「うむ、焼き加減は問題ない。」
老人は一口齧ると小さく口にした。
「うん、おいし。」
塩と胡椒、家の庭で取れた香草で味付けをし、炭の熱で炙った肉を齧ると少女
も同意する。が、やはり表情は変わらないので美味しそうに食べてるようには
見えない。
少女が黙々と齧るその姿だけが、それを表現しているようだ。そして老人には
その機微がわかっているようだった。
昼食も半ばに差し掛かった頃、老人を訪ねて来た人物が居た。同じく老人だっ
たが。
「儂らは話があるから、食べておれ。なんなら儂の分も食って構わん。」
「うん、わかった。」
少女の視線は手に持った肉に注がれたまま、老人を見ることも無く返事をする。
老人もそれを確認することも無く、客人と連れ立って家の中へ移動して行った。
少女はその二人に興味は無いのか、気に掛けることも無く食事に没頭していた。

「何しに来た。」
家に入るなり老人は、その来訪を忌むような雰囲気を纏った声で客人に問いか
ける。
「久しぶりに顔を見に来ただけだ。」
客人は気にした風もなく応えるが、その答えがわかっていたのか、老人は台所
から既に酒瓶を取り出していた。そして二つ取り出した茶碗に並々と注ぐと一
つを客人に差し出す。
「酒の飲み方は、変わっておらぬな。」
客人は懐かしそうに口の端を緩めると、茶碗に口を付けて一気に飲み干す。
「ふん、そうそう変わるものでもあるまい。」
望まぬ来客、という態度は消えていないが、老人も飲み干すとそれぞれの茶碗
に酒を注ぐ。
「しかし、惜しいな。」
「その話はとうの昔に終わっただろう。」
客人の言葉に、老人は目を鋭くする。
「あの娘が後継者か?」
その視線は気にも留めず、客人は話題を移す。
「孤独者が、お互い生活しているだけだ。孤児だったが、拾われた先が儂では
不憫だろうよ。」
老人は憐憫の眼差しを家の外に向けるが、家の壁が視界を遮りまだ肉を食べて
いるだろう少女は映らない。
「不憫かどうかなど、本人しかわかるまい。」
既に空になった茶碗を持て余しながら客人が言う。老人はその茶碗に三杯目の
酒を注いだ。
「あの年頃であれば、友も欲しければ、遊びたくもあるだろう。それに伴い感
情も豊かに表現するものだろうが、あれにはほぼ感情表現や表情変化がない。
これは間違いなく儂の所為だ。」
「儂らはずっと掛心の家で育ったからな、餓鬼の育て方は知らぬ。まして当時
から表情も感情も変化させないお主の元で育っては、そうなるのも必然だろう
よ。」
老人の言葉に客人が同意し、言葉を続ける。
「今からでも遅くないであろう、あの娘共々儂のもとに来ぬか?」
「冗談にもならんことを言うな。」
老人は言いながら、茶碗に四杯目を注ぐ。
「本気ではあるのだが。」
四杯目を注がれる茶碗を見ながら客人が言う。その言葉には、嘘は無いようだ
ったが断られるのも分かっていたという理解が含まれている様だった。
「掛心ではお主は宗家、儂は分家。技も陽と隠。はなから交わってはおらぬ。
更に、儂はそれすらも逃げ出した身。今の生活が似合いというものよ。」
老人は自分に対しての皮肉めいた光を眼に宿す。
「あの娘にも、それを押し付けるのか?」
「今暫くはな。」
老人は若干苦さを表情に浮かべながら答える。少女に与えた現状を解っている
ことと、それをまだ与えなければならない苦慮を含んだように。
「まあ、いい。気が変わったらいつでも来ればいい。」
客人は言いながら台所に茶碗を置くと、家の玄関へと向かう。
「それを言いに来たのか。」
「顔を見に来ただけと言ったろう。」
客人は足も止めず、玄関を押し開いた。
「どのみち、軍神の世話になるつもりなど無い。」
老人の言葉を背中に受けながら、客人は去って行った。

老人が外のテーブルに戻ると、洗い場で少女は皿を洗い終わった所だった。料
理は全部平らげたらしい。
「良く入る腹だな。」
少女に近づきながら老人は言った。とくに皮肉を込めた訳ではなく、単に思っ
たことを口にしただけのようだ。
「友達?」
老人の言葉は無視して、少女が疑問を投げる。老人は、その言葉を聞くと多少
顔に苦いものを浮かべた。自分には訪ねてくる知人がいるが、少女には誰一人
居ないという現実がそれをさせたのだろうか。
「いや、ただの腐れ縁だ。」
「ふーん。それよりジジイ、酒臭い。」
客人の事は興味無いように相槌を打つった少女は、それよりも老人から吐き出
される酒の臭いの方が気になったようだ。だが、その悪態にもいつも通り表情
の変化は見られない。
「じゃぁ、続けるか。」
老人はそれだけ言うと、家の裏手に向かって歩き始める。
「酒飲んでるのに?」
その後に続きながら少女が問う。
「こんなのは、酔いのうちに入らん。」
「そぉ。」
軽く相槌を打つ少女は、いつの間にか老人の隣を歩いていた。二人は昼食前に
組型を行った広場に足を踏み入れると、そのまま中央まで向かって歩いて行く。
「飲んでるなんて言い訳は聞かないからね。」
広場の中央付近まで近づいた少女は、そう言った直後姿が霞むように消える。
老人の背後に瞬時に回り込んだ少女は、肝臓の位置を目掛けて抜き手を放つ。
入ったかのように見えた瞬間、その手刀は空を突いた。少女は直ぐ様、身を低
くして後方に回し蹴りで足払いを放つ。足払いを放つ少女の頭上を手刀が通り
過ぎる。背後に回った老人の手刀を躱しつつ足払いを仕掛けたのだが、老人は
軽く跳躍してそれを躱しながら、踵落としの体制に入っていた。
少女はその踵落としを真横に大きく跳んで逃れると、一瞬前まで居た地面が斬
り裂かれた。少女は着地と同時にまた姿が霞む。次に現れたのは老人の背後、
頭のあたりに跳躍していた。踵落としからの着地と同時に、背後に現れた少女
が首を狩るように跳び回し蹴りを繰り出していた。
少女は取ったとでも思ったのか、その瞳が輝きを増す。が、足を振り抜く前に
いつの間にか横手に回っていた老人の掌底が、少女の顎を捉えていた。少女の
身体はふわりと宙を舞い、地面に激突して動かなくなる。掌底食らった時の少
女の視界は衝撃とともに白み、その後暗転した。




「・・・・・・・」
最初に目に飛び込んで来たのは白い天井だった。横に視線を動かすと、同じく
白い壁。ただ、その壁は花柄のエンボス加工で模様が入っているので、殺風景
さは無い。壁の一部には窓があり、少し開いていた窓からは朝の陽射しと共に
緩やかに風も入り込み、白いレースのカーテンを揺らしていた。
「嫌な、夢みた。」
私はそうぼやくと、寝台から起き上がる。窓から入り込んでいる陽射しに軽く
目を細める。風は微かに潮の香りを含んでいる。
寝台から降りると、備え付けの冷蔵庫からプラスチック容器に入った水を取り
出し、同じく備え付けのグラスに注いで寝起きの身体に浸透させる。一気に飲
み干した後は、半袖シャツとパンツを脱ぎ棄ててバスルームに向かう。熱めの
シャワーはまだ気怠げな身体を目指させていく。
滅多に見ることのない幼少期の夢。あまり思い出したくもない過去。あの夢の
続きは、気絶から起こされまた気絶されるを幾度繰り返しただろうか。そんな
鬱積とした気分も、お湯と共に流し、湯気と共に散らせて気分を切り替える。

ここはサールアニス自治連国領の沿岸国、モッカルイア領。その首都であるル
ッテアラウにあるホテル、サニウスに私は宿泊していた。五つの領からなるサ
ールアニス自治連国領は、領内の西端にあり外海に面している。そたのめ、他
大陸との貿易も盛んであり、当然漁業についても言わずもがなだ。
グラドリア国より南西に位置するこの国は、通年穏やかな気候で暖かいので過
ごしやすい。年に何度か訪れる嵐を除けば。その暴風雨は街路樹を薙ぎ倒し、
石造りの家を瓦解させ、幾人もの死者を出す。それでもモッカルイア領は人気
があり住む人が多い。新鮮な魚介類もそうだが、隣領からの野菜や肉類も質の
良いものが手に入るので食は豊かだ。また、他大陸との貿易から珍しい食材も
手に入るし、同大陸内以外の流行も取り入れられるのも魅力の一つだ。
となると、観光局も必然的に多くなるため、至る所で人の波が絶えることは無
い。

私は店を一週間ほど休みにして、旅行に来ていた。グラドリア国からは半日程
電車に揺られればモッカルイア領に入る。首都のルッテアラウにはそれから一
時間だ。昨日の昼に出発して夜に首都に入ったから、私の観光は今日からが本
番。
お店で受注してる薬莢の記述?私が羽を伸ばす間待ってろ。
司法裁院の仕事?ザイランに旅行の邪魔するなって言ってある。
シャワーを浴びた私はバスタオルで水気を拭きとって髪を乾かす。備え付けの
温風機はごぉっと音を立てて耳障りだったが、濡れた髪に潮風が纏わり着くよ
りはましだろう。
下着を付けて、飲みさしの水をグラスに注いで飲み干す。
私は白のノースリーブワンピースを着て、腰に細めで濃紺のサッシュベルトを
巻く。ライトブルーの薄手のカーディガンを羽織って、部屋履きのサンダルか
らヒールが高めのミュールに履き替える。足の甲と足首を固定する部分が、マ
リンブルーのストライプになっていて、白のワンピースと土地的に合っている
と思いたい。
髪をいつものテールアップにして軽く化粧をすると、三階の部屋から出て一階
のフロントに向かう。ロビーに出ると、今回の旅の同行者が既にソファーで待
っていた。ブロンドヘアの下から覗くダークブルーの瞳は、私を捉えると柔ら
かさが浮かぶ。薄いピンクのフレアスカートと白のミュールが似合っていて、
ノースリーブで肩の所にリボン結びになった紐がアクセントの、白のシフォン
ブラウスが柔和な印象を与える。私はフロントに鍵を預けると、その同行者へ
歩を向ける。
「おはよう、待った?」
「おはよ。私も、さっき来たとこ。」
「じゃ、食べようか。」
「うん。」
私と同行者はホテルが用意するビュッフェスタイルのモーニングを食べるべく
ラウンジへ向かう。
この同行者は、いずれ来るであろう来たるべき時が来てしまった、以前の短時
間勤務者で同僚だったヒリルだ。来たるべき時、つまりクビになったわけ。そ
んなわけでこの旅行はヒリルの傷心?旅行にもなっている。
しかも、私の店を訪れて二ヶ月後という速さ。次に会えるのはいつだろう、そ
の程度の付き合いかなと思っていた矢先だった。本人にとっては死活問題かも
しれないので悪いとは思うが、ちょっと失笑してしまった。
私が辞めた、というか私もクビになったのだけど、その後に雇用された短時間
勤務者は私と大差無い仕事振りだったらしい。会社の仕事量が落ち着いて来た
ので短時間勤務者を一人減らそうとなり、ヒリルが切られたわけだけど。
会社も個人事業主だからね、そりゃ都合の良い方を残すのは当たり前だと思う
のだけど。私が優秀だったわけではなく、ヒリルはお世辞にもミスが少ないと
は言えない、と個人的には思う。
決定した後、文書通信で納得いってない不満が送られてきたのだから、私とし
ては笑うしかなかった。

ラウンジに着くと私はトレーを持って、皿を乗せる。高いホテルに泊まってい
るわけではないので、宿泊費に含まれた朝食代の対価はそれほど高くはない。
それでも焼きたてのパン、出来たての惣菜が食べられるのは単純に嬉しい。私
はクロワッサン、ベーコンエッグ、ポテトサラダ、コンソメスープ、そしてオ
レンジジュースをトレーに乗せると、空席を見つけて座る。
量は普通だけどね。ちょっと贅沢な朝食に、気分が浮つく。
そこへヒリルがトレーを両手に持って同じテーブルに置くと座る。満面の笑み
だ。
「・・・」
私は一瞬言葉に詰まる。片方のトレーには私と同じオレンジジュース、ヨーグ
ルト、フルーツ盛り合わせ、ポタージュスープ。もう一つには、クロワッサン、
クロックムッシュ、ミートパイ、ベーコンエッグ、ソーセージ、オムレツ、マ
ッシュポテト。
「そんなに食べるの?」
ちょっとした幸福感も吹っ飛び、冷めた視線をヒリルに向ける。
「うん。」
「朝から良く食べるねぇ。」
そう言って、以前ザイランに似たようなことを言われたのを思い出す。私も食
べる時は食べるのよね。ヒリルに呆れる立場じゃなかった。
「人の事言えないよね。」
それを見透かしたようにヒリルがそう言ってにっこりと笑顔を向けてくる。そ
の笑みは少し意地悪さを付加していた。まぁ、しょうがない。藪蛇。
「お昼は海沿いの方まで出るんでしょ?」
クロックムッシュを齧りながらヒリルが聞いてくる。
「そうね。途中いろいろお店冷やかしながら行こうかと思ってるの。グラドリ
アとは違う、きっといろんなお店があるわ。」
「楽しみだね。」
私の言葉に笑顔を浮かべるヒリル。口はもぐもぐしっぱなしだ。
食べ終わった私は、まだ半分ほど残るヒリルのトレーを見ると席を立つ。
「紅茶探してくる。」
「ん。」
ミートパイを口に入れながらヒリルが返事をする。飲み物が置いてある場所に
行くと探すまでもなく目的のものが見つかった。気の利いた事に、ティーバッ
クではなく茶葉と硝子ポットが用意されている。セイロン、アールグレイ、モ
ーニングブレンドと三種類の茶葉があり、私は迷いなくモーニングブレンドを
選んだ。せっかくなので、どんな味か飲んでみたい。
硝子ポットをとり、茶葉を入れてお湯を注ぐと、ティーカップと一緒に持って
席に戻る。席に戻ると、ヒリルはヨーグルトにフルーツの盛り合わせを投入し
ているところだった。
渋みが殆ど無く、あっさりとした紅茶は軽く飲みやすかった。私はそれを飲み
ながらヒリルが食べ終わるのを待つ。

「美味しかったね。お腹いっぱい。」
「ランチ入らなくても知らないわよ。」
満足そうなヒリルに私は言う。いまラウンジを出て、ロビーに差し掛かったと
ころだ。
「大丈夫、入れる。」
そう言って拳を握るヒリル。入るじゃなくて入れるときた。
「まぁ、ほどほどに。」
「じゃ、準備したらまたここに集合で。」
「うん。」
私が頷くとヒリルは階段へと足早に向かう。あ、私フロントに鍵預けちゃった
けど、朝食食べるだけなのに何やってんだろ。自分のしたことに羞恥を覚えな
がらフロントに向かう。
「ミリア様に、封書を預かっておりますが。」
「え?」
受付嬢が鍵を渡しながら添えて来た言葉に一瞬思考が止まり疑問が口を出た。
まて、なんで私に封書?しかも旅先のホテルに。ここに私が居るのはヒリルと
本人しか知らないことだ。
「あの、誰から?」
嫌な予感しかしない。
「ご家族の方で、アクライル・フー・メネスと名乗りお兄様と仰っておりまし
た。なんでも家族内の事で急用だとか。グラドリア国の身分証で名前も確認し
ましたのでお預かり致しました。」
偽造身分証。孤児の私に家族なんかいない。嫌な予感どころか、もう嫌な事が
起きてしまっている気がした。
「あ、ありがとうございます。」
知らないと言っても受付嬢困らせるだけだし、受け取り拒否しても別の方法で
接触してくる可能性はある。であればと思い、お礼だけ言ってその封書を受け
取った。

旅行初日、享楽に身を委ねようとしている私にいきなり冷水ぶっかけて来たの
は何処のどいつよ。
私は苛立ちと共に部屋に戻ると、早速その封書を開封した。中には数枚の紙が
入っており、表紙らしき紙に危険人物という文字が見えた瞬間その封書を床に
叩きつけた。
馬鹿か。
「雲もなく、今日は見事な観光日和ね。」
私は荷物の中から、ポシェットバッグを取り出すと袈裟掛けに身に付ける。薄
い茶色の合皮製バッグは、いろんな服装に合わせやすいと思い今日の為に買っ
たのだ。財布の中身を確認して、十分に観光資金があることを確認してバッグ
に入れる。
小さな化粧ポーチには最低限の道具を入れ、外は暑くなりそうなので汗をかい
た時ようにタオルハンカチも入れておく。最後に小型端末。嫌な連絡が来そう
であまり持ちたくはないが、無いと困るかもしれないので。例えばヒリルと逸
れてしまった場合とか。目的地は同じだからなんとかなるかも知れないが、探
したり心配したりしないように。
「よし、準備はこんな所かな。」
私は部屋の扉に向かって歩き始める。途中、床に落ちた封書の上を通る時だけ
床を踏み抜く勢いで封書を踏みつけながら。

一階のロビーに降りると、ヒリルが既に待っていた。笑顔で手を振って来るが
私は振り返すタイプではないのでしない。というか、恥ずかしいからやめて欲
しい。と、ちょっと思った。
「お待たせ。」
「なんかあった?」
私はその質問に驚いた。いつも通り振る舞っていたつもりだったが、先程の苛
立ちを隠せていなかったのだろうか。とりあえず確認するようにヒリルに疑問
を投げてみる。
「え?なんで?」
「なんか、ちょっと機嫌悪そうな雰囲気に思えたから。気のせいだったらごめ
んね。」
やっぱり、ちょっと出てたのか。見なかった事にしたけど、事実は確実に影響
を及ぼしていたようだ。
「そうなんだ。特に何もないんだけど。」
白ばっくれるしかない。
「そっか、気のせいならいいんだ。」
「さ、満喫しに行こうか。」
「そだね。」
例のあれは記憶の外に追い出し、私は観光を満喫するためにヒリルとホテルの
自動扉を抜け、ルッテアラウの街中に踏み出した。
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