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1巻

1-3

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 だから後は行動と結果で信じてもらうしかない。
 シュラウド様は私を見つめ、託すように呟く。

「俺の仲間を救ってくれるか? リーシャ」
「はい、任せてください……私を選んでくださったことを、後悔はさせません」

 答えた瞬間、彼は私の手を強く引いた。
 多くの兵士達が走り回る中をすり抜けて、大きな医療テントの前へとたどり着いた。
 すると呻き声や叫び声が聞こえてくる。
 思わず足を止めると、追ってきたエリーゼさんが、私の肩を掴んだ。

「……あなた、見たところ歳は十代後半といったところかしら」
「はい」
「この先に待っているのは綺麗な花畑ではありません。この先は残酷よ。命を預かる責任は若いあなたには重い。それでも行くの?」

 その声に、妹から放たれる言葉のような毒は含まれていない。エリーゼさんはきっと純粋に心配してくれているのだろう。
 けど――

「行かせてください、見て見ぬ振りなんて私にはできません」
「……分かった。こっちよ」

 エリーゼさんは私の言葉に頷くと、入り口の布を巻き上げて私を中へいざなった。
 中へと入ると血の匂いが鼻孔を満たした。多くの怪我人がベッドに寝かされている。既に病床が足りていないのだろう。粗末な木製の椅子に包帯が巻かれて苦しそうに呻き、絶望したように項垂うなだれている人が腰かけていたり、腕を失った人が床に座り込んでいたりする。
 そして幾人もの兵士が彼らを必死に治療している。ただ、既に薬が尽きているのか励ますように手を握っていたり、祈るようにうつむいていたりする人が多い。
 思わず口元を押さえそうになったのを堪え、鞄を開き、声を張る。

「シュラウド様に呼ばれてまいりました、薬師のリーシャと申します。これを重傷の方に飲ませてください! 軽傷の方には薄めて飲ませてください。多くの人に届くように……どうかお願いします!」

 治療を行っていた兵士たちは驚いた様子だったが、シュラウド様の名前が出て目をしばたたかせると、すぐに動き出してくれた。
 私もポーションの小瓶を持って一際血の匂いが濃いベッドへ向かう。
 見ると、ベッドに寝かされた男性は目の下に深い傷を負い、腹部には痛々しい程に血の滲んだ包帯が巻かれている。傷の深さで判断すれば、あと少しの命。
 ポーションでも死者を生き返らせることは不可能だ。しかし生きてさえいればきっと……

「……起きられますか? 薬を持ってきました」
「なんだ? ああ、こんな綺麗な女性に看取ってもらえるとは……」

 そっと肩に触れると、彼はうっすらと目を開いた。その唇にポーションをすくったさじを近づける。

「……飲んでください」
「もう、俺に薬を使う必要はない。それより、頼みがある。俺の母さんに伝えてくれ。頼む……最後の頼みだ。バッカスから伝えられたと、ありがとう、と……」
「それは――ご自身でお伝えください」

 そう言いながら私は彼――バッカスさんの口元へとポーションを落とした。
 彼がゴクリと飲んだのを確認して、傷口が輝くのを見つめる。
 すぐに傷は消えていった。
 これなら大丈夫だ。

「――は? まて、痛くねぇ? なんだ、これ⁉」

 同時にバッカスさんは飛び上がり、信じられないといった表情を見せる。
 振り向くと他の兵士の人たちも信じられないと声を上げている。
 さすがになくなった腕などは再生不可能だが、兵士たちの傷口が完全に塞がっているのが見て取れた。

「うそだろ‼ 傷が‼」
「苦い薬を飲んだら治ったぞ⁉」

 よかった……
 怪我に呻いていた人達が、次々に顔を上げる。
 充満していた血の匂いが抜けるように私はエリーゼさんと一緒に天幕の布を巻き上げた。
 さあっと新鮮な空気と陽の光が入り込んで、歓声が大きくなっていく。
 見回すと、さっきまで命の危機に瀕していた人たちが助かったことに喜びの声を上げている。その姿に胸が温かくなるのを私は感じた。
 嬉しい……。お母様はきっとこんな光景が見たくてポーションを作り始めたのだろう。

「よくやってくれた……ありがとう」
「シュラウド様……」

 安堵した私の頭を優しく撫でてくれたのはシュラウド様だった。
 彼の優しい笑みを見た瞬間、力が抜けて彼に寄りかかってしまう。

「おっと……」
「す、すいません……力が抜けて」
「無理もない、肩に力が入っていたのだろう。このままでいい」

 視線は鋭くて怖い人だけど、やっぱり優しい人だ。
 お言葉に甘えて肩に寄りかかったままでいると、エリーゼさんがこちらにやってきた。

「本当にありがとう……! 今日亡くなるかもしれない兵士達も皆が助かったよ」
「いえ、エリーゼさん達が素早くポーションを使ってくれたおかげです」

 感謝を伝えていると、先程まで怪我をしていた兵士たちがやってきた。
「あなたが助けてくれたのか‼」「ありがとう……」と感謝の声と共に涙を流している方もいた。

「俺、妻にはもう会えないと思ってたよ」
「俺も、子供が産まれたばかりで……助けてくれて本当にありがとう」

 彼らの言葉に心が温かくなり、嬉しさが溢れる。
 知らなかった、誰かを助けることがこれ程までに胸を弾ませるなんて。
 お母様の夢だった『ポーションを創り出し、誰もが安心できる世界を作ること』なんて不可能だと思っていた。
 でも、こんな光景を見たら……私も希望を持ってしまう。
 屋敷から出てきて……本当によかった。

「皆さんが助かってよかったです」

 ふと肩の力が抜けてそう言うと、ピタリと周囲の歓声が止まった。それどころか兵士の方たちやエリーゼさんの視線が自分に集まっているのを感じて、慌てて隣のシュラウド様を振り返る。

「な、何かおかしかったでしょうか……」
「皆、君の笑顔に見惚れているだけだ」
「へ⁉」
「人形などと自分を卑下していたが、陽を浴びて微笑む君はとても綺麗だ」
「……っ⁉」

 突然の言葉に、驚きで声が出せない。
 笑顔、なんて浮かべていただろうか? そもそも何年も表情すら浮かべられなかった私が、こんな簡単に笑うことが出来たなんて……

「エリーゼ、急いで集めてもらいたい薬草類がある」

 私のそんな驚きなどお構いなしに、シュラウド様がエリーゼさんに必要な薬草類の手配を頼んでいる。私なんてドキドキして顔から火が出そうなほど熱いのに。
 慌ただしい胸の鼓動を鎮めるために、ゆっくりと深呼吸する。
 落ち着こうとする間にも続々と兵士達が感謝を伝えに来てくれた。人数がかなり多く、人だかりになってしまう。これだけの人に囲まれるなんて初めてで、どうすればいいか分からず戸惑ってしまう。
 するとシュラウド様がふと顔を上げて、私の背中をそっと押した。

「シュラウド様?」
「改めて君を皆に紹介しよう」
「は、はい」

 シュラウド様が視線を向けると、落ち着きのなかった兵士たちがすぐに静まった。その分、視線が集まり、思わず唾を呑む。多くの視線が私を射貫くと、父とマディソンのことが頭をよぎって上手く体が動かなくなる。
 緊張してついつい下を向きそうになるが、シュラウド様は支えるように私の背に手を当てて、朗々と声を張った。

「改めて皆に紹介しよう、彼女はリーシャ・クランリッヒ。俺が薬師としてこの辺境伯領へ招いた。彼女は聖女にしか作れなかった『ポーション』を創り出すことに成功した。その効果は充分に分かっただろう! 歓迎してやってくれ」

 彼のよく通る声に呼応するように、兵士たちが割れんばかりの歓声を上げてくれる。

「薬師様! あんたに救われた命だ!」
「来てくれてありがとう! 今度、俺の美味うまい飯を食わせてやるよ!」
「俺は一生あんたのために戦うぞぉ! 絶対に魔獣から守ってやるから安心してくれ!」

 止まぬ歓声がとどろき、私はゆっくりと息を吐き出した。
 ――ここの人たちは私を受け入れてくれている。
 あの屋敷と違う。ここなら私は生きていてもいいと思わせてくれる。
 そう思うと、うつむいた顔をようやく上げることが出来た。

「粗暴だがいい奴らばかりだ。リーシャ、彼らと共に辺境伯領を守ってくれるか?」
「はい。私の方からお願いしたいぐらいです。ここに、居させてください!」

 私が頭を下げると歓声の声は大きくなり、感謝の言葉が飛び交う。
 それを見て、シュラウド様が微笑んだ。

「彼らにとって君は希望になったんだ。死と隣り合わせの恐怖の中で前に進むためには希望がいる。これは薬師の仕事か分からんが……彼らを支えてやってくれ」

 そうか、辺境に生きる彼らにとって、死の恐怖はいつも隣に付きまとう。
 それを少しでも私が緩和できるのであれば……

「喜んで引き受けます、シュラウド様」
「ありがとう。ようこそ我がリオネス辺境伯領へ、歓迎しよう。共に生きる仲間として」

 たくさんの歓声に包まれる中、彼に精一杯の感謝を伝えたくて、私はペコリと頭を下げた。


 その後、たくさんの人たちに囲まれて、初めてこんなに口の筋肉を使った……と思うほど、いっぱいお話をする。
 それから天幕の中の清掃を済ませた後、領内の宿屋にでも案内してもらおうと思ったら、なんとシュラウド様の屋敷に招かれることになった。
 父の屋敷とは比べ物にならない広々とした屋敷の中で、身を強張らせる。
 てっきりこの領地で暮らしていくための手続きのためだと思っていたのだけど、どうやらシュラウド様の屋敷に住むことになるらしい。
 緊張しきりの私にシュラウド様が椅子を勧めてくれた。

「立ちっぱなしだったから疲れただろう。すぐに部屋の支度をさせる」
「あっ、いやそんな」
「気にするな」

 会った時は実感が湧かなかったけど相手は辺境伯様だ。今更ながら緊張してしまう。
 屋敷に住んでもいいと言っていただけたけど失礼があってはいけない。

「適当に座っておいてくれ」
「は、はい」

 慌てて頷き、椅子に腰かけると、シュラウド様は微笑んで去っていった。
 その笑みにドキリとしてしまい、慌てて首を振る。それから一人になった私は改めて周囲を見回した。
 彼の屋敷はいい意味で無骨だ。
 無駄な装飾品がまるでなくて、マディソンのせいで悪趣味な装飾だらけになった前の屋敷とは大違い。そういえば彼が「シュラウド様」と領民や兵士たちから家名ではなく、名前で呼ばれていたことを思い出した。
 彼は辺境伯という立場でありながら、まるでそんな雰囲気を感じさせないほど気さくに領民たちに接している。屋敷にもその人柄が表れているようだ。

「すごいなあ……」

 兵士たちから聞いた話では、シュラウド様はまだ若い。先代の辺境伯が魔獣の襲撃によって身まかられてすぐに爵位を継いで以降、ほとんどの私財を領地の防壁や医療に回しているそうだ。
 だからだろうか。
 広々とした部屋には暖炉のおかげだけではない暖かさが満ちていて妙に落ち着く。
 彼が居なくなって静かになった部屋で、私は椅子の背にそっともたれかかった。
 夢のような一日だ。あの恐怖と苦しみしかなかった屋敷から離れられたことが信じられない。

「ニャーーン」

 しっかりとついてきていたクロが私の足元で鳴く。
 そのキラキラとした目に慌てて私はクロを抱き上げた。

「クロ……お、大人しくね」

 その時だ。

「こんばんは、お嬢様」
「へっ⁉」

 突然後ろから声が聞こえて、変な声が出てしまった。
 振り返ると白髪で優しそうな笑みを浮かべた男性が立っていた。彼はこちらを見つめ、少しびっくりしたように目をしばたたかせている。

「驚かせてしまってすみません。あなたは……」
「わ、私は……」
「今日より屋敷に住むことになった薬師のリーシャだ。ルーカス、色々と案内してくれ」

 答えようとしたところでシュラウド様が部屋に入ってきて代わりに答えてくれた。
 先程まで着ていたジャケットを部屋に置いてきたのだろう。身軽な様子だ。

「それはそれは。この屋敷にお客様を迎えることも随分と久しぶりです。しかもこんなに美しいお嬢様とは」

 ルーカスと呼ばれた男性が胸に手を当てて礼をする。
 その身のこなしには一切の無駄がなく、所作は芸術のように洗練されていた。

「ようこそ、リーシャ様。私は執事のルーカスです。困りごとがあればご相談ください」
「よろしくお願いいたします……ルーカスさん」

 急いで立ち上がり、淑女の礼を取る。
 ルーカスさんは柔らかな笑みを浮かべて、私を別の部屋に誘うようにドアを開けてくれた。

「どうぞ、お食事を用意いたしますのでこちらへ。その間にお部屋を整えてまいります」


 案内された客間で食事をいただく。
 温かいコーンクリームスープにふわふわと柔らかいパン。目にも美しいハムとオリーブが並べられ、食前酒の有無を聞かれて慌てて断った。
 次々と並べられていくお皿に、思わずお腹が鳴ってしまう。
 恥ずかしさに顔を伏せると、シュラウド様にぽんぽんと頭を撫でられた。

「しっかり食べるといい」
「あ、ありがとうございます」

 そう言われてカトラリーを手にする。礼儀作法を気にして食べることも久しぶりだ。
 そっとスープを口に運ぶと、温かさが滑らかに喉を伝った。

「美味しい……!」

 屋敷では冷えたものしか食べさせてもらえなかったから、出来立ての温かな料理があまりにも美味しく感じて、心が安らぐ。
 すると私の様子を見たシュラウド様が優しく微笑んだ。

「料理は辺境伯領の者たちがくれる食材で作ってもらっている。心ゆくまで食べてくれ」
「そうだったのですね。本当に美味しいです……!」

 そう言ってついついパクパクと食べてしまってから気が付いた。
 シュラウド様の前に置かれたお皿から一切ご飯が減っていない。カトラリーすら動いていない。
 ゴブレットに注がれた水だけを口に運んでいる姿を見て、慌ててシュラウド様に尋ねた。

「あの、シュラウド様は食べないのですか?」
「気にしないでくれ。……君のおかげで今回死者は出なかったものの、俺が不在だったせいであれほどの怪我人を出した。今は食う気にならない」

 彼は大勢の命を預かっており、その責務の重さは私には計り知れない。
 彼が食べないというのであれば私からは何も言えない。
 しかし、薬師としては別だ。
 私はカトラリーを動かす手を止めた。

「失礼ながらそれは間違っております」
「間違っている?」
「領民の方たちの命を預かる責務が重いことは承知しています。しかしシュラウド様自身の身体もご自愛ください……人は食べなくては生きていけません」

 私はパンをちぎり、それをシュラウド様の口元へと持っていく。

「……リーシャ?」
「私が支えるのは兵士の方々だけではありません。……あなたのことも支えさせてください」
「…………」

 シュラウド様が目を見開いてこちらを見つめる。
 思いもせぬことを言われたというような表情に、思わず手が震える。
 ――差し出がましいことをしてしまった。というか……あれだけ無遠慮にご飯を食べておいて何をと思われても仕方ない。でも、もし日常的に彼が食を断っているなら誰かが止めないと……!
 祈るようにパンを差し出し続けていると、シュラウド様は口元に寄せられたパンを見つめてから、ひょいと口に運んだ。
 彼の唇が少しだけ指先に触れて、慌てて指をひっこめる。

「……美味うまい」

 その言葉と同時に、彼はカトラリーに視線を向けた。それから優雅な手つきでそれらを操り食卓に並んだ自分の食事を平らげていく。綺麗になった皿を置いて、彼は何処どこかに消えるとジャケットを羽織ってすぐに戻ってきた。

「少し外す。俺が不在だった時の被害を見てくる」
「わ、分かりました! お気を付けて……」
「あぁ、ゆっくりしてくれ」

 そう言うと、彼はこちらを見ずに屋敷から出ていってしまう。
 ――やはり食べるのを押し付けるのはよくなかっただろうか?
 恥ずかしさといたたまれなさに、行儀悪くも机に突っ伏しそうになる。薬師として間違った選択はしていないと思うけれど、嫌われてしまったら嫌だな、と不躾にも思う。
 先ほどまで美味しく感じていた食事をする手を止めると、ふと、誰かが傍に立っていることに気が付いた。
 顔を上げるとルーカスさんがこちらを見つめている。彼は私の視線を受けて、ふわりと微笑んだ。

「旦那様のことを、気遣ってくださりありがとうございました」
「いえ……私の余計なお節介だったかもしれません……」
「いえいえ。私たちでは言いたくともお伝え出来ないことでしたから。それに、嬉しいものですよ。誰かに心配されるというのは」
「そう、なのでしょうか?」
「ええ。よければこれからも旦那様を支えてさしあげてください」

 そう言って、ルーカスさんがくすくす笑う。見ると給仕をしてくれていたメイドさんたちも笑いをこらえているようだった。

「で、ですがシュラウド様は慌てて出ていってしまいました、ご迷惑だったのかもしれません」
「ふふふ、出ていったのは迷惑だったからではありませんよ。旦那様は良くも悪くも慣れておりませんからね」

 そう言って、ルーカスさんが周囲に目配せをした。含みのある言い方に首を傾げる。

「慣れていないとは?」
「今はお互い何も知らない方がいいでしょう。私も長く生きてきましたが、久々にワクワクしてきましたよ。……さあ、それよりお食事の続きを」

 色々と意味深な言葉の真意を尋ねようとしたけれど、ニコリと笑って紅茶をれてくれたルーカスさんはこれ以上教えてくれそうにない。
 迷惑ではなかったのなら、シュラウド様は何故出ていってしまったのだろうか? 
 部屋に案内されてからも、シュラウド様は帰ってこなかった。お母様が亡くなってから初めてのパリッとしたシーツの上で、私は何処どこか悶々とした気持ちで眠りについたのだった。


   ◆◇◆


 思い出せば、ずっと暗い部屋で一人だった。
 怯えるように膝を抱えて……怖くて苦しいのに助けてくれる人なんて誰もいない。
 帰ってきたマディソンから執拗に嫌味を言われ、目ぼしいものをどんどん奪われる。
 少しでも彼女へ抵抗すればライオスが躾と称してムチを持ち出し、私へと振るう。
 廊下から聞こえてくる足音が近づく度にビクビクと身体を震わせて朝を待った。
 そんな日々を送るうちに私は泣くことも出来ず、笑い方も忘れた人形になってしまった。
 死にたいと何度も思った。
 孤独でつらい日々、震える夜に隣に居てくれたのは――

「ニャン!」

 ぺろりと私の頬を舐めるいつもの感覚で目を覚まし、顔を上げて、クロの頭を撫でる。

「おはよう、クロ……」
「ンナォォ」
「起こしてくれてありがとね」

 朝日の差し込む寝室で私は身体を起こして伸びをする。
 夜に怯えずにスッキリと眠れる日が来るなんて思ってなかった。

「朝ご飯を食べに行こうか、クロ」

 クロと共に階下に向かうと、シュラウド様が既に席に座ってコーヒーを飲んでいた。
 昨日のことを思い出してドキリとするが、シュラウド様は特に気にする様子を見せず私に朝の挨拶をしてくれた。
 そのことにホッとして、頭を下げる。
 息を吸い込むと、ルーカスさんが用意してくれたオムレツ、そしてバターパンの甘い香りがお腹を刺激する。私が食卓につくとシュラウド様が呟いた。

「君はクロと本当に仲がいいな……朝の用意が出来た瞬間にクロが寝室に君を起こしに行ったんだ」
「そうだったのですね……クロは不思議な子です。屋敷は危険だからと追い払っても、いつも戻ってくる。お母様が亡くなってからずっと一緒です」
「そうか……俺は動物と暮らしたことがないから分からないが、君たちには強い絆を感じる。不思議なものだ」
「ええ、本当につらい日はいつもクロがいてくれて……。お母様がクロを贈ってくれたのだと思ってしまう日もありました。おかしいですよね?」

 視線を向けると、私達の話なんて気にせずにクロはひげを汚しつつミルクを舐めている。
 ルーカスさんはクロにもミルクを用意してくれていたようだ。

「あながち、リーシャ様の考えも間違いではないかもしれません」

 食卓に座った私に温かな紅茶をれてくれたルーカスさんは笑いながら話す。

「これは私が子供の頃、母親に聞いた話です。この国の古い言い伝えでは、猫は導き手と呼ばれていました。猫が主と認めた者を幸福へと導くと……」
「導き手……ですか?」
「ええ、ひょっとするとクロ様がリーシャ様を幸せへ導いてくれているのかもしれませんね」

 そういえば、シュラウド様と出会ったきっかけもクロだった。それはクロが幸運の導き手だから? いやいやそんなはずはない。
 そんなことを思いつつ、ミルクを舐め終えて私の膝上で丸まったクロを撫でる。
 するりと指先に頬をすり寄せてくれるクロに微笑んでしまう。

「いずれにせよ、私は……クロが元気でいてくれるならそれが一番幸せです」
「その通りですね。猫はいるだけで幸福を感じるものです」

 ニコニコと笑っているルーカスさんはきっと猫が好きなのだろう。
 クロのご飯だってすぐに用意してくれていた。今もクロを撫でたそうにうずうずとしているように見える。

「よければ……撫でてみますか? クロもきっと許してくれると思います」
「よ、よろしいのでしょうか?」

 余程嬉しいのか、ルーカスさんは目をキラキラさせている。その姿が、ずいぶん年上の男性にもかかわらず可愛らしく見えた。


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