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1巻

1-2

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 そうしている間に、リオネス辺境伯は血塗れの手をマディソンへと伸ばして言った。

「聖女マディソンよ。治せるか、この傷を」
「む、無理です……」

 真剣な眼差しで問いかけるリオネス辺境伯に、マディソンはただ震えて首を横に振った。
 ――何を言っているの? 出血をしているのなら、することは一つでしょ? 
 リオネス辺境伯は顔をしかめて、また静かに呟く。

「聖女はポーションに頼らずとも、身に宿す癒しの力で外傷を治療できると聞いている。人の命を扱う者として君の力を見せてくれないか?」

 彼の問いにマディソンは力なく項垂うなだれる。

「無理です……私の癒しの力は自分のかすり傷を治す程度、ポーションの作製もできますが……それも未だに力不足で、飲んだ者の軽い傷や風邪程度しか治せません」

 呟いたマディソンに、リオネス辺境伯は肩を落とした。

「所詮は祀り上げられた聖女か……知識も人格にも期待は出来そうにないな」
「ど……どういうことですか?」
「君が思うよりも、聖女という称号は重要ではないということだ」

 小さく呟いた言葉を最後に誰もが沈黙して、血の垂れる音だけが響く。

「ニャーーン」
「クロ⁉」

 するといつの間にかやってきていたクロが辺境伯の前に飛び出した。
 元気な姿を見せるように歩き出したクロを、慌てて抱き上げたが遅かった。ライオスとマディソン、そしてリオネス辺境伯の三対の目が私を射貫く。

「お姉様⁉」
「リーシャ‼ 何をしている‼」
「ご、ごめんなさい。二人とも」
「お姉様の相手なんてしてられないわ、部屋に戻っていてよ!」
「そうだ、お前は出てこなくていい!」

 ――ああ、やっぱりそうだった。私は彼らにとって邪魔なだけの存在だ。
 鋭い声たちに身をすくめると、突然雷が落ちたような声がとどろいた。

「貴様らは黙っていろ‼」

 ライオスでさえ腰を抜かしたその声はリオネス辺境伯のものだった。
 彼は硬直してしまった私に近づくと、鋭い視線を私の手元に向けた。

「先程の……猫か?」
「は、はい……」
「君が?」

 先ほどまでぐったりとしていて意識すら危うかった猫だ。怪しまれるだろうかと思いつつ、こくりと頷いた瞬間、彼の顔がぱっと明るくなった。

「君はこの怪我を治療できるか?」

 そうして差し出された手から滴る血を見て、また顔が引きつる。
 ――そうだった、傷を放置してしまっていた……!
 私は何も言わず、自身の着ていた衣服の布地を破く。階段を駆け上がればポーションがあるけれど、これほど血が流れているのであれば止血が先だ。
 ビリビリと音を立てて破いた生地をそのままリオネス辺境伯の手のひらに押し当て、圧迫する。
 わずかに彼の顔が歪んで、それからほう、と息を吐いた。

「……何処どこでこの知識を?」
「 亡くなった母は薬師でしたから、応急処置は一通り習ったのです」
「そうか、すまない」
「いえ、十年前のことなので平気です。……手は胸より高く挙げておいてください」
「あぁ……名前は?」
「リーシャと申します」
「そうか、君が姉の……噂はやはり当てにならないな」

 流れていた血を止めた、といっても傷口が塞がれた訳ではないため安心はできない。
 私は消毒液と包帯を屋敷の救急箱から取り出して持ってくる。マディソンとライオスはやけに静かなままだった。不思議に思いながらも、都合がいいので放っておく。

「少し染みますよ……」
「慣れている」

 消毒液を浸した柔らかい布を傷口に当てる。
 言った通りに慣れているのだろう。傷口に消毒液を塗られたら激痛が起きるはずなのに、リオネス辺境伯は顔色一つ変えない。凄いお方だと思いながら、包帯を巻きつつ私は呟く。

「ここでは、ここまでの治療しかできません」
「いや、充分だ。期待通り……いやそれ以上か?」

 怪しげに頬を緩ませたリオネス辺境伯は突然、私を抱き寄せ、ライオスに向かって大きな声で宣言した。

「ライオス伯爵! 本日よりリーシャ・クランリッヒを我が領地に迎える」
「なっ⁉」

 その声と共に、硬直していた二人が表情を変える。誰よりも大きな声を上げたのはマディソンだった。わなわなと震えて「有り得ない」と呟いている。
 その様子を冷たい目で眺めてから、リオネス辺境伯はさらに続ける。

「異論ないな?」
「待ってください! 何故お姉様を⁉ 聖女の私の方がきっとあなたの相手として優れています」
「簡単なことだ……君が聖女としてあまりに未熟であるからだ。リーシャと比べるまでもない」
「私がこんな無表情で薄気味悪い人形より劣っていると⁉」
「そうだ。真に薄気味悪いのは、生き物を傷つけることに罪悪感さえ抱かない人間の方だが」
「な……なっ⁉ 私を馬鹿にしているの⁉」

 大声で叫ぶマディソンに外面を取り繕う余裕はなさそうだ。
 リオネス辺境伯は再度私を抱き寄せ、耳元で呟く。

「俺の元へ来るか? リーシャ」
「え? あの……」

 翡翠ひすいの瞳に映っているのは私だけだ。戸惑っているとリオネス辺境伯は微笑んで、もう一度言った。

「君の考えで、答えを聞かせてくれ」
「わ、私は……」

 ――彼の考えは分からない。しかしここに残れば私もクロもどうなるかは容易に想像が出来た。なら選択肢はただ一つだ。

「あなたと共に参ります。リオネス辺境伯様」
「シュラウドでいい。決まりだ。早速荷物をまとめてくれ」

 彼は私の言葉にニッと笑うと、私を送り出すように背中を叩いた。

「どうして‼ どうして‼ あんたなのよ‼」

 マディソンが叫び、止めようと詰め寄ってくる。
 しかし、リオネス辺境伯――シュラウド様は私に目配せして「任せてくれ」と呟いた。

「マディソン殿、確かにあなたは聖女であり、怪我や病気を治せるのだろう。しかしかすり傷を治す程度では人を救えない。だが君の姉はそんな力もなく知識だけで俺を救おうとした。差は歴然としている」

 シュラウド様の言葉にマディソンの瞳が一瞬揺れた。動揺したようにも見える姿に一瞬目をみはる。

「何よ、私は認めない……認めないわ! 私が聖女なのよ!」

 しかしマディソンはすぐに顔を上げて、私を睨んだ。
 その視線に先程よぎった動揺の光は感じられない。

「……欠点を認められないのが、最も愚かだな」

 荷物をまとめておいで、とシュラウド様に背を押されて私は慌てて自室に戻った。
 もとより、大抵の私物はマディソンに奪われていたので私の荷物は多くない。ポーションとそれを作るための器具をわずかばかりの衣服でぐるぐる巻きにして、古ぼけた鞄に詰め込む。
 その鞄を担いで階段を降りると、どうやってライオスとマディソンを撃退したのか、シュラウド様だけが一人廊下の壁にもたれていた。

「もういいのか?」
「はい、シュラウド様」
「……では行こうか」

 私がシュラウド様の後ろについて歩くと、クロが足元にやってきた。

「シュラウド様、この子もよろしいでしょうか?」
「君の親友なのだろう? もちろんだ」

 屋敷の外にはシュラウド様の乗ってきていた馬車が停まっていた。
 無駄な装飾は一切なく、走る馬も毛並みがよくたくましい。
 ――あの馬はきっと速く走るだろう。
 のんきにそんなことを考えながら馬車に乗り込むと、マディソンの叫び声が聞こえた。
 顔を上げると、どうやら私の部屋を早速荒らしに行ったのか、部屋の窓から彼女が叫んでいるのが見える。

「私は認めない‼ お姉様が私よりも優れているはずがないわ! だって私は……この国で最高の聖女なのよ⁉ お姉様は人形みたいで薄気味悪いのに!」

 独り言なのか、私に向けて叫んでいるのかは分からない。
 しかし距離のせいか、今まではずっと恐ろしかった彼女の声があまり怖くなかった。

「……行きましょう、シュラウド様」
「言い返さなくていいのか?」

 私は首を横に振る。
 ――この十年間でよく分かっている、マディソンには……

「何を言っても無駄ですので」
「なるほど、それもそうだな」
「認めない! 認めない‼」

 ガシャン! と甲高い音が屋敷に響き渡った。
 何もない私の部屋からではない。廊下に置かれていた骨董品や花瓶をマディソンが癇癪かんしゃくを起こして壊しているようだ。しかし、あれらは全てマディソンのものだ。私は何も感じない。
 ――次々と物を壊す彼女を止められる者は屋敷にはいない。
 全員が彼女を甘やかした代償だ。
 マディソンは狂気を帯びた声で叫び、窓から身を乗り出して私を睨む。

「絶対に私が上だと証明してみせますわ‼ お姉様、私の方が優れているのよ! 人形のあなたよりも、聖女の私の方が‼ 待ちなさい! 話を聞きなさい‼ 絶対に私が、おねぇさ――」

 バタンと馬車の窓が閉じられると、マディソンの叫び声は遮断されて聞こえなくなる。

「出してくれ、なるべく急いで声の届かぬ所まで。ここは彼女と話すには騒がしい」

 シュラウド様が御者へ指示をすると、馬の蹄の音と共に馬車が揺れ始めた。
 もう、怖さや危機を感じる必要はない。
 そう思うだけで心が安らぎ、私は膝に座るクロの頭を撫でた。

「やっと……解放されたね。クロ」

 呟いた言葉に返事するようにクロは「ニャン」と小さく鳴いた。
 長く、つらい孤独な日々だった。
 ようやく解放された安堵感も束の間、シュラウド様の手に痛々しく巻かれた包帯が目に入る。
 それからトランクにしまわれているポーションの瓶のことを考えて、私は一つ二つと深呼吸を重ねた。

「……ちょっと、よろしいでしょうか」

 私にしては思い切った行動だった。初めて出会った男性の手を取ってしまったのだから。



   第二章 薬師としての一歩


 呆気に取られているシュラウド様を横目に、トランクから小瓶を取り出す。先程クロを助けるのに使ったポーションの残りだ。シュラウド様はその小瓶をいぶかしむように見つめた。

「これは……」
「ポーションです。自作ですが」
「っ⁉ ポーションは修行を積んだ聖女しか作り出せないのでは? まさか君の妹……が? いやそんなはずはないか」

 ……少しはマディソンに可能性を持ってあげてもいいのでは? まぁ、あの失態を見た後ではその反応も無理はないけれど。
 私は首を振って、ポーションの小瓶を開ける。

「母はポーションを薬学で作製できないか模索しておりました。道半ばで亡くなってしまいましたが、少しの傷なら治せる簡易的なものまでは出来上がっていたのです。その研究を引き継いだ私が完成させました」
「それは……凄いな。すまない、少し動揺している」

 彼は驚きと喜びを合わせたような表情で、小瓶をじっくりと眺めている。
 ポーションは一本手に入れるのに国家予算が必要になる程の貴重品なのだから、動揺するのも当然だ。売れば子子孫孫、遊んで暮らせるだろう。
 ――だから、ライオスとマディソンに見せるわけにはいかなかったのだけど……
 でも流石にシュラウド様の傷を放置できない。
 そっと彼の手に巻かれた包帯をほどき、小瓶を傾けてポーションをかける。するとキラキラとした光が彼の傷口の周囲に漂い、すぐに傷口は塞がっていった。


 それでもまだ彼の顔色はよくならない。血を流しすぎたのだろう。

「苦いですが、残りをお飲みください」
「……全部飲むのか?」
「できればそうしてください」

 ひと口舐めて、苦みに渋い顔をする彼を励ましつつ全部飲んでもらう。
 するとみるみるうちに彼の顔色がよくなった。
 その効果に驚いたのか、シュラウド様は手を握ったり開いたりを繰り返している。

「違和感はありませんか? 気分も悪くなったら言ってください」

 何しろ私の体でしか実験をしていないのだ。もし他の人の体に合わなかったらと思うと恐ろしい。
 しかしシュラウド様は首を振った。

「……これの量産はできるのか? 製法を誰かに伝授は? 可能であれば我が領の者に教えてほしいのだが」
「必要な薬草があれば可能です。ただし方法が難しいので、私が指南しても作れるようになるには二年は必要かと」
「そうか……」

 そう言ってシュラウド様が視線を空中に向ける。
 その姿に早まったことをしただろうか、とドキリとする。
 もしも彼がポーションで金儲けを考えているならば、何処どこかでひっそり私自身の命を絶とう。この薬で争いが起きないように火種となる私が消えればちょうどいい。
 そう思って、私はシュラウド様に視線を向けた。

「一つお聞きします。このポーションをどのように利用なさるおつもりですか?」

 しかし、「お金儲けですか?」と言う間もなく彼は答えた。

「このポーションで大勢の人々を救おう、君の努力を腐らせはしない」
「へ?」

 思わず頓狂とんきょうな声を出してしまった。
 綺麗な瞳で答える彼が嘘をついているようには見えない。

「あ、あの……自分で言うのもおかしな話ですが、お金になるのでは?」
「金は確かに大事だが、国の宝は人だ。自国の民や、苦しむ人を救うために使いたいと思っていたが――何かおかしいか?」
「――いえ、無粋な質問でした」

 愚かなのは私のほうだ。
 人の欲はみにくく、際限なんてないことを知っていたから、お母様の夢など叶うはずがないと思っていた。けどきっとお母様は、シュラウド様のような方がいることを信じていたのだろう。
 清き方に渡るのであれば、何も文句はない。

「ポーションの利用方法に文句はありません。あなたの頼みを引き受けます」
「ありがとう、よろしく頼む。薬師リーシャよ」

 そう言ってシュラウド様は改めて頭を下げた。私も慌てて頭を下げ返す。
 お母様と同じ、人を救う職『薬師』と呼ばれたことに少しだけ胸が熱くなった。
 顔を上げると、シュラウド様はふむ、と言いながら顎に手を当てた。

「……どうかいたしましたか?」
「いや、君は目に表情が出るのだと思って」

 そう言われて、思わず顔に手を当てた。いつも通りだ。表情が変わっている様子はない。
 しかし、目をまたたかせると、「ほら、驚いているのが分かる」とシュラウド様は微笑んだ。

「人形と言われる私にそのような……」
「人形か? 俺にはそう見えないな」
「……何故そう思うのでしょうか?」

 思わぬ答えに尋ねると、彼は私の瞳を見つめた。

「仕草や瞳を見れば、充分君の気持ちが分かる。それに俺もあまり笑う方ではないさ」
「悲しい時に涙も出ないような人間です。それでも人形ではないと思いますか?」
「皆の当たり前を自分にまで当てはめる必要はない。君らしくいればいい」

 そう言って彼は薄く口元を緩ませる。
 自分らしくいていいなんて言ってくれたのは彼が初めてだ。胸が温かな気持ちで満たされたが、どうにも気恥ずかしくて、慌てて話を元に戻した。

「あ、あの……お話の続きを」
「あぁ……話がずれたな。ポーションの作り方を知りたい。それから改めて、君には薬師として俺の領土へ来てほしい」

 それから私は、彼と、彼の領土について話を聞くことになった。
 シュラウド・リオネス辺境伯。
 彼はレーウィン王国において、最大の要地たる辺境地を任されているそうだ。その特殊な地位ゆえ、公爵にも並ぶほどの権威を持っているという。
 それを聞いて、父達が何故彼に取り入ろうと必死だったのかよく分かった。
 そして辺境伯領では、王家に並ぶ兵力の保有を許されているのだそうだ。
 何故リオネス辺境伯領が最大の要地であり、王家に並ぶほどの兵力の保有を許されているのか。それは領地に現れる魔獣のせいだった。
 魔獣とは通常の獣とは違い、光も通さぬ漆黒の体毛を持つ異形の獣のこと。お母様から聞いたことがあったけれど、銀龍と同じようなおとぎ話だと思っていた。
 でも、それらは実際に存在し、食べるためではなく殺すために人々を襲い続けている。
 また、魔獣は何故か辺境伯領の南東部で異常な数の出現を続けている。かつて辺境伯領の二割を奪われてしまったこともあるそうだ。
 そんな話まで聞いて、私は深く息をついた。
 まったく知らないことばかりだ、辺境伯領がそのような事になっていたなんて。
 そんな私の様子を見て、シュラウド様はゆっくりと頷いた。

「我が領土で魔獣との戦闘は常に起こっており、怪我人は日に日に増えている。故に……この国一番の聖女がいると聞いて期待していたのだが」
「どうでしたか?」

 問いかけに、彼はため息交じりに答える。

「結果はかすり傷を治せるだけときた。それならまだ医療兵を雇った方が何万倍もマシだ」
「それは、残念でしたね」
「あぁ……だがそれ以上の成果があった」

 そう言って、シュラウド様は頬に笑みを浮かべた。


   ◆◇◆


 それからは馬車での旅路となった。
 旅の合間に、ポーションの製作方法をシュラウド様に伝えていく。
 ポーションには薬草だけでなく、毒草も使う。毒草から毒性を抜く作業は非常に繊細であり、分量や手先が狂えば途端にポーションは劇薬に変わってしまう。いとも容易く人を殺してしまう毒と紙一重の薬なのだ。
 製作方法を聞いたシュラウド様は危険性を理解して、製法を伝授する相手は慎重に選ぶと言ってくださった。
 辺境伯という強大な立場にもかかわらず、シュラウド様はいつも対等に接してくれる。それがなんとも嬉しくて、向かった先では出来るだけのことをしよう、と決意する。
 そうして三日程かけて、私たちはリオネス辺境伯領にたどり着いた。

「あれが、我々を守る防壁だ」

 彼が指し示す先を見て、その圧倒的な光景に息を呑む。
 切り立った断崖と断崖の狭間に、巨大な壁がそびえ立っていた。
 その前にはいくつもの建物が密集して建てられている。その物々しい雰囲気に、私はシュラウド様に教わった、この地の歴史を思い出した。
 大量発生した魔獣を防ぐため、五十年前に当時の国王と先代リオネス辺境伯がこの防壁を作り上げたそうだ。この規模の壁を建設できたのは、先代国王の手腕が大きいと彼は語った。
 レーウィン王国は何百年も平和を保ち、小国でありながら周辺国家からの信頼も厚い。だが、突如として大量発生した魔獣に苦しめられた。
 そこで国王は即座に魔獣の侵入路であるこの地に壁を建設することを決意したそうだ。
 しかし魔獣も群れを作り、防壁を破壊する程の数で襲撃を繰り返す。
 そうして、さらなる手段として先代国王は、先代の辺境伯に協力を呼びかけ、国にも劣らない軍事力を持つ代わりに、防壁外の魔獣を減らし続け、国を守る『盾』となることを命じた。
 そして辺境伯はそれを受け入れ、リオネス辺境伯領が生まれたのだと――
 壁の手前で馬車を降りると、ひゅうひゅうと冷たい風が吹き下ろしてくる。防壁の上には取り付けられた王国の国旗が大きくはためいていた。

「凄い……」
「シュラウド様!」

 そびえ立つ防壁の威厳ある姿に呆然としていると、近くにあるテントから出てきた誰かがこちらへと走ってきた。
 それは一人の綺麗な女性だった。ブラウンの髪を後ろにまとめ、きりっとした目元が美しい。しかしここまで走ってきたせいか息は荒く、目の下には隈もあるようだ。
 年は三十ほどだろうか? 白衣と胸についた印で医者だと分かる。
 シュラウド様は表情を硬くして、彼女に視線を向けた。

「エリーゼ……何かあったのか?」
「昨夜、魔獣の襲撃を受けました」
「……負傷者は」
「負傷者は三十名、重傷者は六名です。彼らは残念ですが明日までもたないでしょう。……せめてお言葉だけでもかけてあげてください」
「……分かった」

 二人の淡々とした会話に思わず動揺してしまう。
 ここにいる人達は死と隣り合わせの日々を過ごしている。
 私は今まで漫然と死にたくないとだけ考えて生きてきた。でも、ここでは自分の意志に関わらず、死が迫る人がいる。

「シュラウド様! どうか、私にも行かせてください!」

 そう気が付いた瞬間、声を上げていた。
 振り向いた二人の視線が私を射貫く。私はまっすぐ二人を見つめ返した。

「シュラウド様、この子は?」
「彼女――リーシャは王都の近くから呼んだ薬師だ。……頼んでいいのか?」

 後半の問いかけは私に向けられたものだった。

「もちろんです!」

 薬師として、やれることをやりたい。
 私は馬車から鞄を慌てて降ろした。この中にはまだ十本ほどポーションが残っている。
 重傷者六名を救うには充分だろう。
 私たちのやり取りを聞いて、エリーゼさんがシュラウド様へ振り返った。

「シュラウド様。どういうおつもりですか? 薬師とはいえ、重傷者の処置を見ず知らずの者に任せられません」
「彼女はポーションを作り出した。俺は彼女になら任せられると思っている」
「ポーションを⁉ まさか、彼女は聖女なのですか?」
「……いいえ、私はあくまで薬師です」

 驚愕した表情のエリーゼさんの元に戻り、首を振る。すると一瞬期待をよぎらせたエリーゼさんの瞳はすぐに疑いの色に塗りつぶされる。まだ見ず知らずの人間なのだから当然だ。私は聖女いもうとではないし、ただの薬師がポーションを作製したなんて、簡単に信じてもらえるはずもない。


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