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プロローグ

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「仕事を辞める? 本郷、そんな事……了承すると思ってるのか!?」
 
 机を叩き、威圧的に叫んだ上司を、私はただ見下ろす。
 心が落ち着いているのは、仕事を辞める覚悟が決まっているおかげ。

 私は今の仕事は嫌いではない。
 しかし営業成績は常に一番ではあっても、上司の嫌がらせのような業務で激務に終われる。
 こんな環境にいつまでもいられない。

「いいか!? ここを辞めて、次でやっていける訳がないぞ?」

「貴方はこの会社以外で働いた事もないのに、よくそんな事が分かりますね」

「うっ……いきなり辞めるなんて言ってもなぁ。常識がないのかねぇ?」

「三ヶ月前から何度も事前申告しておりました。聞かなかったのは貴方だけです」

「お……おまぇ!」

 再び机を叩く音が事務所に響き渡る。
 幾人かの同僚が肩をビクリと揺らすのを、ぼうっと見つめた。

「お前には仲間意識ってもんがないのか! 仕事を残したまま、周りに迷惑をかけて……この人でなしが!」

「はぁ……」

 もう、答えるのも面倒だけど……勘違いされたままなのも癪だな。

「まず、私自身の仕事は終わってます。引き継ぎも済んでいます」

「な、仲間の仕事が……」

「私に仕事を押し付けてきた方々の迷惑など知りません。勝手に焦っていればどうですか?」

 最後は少し苛立ちもあって挑発を口にしてしまった。
 それが上司の逆鱗に触れたのだろう、顔を真っ赤にして立ち上がった。

(トマトみたいだ)と思った時には、上司は罵詈雑言を並べて叫びだした。
 周囲の女性社員が引くような言葉の数々を。

「お前なんてな、所詮は顔で選ばられたんだよ! なのに愛想もなく俺の誘いも断りやがって!」

 入社当初の事さえ根に持つなんて、小さい人。
 
「今からでも謝れば許してやる! 仕事を辞めれば、絶対に後悔させてやるからな!」

「よし、いい言葉」

「は?」

 ポケットに入れていたスマホを取り出し、録音停止のボタンをトンっと押す。
 その一連の様子を見ていた上司は、今度は顔を青くした。

「では、次に会う時は貴方に後悔してもらいますので」

「ま、まて! おい! それは」

「追いかけてくれば、今すぐ警察のお世話になってもらいます」

「あ……あぁ……」

 どこから出ているのか分からぬか細い声を背に受けながら、振り返る事なく職場を出て行く。
 私––本郷美鈴は今日、無職で自由となったのだ。

 そう、何色にも染まる無色に。

「っぅぅ……終わったぁ……」

 景気づけに、コンビニで買った缶ビールを喉に流し込む。
 いつもよりも極上に感じる美味さに、大きな感嘆の声を上げつつ飲み干した。

 これからは、なんでも出来る。
 貯金も余裕があるので、暫くは激務とは程遠い堕落した生活を過ごせるだろう。

「自由だ……」

 呟きながら、帰路に着く。
 新たに自由となった生活、期待と楽しみしかない。堕落しきってやろう。

 まずは、寝よう。
 激務続きのせいで、頭の中を丸洗いしたい程に疲れているのだから。
 そう思い、一歩……踏み出した時だった。

「……ぇ?」
 
 頭や、胸が痛い?
 え……痛い、苦しい。
 胸も……動悸が激しくて、声も出せぬ程に呼吸が激しくなる。

「は……はっ……」

 突然、胸を襲った苦しみの中。
 私はとある事を思い出す。

 突然死。
 日本では年間、約八万人が突然死により亡くなっており。
 一日に二百人。七分に一人が突然の死を迎えるとネットで見た記憶がある。

 何処か他人事だと思っていたけれど。
 まさか私が……その一人に?
 
 
「うそ……やだ」

 自由をやっと手に入れた……のに。

 こんな……ことなら。
 上司を一回でも殴っとくんだった……

 薄れゆく意識の中でそんな事を考え。私は地面へと倒れた。
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