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1巻

1-2

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 彼は悔しそうにこちらを睨んで呻く。

「くそ……本気か? お前……」
「脅して私を従えさせるのは無理だと分かったようですね?」
「ふざけるな……お前は、自分の立場が分かっているのか? 俺は――」

 彼がそう言った瞬間、ぶわりと全身の毛が逆立つように感じた。
 ようやく、待ち望んだ言葉が来る。
 三年間の、この日……この言葉のための準備が実を結ぶ。

「俺は離婚してもいいのだぞ。そうなって困るのは身寄りのないお前だろう!」
「いえ、むしろその言葉を待っておりました」

 私は間髪いれずにトランクを開き、この日のために用意していた書類を取り出す。
 そして、それをレジェスの胸元に再び叩きつけた。

「これ……は」

 床に落ちたのは、離婚申請書。私と彼の婚姻を断ち切る用紙だ。
 当然、私はサイン済み。レジェスは私のサインを認めた瞬間に顔を歪めた。

「……考え直せ。どうして急にこんな事を」
「有言実行してください。それとも、まだ……惨めに私に縋りつきたいの?」

 微笑みながらそう問いかければ、レジェスは悔しげに唇を噛み締めた。
 やがてゆっくりと、その離婚申請書へと震える手を伸ばす。書類を握りしめた彼は、葛藤しているように見えた。
 サインすれば、今までのように私を利用して王妃の護衛をできない。都合の良い妻を手放す苦悩があるのだろう。
 だけど、それを悠長に待つ気はなかった。

「さっさと書いてくださいませんか?」

 インク瓶とペンをトランクから取り出して、床に投げる。
 転がったそれは彼の足元に当たって止まった。

「こんな事をして……どうする気だ。離婚して後悔するのはお前のはずだ」
「もう後悔しています。貴方と結婚したことを、ですが」
「すこし考える時間が欲しい。あまりに急すぎて判断できない」

 唇を震わせ、必死に考えているらしい姿に、優柔不断という評価しか抱けない。
 こっちは三年もレジェスの侮辱に耐えた、一秒でもはやく貴方から離れたいのだ。
 ――だから迷って時間をかけられるぐらいなら、とっておきを出す事にしよう。

「そんなに離婚を迷うのは、これのせいですか?」

 私は再び身をかがめ、トランクから一枚の封筒を取り出してレジェスへと見せつける。
 それを見た彼は驚愕を隠すことなく、顔を歪めた。

「そ、それは……」

 王妃殿下との恋文だ。まだ中身すら見ていないのに、そんな反応を見せて大丈夫なのかしら?

「なぜそれを⁉ 俺は捨てていたはずで……」
「捨ててあったなら、どうしようと自由ですよね?」

 彼の執務室から初めて手紙を見つけてから数年経った今も、彼は王妃殿下と恋文を交わしている。
 流石に内容を見られて困る恋文は捨てていたようだけど、王妃への愛なのかなんなのか、大事に封筒に入れて捨てているお粗末ぶりだ……
 まあ、彼のそんな管理のおかげで、全て私が回収できたのだけど。

「とても素敵な手紙ね……内容を読んであげましょうか?」
「……っ……やめろ」
「えーと。『惨めな妻に触れないでください。私も陛下には心を捧げずに、レジェスだけを想っています。だから貴方も同じく私だけを想ってね』……ですか」

 レジェスが蒼白な顔で項垂れる。その姿を見て、私は肩をすくめた。

「王妃殿下が私を惨めな妻と書いていますが……今の状況では、どちらが惨めなのでしょうね?」

 離婚申請書を握りしめて立ち尽くすレジェスと、そんな彼との別れを待つ私。
 この光景を王妃に見せてあげたいものだ。

「さて、そのまま迷っているおつもりなら、まずはこの手紙を王家に届けます」
「なっ⁉ やめろ……やめてくれ。それだけは……」

 レジェスは打って変わり、私へと懇願する。そんな彼に向かって微笑んだ。

「では私の要望を聞いてくれますね? レジェス。離婚してください」
「分かった、サインをする。だからどうか……その手紙を返してくれ」
「そこまで頼むのなら……分かりました。コレだけは貴方に返しましょう」

 頭を下げていたレジェスが、ホッと安堵の表情を浮かべる。
 私はちゃんと、コレだけは――と言いましたね? 約束は守るつもりだ。

「ですが、渡すのは書類を書き終えてからです。さっさと書いてください。これ以上待たせたら、私も考えを変えるかもしれません」
「……分かった」

 あぁ、ようやくだ。
 こんなにも、インクが紙に染み渡る瞬間を楽しみにした事はない。
 離婚申請書に記されたレジェスの名を見て、心が満たされていく。

「これで、いいだろう」

 ようやく彼とお別れだ。
 彼がサインした離婚申請書をひったくり、私は準備していたトランクを持つ。
 そして、王妃殿下からの恋文を投げつけた。

「それでは、さようなら」
「ま、待て!」
「……なんですか?」
「お前は確かに俺の愛を求めていたはずだ。今なら俺も向きあう。だから……考え直せ」
「え……いやですが?」
「っ⁉」

 何を、ショックを受けた顔をしているのだ。思い上がっているの?
 レジェスを愛した気持ちなんて、三年前に捨てているのだと知ってほしい。
 私はトランクを持ったままレジェスへ振り返り、まるで幼い子供に言うようにゆっくりと告げた。

「人生の墓場と化した結婚に未練などないの」
「上手くいくと思っているのか、身寄りのない女が一人で生きていくすべなどないはずだ」
「一人で生きていけないのは、貴方でしょう?」
「っ……」

 もうこの場にいるのすら耐えられなくて、前を向き玄関扉を開く。
 自由を祝福するような太陽の輝きを浴びながら、わずかにだけ振り返って礼をした。

「それでは、さようなら」

 膝を突き、信じられないという面持ちでこちらを見上げるレジェスとは反対に、晴れやかな気分で屋敷を出ていく。
 私は今日、ようやく離婚を果たして自由となった。
 さよなら、元旦那様。――でも、これで終わりと思わないでね? 



   第二章 隠された彼らの罪


 屋敷から出ていった後、私は近くの街の喫茶店に入り、あらかじめ決めておいた席へ向かう。
 そこには既に待ってくれていた男性がいた。慌てて席につき、私は軽く頭を下げた。

「……メリット商家の方ですね。お待たせしました」
「いえ、アーシア様。お約束通りの時間で安心しましたよ」
「そう言ってくださるとありがたいです。……それでは約束のものをお渡ししますね」

 さっそく私は、レジェスと王妃が交わしていた恋文を目の前の男性へと渡す。
 先程のものとは違い、こちらには二人が熱い夜を過ごした事が明確に書かれている。
 れっきとした不義の証拠だ。

「これは……とんでもない手紙ですね……」
「これを王家の文官に届けてください。報酬は約束の額を支払います」

 レジェスに渡した恋文――あんなのほんの一部にすぎない。
 もっと過激な恋文を、私は大量に回収しているのだから。
 私が渡す約束をしたのはあの一通のみで、これらの恋文は該当しない。だから騙していないはずだ。
 メリット商家の男は興奮した様子で手紙の内容をあらためると、ぎらついた目でこちらを見上げた。

「アーシア様。こちらは号外にも出してもよいでしょうか? 二日後には出せます」

 その言葉に思わずにんまりしてしまう。
 この内容が広く知れ渡るのは願ってもない話だ。彼らには本当に助けられる。
 私は、すぐに頷いた。

「いいですよ。準備ができたらジャンジャン出してちょうだい。遠慮なくね?」

 私の言葉に、彼はパッと表情を明るくするとすぐさま席を立った。

「出来るだけすぐ記事にいたします! 新作の件も含め、これからもよろしくお願いいたしますね」
「ええ、私からもお願いします」

 号外……貴族にも庶民にも伝手のあるメリット商家は、この王都にて新聞も出版している。何より彼らのコネクションは王家にも及んでおり、恋文を王宮の文官に届けることができる
 ――つまり、私では届かない王宮の内部にまで、恋文の存在を暴露することができるのだ。
 このために三年かけて彼らと太いパイプを作った甲斐があった。

「準備は整った。ここからね……」

 私は、ここまで来た達成感と共に呟く。
 前世で読んだ小説では、アーシアは王妃暗殺未遂の罪で処刑される。
 王妃の殺害なんてするつもりはないが、その未来を確実に回避できるという保証はない。
 だから私は三年前に、断罪を避けるために生きると決めた。
 万が一にも私が断罪されないよう、レジェスと王妃の禁断の愛を皆にさらし、物語のまま人生が進まないよう試みる。
 彼は、別れただけで終わりだと思っているのだろうが。
 だけど私は貴方を想っていた二年、そして準備の三年。
 計五年も侮蔑に苦しんでいたのだから、貴方達にも相応の報いを与えないと不公平よね。

「私の平穏な未来のため……禁断の愛で燃え尽きてね」


 メリット商家の男が出ていってからしばらく、紅茶を飲み終えた私はゆったりとした気持ちで王都へと向かった。
 レジェスは私が帰る場所などないと思っているだろうが、世話になっているメリット商家が屋敷も用意してくれたおかげで、生活には困らない。
 流石に伯爵家ほどの家ではないが、下品な飾りなど一つもない清潔で美しい家だ。
 彼との離婚を済ませたおかげか、その夜は心地よい眠りに身を任せることができた。


   ◇◇◇


 翌朝、私は屋敷に用意された執務室で、前世を思い出すきっかけになったあの本を見直していた。

『ルドーク伯爵家の女主人よ、夫の部屋を調べなさい』

 三年前、突如として玄関に置かれていた一冊の医学本。それを改めて確かめてみる。
 革張りで紺色の装丁はいかにも貴族が好みそうな仕立てで、開く紙の手触りから高級紙と分かる。
 本文はこの世界の文字で書かれており、薬草や毒草などについて説明されている。
 冒頭に記されていたあの日本語は、どうやら誰かが手書きで記していたらしい。
 その唯一の日本語も、文字が黒のインクで書かれていること以外、特筆することはない。

「期待はしていなかったけど……持ち主の手がかりは、ないか」

 私は医学本を閉じて、ふう、とため息を吐いた。
 本を置いた人物を見つければ味方になると思ったが、とても叶いそうにない。
 そのため次は、私が前世で読んだ物語、『禁じられた愛』について、思い出す事にしよう。
 今後レジェスを追い詰めていくために、前世の記憶はある程度大切だ。
 だから記憶を整理しておこうと思う。
 確か、前世であの物語を読んで私は、レジェスや王妃にとある疑問を抱いた。
 私が三年も準備をした理由がそこにある。そう、たしかあの物語には……
 ――チリンチリン!

「っ……もう、こんな時間なのね」

 玄関扉の呼び鈴が鳴り、ハッと目を開く。窓の外に目を向けると太陽が沈みかけている。
 長考していたせいで、時間をすっかり忘れていたようだ。

「早くお出迎えに行かないと」

 今屋敷を訪れたのは、私にとって一番のお客さんだ。
 そして、何も持たない私がメリット商家と繋がりを持ち、多額のお金を工面できた理由でもある。
 彼を待たせぬよう足早に玄関へと向かい、私は木製扉を開くとこうべを垂れた。

「ご足労感謝いたします。ブルーノ公爵閣下」

 アッシュグレイの髪をオールバックにした彼は、五十代半ばほどだっただろうか。そうとは思えない凛とした佇まいと、しわが刻まれても凛々しい顔立ち、そして精悍な身体を維持している。世間では厳しいと評される彼は、私を見た途端に華やかな笑顔を咲かせてくれた。

「アーシア嬢。手紙に書かれた通りの住所に来たが。本当に離婚してここにいるのだな!」
「はい。閣下がメリット商家に取り次いでくださったおかげです」
「はは! 嬢には儲けさせてもらっている。願いはどんどん言え!」

 ブルーノ閣下が持つ交易路や他国への顔の広さは計り知れない。メリット商家は閣下が資金を出しており、この国一の利益を出す商家となっている。もはや国を支える柱とも言える方だ。
 私が応接室まで彼を案内する途中、閣下はくすくすと笑って、肩をすくめた。

「しかし、アーシア嬢が離婚か! こんなに有能な女性を逃すなど惜しいなぁ! 私もあと二十も若ければ……挑戦したかったものだが」
「ふふ、閣下は素敵な奥様がおられるではないですか」
「ふはは! その通り! しわいと思えるほど今の妻を愛している。もちろん冗談だ!」

 本当に羨ましいほど、ブルーノ公爵閣下は奥様を愛している。
 私はいつもの惚気を聞きながら、応接室へとブルーノ閣下をお通しした。
 そして、まとめておいた紙束を閣下へと渡した。

「では閣下。これが、今回の新作です」
「うむ。拝見しよう」

 現代で言う原稿用紙、中身は……私の書いた小説だ。

「では……」

 小さな声と共に、閣下はペラペラと原稿をめくる。
 そしてあっという間に読み終わり……閣下は大きな吐息と共に目元を押さえた。

「嬢よ……」
「はい」
「天才だ! 相変わらずいいものを書くなぁ!」
「お褒めいただき嬉しく思います」

 そう、この国を支える公爵閣下をとりこにしたのは、小説だった。
 これこそ、私が起こした事業であり、資金源だ。前世の記憶を活かして小説や絵本といったものを書き、ブルーノ閣下からメリット商家を通じて販売してもらい、資金を稼いでいる。
 作者名は偽名にしているので、レジェスに見つからぬよう資金を蓄えられたのだ。

「こんな話、どうすれば思いつくのだ! ふははは! 今回も高値で買わせてもらおうか!」

 前世の日本ではいつだって見る事ができて、世の中に溢れていた漫画や小説。
 面白さを追求し続けた先人達の知恵や技術の塊が、私の頭の中には残っていた。
 もちろん誰にも知られないとはいえ誰かの生み出した物語をそのまま使うのは良心がとがめたので、この世界で親しみのありそうなテーマで物語を新たに考えている。
 こちらでも神話を基にしたような娯楽小説はあったが、ミステリーを基調とした私の物語は随分と新鮮にとらえられたようだ。
 特に人気なのは、街中で起きた事件を騎士が推理して解決する物語で、前世でいえば刑事物の話。
 必死に頭をひねった甲斐もあってか、閣下もとりこにできた。

「いつもありがとうございます。閣下」
「なに、感謝するのは私だ。前に書いてくれた絵本も多くの子が喜んでおったぞ」

 そう言って閣下はほくほくした表情で原稿を机に置く。慣れたもので、閣下との商談は問題なく進んでいった。私がお代わりのコーヒーをれると、閣下はふと顔を上げた。

「――アーシア嬢、もう一つの本題に入ろうか」
「はい」
「メリット商家に渡したという王妃殿下の恋文……あれは本物なのか?」

 ブルーノ閣下の真剣な表情に私は頷く。それからまだ持っていた恋文の残りをお見せした。

「……こちらが私の夫であるレジェスが、王妃と交わしていた恋文です」
「そうか。嬢の事だから、嘘ではないと思っていたが……」

 ブルーノ閣下は静かに俯き、恋文を暫し読み込んだ後、くつくつと笑い出した。

「ふは、ふはは! あはは!」

 笑っているが、私には分かる。
 その瞳には怒りが溢れていた。閣下は怒りを鎮めるために無理に笑っている。

「……舐めておるな。王妃も、その騎士も」

 閣下は握った拳で机を叩いた。コーヒーカップが跳ねる。一転して低くなった声に、場の雰囲気が変わる。閣下の怒りが、ビリビリと肌に刺さって伝わってくるようだった。

「王妃とは国母。国を、国王を支える存在であるからこそ、民の血税を用いて不自由のない暮らしを与えられている。私もその王家を信頼し……国の平和と、民の安寧のために身を粉にして何十年も働いてきた」

 閣下はそこまで言うと、鋭い眼光を恋文に落とした。

「だが、その王妃殿下があろうことか私欲に走り、騎士と恋など……」
「お怒り、心から共感いたします」
「貴族や、民、王家が高めてきた我が王国の品位を、権威を、信頼を……王妃、そしてそれを守るべき騎士がおとしめるなど到底許せん」

 私はその言葉に深く頷く。
 ブルーノ閣下は誰よりも国のために働いてきたのだ、この怒りは当然だろう。
 彼は自分を落ち着かせるようにコーヒーをすすってから、顔を再びこちらに向けた。

「アーシア嬢、この話を持ちかけたのは、私の協力を得るためだろう?」
「はい、その通りです」
「手短に言え。何をするつもりか」
「私が所有する恋文……この全てを陛下と、国民に届けたいのです」

 しかし、ブルーノ閣下が陛下に直接恋文を渡すのではなく、できれば私自身が恋文を国王陛下にお見せしたい。せっかくの証拠、偽物だと疑われるのは仕方ない。それでも、これが本物であると思わせるために、誰かに伝えてもらうのではなく自分の口から陛下に訴えたかった。

「――ですから閣下、陛下と謁見する機会を得るために王宮に入らせてください」

 向かうならば回り道などせず、手っ取り早く本丸に向かおう。
 レジェスも手出しできぬ王宮へ入ってみせる。

「確かに……不義が事実ならば、それほどの手段を取った方が信憑性も高く見えよう。分かった、明日には準備を済ませよう。準備をしておきなさい」

 数時間の説得も覚悟していた私は、閣下のあまりにも早い決断に目をみはった。
 驚くほどに希望通りの展開に胸が弾む中、慌てて再確認のために問いかける。

「閣下。もしこの件が公になれば閣下がつちかってきた王室への信頼が落ちることにも……」
「そんな事は気にするな」
「っ!」
「この恋文をメリット商家に渡したのは、私に気を遣うためか? 違うだろう?」
「……はい」

 そうだ。閣下の言う通り、レジェスに相応の報いを与えるため、何より無実の罪で断罪される未来を避けるためには、何かに気を遣っていられる余裕なんてなかった。
 ブルーノ閣下は、私をまるで孫娘でも見るような優しい目で見るとゆっくりと頷いた。

「それにだ。むしろ王室の不祥事を徹底的に正した方が信頼は得られる。この件が明らかになってからの信頼回復は私達の仕事だ。嬢が気にする事ではない」
「ありがとうございます。閣下」
「うむ。……話は決まったな。すぐに嬢が王宮へ向かう手筈を整えよう」

 閣下には本当にお世話になっている。本当にどれだけお礼をすればいいのだろう。
 物語を売ったお金は手元にあるけれど……そんなものじゃあ……返せない。
 ――コンコン。お返しの算段を始めた私の前の机を、なぜか閣下は申し訳なさそうに叩いた。
 ハッと顔を上げると、閣下は私を上目遣いで見つめている。

「……嬢。怒らず聞いてくれるか?」
「え、どうかしましたか?」
「怒りに任せて机を叩いたせいで、コーヒーが原稿に付いてしまった! すまないアーシア嬢!」

 原稿に付いたコーヒーの染みを拭い、閣下は一転してペコペコと頭を下げてくる。
 小さな染みなど気にしなくていいのに……私が書いたものだから大切にしてくれているのだ。
 閣下はまつりごとでも敵とあれば容赦なく追い詰めると聞くが、気を許した相手には優しい。
 だから私は閣下を怖いとも思わず、萎縮する事もなく……自然体で笑えるのだ。

「部屋も汚してしまった……嬢、気を悪くしないでくれ! すぐに清掃の人員を出す!」
「いえ、いいのですよ閣下……それより衣服も汚れております、奥様に怒られますよ」
「ぬわ! これでは妻に怒られる!」

 しおれた気持ちが一気に軽くなり、思わず笑ってしまう。とりあえずブルーノ閣下のシャツを一旦濡れた布で裏から叩き、また渡しておく。閣下は眉をハの字にして、肩を落とした。

「すまんな。家財まで汚してしまって……」
「いえ、むしろ新品ばかりで落ち着かなかったので、生活感が出て気楽になりましたよ」
「それは良かった……とは言えんな。まったく、嬢は優しすぎるぞ」

 ブルーノ閣下は笑いながら立ち上がる。そして再び公爵閣下らしい気品ある表情で私を見つめた。

「嬢。私はお前を信じている。この長い付き合いで嘘をつくような女性ではないと分かっているからこそ、惜しみない協力をするつもりだ」
「感謝しております。ブルーノ閣下」

 閣下は原稿を持ち、再び「明日には準備を済ませて遣いを送る」と言ってくれた。
 明日、王宮に向かえる。離婚からわずか一日で私はその準備を済ませたのだ。


   ◇◇◇


 翌日。閣下の遣いの方を待つ間、私は一着だけ持ってきていたドレスに着替えると、執務室で『禁じられた愛』のストーリーを思い出していた。
『禁じられた愛』の物語は、護衛騎士のレジェスと王妃が禁断の愛に燃え上がる中、現王の世継ぎである側妃の子が亡くなるところから始まる。側妃の子が亡くなったことで、王は早急に世継ぎを作るために側妃を寵愛し、子を産めなかった王妃サフィラを廃妃にする。
 つまり、廃妃をきっかけに、レジェス達は禁じられた愛から解放されたのだ。
 だが物語はそれだけでは終わらない。廃妃にされたサフィラは、自身が国王から冷遇されていたと民を扇動し……世継ぎの死から半年という短さで、悪しき陛下を王座から落とすことになる。
 私は、その時に彼女を殺そうと邪魔をするちょい悪役だ。
 物語は陛下と側妃、そしてレジェスのわたしを断罪した末に、晴れてレジェス達の恋が成就する。
 エピローグでは、断罪から約二か月後、サフィラは子を産んでいた。その子はレジェスそっくりな蒼い瞳の子で、三人の家族は、ひっそりと辺境の地で幸せに暮らす。
 確か、そんな内容だったはずだ。

「……思い返せばこの物語、いくつかおかしな事があるのよね」

 二点、私が知る状況と物語を照らし合わせると、不思議な点がある。
 一つは、王妃サフィラが冷遇されているとは到底思えない事だ。レジェスと恋文を交わせる時点で、彼女の自由は制限されていなかったはずだ。それに陛下とも月に一度は夜を過ごしていたようで、決して寵愛を失っていると思えない。
 ならば……なぜ、物語では冷遇されたなどと吹聴して、民を扇動したのだろうか?
 前世で読んだ物語と、今私が生きているこの世界では、相違点があるのは間違いない。

「それに……もっと重要な事があるわね」

 あと一つは、前世の時から変に感じていたことだ。
 この物語には明らかに、おかしな点がある。
 それは王妃の妊娠時期にある……
 考えをまとめようとした時、窓の外で何かが反射した。

「あら、もう来てくれたのね」

 馬車の金具が反射したようだ。立ち上がって見ると、馬車に施された王家の紋章が輝いている。
 ブルーノ閣下の手配か、王宮から遣いが来てくれたようだ。私は慌てて玄関へと向かった。


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