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1巻
1-1
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――それは、日常の中に紛れた違和感から始まった。
玄関先に、見知らぬ医学本が置かれていたのだ。
誰かの忘れ物かと思うような自然さに、私はふと、それを手に取って開いた。
『ルドーク伯爵家の女主人よ、夫の部屋を調べなさい』
最初のページに書かれていたのは、この国の文字ではない謎の文字。なのに、私には読めた。
さらにそれが、『日本語』だと分かった。
しかし、私はなぜ……この文字を知っているのだろう?
「何……これ? 誰が置いたの?」
疑問を漏らしながらも、私――アーシアは書かれている通りに旦那様の部屋へと向かった。
本来、そんな文字に従う必要なんてない。でも、何かを思い出しそうな気がして、答えを求めるように身体が動いてしまったのだ。
その結果、私は見たくもない、とあるものを見てしまった。
「レジェス様……嘘ですよね?」
旦那様――レジェス・ルドークの部屋の執務机。その引き出しの中には、山のように手紙が収納されていた。執務は私が中心に行っているが、旦那様宛ての手紙を覗くなんてことはしていなかった……そう、今日までは。
私は積まれた手紙の中から無造作に一通を手に取り、驚きで息を止める。
旦那様は、この王国の近衛騎士団の団長だ。
彼は剣の実力と妻帯者であることを理由に信頼を得て、一年前に王妃様の護衛騎士へ就任した。
なのに、机の引き出しから出てきた手紙はすべて……王妃との恋文であったのだ。
【レジェスと、はやくお会いしたいです】
【私の気持ちの全ては、陛下ではなく……レジェスにあります】
手が震えた。
この手紙には、レジェス様と王妃様の想いが事細かに記載されている。
やりとりは残酷なほどに明け透けで、私が夫に抱いていた恋情を壊すには十分すぎた。
見たくないはずなのに、手は自然と次から次へと手紙に伸びる。
そして、一番新しい日付の手紙に、自然と涙がこぼれた。
【私の護衛騎士。どうか私だけを見てください。妻を愛さないでくださいね、レジェス】
妻――すなわち、私を愛さないようにと無邪気に願う手紙。
旦那様はそれにどう答えたのだろう、と考えながら、震える手で手紙を置いた。
あの本の『日本語』は私にこれを伝えたかったのだ、と理解した瞬間、すべてを思い出した。
「そうか……思い出した。私はアーシア、あの小説の……」
私の頭の中に浮かんだのは、前世の記憶。
先程の本に書かれていた日本語を使う国……日本にいた頃の記憶が蘇る。
記憶から分かるのは、私が今生きるこの世界は、前世で読んだ小説『禁じられた愛』の中ということ。
『禁じられた愛』とは、主人公である王妃と、既婚者である近衛騎士団長との許されない恋物語。
作中には王妃へと嫉妬し、暗殺を目論んで断罪される悪女・アーシアがいる。
そして、その悪女こそが……今の私だった。
「……なんで、レジェス様」
虚しさから、涙がこぼれ落ちていく。
私は確かにレジェス様を愛し、尽くしていた。でも初めは優しかった彼が、日に日に冷たくなっているとは感じていた。それでも、いつかまた振り向いてくれると信じていたのに。
でも、彼はただ王妃様の護衛騎士となる権利を得るために私を娶っただけだったのだ。
初めから愛する気もなく、利用するためだけだと知り――
全てを思い出したこの日を境に……私の献身的な愛は終わりを告げた。
第一章 さようなら、もう愛するのをやめます
涙を親指で拭い、顔を上げると、レジェスの部屋の片隅に置かれた鏡に自分の姿が映る。
鏡に映る私の姿は前世で読んだ小説通り、エメラルドのような碧色の瞳と金髪をしていた。
悲しみで溢れてしまう涙を止めるように頬を叩くと、金髪が揺れた。
「悲しむのは終わり……これからを考えないと」
前世の小説『禁じられた愛』通りならば、いずれ私は悪女として断罪されてしまう。
ならば、いつまでもレジェスへの恋情を引きずる訳にはいかない、行動しないと。
「まず……前世の記憶をしっかり思い出さないと……」
玄関先に置かれた謎の本、そこに日本語で書かれたメッセージ。
置いた人も、理由も分からぬままだが、考えても答えは出ないならまず目先の事に集中だ。
元々、前世で小説を読んだ時も、レジェスと王妃の愛が真実の愛だとされていることに懐疑的だったが、現実はもっと悲惨だ。既婚者でありながら、禁じられた愛を追い求めた二人といえば聞こえは良いしロマンチックだけど、その幸せの裏での私への扱いは酷いものだ。
レジェスはルドーク伯爵家の当主だが、本来彼が行うべき執務を女主人の私に丸投げしている。
不慮の事故で両親を亡くした私を、「愛している」と妻に娶り、働き詰めにして、自らは王妃様の護衛に付きっ切りという訳だ。
「考えてみれば、レジェスの行為は最低ね」
こんなの、小説には書かれてなかった。これではどちらが悪役だろうか。
私は外に出した王妃からの手紙をいくつか持ち帰るために、選別しながら独り言を呟く。
「思い返せば最悪だけど、私はレジェスに従うしかなかった……ここでしか生きていけなかった」
私は元リルレス子爵家の令嬢であり、この結婚は政略により結ばれた。しかし両親は早くに亡くなってしまい、兄妹もいない。継ぐ人もいなくなったリルレス子爵家は、もはやこの世にない。
離婚すれば私の帰るべき場所はなく、自然と彼に従うしかなかった。
今思えば、これもレジェスの狙いだったのだろう。
とはいえ、根底からレジェスは酷い夫という訳ではなかった。初めて顔合わせした時の彼は本当に優しくて素敵だったし、騎士として民から賞賛されて輝いていた。
そんな彼の妻になれたのが嬉しくて、いくらでも尽くそうと思えたのだ。
けど妻になって半年後ほどから、彼は私から距離を取り始め、今では私の待遇は最悪に変わり果てている。
ぐっと唇を噛みしめて、選り分けた手紙を懐にしまう。
そこで、尖った声が私を呼んだ。
「アーシア様。どうしてこの部屋にいるのですか?」
驚きで顔を上げると、この屋敷の使用人が私を睨みつけていた。
同時に、私のドレスへと水に濡れた汚い雑巾が投げつけられ、びちゃりと音を立てる。
「さっさと屋敷を掃除してください。旦那様に言いつけますよ?」
これはいつもの待遇で、部屋の外からクスクスと笑う声が聞こえてくるのもいつもの事だ。
帰る家もなく、離婚を選べない私が逆らえないからと、この家の使用人は好き放題だ。
私はため息を吐いて、雑巾を床から拾い上げた。
「……俺の部屋に、勝手に入ったそうだな。アーシア」
夕食時、自宅に戻って食卓についたレジェスが私に問いかける。
使用人が告げ口したのだろう。私が黙っていると、レジェスはため息を吐いてこちらを睨む。
「女主人として与えられた仕事だけをしろ。それ以外には手を付けるな」
彼はこちらを睨んだまま、矢継ぎ早に言葉を続ける。
「身寄りのないお前が妻として愛されるよう尽くせ。近衛騎士団長であり、王妃殿下の護衛である俺が恥じぬ妻でいろ。相応の励みを見せねば、お前には触れる気もない」
最後にそう締めくくって、レジェスはうっすらと笑みを作った。
私との関係を持たないようにするのは、王妃様への操を立てているつもりだろうか。
今までは彼の愛を受けられないことを悲しんでいたが、今の私にとっては都合がいい。
――この旦那様ときたら。
確かに、今までの私は彼に惹かれていたし、居場所がなくなるのが怖かったから自然と従っていた。
だけどもう、彼に振り向いてもらう気がなくなった今、ハッキリ告げておこう。
「分かりました旦那様……私は今日より、女主人としてのお仕事だけに努めます。貴方は王妃様の護衛に集中してください」
突き放すように告げれば、いつもと違う反応に彼がたじろいだ。
「っ……強気な物言いだな。自分の立場が分かっているのか?」
「はい」
「今の君は俺にとって使用人よりも価値はない。愛される努力をするのは当然だ」
「はい」
「分かっているのか? 離婚すれば路頭に迷う事を肝に銘じて――」
「はい!」
「ちっ……もういい」
面倒で適当に返事をしていると、ようやく自室に戻ってくれた。
私は一人残された食卓で、ナイフで魚を切り分けながら、今しがたの会話をわずかに考えた。
離婚か……利用されるぐらいなら、さっさと彼から離れたい。
しかし、今の私の立場で離婚したって、なんの意味もない。加えて国王陛下に王妃との関係を密告しようにも、現状の立場では嘘だと封じられ、嘲笑を受けるだけになりかねない。
相手は王妃だ。権力が桁違いだし、そもそも陛下に密告する伝手すらない。
だから、私は決めたのだ。
――三年間この生活に耐えて、離婚する準備をしよう。
彼を愛する生活に終わりを告げる。
私は悪女として断罪される最期を回避し、運命を必ず変えてみせる。
◇◇◇
はい、という訳で三年間が経ち……本日が離婚する日となりました。
これが小説であれば、辛い中で奮闘する日々を書くのだろうけど、この三年間は無心で目的に向けて突っ走っていたため、思い出す事もない。
本日、私を利用していたレジェスと離婚する。
その準備だけを、この三年間で整えたのだ。
「さて……と、さっそく行かないとね」
早朝、私がリビングへと下りれば、すでにレジェスは王妃の護衛の任務で外出していた。
――彼が不在とは、ちょうどいい。
「アーシア様、こちらが朝食です」
目の前に置かれた小さなパンを見つめる。この三年で私の扱いはさらに酷くなった。
これが女主人として執務をこなした私の食事なんて。前世のブラック企業より真っ黒だ。
「それと、旦那様がお皿を片付けておけと」
使用人に言われて視線を卓上に向ければ、レジェスの食事の皿がそのままだ。真っ白な皿に、彼が朝から平らげたベーコンの脂がこびりついている。
「そう、片付けておかないとね」
私は立ち上がり、汚れた皿を掴んだ。そしてそのままフリスビーのように皿を投げる。
風を切る音と共に皿は飛んでいき、食卓に置かれた燭台をなぎ倒してパリンと割れた。
「……あら、意外と飛ぶわね」
「な、何をしているのですか!」
私の行動に使用人が目を丸くする。
「失礼。手が滑ったの。――さてと」
騒ぎで使用人が集まってくる。
目論見通りにこの騒ぎが十分に人を集めたことに満足しつつ、私は手を叩いて宣言した。
「今日から貴方達は解雇です。出て行きなさい」
「え……は?」
使用人達が目を見合わせる。
聞こえなかったのかしら? 私はもう一度ゆっくりと繰り返した。
「解雇と言ったのです。貴方達は私と結んだ契約を違反しているもの」
子供に教えるようにゆっくりとした口調で告げると、使用人の一人が私へと怒声を上げた。
「ふざけたことを言わないでください! 意味がわかりません! 旦那様に報告しますよ?」
「ええ、しなさい? でも意味がないと思うわ」
そう言って、私は食堂に持ってきていたトランクから書類を取り出し、使用人達に突き付けた。
これは、彼ら自身の雇用契約書だ。
まだ何が起きているか分からない様子の彼らに、私はゆっくりと真実を教えてあげる。
「つい一年前、貴方達の雇用条件の変更に伴い、契約書を再度結んだのは覚えているでしょう?」
「それが……何か?」
「よく読みなさい。雇用主の名前をね?」
「え? ……あっ⁉」
雇用条件の変更に伴い、彼らと契約を結ぶ雇用主はレジェスから私に変更されている。
つまり彼らは、私個人に雇われている身ということ。レジェスの代わりにルドーク伯爵家の仕事をしている私は、いわば女主人なのだから当然の契約といえる。
使用人達は今更変更点に気付いたのか、顔を青ざめさせる。
「分かった? 貴方達を解雇できる権利を私は有しているのよ? はい出て行って」
「ま、ま……待ってください。今一度、お考え直しください」
「は? 何を考え直せというの?」
「し、知らなかったのです。せめて、解雇を再考していただけませんか……」
「はぁ……」
本当、つくづく身勝手だ。猶予を一年も与えていたのに。
「契約書の更新は一年前に行いました。その時、私は雇用条件を加えていたはずですよ。雇用主である私への罵倒や、蔑みの行為を確認すれば、即刻解雇するとね」
むしろ、この日まで解雇を待っていたことを喜ぶべきだ。
私はにっこりと微笑んで、使用人達を見回す。
「ですが、貴方達は契約を結んだ当日から……まぁ、好き勝手に言ってくれましたね」
「……ま……待ってください。す、すみません」
「惨めな女主人? 旦那様に愛されぬ醜女……他にもいっぱい、ちゃんと記録しているわよ?」
「ゆ、許して、くだ……さい」
使用人達の顔から生気が抜けていく。
本来、蔑んでいた女主人ごときに解雇されても、負け惜しみでも言って出ていく人間の方が多かったはずの彼らが、なぜこれほど慌てているのか?
それは、新たな雇用条件にはもう一文、私が付け加えた部分があったからだ。
「さて、雇用主を罵倒して解雇された際、もう一つ条件がありましたよね?」
「こ、これだけは……これだけはお願いします。許して……」
「侮辱した記録を王国騎士団へと報告いたします。侮辱は微罪だけどしっかり犯罪。就職の度に前科を報告する義務もあるから、再就職は難しいでしょうけど……頑張ってね!」
契約書を彼らの手に無理やり握らせて、再びにっこりと笑う。
使用人達は皆、絶望といった言葉が似合う表情を見せて言葉を失っていた。
うん。ここまでは準備をしていた通りだ。最初の一歩は順調。
次に移るために、私は阿鼻叫喚の彼らを放置して私室へと戻った。
部屋の中には、いつも通り驚くほど大量の書類がある。
どれもこれも、本来ならばレジェスが伯爵家の当主としてこなすべきものばかりだ。
「っ……奥様?」
書類を山と積み上げていた屋敷の家令が、私を見て目を吊り上げた。
「執務にいらっしゃるのが遅いのでは? これらすべて、旦那様からのご依頼です。子供を生す機会もない女主人ができるただ一つの務めなのですから、さっさと終わらせてください」
侮辱の言葉を吐く家令だが、今は気にならない。
あとで皆と同じく雇用条件の書類を見せてあげよう。
そんなことを思いつつ、私は書類の束をいくつか手に取り、すぐさま部屋の出口に踵を返した。
「分かりました、これらの執務は今すぐ片付けるわね」
「返事はいいのです。さっさと終わらせ……っ! ――どこに行くのですか?」
「さっさと終わらせに行くんですよ。この執務書類をすぐに片付けましょう」
戸惑う家令を置いて、私は食堂へと早足で向かう。
そして轟々と燃え上がっている暖炉へと、執務の書類を放り投げた。
炎はすぐに書類を焼き尽くしていく。追ってきた家令の怒鳴り声が聞こえた。
「な、何をしているのですかぁ‼」
「これで全部終わったじゃない」
いい汗をかきながら、暖炉で灰となっていく書類を見つめて呟く。
家令は愕然としていたが、一拍置いて私へと叫んだ。
「すぐに旦那様に報告いたします! こんな事をしてどうなるか分かっているのですか!」
――予定通りね。
私は両手を払ってから、家令を見つめて淑女らしく微笑んだ。
「ええ、ここまで侮辱したのだから。さっさとレジェスを呼んできなさい」
「っ⁉」
「あ、呼びに行くついでに、私がレジェスと離婚するつもりと伝えておいてくれるかしら」
呆然とする家令を残して、私は自室へとまた戻り、すでにやり終えた書類を取り出した。
「さて、残りも片付けましょうか」
これは、彼が王妃と禁断の恋に燃え上がっている間、私に押し付けた執務書類だ。
旦那様が帰ってきた時、屋敷から私が尽くしてきた功績を全て消し去っておこうかな。
「私に任せたなら、どうしようと自由よね?」
それらをビリビリと引き裂いていく。
離婚すればこの家から私の籍がなくなり、当主であるレジェスがやりなおす必要が生じる、そうなればこの書類は必要ないから破いた所で支障はない。
そうしている間に少し悪戯心が湧いた。破いた書類をかき集め、今度はレジェスの部屋へと向かう。ここでいつも書類を彼に渡すのだが……
『俺がいる時に持って来るな。お前の顔など見たくもない』
『わざわざ来て誘っているのか? お前に食指は動かん、諦めろ』
あぁ、改めてレジェスから受けた対応を思い出すたびにイライラする。
記憶が戻る前は幾度もレジェスの言動に悲しんでいたが、今は違う。
自信満々に食指は動かないなんて言って……今となっては指を折ってやりたいぐらいだ。
「でも、そんなに私の顔を見ずに書類が欲しいのなら……いくらでもあげるわよ。レジェス」
そう言って、私は先ほど破いた書類を紙吹雪のように部屋に散らした。
あぁ、前世でこうしてストレス発散をしたいと思っていたけど、こちらで叶うなんてね。
書類をあちこちに散らかして、ふぅっと一息吐く。
「よし、完了」
汗を拭っていると、呼び鈴が鳴った。
ちょうど、私が呼んでいた方々が来たようだ。
いまだに蒼白になって話し合う使用人達を横目に玄関の扉を開くと、人の好さそうな顔をした老紳士と恰幅のいい男性がそこに立っていた。
「本日はご招待くださりありがとうございます。アーシア様。我らはメリット商家の者です」
「ええ、よく来てくださいました。お入りください」
ニコリと微笑みつつ、メリット商家と名乗った彼らを屋敷に招く。
メリット商家の方々は、私が行っているとある副業で知り合った仲だ。
彼らは、慌てふためくこの家の使用人達を不思議そうな目で見つめてから、客間にあるソファ、飾られている絵画、燭台などをゆっくりと見て、私へと満足そうに頷く。
「それでは予定通り、この屋敷中の家財を私どもで買い取らせていただきますね」
「ええ、メリット商家にはお世話になっていますもの。いくらでも買い叩いてちょうだい」
「はは、アーシア様が相手ですから、誠実に買い取らせていただきますよ」
――実はこの屋敷の家財は半年前に一新している。私が副業で稼いだお金で家のものを揃えたから、所有権は全て私にある。それらを私が出て行くのに合わせて、全部売ってしまおう。
もうすぐ、家令から呼ばれたレジェスがこの屋敷に帰ってくる。
もぬけの殻となった屋敷で、彼に別れを告げようとずっと準備を重ねていたのだ。
「ふふ、もうすぐね。レジェス……」
もう今から、彼が帰ってくるのが楽しみだ。
メリット商家に家財を売るための必要書類にサインをして、順調に買い取ってもらう。
「査定額はいくらになりましたか?」
「はい、大変高価な家具もありましたので……金貨百二十六枚となります」
おぉ! 思った以上の額になってくれた。
金貨百枚もあれば、一年は生活するのに困らないだろう。
「では、端数の二十六枚を差し上げますので、本日中に全ての家財を運び出してください」
「いえいえ、金貨などいただかなくとも……アーシア様が売ってくださるアレで我らも儲けさせてもらっております。必要であれば無償でお引き受けしますよ」
「いえ、メリット商家とは今後も良い関係を続けていきたいので、端数分はお納めください」
「……感謝いたします。アーシア様」
うん、二十そこらの金貨で、この王国一番のメリット商家に恩が売れるなら好都合。
良い取引ができたおかげで、屋敷の中の家財はすぐに運び出してもらえた。
「それではアーシア様。売却した家財の代金は、また後日に……」
「はい。また伺います」
使用人達も契約書を見直して諦めたのか、皆が出ていき……ようやく準備を終えた。
もぬけの殻になった屋敷を見て一息つく。残されたのは、ほんの少しの家具と三年前に抜き取った王妃とレジェスの恋文だけだ。彼と王妃の禁断の愛を示す証拠は、すでに私の手にある。
今まで私が築き上げた全てを失ってもらい、レジェスに別れを告げる。
三年耐えた苦しみが……ようやく実りそうだ。
◇◇◇
トランクにわずかな私物を詰め込み、シンプルなワンピースに着替える。
一脚だけ残しておいた椅子の上に腰かけていると、待ち望んだ荒い足音が聞こえてきた。
「アーシア……お前、何をしている」
「あら、レジェス様。遅かったですね……待ちくたびれましたよ」
顔を上げると、後ろで束ねた長い黒髪を揺らしたレジェスが私を睨みつけている。
社交界では笑みを絶やさぬ彼が、憎悪を蒼い瞳に宿して拳を握りしめていた。
「使用人を解雇したと聞いたぞ、そんな事は許可していない」
「ふふ、旦那様が遅かったので……もう全員を解雇してしまいましたよ?」
その言葉を聞いたレジェスがハッと目を見開き、ようやく周囲を見渡した。
そして気付いたようだ。使用人どころか屋敷中の家財が一切合切、消えていることに……
「なんだ……これは……?」
「見て分かりませんか?」
「誰がこんな事を許可した。アーシア」
「おかしな事を言わないでください。レジェス様。許可など必要ありません」
ああ、やっぱり気が付いてなかったのね?
私は使用人達と結んだ契約書を、彼へと投げつけた。
「この屋敷の使用人達の雇い主は私です。女主人として当然の権利を行使しただけですわ」
「な……そんなはずは……家財などは⁉」
「家財は私の私財で集めました。つまり私の所有物だったので売り払っておきました」
「そんな金……どこに……」
「女主人としていただく正当な対価と、ちょっとした副業のおかげです」
笑いかけると、馬鹿にされたと思ったのか、レジェスは剣の鞘を払い、剣先を私に突きつけた。
「正当な対価だと? お前が虚言を吐き、伯爵家の財産を不当に使ったのだろう!」
「いえ、神に誓って伯爵家の財産には手を付けておりません」
「この状況でそんな言葉が通じるか! まだ俺を侮辱する気ならば、ためらわずに剣を振るうぞ」
あぁ、思わず笑ってしまいそうだ。
レジェス、貴方は私が思う以上にちっぽけな男みたいね。
「ええ、では殺しなさい」
「っ⁉」
私は怯えず一歩踏み込み、レジェスが向けた剣先に首を当てる。
たじろぐ彼に微笑みを向けた。
「正当な権利を行使しただけの私を……剣も持たない無抵抗な女を切りなさい」
「こ、この……」
「暴力でしか解決できない惨めな男だと認めながら、さっさと私を殺しなさい」
「……っ」
「生き恥を晒して生きていく覚悟で殺しなさい! はやくっ‼」
睨みながら叫べば、レジェスの剣先が震えた。そして、勢いよくその剣が地面へと突き刺さる。
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