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第8話

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「マルクさん、必要なのは幾らですか?」

 実家である子爵家と、ジェレドの伯爵家。保有する資産の差は歴然としており、聞いたとしても絶望してしまうだけ、されど尋ねずにはいられなかった。せめて具体的な差が知りたかったからだ。
 それを感じ取ってくれたのか、マルクさんは迷いつつ、渋々と答えてくれた。

「おおよそですが、子爵家と伯爵家の資産の差を埋めるには我がムルード国の貨幣で一億ギルは必要だと思います」

 やはり、訪れたのは絶望であった。一億ギルを残り三年で集めるなど不可能に近い。
 王都にて働く優秀な騎士の年収が五百万ギルと言われており、その数十倍と考えれば肩から力が抜ける程に途方もない額だ。
 
「一億って……私達のテルモンド家から援助は出来ないの?」

 姉の言葉に、マルクさんは首を横に振る。

「流石に、これだけの額を援助するのは難しいよ。それに調停委員が判断するのはあくまでもエレツィアさん自身の資産形成能力。援助したとて資産を維持する能力はないと見られる可能性が高い」
 
 三年で……一億。
 途方もなくて、果てしない。そしてそこに至るまでの選択肢と手段を私が持ち合わせていないのだ。
 ジトリと嫌な汗が背中を伝い、ロイを奪われてしまう恐怖が心を疲弊させて考える余地を奪ってくる。

「すみませんエレツィアさん、貴方には辛い話ですよね」

「いえ、マルクさん。貴方は、私の置かれている厳しい状況を知ってもらうために言ってくださったのですよね。感謝しています、おかげで楽観的ではいられないと気付かされました」

 状況は最悪だ。打開策もなく、そびえ立つ壁を超える手段が見つからない。
 このままいたずらに時間を浪費していては、ロイが奪われてしまう。だけど、それを止める方法も私は持ち合わせていないのだ。

 これほど、悔しいと感じた事はない。

「……」

 唇をかみ、悔しさで拳を握った時だった。
 その拳を、そっと優しく小さな手が両手で挟みこむ。

「エレ! あそぼ!」

 いつの間にか部屋の中に来ていたのか、ロイが私の手を引いて笑う。
 無邪気で、無垢な笑顔は私も含めて、その場にいた全員が落としていた視線を上げて笑みを浮かべる。

「ロイ……」

「エ……、おさしゃん?」

「っ!?」

 聞き間違いだろうか、いま……ロイが私の事を「お母さん」と呼んだ?
 幻聴だろうかと、思った時だった。

「おかしゃ! あそぼ!」

 聞き間違いではない、ロイは確かに私の手を掴み。その深紅の瞳に私を写しながら「お母さん」と呼んでくれているのだ。一度もそう呼ぶように言った事はなかったのに。

「ロイ、どうして」

「? エレは、おかしゃんだって」

 ロイは答えられはしなかったが、連れ添ってくれていたカレンが私へと頭を下げた。

「申し訳ありませんエレツィア様、ロイ君に教えたのは私達です。この家の使用人全てが、ここ最近、エレツィア様の事をロイ君の前でそう呼んでおりました」

「カレン、どうして……」

「私達は貴方がロイ君を愛している事を知っております。だからこそ、呼び名も含めて母になって欲しかったのです。今はジェレド様が私達の主人ですが、主従を失ってでも貴方が母になる事を私達は望んでおります」

 ロイを育てている時、苦楽を共にしてきたカレンや使用人達が私を母と認めてくれている。
 その事が、私の背中を押して、不安で押し潰されていた考えを払拭していく。私は母になる事を、カレンや皆が望んでくれている。ならば、悔しさなど感じている暇はなかったのだ。

「……そうね。ありがとうカレン」

「滅相もありません、過ぎた真似をして申し訳ありません」

「おあしゃん! いこ!」

「ふふ、そうね。遊ぼうか、ロイ!」

 俯いている暇などない、私はロイの母親になるために全力を尽くす。打開策が無くとも、作り出してみせる。
 使える手段、伝手……全てを使うのが私のやり方だ。

 考えを改めて、手を引くロイの姿を見て歩き出した時だった。
 
(っ、そうか……これなら)

 どうして、今まで思いもつかなかったのだろう。
 思考が鮮明になったおかげか、ルンルンと歩き出したロイの可愛いらしい姿のおかげか。
 今までの子育ての中で、状況を覆す手段があった事を思い出す。

(いたずらに時間を浪費するよりは、試してみる価値はあるはず)

 迷っている暇はない。

「ルリアンお姉様、至急集めてもらいたい情報がありますので再度お手紙を出しますね。マルクさんも、またご相談をさせてください」

「大丈夫なの? エレツィア」

 お姉様の心配の声を受けながら、私はロイと遊ぶために髪をバレッタでまとめて微笑みを浮かべる。
 
「はい、誰がなんと言おうと私はロイの母です。絶対に覆してみせます」

「っ……なんでも協力させてね」
「僕も、困った事があればいつでもご連絡を!」

 姉とマルクの言葉に微笑みながら、彼らの手を引く。
 考えは決まり。今はロイの前、だから暗い話は終わりだ。

「さて、二人にもロイと思いっきり遊んでもらいますよ。この子の可愛さを知ってもらいますからね」

 二人は苦笑しながら、肯定の頷きを見せた。
 二人の参加が嬉しいのか、ロイはパッと笑顔になって嬉しそうに笑って飛び跳ねた。


   ◇◇◇


 夜中、私はとある作業に勤しんでいると背後から声がかかった。

「エレツィア、話がある」
 
 声の主であるジェレドには振り返りはせずに答える。

「どうしました?」

「暫く、屋敷を留守にする。執務で長い出張が必要なんだ」

「……」

 ウソばかりだ。
 ジェレドは未だフローレンス当主の座を継いではいない、出張する程の執務などあるはずがなく予定はない事は家令から聞いてもいた。
 大方、再婚を考えている相手と逢瀬をするための言い訳なのだろう。問い詰めてもいいが、今は都合が良い。

「分かりました。留守はお任せください」

「ありがとう。ところで、ロイとの別れの覚悟は出来たのか? 早めにロイの子育てから離れた方が君のためだよ」

 嫌な問いかけは、無自覚なのだろうか。
 相変わらずの無神経さに苛立ちを抱きつつ、抑えながら返事をする。

「お気遣いありがとう。でも、私は大丈夫です。三年後に向けて準備はしていますから」

「そうか、分かった。ロイについては安心して任せてくれ」

 親権を希望しながら未だにロイに興味さえ示さないジェレドに何を任せろというのか。
 吐き出したい激情を抑えながら、ただひたすらに目の前の作業に集中をする。

 を持ち、ロイと共に向かうのだ。
 数多の貴族達の、自慢、見栄、情報、虚勢が集まる豪奢な場。社交会へ。
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