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第四章 束の間の休息
急報 同日 一四〇〇時
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それからおおよそ二時間のあいだ、NA一七船団の航海はおおむね順調に進展していった。荒れ狂う波や強風、そして寒さを相手にしながら、目的地までの距離を少しずつ着実に縮めていく。
幸いなことに、敵艦との遭遇は今のところ皆無であった。悪天候との戦いは依然として続いていたが、それでも襲撃を受けるのと比べれば百倍マシである。船員たちは生き残れた喜びを噛みしめた。それは船団の周囲を警戒する、第一〇一護衛戦隊の面々も同様であった。
「船団指揮船より発光信号。『船団第二列、中央部の列整理が完了せり。戦隊の協力に感謝す』以上です」
信号員からの報告を耳にすると、リチャードは言った。
「ご苦労、指揮船に応答の旨を伝えてくれ」
「分かりました」
信号員は副長の指示にそう答えると、固定式の信号灯をカチカチと点滅させて船団指揮船へ返答を送り始めた。今度は右舷見張員からも知らせがはいる。
「〈ゲール〉、船団中央から離れます。配置に戻りつつあり」
「了解した」
リチャードは見張員の知らせに頷くと、白い息を吐きだしながら溜息をついた。
飛行艇が遠方での哨戒を受け持ってくれたことで、第一〇一戦隊の負担は確かに軽減された。しかし、だからといってリチャードたちが仕事を怠けてよい訳ではない。敵潜水艦が上空からの監視を逃れて接近してくる可能性はあるし、今回のように船団の運航支援に駆り出されることもある。つまり、仕事はいくらでも存在するのだ。
また、最初の報告の後にもたらされた本国からの知らせを、リチャードは気にかけていた。別働隊所属の空母から発艦した偵察機が、帝国軍艦隊の変化を捉えたとのことだ。少なくとも重巡一隻と数隻の駆逐艦が姿を消し、現状ではその位置を確認できていないと、通信文には記されていた。
「ハッ、クション!」
静寂に包まれていた艦橋で、誰かがクシャミをした。突然の大きな音に、将兵たちは驚いて周囲を見まわす。当直士官を勤めている、パークス大尉が発したものであった。
「大尉、だいじょうぶか?」
「大丈夫です、すいません」
リチャードが心配して尋ねると、パークス大尉は恥ずかしげな表情でそう答えた。艦橋中央部にあるラッタルから、足音が聞こえてきたのはその時であった。
「失礼します、艦長はいらっしゃいますか?」
「艦長なら、部屋でお休みになられているぞ」
リチャードがそう言って相手を確認すると、顔を出したのは〈リヴィングストン〉の通信長であった。
「どうかしたのか?」
通信長の姿を見たリチャードは、片方の眉を吊り上げて怪訝そうな顔をした。
「通信を一件受信したので、艦長にご確認いただきたかったのですが……」
「見せてみろ」
リチャードはそう言うと、通信長が手にしている紙を受け取った。不安そうな顔をしている彼女の様子を、不審に思いながら紙面へ目を通す。
「……これは、俺が艦長室に持っていこう。通信長は部署に戻ってくれ」
通信長が分かりましたと答えると、リチャードはパークス大尉に艦橋を離れると伝えて、ラッタルのほうへ歩いていった。
艦長室を目指すリチャードの足並みは、かなりゆっくりとしたものであった。表情も穏やかで、途中で部下とすれ違うと笑顔で敬礼して通り過ぎる。しかしそれは、目的地につくまでのことであった。
艦長室に辿り着くと、リチャードは扉をノックした。少し間をおいてホレイシアがどうぞと答えた途端、彼は慌ただしく部屋に入る。その顔は眉間に皺が寄り、通信長と同じく不安感がにじみ出ていた。
「艦長、お休み中に申し訳ありません」
リチャードはそう言うと、手にしていた通信文を差し出した。衣服を整えてベッドに腰かけていたホレイシアは、不審そうな表情でそれ受け取って読み始める。目を通していく間に、彼女の表情は驚きに満たされていった。
通信文を読み終えて顔を上げたとき、ホレイシアの両目は大きく見開かれていた。
「副長、海図と航海記録をここに持ってきてちょうだい。一〇分後、幹部士官たちをここに集めて話をするわ」
「分かりました、すぐお持ちします」
リチャードは頷くと、資料を用意すべく部屋を後にした。それを見送ったホレイシアは、再び通信文へと目を向ける。発信元は偵察のため北方海域に展開した潜水艦の一隻であり、その内容は以下の通りであった。
一三四八時発信、緊急電
発 潜水艦S-七五
宛 NA一七船団
一、本艦は哨戒任務中、一三三〇時に重巡一、駆逐二よりなる帝国軍水上艦隊を発見せり。(以下、発見地点の位置情報)
一、当該艦隊は北北西方向に針路をとりつつあり。貴船団に対する襲撃行動を企図している公算大と判断す。警戒の要あり。
一、敵艦隊発見の報は本国艦隊へ既に通報済み。同艦隊司令部および海軍本部からの指示を待たれたし。幸運を祈る。
以上
それから一〇分後。艦長室に集まった〈リヴィングストン〉の幹部士官たちを、ホレイシアはふたつあるソファに分かれて座らせた。彼女は執務机の前におかれた椅子に腰かけ、通信文を読み上げはじめる。それが終わったとき、士官たちは呆気にとられた顔をしていた。
僅かな間をおいて、航海長のジェシカ・シモンズ大尉が口を開いた。
「つまり敵艦隊の一部が、こちらに向かいつつあるということですか?」
「その通りよ」
ホレイシアが簡潔に答えると、部下たちはみな一様に絶句した。彼女は話を続けた。
「この敵が発見された場所は、船団の現在地からみて南東約七〇海里に位置しているわ。レーダーや友軍機の監視も考慮すれば、こちらの探知範囲内まで三〇海里ほどしか離れていないことになるわね」
上官が発した言葉の意味を、幹部士官の面々はすぐさま理解した。敵艦隊はNA一七船団の間近に迫っており、いつ見つかってもおかしくないのである。ソファ前のテーブルには紅茶を注いだマグカップが置かれているが、彼女たちはそれをほとんど口せず放置するままにしていた。
ホレイシアが黙りこくると、今度はリチャードが言葉をつないだ。
「針路や速力にもよるが、我々は本日中にこの艦隊と遭遇することになるだろう。早ければ日没前後、つまり一六〇〇時から一七〇〇時ごろに会敵する可能性も否定できない。各員は戦闘にそなえ、それぞれの部署で準備を進めておいてくれ」
「ということは、まさか……」
シモンズ大尉がそう言いかけると、ホレイシアは右手でそれを制して強い口調で断言した。
「そのまさかよ。敵艦隊を確認し次第、第一〇一護衛戦隊はこれを迎え撃つわ」
「……あとは、待つだけね」
ホレイシアはそれまで咥えていた葉巻を口から離して、小さくそう呟いた。打ち合わせが終わって幹部士官たちは退出したため、ここにいるのはソファに腰かけている彼女だけだ。時刻は、一五〇〇時を少し過ぎたところである。
そのまま葉巻をくゆらせていると、不意に扉をノックする音が聞こえた。入ってきたのはリチャードであった。
リチャードは姿勢を正して、上官に報告した。
「船団指揮船への連絡、終わりました。あちらでも通信を受信できていたようで、既に状況は把握しているとのことです」
「ご苦労さま。戦隊各艦のほうはどうかしら」
「レスリー、ローレンスの両艦を介して、左右に展開している各艦へ順次伝達させているところです。全艦に行き渡るには、まだ時間がかかるでしょう。しばらくお待ちください」
「まあ、それはしょうがないわね」
申し訳なさそうに言うリチャードに、ホレイシアは溜息をついて応じた。戦闘状態にない現在、電波封止により船舶間の通信は発光信号や旗旈でおこなわれている。手間を要するのはやむを得ないことであった。
「副長、よければ一服しない?」
ホレイシアはそう言って、懐からシガレットケースを取り出した。反対側にすわったリチャードがそこから一本ぬき出すと、彼女はライター差し出して火をつけてやる。葉巻に特有の癖の強い、ツンとした香りが室内に充満していった。
「乗組員たちの様子はどうかしら」
「現状では、特に問題はありません」
心配そうに尋ねてきたホレイシアに、リチャードは葉巻を手にして答えた。
「少なくとも、艦橋要員たちは意外に平静さを保っているようでした。実戦を経験したことで、肝が据わってきたのでしょう」
「そう、ならよかったわ」
ホレイシアは副長の言葉にそう言って応じると、葉巻を口にしたまま不安そうに大きく息をついた。背中を丸めてうつむく、彼女の表情は固いままだ。
そんな様子の上官に、リチャードは何も言うことが出来ないでいる。副長として半人前であることを、彼はまたしても痛感した。
「艦長」
「なにかしら?」
副長の呼びかけに、ホレイシアは顔をあげて応じた。
「戦隊の人員募集は、志願によるものだったと聞いています。艦長はなぜ、指揮官になることを決意されたのですか?」
しまった。
質問を言い終えたリチャードは、内心で自分を罵った。咄嗟に思いついた事を口にしたが、気分転換にはいささか話題が重すぎる。
しかし、ホレイシアは気にする素振りを見せなかった。
「副長。ゴシップ紙を読んだことは?」
「暇つぶしで、たまに目を通すくらいです。他人のプライベートを切り売りするような新聞は、正直あまり好きじゃないですね」
「私たちの記事を、そこで見たことはあるかしら?」
「……人づてに、何度か聞いた覚えがあります」
リチャードは上官からの問いかけに対し、言いにくそうな表情でそう答えた。実際には彼も、実際にいくつか目を通していた。
彼女が言及したのは、おそらく女性補助兵に関するスキャンダラスな報道のことだろう。隊員たちには性的道徳観が欠如している――具体的には『客引き目当ての娼婦がたくさん入隊した』とか、『男性兵士と不適切な関係を結んでいる』とかいう噂が、開戦直後の一時期にひろく蔓延していたのだ。根拠のない偏見に基づく話であったようだが、その影響はいまだ軍にも残っている。ノースポートの桟橋で見た、野次馬たちがその好例だ。
ホレイシアは葉巻を咥え、ひと吸いして紫煙を漂わせながら言った。
「女性兵士の扱いは、かなりマシになったわ。後方要員としての評価は高いし、男性からの偏見も、いっしょに働くことでだいぶ払拭されてきている。だけど、『女が軍隊にいるなんて』という声は、まったく消えた訳じゃない」
「つまり、志願した理由は……」
「そうよ」
リチャードの言葉を遮って、ホレイシアは続けた。
「そんな事を吹聴する連中に、私は一泡吹かせたかったわ。私たちは戦える、男と同じように国へ貢献できるって言ってやりたかったのよ。だから指揮官就任の話が来たとき、私は即座に了承したわ」
そこまで語ると、ホレイシアは副長から目を逸らせて苦笑した。
「といっても、現状は決してうまくいったとは言えないわ。昨日の戦いで護衛対象の四分の一を失い、死者こそ居なかったとはいえ、〈レスリー〉も被弾してしまっている。そのうえ、今度は敵の水上艦隊と戦うことになるかもしれないなんて……」
ホレイシアは、今にも泣きだしそうな顔をして押し黙った。その表情からは恐怖や不安、そして悔しさといった負の感情が露わになっている。艦長室は静寂に包まれた。
それからしばらくの間、ホレイシアは右手に持った葉巻から伸びる煙をじっと眺めていた。そのうち落ち着きを取り戻したのか、少しずつ穏やかな顔つきになっていく。彼女は苦笑しながらリチャードに向けて呟いた。
「みっともない所を見せちゃったわね。取り乱してしまったわ、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です」
リチャードはそう答えたが、それ以上言葉を続けることが出来なかった。またしても、室内が静かになる。リチャードが再び口を開くまでに、幾ばくかの時間が過ぎた。
「別に、取り乱してもよいではないですか」
「えっ?」
ホレイシアが呆気にとられた表情でそう言うと、リチャードはそれまで被っていた制帽を脱ぎ、頭をかきながら話を続けた。
「確かに、指揮官は人前で気弱な姿を見せてはいけません。部下の士気に、悪影響を与えますから。ただそれにも限界はある訳で、鬱屈した感情を溜め込み続ければ精神を病んでしまいます。時と場所を選ぶ必要は無論ありますが、心の中にある膿を、たまには吐き出したほうがいいですよ」
「言いたいことは分かるけれど、矛盾しているわよ、それ」ホレイシアは怪訝な表情をした。「部下に愚痴なんてこぼせないし、ここで大声を出してストレスを発散する、なんて訳にもいかないわ。『艦長がおかしくなった』って、それこそ部下の士気に影響が出ちゃうわよ」
「そのために、副長という役職があるのです」
リチャードはそう断言すると、葉巻をひと吸いして深く溜息をついた。煙が広がっていくなかで、彼は上官に説明した。
「艦長もご存知の通り、副長は指揮官のサポートを任務としております。ですので、何か在れば、遠慮なく自分に申し出て欲しいのです。……自分もまだまだ半人前ですので、聞き役にしかなれないかもしれませんが」
恥ずかしそうに語ったリチャードの顔を、ホレイシアはしばらく凝視した。そのうち彼女は堰を切ったようにコロコロと笑いだし、それが終わると再び副長のほうに視線を向ける。その表情は明るくなっていた。
「まあ、半人前同士仲良くやっていきたいものね。今更とは思うけど、よろしく頼むわ」
「はい、艦長」
ホレイシアは副長の返答へ頷くと、壁に掛けられた時計に目をやった。
「副長、いつ敵が現れてもおかしくないから、早めに夕食を済ませてちょうだい。それが済んだら、艦橋のほうをお願いするわ」
「了解です」リチャードはそう言うと、灰皿に葉巻を押し付けた。既に全乗組員に対しても、同様の指示が出されている。「艦長はどうされますか?」
「部下たちの様子を見に、いちど艦内をまわってみるわ。それから食事をとって、私も艦橋に向かいます」
「分かりました。では、失礼します」
リチャードはそう答えると立ち上がり、敬礼して扉のほうへ向かっていった。
幸いなことに、敵艦との遭遇は今のところ皆無であった。悪天候との戦いは依然として続いていたが、それでも襲撃を受けるのと比べれば百倍マシである。船員たちは生き残れた喜びを噛みしめた。それは船団の周囲を警戒する、第一〇一護衛戦隊の面々も同様であった。
「船団指揮船より発光信号。『船団第二列、中央部の列整理が完了せり。戦隊の協力に感謝す』以上です」
信号員からの報告を耳にすると、リチャードは言った。
「ご苦労、指揮船に応答の旨を伝えてくれ」
「分かりました」
信号員は副長の指示にそう答えると、固定式の信号灯をカチカチと点滅させて船団指揮船へ返答を送り始めた。今度は右舷見張員からも知らせがはいる。
「〈ゲール〉、船団中央から離れます。配置に戻りつつあり」
「了解した」
リチャードは見張員の知らせに頷くと、白い息を吐きだしながら溜息をついた。
飛行艇が遠方での哨戒を受け持ってくれたことで、第一〇一戦隊の負担は確かに軽減された。しかし、だからといってリチャードたちが仕事を怠けてよい訳ではない。敵潜水艦が上空からの監視を逃れて接近してくる可能性はあるし、今回のように船団の運航支援に駆り出されることもある。つまり、仕事はいくらでも存在するのだ。
また、最初の報告の後にもたらされた本国からの知らせを、リチャードは気にかけていた。別働隊所属の空母から発艦した偵察機が、帝国軍艦隊の変化を捉えたとのことだ。少なくとも重巡一隻と数隻の駆逐艦が姿を消し、現状ではその位置を確認できていないと、通信文には記されていた。
「ハッ、クション!」
静寂に包まれていた艦橋で、誰かがクシャミをした。突然の大きな音に、将兵たちは驚いて周囲を見まわす。当直士官を勤めている、パークス大尉が発したものであった。
「大尉、だいじょうぶか?」
「大丈夫です、すいません」
リチャードが心配して尋ねると、パークス大尉は恥ずかしげな表情でそう答えた。艦橋中央部にあるラッタルから、足音が聞こえてきたのはその時であった。
「失礼します、艦長はいらっしゃいますか?」
「艦長なら、部屋でお休みになられているぞ」
リチャードがそう言って相手を確認すると、顔を出したのは〈リヴィングストン〉の通信長であった。
「どうかしたのか?」
通信長の姿を見たリチャードは、片方の眉を吊り上げて怪訝そうな顔をした。
「通信を一件受信したので、艦長にご確認いただきたかったのですが……」
「見せてみろ」
リチャードはそう言うと、通信長が手にしている紙を受け取った。不安そうな顔をしている彼女の様子を、不審に思いながら紙面へ目を通す。
「……これは、俺が艦長室に持っていこう。通信長は部署に戻ってくれ」
通信長が分かりましたと答えると、リチャードはパークス大尉に艦橋を離れると伝えて、ラッタルのほうへ歩いていった。
艦長室を目指すリチャードの足並みは、かなりゆっくりとしたものであった。表情も穏やかで、途中で部下とすれ違うと笑顔で敬礼して通り過ぎる。しかしそれは、目的地につくまでのことであった。
艦長室に辿り着くと、リチャードは扉をノックした。少し間をおいてホレイシアがどうぞと答えた途端、彼は慌ただしく部屋に入る。その顔は眉間に皺が寄り、通信長と同じく不安感がにじみ出ていた。
「艦長、お休み中に申し訳ありません」
リチャードはそう言うと、手にしていた通信文を差し出した。衣服を整えてベッドに腰かけていたホレイシアは、不審そうな表情でそれ受け取って読み始める。目を通していく間に、彼女の表情は驚きに満たされていった。
通信文を読み終えて顔を上げたとき、ホレイシアの両目は大きく見開かれていた。
「副長、海図と航海記録をここに持ってきてちょうだい。一〇分後、幹部士官たちをここに集めて話をするわ」
「分かりました、すぐお持ちします」
リチャードは頷くと、資料を用意すべく部屋を後にした。それを見送ったホレイシアは、再び通信文へと目を向ける。発信元は偵察のため北方海域に展開した潜水艦の一隻であり、その内容は以下の通りであった。
一三四八時発信、緊急電
発 潜水艦S-七五
宛 NA一七船団
一、本艦は哨戒任務中、一三三〇時に重巡一、駆逐二よりなる帝国軍水上艦隊を発見せり。(以下、発見地点の位置情報)
一、当該艦隊は北北西方向に針路をとりつつあり。貴船団に対する襲撃行動を企図している公算大と判断す。警戒の要あり。
一、敵艦隊発見の報は本国艦隊へ既に通報済み。同艦隊司令部および海軍本部からの指示を待たれたし。幸運を祈る。
以上
それから一〇分後。艦長室に集まった〈リヴィングストン〉の幹部士官たちを、ホレイシアはふたつあるソファに分かれて座らせた。彼女は執務机の前におかれた椅子に腰かけ、通信文を読み上げはじめる。それが終わったとき、士官たちは呆気にとられた顔をしていた。
僅かな間をおいて、航海長のジェシカ・シモンズ大尉が口を開いた。
「つまり敵艦隊の一部が、こちらに向かいつつあるということですか?」
「その通りよ」
ホレイシアが簡潔に答えると、部下たちはみな一様に絶句した。彼女は話を続けた。
「この敵が発見された場所は、船団の現在地からみて南東約七〇海里に位置しているわ。レーダーや友軍機の監視も考慮すれば、こちらの探知範囲内まで三〇海里ほどしか離れていないことになるわね」
上官が発した言葉の意味を、幹部士官の面々はすぐさま理解した。敵艦隊はNA一七船団の間近に迫っており、いつ見つかってもおかしくないのである。ソファ前のテーブルには紅茶を注いだマグカップが置かれているが、彼女たちはそれをほとんど口せず放置するままにしていた。
ホレイシアが黙りこくると、今度はリチャードが言葉をつないだ。
「針路や速力にもよるが、我々は本日中にこの艦隊と遭遇することになるだろう。早ければ日没前後、つまり一六〇〇時から一七〇〇時ごろに会敵する可能性も否定できない。各員は戦闘にそなえ、それぞれの部署で準備を進めておいてくれ」
「ということは、まさか……」
シモンズ大尉がそう言いかけると、ホレイシアは右手でそれを制して強い口調で断言した。
「そのまさかよ。敵艦隊を確認し次第、第一〇一護衛戦隊はこれを迎え撃つわ」
「……あとは、待つだけね」
ホレイシアはそれまで咥えていた葉巻を口から離して、小さくそう呟いた。打ち合わせが終わって幹部士官たちは退出したため、ここにいるのはソファに腰かけている彼女だけだ。時刻は、一五〇〇時を少し過ぎたところである。
そのまま葉巻をくゆらせていると、不意に扉をノックする音が聞こえた。入ってきたのはリチャードであった。
リチャードは姿勢を正して、上官に報告した。
「船団指揮船への連絡、終わりました。あちらでも通信を受信できていたようで、既に状況は把握しているとのことです」
「ご苦労さま。戦隊各艦のほうはどうかしら」
「レスリー、ローレンスの両艦を介して、左右に展開している各艦へ順次伝達させているところです。全艦に行き渡るには、まだ時間がかかるでしょう。しばらくお待ちください」
「まあ、それはしょうがないわね」
申し訳なさそうに言うリチャードに、ホレイシアは溜息をついて応じた。戦闘状態にない現在、電波封止により船舶間の通信は発光信号や旗旈でおこなわれている。手間を要するのはやむを得ないことであった。
「副長、よければ一服しない?」
ホレイシアはそう言って、懐からシガレットケースを取り出した。反対側にすわったリチャードがそこから一本ぬき出すと、彼女はライター差し出して火をつけてやる。葉巻に特有の癖の強い、ツンとした香りが室内に充満していった。
「乗組員たちの様子はどうかしら」
「現状では、特に問題はありません」
心配そうに尋ねてきたホレイシアに、リチャードは葉巻を手にして答えた。
「少なくとも、艦橋要員たちは意外に平静さを保っているようでした。実戦を経験したことで、肝が据わってきたのでしょう」
「そう、ならよかったわ」
ホレイシアは副長の言葉にそう言って応じると、葉巻を口にしたまま不安そうに大きく息をついた。背中を丸めてうつむく、彼女の表情は固いままだ。
そんな様子の上官に、リチャードは何も言うことが出来ないでいる。副長として半人前であることを、彼はまたしても痛感した。
「艦長」
「なにかしら?」
副長の呼びかけに、ホレイシアは顔をあげて応じた。
「戦隊の人員募集は、志願によるものだったと聞いています。艦長はなぜ、指揮官になることを決意されたのですか?」
しまった。
質問を言い終えたリチャードは、内心で自分を罵った。咄嗟に思いついた事を口にしたが、気分転換にはいささか話題が重すぎる。
しかし、ホレイシアは気にする素振りを見せなかった。
「副長。ゴシップ紙を読んだことは?」
「暇つぶしで、たまに目を通すくらいです。他人のプライベートを切り売りするような新聞は、正直あまり好きじゃないですね」
「私たちの記事を、そこで見たことはあるかしら?」
「……人づてに、何度か聞いた覚えがあります」
リチャードは上官からの問いかけに対し、言いにくそうな表情でそう答えた。実際には彼も、実際にいくつか目を通していた。
彼女が言及したのは、おそらく女性補助兵に関するスキャンダラスな報道のことだろう。隊員たちには性的道徳観が欠如している――具体的には『客引き目当ての娼婦がたくさん入隊した』とか、『男性兵士と不適切な関係を結んでいる』とかいう噂が、開戦直後の一時期にひろく蔓延していたのだ。根拠のない偏見に基づく話であったようだが、その影響はいまだ軍にも残っている。ノースポートの桟橋で見た、野次馬たちがその好例だ。
ホレイシアは葉巻を咥え、ひと吸いして紫煙を漂わせながら言った。
「女性兵士の扱いは、かなりマシになったわ。後方要員としての評価は高いし、男性からの偏見も、いっしょに働くことでだいぶ払拭されてきている。だけど、『女が軍隊にいるなんて』という声は、まったく消えた訳じゃない」
「つまり、志願した理由は……」
「そうよ」
リチャードの言葉を遮って、ホレイシアは続けた。
「そんな事を吹聴する連中に、私は一泡吹かせたかったわ。私たちは戦える、男と同じように国へ貢献できるって言ってやりたかったのよ。だから指揮官就任の話が来たとき、私は即座に了承したわ」
そこまで語ると、ホレイシアは副長から目を逸らせて苦笑した。
「といっても、現状は決してうまくいったとは言えないわ。昨日の戦いで護衛対象の四分の一を失い、死者こそ居なかったとはいえ、〈レスリー〉も被弾してしまっている。そのうえ、今度は敵の水上艦隊と戦うことになるかもしれないなんて……」
ホレイシアは、今にも泣きだしそうな顔をして押し黙った。その表情からは恐怖や不安、そして悔しさといった負の感情が露わになっている。艦長室は静寂に包まれた。
それからしばらくの間、ホレイシアは右手に持った葉巻から伸びる煙をじっと眺めていた。そのうち落ち着きを取り戻したのか、少しずつ穏やかな顔つきになっていく。彼女は苦笑しながらリチャードに向けて呟いた。
「みっともない所を見せちゃったわね。取り乱してしまったわ、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です」
リチャードはそう答えたが、それ以上言葉を続けることが出来なかった。またしても、室内が静かになる。リチャードが再び口を開くまでに、幾ばくかの時間が過ぎた。
「別に、取り乱してもよいではないですか」
「えっ?」
ホレイシアが呆気にとられた表情でそう言うと、リチャードはそれまで被っていた制帽を脱ぎ、頭をかきながら話を続けた。
「確かに、指揮官は人前で気弱な姿を見せてはいけません。部下の士気に、悪影響を与えますから。ただそれにも限界はある訳で、鬱屈した感情を溜め込み続ければ精神を病んでしまいます。時と場所を選ぶ必要は無論ありますが、心の中にある膿を、たまには吐き出したほうがいいですよ」
「言いたいことは分かるけれど、矛盾しているわよ、それ」ホレイシアは怪訝な表情をした。「部下に愚痴なんてこぼせないし、ここで大声を出してストレスを発散する、なんて訳にもいかないわ。『艦長がおかしくなった』って、それこそ部下の士気に影響が出ちゃうわよ」
「そのために、副長という役職があるのです」
リチャードはそう断言すると、葉巻をひと吸いして深く溜息をついた。煙が広がっていくなかで、彼は上官に説明した。
「艦長もご存知の通り、副長は指揮官のサポートを任務としております。ですので、何か在れば、遠慮なく自分に申し出て欲しいのです。……自分もまだまだ半人前ですので、聞き役にしかなれないかもしれませんが」
恥ずかしそうに語ったリチャードの顔を、ホレイシアはしばらく凝視した。そのうち彼女は堰を切ったようにコロコロと笑いだし、それが終わると再び副長のほうに視線を向ける。その表情は明るくなっていた。
「まあ、半人前同士仲良くやっていきたいものね。今更とは思うけど、よろしく頼むわ」
「はい、艦長」
ホレイシアは副長の返答へ頷くと、壁に掛けられた時計に目をやった。
「副長、いつ敵が現れてもおかしくないから、早めに夕食を済ませてちょうだい。それが済んだら、艦橋のほうをお願いするわ」
「了解です」リチャードはそう言うと、灰皿に葉巻を押し付けた。既に全乗組員に対しても、同様の指示が出されている。「艦長はどうされますか?」
「部下たちの様子を見に、いちど艦内をまわってみるわ。それから食事をとって、私も艦橋に向かいます」
「分かりました。では、失礼します」
リチャードはそう答えると立ち上がり、敬礼して扉のほうへ向かっていった。
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生まれついての勝負師。
あるいは、根っからのギャンブラー。
札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。
時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。
そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。
亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。
戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。
マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。
マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。
高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。
科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
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