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第二章 戦況概略

艦内巡回      一一月一二日(航海八日目) 〇六三〇時

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「相変わらず見事なものだね」
 リチャード・アーサー少佐は大鍋の中身を一瞥すると、感心したようにそう言った。隣にはウィリアム・コックス一等兵曹もおり、同じく鍋のなかを覗いている。
 リチャードの出で立ちは膝丈の茶色いオーバーコートに、白い防水ズボン、それにゴム長靴というものであった。襟元にはタオルを巻き、肩掛け式の書類鞄を身につけてメモを手にしている。いっぽうでウィリアムのほうは、ゴム引きのレインコートを着用していた。
「ありがとうございます、副長」
 リチャードの賛辞に対し、マーサ・ハリス兵曹は満足げに頷いた。彼女の服装は紺色の長袖シャツに白いエプロン、同じ色の帽子というものである。リチャードたちとは対照的に、かなりの薄着だ。その姿は軍人というより、町の食堂で働く料理人であった。
 実際、彼女の仕事は料理人のそれであった。リチャードたちとハリス兵曹がいるのは、船首楼甲板の後部に位置する烹炊室である。三メートル四方ほどあるこの一室で、彼女は〈リヴィングストン〉の調理責任者を務めている。調理や事務、経理といった後方業務を担当する主計課員だ。
 いまこの瞬間も、室内では朝食をつくっているところであった。ハリス兵曹を含む三名の主計課員に、各部署からの応援要員を合わせた八名が、乗組員一六五名の食事を完成させるべく作業を続けている。蒸気釜の熱気に包まれて汗を流しながら、ある者は人の胴体ほどもある鍋で食材を煮込み、またある者は大量のパンをひとつずつ丁寧に切り分けていた。時おり生じる激しい揺れにも、彼女たちは動じる様子がない。
 コックス兵曹が不意に呟いた。
「それにしても、こう毎日うまい飯を食えるというのはありがたいですね」
 彼が言った通り、用意されている食事はなかなかの物ばかりであった。トマトスープにソーセージ、ポーチドエッグ、それにトーストと紅茶。シンプルな献立だが、どれも温かみを感じさせる湯気と、食欲をそそる香りを周囲にふりまいている。材料は缶詰や乾燥品として積み込まれた保存食が主だが、生鮮品に比べてどうしても品質が劣るそれらで、ハリス兵曹は様々な工夫をこらしていた。
「食事によって得られるのは、日々の活動エネルギーだけではないわ」ハリス兵曹は力強い口調で言った。「味や香り、そして見た目によって人々を楽しませ、その心身をリラックスさせる事が出来るわ。艦上生活は娯楽が少ないから、せめて食事だけでもいい物を提供できるように、私は心がけているのよ」
「その言葉、〈ジャックリー〉の主計課員たちへ聞かせてやりたいですよ」
 コックスがそう言ってニヤリとすると、リチャードも思わず苦笑いした。彼が口にしたのは以前の乗艦で、食事を単なるカロリー摂取の手段と見做していた節があった。
「とにかく、問題はないようだ。そのまま作業を続けてくれ」
「了解しました」
 ハリス兵曹の声を聞くと、リチャードはメモに視線を向け、そこに何かしかを書き込んでいった。
 彼が烹炊室を訪れていたのは、立ち話をするためではない。副長業務のひとつである、艦内巡回の一環であった。
 既に書いた通り、副長は艦長を輔佐し、その代理人として様々な業務を執行する役職だ。その中には艦と乗組員の近況を把握し、それらを万全の状態に保ち続けることも含まれている。上官をこまごまとした雑事から解放し、彼――〈リヴィングストン〉においては彼女――が艦の指揮に専念できるようにするためだ。
「……ここはもういいな。ハリス兵曹、後はまかせるよ」
 リチャードはそういうと帳面を鞄に放り込み、烹炊室から退出すべく歩いていった。廊下へ出るとすぐ傍にある分厚い扉のほうへ向かい、コックスが手をかける。扉が開くと刺すように冷たい風が吹き込み、リチャードは顔をしかめながら足を踏み出した。
 扉の先は船体前部と中央部の境目、その左舷側であった。前方斜め右には太く長い煙突が立っており、船首楼の上に建てられたマストと艦橋構造物が、二人の背中を見下ろしている。舷側に設けられた手摺の向こうへ目をやると、リチャードの眼前に真っ暗な大海原が広がっていた。
 リチャードは揺れ動く甲板でバランスをとり、壁に手をつくとコックスに言った。
「着任して一ヶ月。長いようで、案外短かったな」
「そうですね、あっという間でしたよ」
 駆逐艦〈リヴィングストン〉はいま、僚艦と共にノースポートの遥か北を走っている。同盟国に向かう輸送船団を護衛して、念願の任務に就いている所なのだ。出撃したのは一週間ほど前の一一月五日であった。
 リチャードはこの一ヶ月間を、将兵にたいする訓練に費やした。出来る限りの努力をしたつもりだが、どういう結果に繋がるかは未知数である。
「ウィル、ひとつ聞きたいことがある」
 彼はそう言って、後ろに控えているコックスのほうを向いた。
「率直に言って、彼女たちは戦える状態にあるだろうか?」
「そうですね」コックスは少し考えてから答えた。「自分の経験から言わせてもらえば、新兵たちが使えるか否かは実際に戦うまで分かりません。現状では、なんとも言いようがないですね」
「だよなあ」
 リチャードは部下の見解に、溜息をつきつつ同意した。轟音と共に無数の銃弾と砲火が飛び交う戦場は、人間たちに極度の緊張――あるいは苦痛を強いる場所だ。訓練によって耐性を付けることは可能だが、その効果はバラつきがある。
「普段は気弱な二等兵が弾雨の中で黙々と任務に励んでいるかと思えば、強気な態度で有名な大尉が爆発音ひとつで泣き出すこともあります。結局は、個人の資質や気持ちの問題なんですよ」
 コックスが続けて言ったのを聞いて、リチャードはもう一度溜息をついた。それくらいの事は承知しているが、訓練責任者として気に掛けずにはいられない。彼は気分を変えようと、視線を海のほうに向けてみた。
 残念なことに、眼前の風景はその心を穏やかにするモノではなかった。
 時刻はすでに朝方だが、北の高緯度帯を航行中のため太陽はまだ姿を現していなかった。分厚い雲が空を覆い、月明かりを遮断していることもあって、周囲は暗闇に支配されている。吹きつける強風は相変わらずつめたく、押し寄せてくる波は〈リヴィングストン〉の船体を、時おり持ち上げるほど荒れ狂っていた。先ほど確認したが、気温も零度前後にまで下がっている。雨雪が降っていないのがせめてもの救いだ。
「まあ、この問題はいま気にかけてもしょうがないと思います。まずは、やるべき仕事を手早く終わらせましょう」
「……それもそうだ」
 リチャードは頷くと、コックスへ付いてくるように言って歩きだした。艦内巡回は、まだ半分程度しか終わっていない。二人は船首楼甲板へと向かうべく、ラッタルに足をかけて登っていった。

 巡回を再開したリチャードは、艦首から順番に甲板上を見てまわった。停泊時に用いる錨や主砲といった様々な装備と、配置についた将兵の様子を丁寧にチェックする。
 特段の問題は見当たらず、巡回はスムーズに行われたがそれでも少なからぬ手間を要した。見るべき場所は多いうえに、艦内での移動に難渋したからだ。
 波に揺さぶられて時おり傾き、水しぶきが襲い掛かってくる濡れた甲板を、リチャードとコックスはゆっくり進んでいった。低温の影響で氷の塊が、あちこちに転がっている事もあり足取りはかなり慎重だ。海軍ではありふれた光景であるが、決して楽なものではない。
 それでも一時間ほど経過した段階で、二人はほとんどの配置を視察し終わっていた。残るは艦尾――つまり〈リヴィングストン〉の最後部に置かれた部署のみである。相変わらずの曇り空だが日の出が始まったため、周囲はようやく明るくなりだしていた。
 リチャードは艦尾にパークス大尉が立っているのを見て声をかけた。
「おはよう、大尉」
「おはようございます、副長」
 フレデリカ・パークス大尉は丈の長いダブルボタンの革製コートに、同じ素材のズボンという格好であった。毛皮帽をかぶる彼女の頬は、吹き付ける風の寒さで赤くなっている。
「ご苦労さまです、対潜長」
「あなたもね、兵曹」
 リチャードに続いて敬礼をしたコックスに、大尉はそう言って返礼した。対潜科員であるコックスにとって、彼女は直接の上司である。
 彼女がここにいる事からも分かるように、艦尾の一帯は対潜科の管轄下にある。同科は水測班と爆雷班から成っており、ここに配属されているのは、敵潜水艦に対する攻撃を担当する爆雷班の面々である。攻撃に際して使用するのは、班名に付された『爆雷』という兵器だ。
 〈リヴィングストン〉が装備する爆雷は全長七七センチ、直径四五センチのドラム缶型の形状で、内部には一〇〇キロほどの高性能爆薬が充填されている。海中へ投じると事前に設定された深度で爆発し、その際に水中で生じる衝撃派で、目標にダメージを与えるのだ。
「大尉、部下たちの調子はどうだ?」
 挨拶を済ませたリチャードは、爆雷班の状況を確認すべくパークス大尉へ尋ねた。
「熱を出した班員をひとり、兵員室で休ませています。他は異常ありません」
「君も体調は良さそうだな」
「朝イチですが、この寒さで眠気なんて吹き飛んじゃいました」
 対潜長が元気な声で答えると、思わず苦笑したリチャードは部下に忠告した。
「疲労が溜まれば、こんな天気でも平気で寝込んでしまうようになる。威勢がいいのは結構だが、無理はしないように」
「はっ、肝に銘じておきます」
「では、班の様子を見せてもらうよ」
 リチャードはそう言うと、後ろに控えるコックスへ頷いてみせた。コックス兵曹はすぐさま、艦尾に置かれた装備を確認するため離れていく。リチャードのほうも自分の目で状況を視察すべく、艦尾の一帯を歩きはじめた。
 艦尾甲板には爆雷の運用に必要な設備――投下軌条と投射機、直下の格納庫から爆雷を上げ下ろしするための人力式デリック(クレーンの一種)や、甲板上で爆雷を保管するためのケースなどが置かれている。このうち投下軌条と投射機は、爆雷を海中へ投じるための機材だ。
 爆雷投下軌条は、『軌条』(レール)という名前の通りの代物だ。スクリューの真上から艦の後方へ付き出るように設置された、ふたつの枠付きレールがそれである。内部には爆雷を六発おさめることが可能で、レバー操作によって一発ずつ爆雷が海中へ落下するように作られている。
 いっぽうで投射機のほうは、側面へ爆雷を打ち出すための装備だ。左右の舷側に二基ずつ設置されており、直径四〇センチの金属パイプが、台座に対して斜めに突き刺さったような形をしている。爆雷はこのパイプの部分に発射箭と呼ばれるキャップを介して取り付けられ、充填された発射薬(要は少量の火薬だ)の爆発によって放射線を描きながら投げ飛ばされる。射程はパッケージングされた発射薬の量で調整され、おおむね五〇メートルから一五〇メートルの飛翔が可能である。
 これらの装備を運用するため、爆雷班は曹長を指揮官に二〇名前後で構成されている。いま配置についているのは、その半分の一〇名ほどであった。そのうち二人は見張り員として周囲に警戒の目を向けており、残りは甲板や装備に張り付いた氷を取り除こうと悪戦苦闘している。彼女らはバールや金槌など様々な道具を手に、それぞれの持ち場について与えられた任務に励んでいた。
 冬の寒冷地帯を進む船舶にとり、氷塊は厄介な存在であった。装備を凍りつかせて故障を引き起こし、重量バランスの変化から転覆を誘発することも少なくない。そのため定期的に、除氷作業をおこなう必要がある。
 ただし、それは簡単に出来ることではない。なにしろ揺れる艦上で、波風に晒されながらの作業になるからだ。女性水兵たちは腰に結びつけた命綱だけを頼りに、ただ黙々と差長を続けている。そんな彼女たちを鼓舞するかのように、艦尾旗竿に結び付けられた海軍旗が、風にのってはためく風景はリチャードにとって印象的であった。
(たいしたものだ)
 部下たちの姿に、リチャードは思わずそう心の中で呟いた。実戦経験どころか配属まで、船に乗ったこともない者が大半であったにも関わらず臆する様子を見せていない。何が彼女たちにそうさせるのか、彼には皆目見当がつかなかった。
「装備の確認、終わりました」
 不意に、コックスが声をかけてきた。
「ご苦労、なにか問題は?」
「特にありません。装備はきちんと稼働するようですし、除氷作業も順調に進んでいます」
「分かった」リチャードはそう答えると、作業を監督している下士官のほうに顔を向けた。「曹長、いつも通り作業が終わったら朝食だ。部下たちをしっかり休ませておいてくれ。勿論、君自身も含めてだ」
「分かりました」
「大尉もだぞ。幹部士官に寝不足で倒れられると、俺が困るからな」
「了解です」
 二人の返事を聞いたリチャードは、コックスを伴って艦尾を後にした。巡回はこれで終わりだが、結果を報告書にまとめなくてはならない。
「色々と不安な点はあるが」リチャードは歩きながら、ひとり小さく呟いた。「少なくとも、彼女たちが臆病者でないことは確かだな、」
「えらく贔屓目な言い方ですね」
 コックスが茶化すように応じると、リチャードは分かっていると言いたげに口をとがらせる。しかしその目は、嬉しそうに笑っていた。
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