深い森の彼方に

とも茶

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第十章 初めてのお仕事

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背後には罵声が飛び交っていた。しかし、メイド服のオカマに喧嘩をふっかけようとする者もなく古びたアパートが密集する路地に逃げ込んだ。さすがに、あの薄毛の男は追いかけてはこなかった。
古びた家の軒先のアロエが植わっている大きなプランターに腰掛け一息ついた。女らしく膝を揃えてすわろうなどという余裕はなかった。足を開きガーターベルトもショーツも丸出しのまま上がった息を整えていた。時折通りかかる人は不潔なものでも見るように、私をよけて足早に立ち去っていった。
ここはいったいどこだ。見覚えがあるような気もする。しかし、前に住んでいた町、夜歩き回った繁華街、イメージは頭の中にありありと浮かぶものの、地名、店名、どこの駅のそばで、なんというビル、いっさい「固有名詞」は浮かんでこなかった。どうやら、日も暮れてきたようだ。どこに行けばいいのか、何をしたらいいのか、途方にくれた。
私はあの世界でこれから女として大人しく生きていくべきなのだろうか。確かにそのほうが楽だ。誰もがみんな私を女と見てくれる。でも、誰もがといったって、本当に人なのだろうか。長身の彼女と話し合った結果は、あの人たちは私たちの背景でしかないのだ。人と人との関係を結ぼうとしても、どうにもならないのだ。そもそも、触れさせてもくれないのだ。長身の彼女とリーダーの他には。

座り込んでいてもどうにもならなかった。
行くべきところは、あの世界に一旦戻るしかなかった。この世界では自分の家も職場もどこにあるのか、記憶が消滅してしまった現状では、あの世界が自分の戻る場所だった。男顔に男声、それでメイド服を着て下手な化粧、おまけに体の肝心なところに男のシンボルはもうない。そんな不完全な状態で落ち着いて暮らせるのはあの世界しかなかった。
どうしたら戻れるのだろうか。
ひとつは、あのワンボックスカーから降りた場所に戻ること。運転手は「どうせ帰りも乗るんだ」と言っていた。待っていれば、つまりあの髪の薄い男とホテルで過ごすだろう時間が経過したと思われる時刻になれば、ワンボックスカーが迎えにきてくれるのではないかということだ。そうすれば、あの男に抱かれてしこたま突っ込まれてきたふりをして乗って帰ればいいのだ。
でも、あの男がまだいるのではないか、また会えば怒鳴られホテルに連れ込まれ、何をされるかわからない。もしいなくても、は私とあの男とのやりとりを聞いていた人たちがいるのではないか。私を見れば、客と大騒動をしていたオカマの売春婦だと指さすだろう。耐えられない。オカマかもしれないが、今はLGBTの権利だって、嗜好だって尊重される世界になっているはずだ。しかし、売春婦、要するに男娼か、自分のこの世界の立場を考えれば早く消え去りたかった。
もうひとつの方法は、闇雲に歩き出すことだった。初めてあの世界に足を踏み入れたとき、職場からの帰りひたすら歩き続けた。次に一旦戻ったとき。行きも帰りもひたすら歩き続けた。方向などどうでもいい。いつの間にかあの深い森に入り体力と気力の限界まで歩き続け、限界に到達したところで行きついたのだ。それを繰り返せばいいのだ。あの車を降りた街角に戻る気にはならなかった。歩き続けることにした。
問題は靴だ。これまで森の中では靴を履いていた。あの獣道を裸足で歩けるのだろうか。既に裸足で逃げてきたために、ストッキングはズタズタ、足もいたるところから血が出ている。
ふと、傍らの古い家を見ると外に居住者の靴が干してある。男物の革靴とスニーカー、女物のブーツにパンプス、サンダルに長靴、思わず手に取って走りだした。手に取った靴を見た。無意識でパンプスを選んだようだ。5センチほどの高さのピンヒールだ。スニーカーにすればよかったと思ったが、いまさら取り替えにいくわけにはいかない。先を急ぐしかなかった。パンプスを履くと足にぴったりと収まった。ピンヒールでは走るわけにはいかない。でもひたすら歩けばいいのだ。
あの男と会った場所はここよりずっと賑やかな場所だった。そこを避けるため、ひたすら人も少なく、店も少なく、家も少ない方角にひたすら歩いた。しかし、いくら歩いても家並みが途絶えるどころか、いきなり繁華街になり、商店街になり、アーケード街になった。人波は途切れず、多くの男や女が化け物でも見るような目つきで私を振り返った。
何時間たっても変わらなかった。不思議なことにいつまでたっても夕暮れの少し暗くなりかけた状況は変わらなかった。

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