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城に同居人ができた。
正確には、新たな香水の依頼人兼研究対象なのだが、当人の香りが肝になるのと、労働力が欲しかったので居候を許した。
だが、マシレはオメガ性というものを甘く見ていたかもしれない。なんだかあの香りや、黒髪から憂いを帯びて覗く紫の目が気になってしまうのだ。
「マシレ様」
その声が脳裏に響いて、実験室ですら手が止まってしまうことがある。そんなとき脳裏に浮かんでいるのは、ふとしたことでほんのりと笑う、可愛いリュカの笑顔だった。畑のセンティフォリアローズの花が開く姿に似ている。華やかで、かつ、上品に甘い。
王都にはああいうのが沢山いるのだろうかと思案したが、城に直接香水を頼みに来る上流階級の好事家にさえ、あんな儚げな美貌の者は居ない。
(王子が夢中になるのも分かる)
色事はさっぱり分からないマシレでさえも、あの青年は特別だと認識できる。だが、フレバリーから聞いた街の噂によれば、王子はあの青年を同意もなしに陵辱したという。出会ったとき、あれほど衛兵に怯えていたのはそのためかと納得する。
「許せぬな」
気付けばそう独り言ちていた。
陵辱というものの恐怖も屈辱も悲しみも、マシレは知らない。だが、相当のものだったのだろう。何一つ不自由のない王宮での生活を拒否するほどに。
マシレが幼少時に受けた同世代からの暴力に似たところがあるだろうか。分からないが、かつて、調香師だった祖母が香りでマシレを泣き止ませてくれたように、マシレもあの青年を笑顔にできればいいのにと思う。
その本人であるリュカが、実験室の横を走り抜けていった。畑のホホラにせっつかれているのかもしれない。あの使い魔は豊かな畑を気に入っているので、その素晴らしさを分かって欲しいと常日頃から愚痴をたれていたから。
「リュカ、早く早く! こっちの庭がきれいなんだ」
「待ってホホラ、何で君、そんなに速いの」
窓を開けて彼らを目で追うと、案の定、マシレがあまり褒めない、香油用の花を幾何学模様にしたガーデンに案内されている。薔薇のような男が薔薇を見ているのは、不思議な気分だった。だが、悪くない光景だ。心が温まるのは何故なのだろう。マシレは人間嫌いのはずなのに、リュカだけは別のようだ。見ているだけで浮き立つ心地になる。
*
マシレは、リュカのための香水を作る最初の段階として、彼の香りの再現から始めることにしている。人体実験をいきなり行うのは、さしものマシレとてしない。
このため、作った香水の効果を確かめるのに、実験での効果を確かめる試薬が必要になるのだ。それに何より、出会った瞬間から魅了された香りだったから、リュカがこの城を離れた後も、側に置いておきたかった。
開けた窓から、リュカを実験室に呼ぶ。リュカは笑みを浮かべて部屋にやってきた。
「マシレ様、何のご用でしょう」
「そなたのフェロモンを再現する。付き合ってくれ。そこに立って」
指示した場所で、緊張したように直立したリュカが可愛いような気がしてならない。邪念を振り払うように、マシレは鼻に意識を集中する。
「ひゃう!?」
香りの出ている場所を探すべく、マシレはリュカの小さな身体をくんくんと嗅ぐ。ああ、たまらない匂いだ。ともすれば誘惑に負けてしまいそうで、気を強く持つ。
(マンゴーにカーネーション……ベルガモット。直接的に誘うのはトップノートの香りだな)
「マシレ様、何をなさっておいでですか!」
「香りを発生させている場所を特定しているのだ。……お、ここだな」
うなじ。
番になる際にアルファが噛む場所だ。意味ありげだと思う。
そこにすんすんと鼻を近づけて、嗅覚に心を傾ける。ずっと嗅いでいると、頭がぼんやりとしてくるが、負けられない。
(ラストノートはパチュリ……アンバー、オークモス。香調はシプレに近いな)
それらに彼の汗の匂いが混ざって、なんとも官能的な香りになる。
ああ、なんだか、美味そうだ。この生き物の香りを手に入れるのはどれだけ愉快だろう。そう思ったところではっとする。
「あの……マシレ様?」
「気にするな。思ったより、オメガのフェロモンは凶悪なようだな」
ヒートとやらのときには、この香りが何倍にもなって発せられるのだから、接近したアルファにとってはたまったものではないだろう。鼻の利くマシレは、彼のヒートで自分がどうなるか、些か不安になった。
その夜。どうしたことか、マシレは熱を出して倒れた。何となくだが、原因は予想が付く。リュカの香りを、間近で、限界量を超して吸ってしまったのに、耐えに耐えて実験を続けたからだろう。
いつもはサバランから通いで来てくれているフレバリーが、泊まって面倒を見ると言ってくれた。
「僕の所為です。マシレ様、ずっとフェロモンを吸っていたからだと思います」
「こいつの趣味でやってることなんだから、リュカは気にすんな」
そうフレバリーが言ったが、リュカはずっと悲しそうな顔をしていた。こんなときには笑って欲しいのに。
*
実験が深夜まで及ぶ日にも、リュカはずっと起きていて、マシレを待っていてくれた。
自分が戻るのを誰かが待つだなんて、随分と久しいことに感じて、戸惑ってしまう。だが、悪い気分ではない。
「お帰りなさい、マシレ様」
そう微笑むリュカの笑顔は極上で、いけないことだと思いながらも、その頬にふれてみたいような気持ちになる。そんな自分がよく分からなかった。
正確には、新たな香水の依頼人兼研究対象なのだが、当人の香りが肝になるのと、労働力が欲しかったので居候を許した。
だが、マシレはオメガ性というものを甘く見ていたかもしれない。なんだかあの香りや、黒髪から憂いを帯びて覗く紫の目が気になってしまうのだ。
「マシレ様」
その声が脳裏に響いて、実験室ですら手が止まってしまうことがある。そんなとき脳裏に浮かんでいるのは、ふとしたことでほんのりと笑う、可愛いリュカの笑顔だった。畑のセンティフォリアローズの花が開く姿に似ている。華やかで、かつ、上品に甘い。
王都にはああいうのが沢山いるのだろうかと思案したが、城に直接香水を頼みに来る上流階級の好事家にさえ、あんな儚げな美貌の者は居ない。
(王子が夢中になるのも分かる)
色事はさっぱり分からないマシレでさえも、あの青年は特別だと認識できる。だが、フレバリーから聞いた街の噂によれば、王子はあの青年を同意もなしに陵辱したという。出会ったとき、あれほど衛兵に怯えていたのはそのためかと納得する。
「許せぬな」
気付けばそう独り言ちていた。
陵辱というものの恐怖も屈辱も悲しみも、マシレは知らない。だが、相当のものだったのだろう。何一つ不自由のない王宮での生活を拒否するほどに。
マシレが幼少時に受けた同世代からの暴力に似たところがあるだろうか。分からないが、かつて、調香師だった祖母が香りでマシレを泣き止ませてくれたように、マシレもあの青年を笑顔にできればいいのにと思う。
その本人であるリュカが、実験室の横を走り抜けていった。畑のホホラにせっつかれているのかもしれない。あの使い魔は豊かな畑を気に入っているので、その素晴らしさを分かって欲しいと常日頃から愚痴をたれていたから。
「リュカ、早く早く! こっちの庭がきれいなんだ」
「待ってホホラ、何で君、そんなに速いの」
窓を開けて彼らを目で追うと、案の定、マシレがあまり褒めない、香油用の花を幾何学模様にしたガーデンに案内されている。薔薇のような男が薔薇を見ているのは、不思議な気分だった。だが、悪くない光景だ。心が温まるのは何故なのだろう。マシレは人間嫌いのはずなのに、リュカだけは別のようだ。見ているだけで浮き立つ心地になる。
*
マシレは、リュカのための香水を作る最初の段階として、彼の香りの再現から始めることにしている。人体実験をいきなり行うのは、さしものマシレとてしない。
このため、作った香水の効果を確かめるのに、実験での効果を確かめる試薬が必要になるのだ。それに何より、出会った瞬間から魅了された香りだったから、リュカがこの城を離れた後も、側に置いておきたかった。
開けた窓から、リュカを実験室に呼ぶ。リュカは笑みを浮かべて部屋にやってきた。
「マシレ様、何のご用でしょう」
「そなたのフェロモンを再現する。付き合ってくれ。そこに立って」
指示した場所で、緊張したように直立したリュカが可愛いような気がしてならない。邪念を振り払うように、マシレは鼻に意識を集中する。
「ひゃう!?」
香りの出ている場所を探すべく、マシレはリュカの小さな身体をくんくんと嗅ぐ。ああ、たまらない匂いだ。ともすれば誘惑に負けてしまいそうで、気を強く持つ。
(マンゴーにカーネーション……ベルガモット。直接的に誘うのはトップノートの香りだな)
「マシレ様、何をなさっておいでですか!」
「香りを発生させている場所を特定しているのだ。……お、ここだな」
うなじ。
番になる際にアルファが噛む場所だ。意味ありげだと思う。
そこにすんすんと鼻を近づけて、嗅覚に心を傾ける。ずっと嗅いでいると、頭がぼんやりとしてくるが、負けられない。
(ラストノートはパチュリ……アンバー、オークモス。香調はシプレに近いな)
それらに彼の汗の匂いが混ざって、なんとも官能的な香りになる。
ああ、なんだか、美味そうだ。この生き物の香りを手に入れるのはどれだけ愉快だろう。そう思ったところではっとする。
「あの……マシレ様?」
「気にするな。思ったより、オメガのフェロモンは凶悪なようだな」
ヒートとやらのときには、この香りが何倍にもなって発せられるのだから、接近したアルファにとってはたまったものではないだろう。鼻の利くマシレは、彼のヒートで自分がどうなるか、些か不安になった。
その夜。どうしたことか、マシレは熱を出して倒れた。何となくだが、原因は予想が付く。リュカの香りを、間近で、限界量を超して吸ってしまったのに、耐えに耐えて実験を続けたからだろう。
いつもはサバランから通いで来てくれているフレバリーが、泊まって面倒を見ると言ってくれた。
「僕の所為です。マシレ様、ずっとフェロモンを吸っていたからだと思います」
「こいつの趣味でやってることなんだから、リュカは気にすんな」
そうフレバリーが言ったが、リュカはずっと悲しそうな顔をしていた。こんなときには笑って欲しいのに。
*
実験が深夜まで及ぶ日にも、リュカはずっと起きていて、マシレを待っていてくれた。
自分が戻るのを誰かが待つだなんて、随分と久しいことに感じて、戸惑ってしまう。だが、悪い気分ではない。
「お帰りなさい、マシレ様」
そう微笑むリュカの笑顔は極上で、いけないことだと思いながらも、その頬にふれてみたいような気持ちになる。そんな自分がよく分からなかった。
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