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2.『童貞食いのビッチ』

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 佑が毎回楽しそうに野球の話をするから、逸樹もほんのちょっとだけ、競技に興味が湧いた。試しに、佑の高校名と『野球』でネット検索を掛けてみようとしたら、高校名を入れた時点で『野球部』がサジェストされた。
(もしかして、有名校なのか?)
 逸樹が検索の上位のページを開くと、何と、神奈川県下の大会でも優勝候補に挙がる学校だと書いてあった。そんな部活で『キャプテン』という相手が生徒なのは、誇り高い気持ちになった逸樹である。それと同時に、そんな未来ある少年が白嶺の知り合いだということが、いよいよ分からなくなった。だが、逸樹の方から白嶺の話題にふれるのは、藪を突いて蛇を出すことになりかねない。逸樹は好奇心より保身を選んだ。
 去年の神奈川県大会の動画があったので、見てみたが、何が何だか逸樹にはさっぱり分からない。玄人が見れば名シーンらしく、コメントも沢山付いているのだけれど。仕方なく、佑に解説してもらった逸樹だが、ちんぷんかんぷんなのは変わらなかった。
「先生はもう応援席です。ベンチスタートすら無理ですよ」
「何でだよ! そういうこと言うと応援行ってやらないぞ」
 そうして佑と野球の話をし、逸樹の身の上の話は濁し。逸樹がいつもより楽しく日々を送っている木枯らしが窓を叩く頃。白嶺が、家庭教師の様子を見に来た。佑の母も白嶺の訪れに喜んでいて、井上家と白嶺は家族ぐるみの付き合いだと逸樹にも知れる。佑の弟は母親の後ろに隠れたので、白嶺が怖いのかもしれない。
最近はYシャツの上にセーターを着込んでいる佑は、その日何故だか、野球の話をしなかった。その代わりに、逸樹と白嶺の間柄のことを聞きたがる。逸樹は心底冷や冷やしながら、勝手に佑のベッドに寝転がってスマートフォンを弄っている白嶺がこちらを見ないでいてくれるように願った。
だが逸樹のその祈りは、儚く散った。
「佑、そんなに俺たちのことが気になるか」
 白嶺がさも愉快だというように、佑を見ている。白嶺は飲み会のときにも、ああいう顔をすることがある。揶揄いの対象を見つけたとき。
「……そういう訳じゃないですけど」
 また佑から表情が消える。白嶺と佑は良好な関係そうだったのにどうしたのか、逸樹には分からない。
 白嶺と佑の顔色を窺っていると、ちらりと白嶺がこちらを見た。その口許が歪む。嫌なことが訪れるのを、逸樹ははっきりと予感する。
「もしかしてお前、まだこいつに食われてないのか」
「……食う?」
 全く意外そうに、佑がひっくり返った声を上げる。面白がっている白嶺は、声を上げて笑い出した。
(ああ、やっぱりこれから、嫌なことが始まる)
 目を細めてニヤニヤと笑う白嶺に、逸樹は、純真で純情で出来の良い教え子との関係が、破綻するのを覚悟した。
「白嶺さん、食うって?」
「セックスしてみたいんだろ、こいつと。良かったな、こいつ、誰にでも股開くぜ。な、『童貞食いのビッチ』」
ちらりと盗み見た佑の顔色が、青い。こんなときに初めて、佑が野球少年の割には色白なのに、逸樹は気付いた。
(日に焼けないタイプなのかな)
そう現実逃避しながら、逸樹はもう全て諦めた。清らかな少年である佑には許容範囲外だろう、逸樹の正体は。
「白嶺さんの所為でしょう」
 逸樹が淡々と言い返すと、佑が素早くこちらを見た。信じられないものを見るかのように。
(ああ、折角の癒やしタイムだったのにな)
 この家庭教師のバイトは今日でもう終わりかもしれないと樹は思う。家庭教師を続けられたって、佑との楽しく笑い合える関係は終わりだろう。
 逸樹と佑が挙動不審になったのが、白嶺は面白くて堪らないのかも知れない。悠々と立ち上がって、こちらに構わず、そのまま部屋のドアを開けた。
「そういう訳だから。こいつ、好きにしてもいいぜ。特別に無料で貸してやるよ」
 白嶺は笑い声を立てながら、部屋を出て行った。佑の母親が「また来てね」と言うのを遠くに聞いて、そこからは二人に沈黙が落ちた。
「軽蔑した?」
 逸樹は自嘲しながら佑に尋ねた。
 佑はきっと、本心を告げづらいだろう。そう思って、自分から言ってみた逸樹だ。
(まあ、仕方ないよな。男ばっかり食ってるビッチが家庭教師なんて、おれでも反吐が出る)
佑の真顔も、そうだと暗に告げているように、逸樹には見える。だのに。
「別に。先生が先生であるのに変わりはないから」
 純真であるはずの少年は、何でもないかのように、参考書とノートに向かった。逸樹の頭が混乱で満ちる。
(何で?)
 白嶺の暴露で、あんなに顔色を悪くしたくせに。どうして。
 ──逸樹にそんなことを言ってくれるひとなんて、誰もいなかったのに。よりによって、一番心が清らかだろう佑が、何故逸樹をかばってくれるのだろう。
「気持ち悪くないのか」
「……俺はゲイなので。男のひとしか、好きになれないから、別に」
 その佑の告白に、逸樹も驚かなかった訳ではない。そして、この少年に恋をする女の子はきっといっぱいいるだろうにと、知らない相手に同情した。
 だが、男しか愛せないことと、男に食われるしか能のない情けない男を受け入れることは、きっと違うだろうと。そう逸樹は思った。
「でも、ビッチが先生だなんて、嫌だろ。おれは」
「俺は。嫌じゃありません」
 部屋に響いた強い声に、逸樹は肩を震わせた。佑が声を荒げるなんて思わなかったから、戸惑う。だが逸樹に染みついた奴隷根性が、一つ、それらしい回答を出す。
「……もしかして、セックスしたいとか」
「先生としたくない、訳じゃないです。でも俺は、そうじゃなくて」
 佑の白い手が、シャープペンシルを軋ませるほど、握られている。佑が何を考えているのか、逸樹にはまるで分からなくて、怖くなった。でも。佑の手で折られてしまいそうなシャープペンシルが、まるで逸樹自身みたいで哀れだったから、助け出そうと、佑の手にそっと左手を重ねた。
「先生」
 一転して真っ赤になった佑が、ぱっと手を開いた。助かったシャープペンシルに、逸樹は手を離した。
「あの、ごめんなさい、俺」
「いや、おれが悪かったよ。困らせたな」
「いいんです。あの」
「ん?」
 真っ直ぐにこちらを見た佑の瞳が、強い。目も少し色素が薄いようだ。必死、みたいな、その表情に。逸樹は、心の何処かを指で摘ままれたような気がした。
「家庭教師辞めるとか、言わないでくださいね」
 そうして、またノートに視線を戻した佑の隣で。逸樹は、いつも通りの顔をしている自信がなかった。
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