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 兎の獣人は足が速い。だから、追いかけてくる市場の人間たちに捕まりはしなかった。ユーリが急ぐ足を緩めようとしたところで。
「ユーリさん、降ろしてください! 花屋が、花屋……!」
 悲愴な声で、エトが叫ぶ。自分が頬を腫らしているのに、そんなことを気にしている彼に、何とも言いがたい気持ちを覚えた。
「そんなことはいいんです! どうして君がこんなところに居るんですか!」
「……ぼく、ユーリさんに謝りたくて、それで……」
 ミレに殴られても泣かなかったエトの目から、涙が溢れる。それを拭ってやりたくて、ユーリは路地裏に引き込み、足を止めてエトを立たせた。
 そっと目の下に指で触れると、エトはびっくりした表情をして、ユーリを見詰めてくる。その目に自分のすがたが晒されているのが気まずくて、ユーリは目を逸らした。
「どういうことですか」
「ぼくが……ぼくの所為で、地上での『魔族狩り』がひどくなったんです。ぼくが……母上もぼくの所為で殺された……全部ぼくが」
 目許がまた潤んだのを指先の感覚で知る。彼に泣かれるとなんだか苦しい。
「落ち着いてください。最初から、話を。泣かれても困ります」
「すみません……ええと、何から話したらいいか……」
 エトの話は、あちこち飛んで要領を得なかった。
 だが、おおよそは分かった──まだ子供だったエトを餌に、人間が彼の母親を殺したこと。
 それに激怒した彼の父親、つまり人魚王が怒りのままに人間に通告を出したこと。
 他の種族を見捨てたのだと思っていた人魚王の行動は、実は愛する者を失った悲しみがゆえだったのだ。
(だからといって……)
 人魚王の軽挙を許すことはできない。王として振る舞うべきところを間違えたのは彼だ。
 だが、そのせいで、エトが『自分の所為』と嘆くのは違うと思った。
 しゃくり上げながらぽつぽつと話すエトの頭を撫でてやる。
 懐かしさを感じた。妹にこうしてやったことがあったのを思い出す。
「エト君。君は……君は何一つ、悪くありません。君を利用した奴らが悪いんです。だから、僕に謝ることはありません」
「でも……ぼくが悪かったから、ユーリさんはぼくに復讐したんでしょう? ユーリさん、きっと大切な誰かを……ぼくのせいで、亡くしたんじゃないですか」
 そう言われて、気が付いた。
 ユーリこそ、この少年を復讐のために利用していたことを。
(そうだ……エト君は何も悪くない)
 なのにユーリは、この純粋な少年を傷付けたのだ。自分の勝手な思い込みで。
「ごめん──なさい。エト君」
 ぼろぼろと、悲しい気持ちが落ちる。罪の意識。それが、ユーリの身体中から、流れ出そうだ。
「ユーリさん?」
「僕の方こそ君を利用した。僕は、傷付ける相手を間違えた。僕が……僕こそ、君に謝らなければならないんです。それなのに、君は僕を、助けようと……」
 ユーリは膝から崩れ落ちた。
 あんなにひどいことをしたのに。
 ユーリを嫌うように、憎むように仕向けたのに。
 まだエトは、きれいな目でこちらを見てくれる。
(ああ)
 顔を覆って目を閉じる。
 どうしたらいいのだろう。この少年が、温かくて。
 亡くした家族を思い出した。あの温かい思い出が蘇ってきて、口から溢れる。
「僕は……僕は『魔族狩り』で、両親と妹を亡くしました。家族を殺されて、住んでいた城に火を付けられて……」
「……城?」
 エトが不思議そうな声を上げる。ユーリは久し振りに故郷を思い出しながら言う。
「黙っていてすいません。僕は……兎の獣人の王子だったんです。でも、もう兎の獣人は滅ぼされました。僕と祖父母だけ残して」
「王子様……? 本物の?」
 驚いているエトが少しおかしい。自分だって王子のくせに。
「はい。だからずっと……人間を恨んでいました。そして、人魚王のことを知り、彼をも恨みました」
 エトが息を呑むのが聞こえる。彼に目を遣れない。軽蔑の色が浮かんでいたら、耐えられない気がして。
「その恨みを晴らしたかった。でも僕は何もできなかったから……君を傷付けることで、復讐したつもりになっていた。君はそれでも僕を助けてくれる、優しい子なのに」
 そこまで言って。目を開けなければと思った。
 現実を、受け止めて。ちゃんと目を見て、彼に謝らなければと。
 真っ直ぐに見た彼は、ただ驚いているだけだった。清い心で、ユーリを眺めているだけだった。
「許してください。エト君、僕は君と、ちゃんと友達になりたい」
「…………友達、ですか」
「今度こそ君と向かい合いたい。僕の勝手な言い分です……殴ってくれて構いません」
 エトが目を伏せる。頬を張られる覚悟をして、ユーリはそれでもエトを見詰め続けた。
「……僕は、嘘でも、ユーリさんが花冠をくれて、嬉しかったです。僕はまだ、あなたのことが好きです」
 あの青い瞳を見せたエトは。
 微笑んでいた。
 そうして、ユーリの手を取って、握ってくれた。
「……エト君」
「ユーリさんは、ぼくが最初思ったような優しい王子様じゃなかったけど……でも、ユーリさんが全部打ち明けてくれて、本当のユーリさんを見せてくれて、嬉しかった」
 温かい手だ。
 人魚なのに、と思う。
 これが彼の魔法なら、それはきっと、ユーリの心までも温めている。
「ユーリさん、このまま僕とこの街から逃げませんか」
 見たこともない真剣な顔をして、エトが遠くを見た。港の先、海の方だ。
「……何処へ」
「人魚の王宮へ、ご招待します。獣人ってたしか、獣のすがたにもなれるんでしょう。兎一羽くらいなら、ぼくの魔法で空気の玉を作ることができます。だから、次の当てが見つかるまで、一緒に居てくれませんか」
 ユーリは絶句した。恨まれて、嫌われて、当然のことをしたユーリに、この子は。
「一緒に、居たいんです。そして……ちょっとだけ、ぼくのこと、好きになって欲しい、です」
 いたずらっぽく笑う彼に、完全に敗北した。
 恋ではないと思う。
 だけれど、エトのことが大切なのも確かだ。
 それをそのまま告げるのが何故だかできなかったから。
「ありがとうございます。ご一緒、させてください」
 それだけ言って、エトが嬉しそうに笑うから、手を握り返した。

*

 兎のすがたは久し振りだった。
 人魚に戻ったエトの腕に抱かれて、人魚の王宮へと潜る。
 空気の玉は、拍子抜けするくらい、大気と変わらなかった。普通に息を吸って吐ける。エトは本当に強い魔法使いなのだろう。
 王宮はそう遠くなかった。古代からあるのだろうことが分かる、白い石造りの大きな宮殿で、日の光が差し込んだところがきらきらと輝き、きれいだった。
「エト!」
 王宮から、金髪の美しい人魚が飛び出してくる。それに続いて、数体のやはり金髪の男の人魚が、ふたりを取り囲んだ。
「エネリ姉さん! 兄さんたちも」
「エト、心配したんだから! 人間の集団に一人で挑むなんて、自殺行為よ! 加勢もできないから見てることしかできなかったこっちの気持ちにもなりなさい!」
 悔しげに言う彼女に、エトがしょんぼりとした顔をした。
「ごめんなさい、エネリ姉さん」
「でも、爽快だったわ! お姫様抱っこされたまま逃避行、って夢があるわよね!」
 瞳を煌めかせたエネリに、周囲一同がっくりとする。あの逃走劇をそんな風に表現されては、ユーリも困る。肩に背負うより速く走れるから、腕に抱いただけなのに。
 溜息を吐きかけたところに、エネリがずい、とユーリに顔を寄せた。
「その兎さんが、ユーリさんね」
「そうなんだ。客間、使ってもいいよね?」
 エトがそうして宮殿に入ろうとするのに、エネリが立ち塞がる。
「駄目よ! ユーリさん、あなた、うちのエトにとんでもないこと、よくもしてくれたわね」
『とんでもないこと』の思い当たる節が多すぎた。どれのことだろうか、とユーリは悩んで、とりあえず謝ることにした。
「申し訳ありません。処罰なら受けます」
 そしてユーリはそっと目を閉じたのだが。
「エネリ姉さん! それはぼくが悪くて」
「エトは黙ってなさい。ユーリさん、『キズモノ』にしたエトのこと、ちゃんと責任、取ってくださるのよね?」
「うっ……」
 それを言われると辛い。責任を取るとはどういう意味だろう。不敬罪での死罪か、それとも伴侶になれとでも言うのだろうか。
「何が『うっ』よ! 客間なんて使わせるものですか! 懲罰房行きよ、あなたなんか」
「……エネリ、お前そんなだから結婚できないんだぞ」
「兄さんは黙ってて! さ、行くわよ性犯罪兎」
 不名誉にもほどがある汚名を食らったユーリが、エトの腕から引っ張られそうになったのを、エトが慌てて躱した。
「姉さん! ユーリさんは悪くないってば! 僕が強請ったの!」
 そこからはもうエトとエネリの言い合いだった。彼の兄たちはもう項垂れて介入もしない。
 最終的に、エトがユーリを腕に抱いたまま、王宮の床に伏せて「もうぼくずっとこのままでいるからね!」と意地を張ったので、エネリが根負けした。
 ユーリはエトの部屋に居候することになったのだった。

 街に戻れないユーリは、エトに頼んで自宅に残したままの荷物を取って来てもらった。
 といっても、写真立てと、エトから貰った貝殻とブローチだけだ。他は幾らでも替えが効く。略奪されたら勿体ないとは思うが、長時間エトに引っ越し作業をさせて命の危険に晒すよりずっとましだ。
「すいません、狭いところで」
「……皮肉で言ってます?」
 ユーリの家の倍の広さはある華美な部屋である。そこに、何人もが横たわれそうな平坦な岩が置かれている。聞けば、エトの寝床だという。それがすぐ目に入る大きなテーブルが、ユーリの居場所になった。
「これ、ここに置いておきますね」
 空気に包まれた写真立てと、エトからのプレゼント。目の前にあると、ほっとする。
 セピア色の写真をエトが覗き込むのが、もう嫌ではない。彼の前では写真立てを伏せることはもうないだろう。
「ご両親と妹さんって、この写真の……」
「ええ。僕は母似で、妹は父似でした。……エト君に最初に会ったとき、妹が成長して現れたように見えたんです」
「……だから花冠をくれたんですね」
 少し寂しげにエトが言う。きっと、彼にとっては、特別な思い出だったのだろう。それを別の事実で上書きしてしまったのは、少しきまりが悪い。
 だがエトは、ふんわり笑って、こちらを見た。
「今は妹さん代わりでいいです。いつか、恋人として見て欲しいけど」
「……善処します」

 ふと、祖父母に累が及んでいないか気になった。
 エトに空間魔法を使ってもらい、久し振りの祖父母の家に飛ぶと、祖父母の他に見覚えのあるような男がいた。祖父母の無事に安心すると共に、この男は誰だっただろうかと考えた途端、祖母が上擦った声を出した。
「ユーリ!」
 泣き崩れながら、彼女は兎のユーリを抱き締める。懐かしい祖母の匂いがする。
「ばあちゃん……心配掛けてごめんな」
「いいの。いいのよ。生きていてくれるだけで有り難いわ」
「ユーリ、……本当に獣人だったんだな」
 背後から声を掛けてきた男に咄嗟に警戒する。毛を逆立てたユーリに、祖父が宥めるような声を上げた。
「ユーリ、その方は儂らにお前のことを伝えてくれたんじゃ」
「ああ……覚えてないか。俺は浮花市で四つ隣の店で店員やってるアドベルトって者だ。改めてよろしくな、ユーリ」
 名前に覚えはない。だが、はっきりと聞き覚えがある声だった。
「その声……さっき僕を庇ってくれた方ですね」
 中傷ばかり飛び交う騒動の中、唯一、ユーリを弁護した男がいたのを思い出した。アドベルトという名だったのかと、記憶に刻み込む。ユーリは警戒を解き、非礼を詫びた。
「いいんだ。俺は、この国の差別はおかしいって思ってるんだ。実際、ユーリはなにもしてないだろ。だから別に、庇ったのは気にしなくていい。俺のためだ」
 歯を見せて笑ったアドベルトが、やけに爽やかで、何だか可笑しくなったユーリだった。
 そうして、四人と一羽で卓を囲んで、ユーリの生存に乾杯した。兎のすがたのユーリは、皿に入れられた水を舐めただけだけれど。

*

 アドベルトが祖父母を守ってくれることになったので、ユーリの当面の食事の牧草を祖父母の畑から貰ってきて、人魚の王宮に戻った。時刻はもう十五時を過ぎている。
 エトがユーリを抱いたまま、寝台に倒れ込んだ。岩肌が当たって少し痛かった。
「すいませんユーリさん、ぼく、ちょっと寝ます。今日は魔力を使いすぎたので、疲れ……」
 そこまで言って、エトは眠ってしまった。
 その寝顔が幼くて、どきりとする。
 ──可愛いと思ってしまったのだ。
(馬鹿な。こんな何処にでもいるような顔が可愛いなんて)
 驚いた心が全く静まらないので、ユーリは自棄で目を閉じた。人魚の肌は冷たいのに、どうしてか安心した。

 目覚めたら、もう夜だった。
 白い魔法の灯火が、部屋にともっている。小さな灯りなのに、部屋の全体が明るいのだから不思議だ。
「……ちょっと寝過ぎましたね。人魚は、夜は食事をしたらもう眠るんです。水温が冷たいから。ああ、食事、食べ逃したかも……」
 不安そうなエトと共に寝台を降りたら、部屋の入り口に海藻や剥かれた貝が皿に載って置かれていた。「やったあ」と無邪気に喜ぶエトにほっとする。空腹のエトの視線の中、自分だけ牧草を食べるのは嫌だったからだ。
「ユーリさん、一緒に食べましょう。ぼく、お腹減っちゃった」
「そうですね、僕もです」
 そうして、ふたりで食事をした。
 牧草は生に限ると思っているユーリだが、多少萎れているのは仕方ない。明日からは干し草になっているだろうし。
 エトはまだ疲れが取れていないようで、食べながらうとうとしている。
「エト君、そこは口ではありませんよ」
 貝を刺したフォークが頬をつついているので、ユーリは笑った。
 エトがびっくりした顔をして、正気に戻ったようだ。そして、何度も瞬きをする。
「ユーリさん、そのすがたで笑ってると、すごく可愛いですね」
 思わず、力が抜けた。幾ら兎のすがただからといって、年下に可愛いと言われる謂れはない。
「年下の癖に生意気ですね」
 そう不機嫌な声を出して威嚇すると。
「あ、怒ってる。いっつも笑ってたの、あれ、やっぱり嘘ですね? そっちが素ですね?」
「嘘ではありません。そういう言い方は止めてください」
 まるで詐欺師のような言われ方は面白くない。生きていくのに、仮面の笑みが必要だっただけだ。
 そう反論するのも妙な具合なので、無視しようとしたら、エトが楽しそうに。
「だから、今のが初めて聞いた笑い声だな、って思って」
 虚を突かれた。
 いつの間にか、笑みはごまかしの道具になっていたのに、この少年の前では自然に笑えるようだ。
「人間のすがたでも、ちゃんとした笑顔、見てみたいなあ」
「……君が面白いことをすれば笑いますよ」
 照れくさくて、突き放したことを言ったのに、彼ときたら。
「……人間って『道化師』っていうのが居るみたいですね。勉強した方がいいのかなあ」
 そんな風に真剣に悩んでみせるので、ユーリはまた笑ってしまった。
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