【完結】平凡人魚王子は獣人王子の夢を見るか

麻田夏与/Kayo Asada

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プロローグ

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 嬉しい。とても嬉しい。
 歓喜の中、エトは、もはや自分専用となっていた深海の岩場、言うなれば『人魚の王族用の療養所』を飛び出した。エトが子供の頃から主治医を勤めてくれている人魚がやっと、
「エト様のご病気はもう心配ありません」
 そう言ってくれたからだった。
なおざりに挨拶をしに行き、父や兄姉に引き留められるのも聞かず、上を、海の上を目指した。
 深い青の海から、暗い波間が見える。だがそこは、時々きらきらと光って、エトを誘うのだ。
 療養所を出たなら、ずっと、ずっと行ってみたかったところへ。
 地上の、人間の世界へと。

 エトは、物心ついたときから、暗い深海に居た。主治医曰く、「汚れた水を代謝する器官が弱い」とのことで、浅瀬にある王国の宮殿に住む家族から一人離されていた。居るのは、主治医とお目付役のクラゲのニニミだけ。
 でも、忙しい父に代わって、兄や姉はよく尋ねてきてくれたから、エトはそう寂しくはなかった。特に、長姉のエネリが来たときは、エトは喜んで姉を迎えたものだ。
「父上には内緒よ」
 エネリはそう囁きながらも、地上の世界について教えてくれたからだ。深海、ほとんど光も差さず、他の生き物も久しく見ない場所で暮らすエトにとっては、地上、すなわち人間族の生きる場所は、『何でもある桃源郷』に等しかった。
 そこには人魚の王国の宮殿よりずっと広い『街』が広がっていて、『煙突』や『暖炉』のある温かい家がそこかしこにあるという。深海の水は、清浄な代わりにとても冷たかったから、『温かい』ということに、エトは憧れを抱いていた。
 だからエトは兄姉たちにいつも「人間の物語を教えて」と強請ったのだが、話してくれるのはエネリだけだった。むしろ、他の兄姉は、
「人間は母上を殺した蛮族だ。どうしてお前は人間なんぞに興味を持つ」
 そうして首を傾げるのだった。
 エトは人魚の国の王妃だった母親のすがたを覚えていない。父の人魚王も母も常に忙しくしていて、エトの見舞いに来る暇がなかったのだ。
 そうしている間に母は殺された。
 とても寒い年があって、海も地上も食べ物が採れずに『人魚』『人間』『エルフ』『獣人』などの種族間で、争いが起きたのだという。母はその所為で人間に殺されたのだと。
 ニニミはこの世の地獄とばかり泣いていたけれど、エトは泣かなかった。知らない相手の死に涙を流せるほど、エトは情緒的ではなかった。
 エネリも他の兄姉も、父や母の話をしてくれてはいた。けれど『とても威厳のある方』だとか『立派なお仕事をされている』と言われても、エトにはよく分からない。エトが身体を悪くするたび治療してくれる主治医の方が、余程すごいと思った。
 だから、父母のことはよく分からない。
 それよりも、お伽噺の方がずっと面白かった。
 エトは、こんな暗い深海で孤独でいる。
 だから、王子様がお姫様を迎えに来て、キスで呪いを解いてくれるお話が大好きだった。
 本当にここに王子様が迎えに来て、地上に連れて行ってくれたらと何度も思った。
 そのためだろう。憎しみよりも、憧れと好奇心がエトの心を、心だけを地上に運んだ。
 王子様は迎えに来てくれなかった。
 だがようやく、この目で地上を見ることが叶うのだ。

(今日は確か、『浮花市』の祭の日だ)
 エトのぷっくりとした唇には、笑みが浮かぶ。
『春』という季節が最盛期を迎える頃、花の都・フローリンゲンにあるヒュンゲル水路の名物、『浮花市』では『祭』というにぎやかなものが開かれて、そうして『花火』という夜空を飾る光が降ってくるらしい。
 春も、花も、市も、祭も、花火も。
 どれもエトは知識だけで知っているものだ。
 それらを、どうしても見てみたかった。
(ああ、気持ちいい!)
 魚のしっぽで水を掻き分け、ぐんぐんと海面の方へと上昇するエトは、自力で海を泳ぐのも、ほとんど経験がない。どうしても王宮に戻らなければならないときは、主治医が浅瀬まで連れて行ってくれたから。
(『泳ぐ』だけでこんなに気持ちがいいんだから、地上はきっと、もっとすごそうだ)
 そんな予感に打ち震えそうになりながら、エトは海上へと顔を出した。
 何から驚けばいいのか分からない。
 黒い『空』は夜空という奴だろう。それにぽっかりと浮かぶ白いものはきっと、話に聞いていた『三日月』だ。その光に照らされて、『ボート』や『船』が並んでいる。ここはおそらく『港』だろう。こっそりエネリに持ち出してもらった、王室所蔵の資料に載っていたものだ。
 それに──『温かい』。
 肌が、初めての温もりを孕んだ温度に、歓喜している。
 エトは震えて喜びそうになったが、今日の目的は『浮花市』の『花火』だ。だから、ヒュンゲル水路を探さなければ。エトは、療養所での時間を持て余していたことで、ここの最寄りの国・ハルレヒトの言葉は既に学習し読めるようになっている。
(ヒュンゲル……ヒュンゲル……あ、ここだ)
 広い『川』のようなものが、地上の深くへと続いている。エトは『川』と『水路』の違いを知らないが、とりあえず奥へと進んでみることにした。
(あ、まずい、淡水みたいだ、ここ)
 鱗の下の皮膚がぎゅうぎゅう押して水が染みるから、エトは急いで腰から下に魔法を掛けた。淡水でも泳げるようにしたのだ。
「エトの魔法は俺たちの誰よりも強くて繊細だ」
 兄姉にそう言ってもらえるのが自慢であり、身体が弱く、王族のくせに平凡な容姿をした自分を補う長所だとエトは思っている。
 上流に向けて少し泳いだところで、『舟底』と見られる浮遊物が見えた。
 ただ浮いているだけではない。平らで広く、そしてそれが何処までも向こうに続いているように見える。
(もしかしてこれが)
 浮花市。
 海にはない、『花』と呼ばれる美しいものを売っている場所だと聞く。連綿と並ぶ船の上に、『花屋』だけが肩を連ねているという、ハルレヒト随一の観光市場だ。
 エトはわくわくしながら水上に顔を出した。
 その瞬間目に飛び込んできたものは、光、色彩、そして人間族の姿があふれる世界だった。
 点々と浮かぶ、火を閉じ込めたようなものはきっと『街灯』で、それに照らされている『橋』や『浮き舟』には、色とりどりの『花』が飾られている。
「うわあ……!」
 エトは我も忘れて声を上げた。
 きれいだ。
 こんなきれいなものがあるなんて、地上って素晴らしい。
 だが、つと、声が降ってきた。
「ユーリ、どうした? 水路なんか見て」
「いえ、何だか水路から声がした気がするんです」
 その途端、舟の上の青い花の向こうから、顔を出した青年がいた。
(まずい! 人間に見つかったらどうなるか)
 人魚族と人間族は水と油のように相容れない仲だ。人間は人魚を水産資源を独占する鬱陶しい種族だと思って差別し攻撃してくるし、人魚はそんな人間の横暴を認めない。
 エトは水中に潜ろうとしたが、間に合わなかった。ばちりと、青年のヘーゼル色の瞳と視線がかち合った。
「カイリ?」
 青年が手に持っていた何かを取り落とす。
 逃げろ、と脳がアラートを上げた、途端。
「……おやまあ、人魚が遊びに来るとは」
 目を丸くした青年に、エトは動きを止めた。彼がとても、きれいだったからだ。
 薄茶の髪を肩の辺りで緩く結っている。すうっと通った鼻筋。口許に浮かんだ笑みは柔らかい印象で、驚いてはいるようだが、エトを害しようという気配は感じなかった。白のクルーネックに『エプロン』とかいったはずの装飾品を被り、深海のインディゴにも似たズボンを履いている。二足歩行する生き物を初めて目にした。
 エトは、彼と、彼の周りの青い花の情景の美しさに、見蕩れた。
 他人を安心させるような笑みを浮かべた彼と、話がしてみたい。そう思ったけれど。
「ユーリ、何だった?」
 遠くから別の男の声が聞こえる。『ユーリ』というのがこの青年の名前なのだろうか。
「いえ、僕の聞き間違いだったようです」
 そう言い返した彼に、今度はエトが目を丸くする番だった。
「人魚君、ここは危険ですから、見つからないように早く帰りましょうね。──これ、お土産です。店の余りものですいませんが」
 そうして足許のものを拾った彼が手を伸ばしてきて、頭に何かを載せてくれた。エトがびっくりして頭からそれを取ると。
 花だった。
 エトの鱗と同じ、水色の花でできた、丸いもの。
「これは、花冠といいます。今日は皆がこれをかぶってお祝いする日ですから、おすそ分けです」
 そうして青年は背中を向けた。その背を追いかけたかったけれど、彼に「早く帰りましょう」と言われたから、そうしなければと思った。

 エトは、暗く影のできた場所を選んで海まで出た。魔法を解いて、今戻ってきたばかりの水路を振り返る。
 あの青年の笑顔がまだ見えるようだ。『浮花市』のお店に居た彼は、『花屋』という職業のひとなのかもしれない。
 だが、エトにとっては。
(ユーリ。ユーリさん。このきれいな冠、くれたひと)
 まるで、姉の話に聞いた、物語の王子様のようなひとだった。今まで見た誰よりもかっこよくて、お姫様に麗しく結婚を申し込む、王子様みたいな。
 どきどきして、心臓がひどく熱い。新しい病気になったのかもと、錯覚するくらいに。
 でも、エトは分かっていた。そうではないと。
(ぼく、あの優しいひとにもう一度会いたい)
 この胸に宿る鼓動の意味。
 それはきっと、お伽噺に聞いた『恋心』だろう。
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