運命に至る

麻田夏与/Kayo Asada

文字の大きさ
上 下
17 / 22

8-1.

しおりを挟む
 真夏は過ぎても、まだ金木犀も咲かないほどには暑い。だが、僅かばかり和らいだ日光のためか、平日すらも鎌倉は観光客で賑やかだ。それに昨日から、鶴岡八幡宮の例大祭が開かれている。紬と綾人には、昨日二人で祭りを見に行かせた。至は留守番だ。

(少しでも、ここでの生活を楽しんでくれたら)

 綾人の過去を、紬の真意を聞いてからというもの、至は二人に対して気楽に接することが難しくなった。
 綾人にしあわせになってほしい。
 紬に少しでも償い、気の休まる場所を与えたい。
 それをするには、至はあまりに力ない。
 現に。
 綾人が今朝から体調を崩しているのに、至は、世話をしてやることもできない。至の代わりに、紬が部屋で付きっきりで綾人の面倒を見ている。邪魔だろうからと言い訳をして、至は工房に籠もっているのに。

(綾人。……紬さん)

 紬の真意を聞いてから、彼とは少し気まずくなっている。彼のことが気に掛かり、仕事にすら熱が入らないほど。

(紬さん)

 じくじくと膿んだ傷跡のように、紬のことが常に意識の何処かにある。憎まれてさえいるのに、至はそれを否定する材料を必死に探しているのだ。

(馬鹿だな、俺は)

 溜息を吐いたところで──尋常ではない寒気。
 いや寒気と間違うほどの歓喜と興奮が、全身を占めた。

(まずい)

 紬に気を取られていて、綾人の体調不良がヒートの前兆だと気付かなかった。以前、綾人は抑制剤を飲んでいたのに、いつから彼はやめたのだろう。きっと綾人と紬に組まれて、至は謀られたのだろうが、気付いたところでもう遅い。

(綾人。綾人)

 彼へ向かう、強烈な性欲、征服欲に至は逆らえない。
 足が勝手に綾人の部屋へと走る。途中ですれ違ったのは紬だろうが、もう気に留める余裕がない。

「綾人!」

 彼の部屋の襖を開けると、布団の上で苦しげに藻掻き、着物を乱した綾人が、淫らな顔で荒い息をしていた。

(俺の、番)

 彼こそが、至の運命。
 欲しい。
 この男が欲しい。
 唇を奪い、着物を力任せに剥ぐ。綾人が苦しそうに、だが嬉しそうに笑う。

「いいよ、至なら」

 その笑みが眩しくて可愛くて、夢中で口づけて、甘い唾液に酔う。どんな美酒だって、この味には敵わない。
 そうして腕に抱き込んだ体躯が小さくて、至ははっとする。自分の愛した身体は、これだっただろうかと。

(違う)

 頭の何処かでかすかな声が生まれた。至が本当に欲しいのは、この存在かと問う声が。

(じゃあ誰だと)

 綾人がここに来たときの、尋常ではない引力を。今ここで艶麗な姿に惹かれるのを。感じなかった訳ではないのに。
 胸から背筋を伝って腹に落ちたのは、白銀の髪の後ろ姿だった。

(紬さん)

 手は滑らかな綾人の肌を追っているのに、胸に点った何かは、紬、紬とその振り返らない背中に呼びかけている。

(ああ、俺は)

 憎まれても見向きもされなくても、あのひとが欲しい。

「ごめん」
「え?」
「ごめん、綾人。俺は君を抱けない」

 眼球が落ちるのではないかというほど、目を見開いた綾人から、絶望が伝わってくる。
 今すぐ取り消して嘘だよと言って綾人を安心させてやりたい。
 それなのに。
 綾人にしあわせになってほしいのに──これ以上悲しんで欲しくないのに、心が手を伸ばせと叫んでいるのは、別のひと。

「ごめん。俺は、綾人の番にはなれない」

 綾人は、似合いもしないのに目を伏せた。彼は明るく笑っているのがいい。だのに至は、綾人にそんな表情をさせてしまった。ごめん。ごめんなさい。
 でも。

「そっか。おれほどの良い相手を手放したの、後悔しないでよね」

 唇を睫を震わせながらも笑った綾人に約束する。

「必ず」

 そうして至は、綾人の部屋を飛び出した。
 駆ける。紬の部屋へと。
 許可を得ることすらせず襖を開けると、譲が目の前に立っていて、面食らう。

「譲!? 何でここに」

 感じたことのない黒い炎が、至の腹の底でくすぶる。譲は紬と二人で、いったい何をしていたのかと。

(馬鹿だな俺は、弟にすら嫉妬するのに)

 今まで何故、紬に愛を乞わなかったのだろう。

「紬さんに薬を持って来て……じゃないよ、ヒートの綾人さん放って何してるんだ!」

 譲は紬に、全て聞いているようだ。ベータの譲はこの屋敷に充満するフェロモンを、ほとんど感じないはずだから。

「綾人には、番になれないと言ってきた」

 言葉にするだけで、火傷の痕のようにひりひりする。運命の番である綾人を選ばなかったというのは、そういうことだ。だけれど、至は別の運命を選ぶ。

「何で! しあわせにしてやってくれよ! 綾人さんは兄さんが好きなんだよ! 僕じゃなくて、兄さんが……!」

 あの温和で優しい譲が激昂している。そんなの、見るのは初めてだった。そうしてやっと気が付いた。

(ああ、俺は本当に馬鹿だ)

 譲は、綾人のことが好きなのだろう。そうじゃなければこれほど激怒したり、そもそも綾人を気にして「素敵なひと」なんて言い残したりしない。至はお世辞が言えないが、譲も心にもないことは、口にしないのだ。
 だから。
 弟に、香坂譲という男に、賭けてみたくなった。

「譲……綾人を慰めてやってくれないか」
「……言われなくても!」

 遠ざかっていく鋭い足音。スーツでは走りにくいだろうに、譲は、そんなこときっと気にしていない。
 ──呆けきった表情の紬と二人、残された。紬の気配が充満した部屋、そこに立っているだけで、至は胸が満ちる。

「紬さん」

 かすれた声で至が呼ぶと、紬は険しい顔付きになった。これまで見たことのないような顔で、睨み付けられる。紬もまた、優しいのだ。綾人を思って怒れるくらいに。

「何をしているのです。今からでも綾人さんに謝って」
「嫌です。俺は、あなたと番になりたい」

 真っ直ぐ。紬の薄い色の瞳を見つめて、告げる。紬が息を呑む。

「憎まれているのも、俺のことなんかどうでもいいのも、知っています。でも俺は、あなたが好きです」

 至は紬へ腕を伸ばす。逃げもせず、そのまま抱き締められてくれた、紬の身体が震える。

「俺の番になってください。今じゃなくていい。でもいつか俺を、好きになって欲しい」

 抱き締めた身体が至の腕にひどくしっくりきて、綾人を傷つける前にこの消せない愛情に気づけなかったことを、悔やむ。
 だが、今度こそ、選択を間違えない。

「紬さん」

 紬の肩が震える。押し殺したような嗚咽が聞こえてくる。涙を拭ってやりたくて、身体を離そうとすると。

「見ないで。聞かなかったことに、してください」

 そう嘆くから、愛おしくて可哀想で、抱き込むのをやめられない。

「どうしてです。私はあなたを憎んでいると言ったでしょう。もう私なんか気に掛けないで」
「それが紬さんの本心ですか? あなたは嘘を吐くとき、いつも俺を見ない。本当のことを言ってください」

 紬の『本当』が至への憎悪だったとしても、 至は受け止めてみせる。
 そして、どれだけ年月を掛けたって、紬を振り向かせたい。

「……そんなの、言えません」
「何故です」
「私が我慢すれば、全部上手くいくから」

 紬の涙が至の肩に落ちる。次へ次へと作務衣に染みこんできて、この哀れな存在がどれだけ心を隠して生きてきたのか、思いを馳せる。
もう、こんな涙を流してほしくない。

「そうだとしても。紬さんが耐えることを選んでも。でも俺は、あなたの本音が聞きたい」

 いつか紬を抱いたとき、この心をいつまでも見ていたいと思った。きれいで、憎悪すらもきっと、美しいから。

「俺を、好きになってくれませんか」
「……私は、あなたが、憎い」
「……はい」

 ぎゅ、と紬を、骨の軋みそうなほどに、引き寄せる。どんな言葉だって、紬の本当の心ならば、至には大切なものなのだ。

「でも、憎いのに、好きで」
「……ええ」
「綾人さんとしあわせになって欲しいのに」
「はい」

 嗚咽が止まらない紬の頭を掻き抱く。至の脳裏を、色んな顔が過っていく。綾人の無理矢理笑ってみせた表情。譲の怒気。そして、紬が振り返ってくれるような、幻想。

「……私を離さないで欲しい」
「離しません、もう二度と」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!

みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。 そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。 初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが…… 架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版) 読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭 1/27 1000❤️ありがとうございます😭

運命の息吹

梅川 ノン
BL
ルシアは、国王とオメガの番の間に生まれるが、オメガのため王子とは認められず、密やかに育つ。 美しく育ったルシアは、父王亡きあと国王になった兄王の番になる。 兄王に溺愛されたルシアは、兄王の庇護のもと穏やかに暮らしていたが、運命のアルファと出会う。 ルシアの運命のアルファとは……。 西洋の中世を想定とした、オメガバースですが、かなりの独自視点、想定が入ります。あくまでも私独自の創作オメガバースと思ってください。楽しんでいただければ幸いです。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

合鍵

茉莉花 香乃
BL
高校から好きだった太一に告白されて恋人になった。鍵も渡されたけれど、僕は見てしまった。太一の部屋から出て行く女の人を…… 他サイトにも公開しています

当たり前の幸せ

ヒイロ
BL
結婚4年目で別れを決意する。長い間愛があると思っていた結婚だったが嫌われてるとは気付かずいたから。すれ違いからのハッピーエンド。オメガバース。よくある話。 初投稿なので色々矛盾などご容赦を。 ゆっくり更新します。 すみません名前変えました。

キミと2回目の恋をしよう

なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。 彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。 彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。 「どこかに旅行だったの?」 傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。 彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。 彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが… 彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?

処理中です...