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7-2.
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帰り道、横須賀線に揺られながら自己嫌悪と戦い、鎌倉駅に着いた頃にはもう夕飯時を過ぎていた。もう歩く気力はなく、徒歩は止めてタクシーを拾った。交通費で、至の財布はすっからかんだ。
「ただいま」
「至、お帰り!」
至が玄関の扉を開けた途端、軽い足音が駆けてきて、綾人が飛びついてきた。浴衣姿の彼はもう風呂に入った後なのだろう、石鹸のいい香りがした。安心して、何だか胸がいっぱいになって、いつもは運命の番を安易に抱き返したりしないのに、綾人に腕を回した。
「綾人。江ノ島は楽しかったか?」
「うん! 変なくらげがいたんだ!」
「カツオノエボシです」
珍しく、紬まで出迎えてくれた。二人とも、余程楽しめたのだろう。至もちょっとだけ、気分が良くなる。
綾人が持ち帰った荷物を工房に運んでくれ、紬は風呂の湯を沸かし直してくれた。
「先にお風呂に入っていてください。食事、何か軽いものを用意しますから」
「紬さん、ありがとうございます」
一風呂浴びると、気持ちがさっぱりした。嫌なことも多かった日だが、師匠の言葉を噛みしめ反省し、明日からまた頑張らなければ。そう考え直し、誰にも売れなさそうなあの虫籠は、教訓として目に付きやすい居間の飾り棚に置いた。
紬が作ってくれた胡麻だれ味の鯛茶漬けを食べながら、卓の向かいで紬と綾人が楽しそうに今日のことを話しているのを聞いている至だ。綾人が楽しかったことを挙げ連ね、紬は相槌を打つだけだが、二人がとても嬉しそうだから、至は微笑ましく見守る。
「至さんは、今日はいかがでした」
不意に紬に水を向けられた至は、咄嗟に先ほど飾ったばかりの虫籠に目を向けてしまった。暗い気持ちが押し寄せてくる。
至が顔色を変えたためか、紬と綾人も振り返る。新たに棚に加わった虫籠に二人とも気付いたようだ。
「あの虫籠、売らないの?」
「……そうだな。一点もので作ってみたけど、師匠にも顧客にも、切り捨てられてしまったから」
滅多に愚痴を言わない至がぽろりとこぼしたためか、紬と綾人は顔を見合わせて、それからこちらに気遣わしげな目を向けた。
「面白い形なのにね」
綾人は首を捻って不思議そうにしている。面白い、と言われたかった訳ではないが、興味を持たれないよりましだと至は思う。
「眞下さんは何故駄目だと」
紬の目の色が、いつの間にか、あの芸術を愛おしむときのものに変わっている。だから彼は、あの的確な目線で評価してくれるかもしれないと、至は眞下師匠に言われたことを白状する。
「竹細工は道具だ、と。俺はそれを理解できていない、そうです」
至の顔と虫籠をしばらく見つめた紬は、ぽつりと言った。
「そうかもしれませんね」
返された言葉に、至はむっとした。眞下師匠のような熟練の工芸士でもないのに、初見の紬が師匠に同意したのが、気に障った。
「あなたに何が分かる」
「竹細工のことは分かりませんが、あなたのことなら多少は」
芸術が分かると通ぶられたなら、至は鼻で笑ったのに。紬が全く意外で、心を衝くことを言うから、口籠もってしまった。
「……何が、ですか」
「その虫籠、どう使われるために作ったのです」
「それは……」
至は二の句が継げない。少なくとも、虫を入れたところを想像して作らなかったのは確かだ。
「使うひとのことは考えなかったでしょう。もしかして、デザインの力量を認められたいとか、そういうことばかり考えていたのでは?」
思い当たるところしかなくて、言葉も出ない。紬がいとも簡単に理解できたことを、どうして至は分からなかったのだろう。いつの間に紬は、至の心を見透かすほどに、なっていたのか。
(本当はベータ性のくせに)
悔しくて悔しくて──だが、尊敬するしかなかった。オメガの先天的な適正のためではなく、芸術を研鑽した者だけが獲得する視点で、これまで至を支えてくれたのだ、長谷合紬は。
(何てことだ)
紬から目を逸らせない。ぐちゃぐちゃで、ほどけない、絡まった糸のような気持ちを、そのまま紬に向けている自覚が至にはある。この期に及んで、甘えているのかもしれない、紬に。
「やだよ、二人とも喧嘩しないでよ」
綾人が潤んだ瞳で言う。至は、自分が紬を睨み付けていたことに気付いた。紬に謝らなければならないのは分かっていたのに、言葉が出ない。
「ごめんなさい、綾人さん。怖がらせてしまって」
紬が柔和に綾人に笑いかけた。至にはそんな風に笑ってくれることは少ないのに。その事実が、至の身の置き所がなさに、拍車を掛けた。
「……すまない。少し一人になりたい」
茶漬けを残すことを謝って、食卓を出た。工房に急ぎ、自作のデザイン画を全部引っ張り出してくる。
どれも。これも。
紬の言ったとおり、使ってもらうことを想像しながら描いたものはなかった。
(ああ)
情けない。
こんな、独りよがりで躓いていたなんて。
眞下師匠の虫籠に夢中になったのは、きれいだったから。それもあるが、捕まえた虫がちゃんと見えて、それでいて虫が寛いで生活できるものになっていたからだ。
至は式台に座り、土間に足を下ろす。
腕に抱いたスケッチブックを一枚ずつ見直しながら、至は自分の考えのどこが誤っていたか、書き込んでいく。見れば見るほど、思い上がり自己陶酔したデザインだ。羞恥に暮れて破り捨ててしまいたいが、だが、ここを超えなければ至は先に進めない。
無我夢中で、改善点を書き付けていたら、喉が貼り付くような感触があった。根を詰めすぎて、喉が渇いている。そこに。
「至、おむすび握ってきた。食べられる? 冷茶のボトルも持ってきたよ」
至の身をを案じたような、綾人の声がした。ほっとする。
「ああ。ありがとう」
襖を開けて、至は綾人を迎え入れる。まだ心配しているのだろう彼の焦げ茶の目は、至の一挙一動をじっと見ている。
綾人のおむすびは、不慣れなのが分かるかちかちのもので、至は気持ちがほころんでいくのを感じる。至も綾人も一生懸命同士なのだ。綾人にそんな風にしてもらえる価値のある人間だと、至は自分で思えなかったが。
「ありがとう。美味かった」
そうして盆を差し返すと、綾人が大きな目を見開いて、まるで芍薬でも咲いたかのように笑った。
「良かった。ねえ、おれも一緒にいていい? 至、怒ってたから、慰めたいんだ」
「綾人は優しいな」
つい素直に言葉が出た至だ。こんな自分を慕ってくれて、気を遣ってくれる。こんな友人のひとりでもいたら良かったと、そう考えてしまう。それなら番にすればいいのに、至はそれができないのだけれど。
二人並んで、襖の前で胡座をかく。綾人の浴衣の裾から出た足がなまめかしくて、至は彼の反対を向いた。
「俺が悪いんだ、紬さんの言うとおりだった」
「そうなの? でも、至にとって大事なことだったから、沢山考えてたんだよね」
「……そうだ。でも、それよりもっと大事なことがあるのに、俺は気が付けなかった」
少しだけ、喋りたい。慰めが、本当に欲しかったのかも知れない。
何から話すべきか至が迷っていると、綾人がくすりと笑うのが聞こえた。
「至は竹細工が大好きなんだね」
その通りだ。
ときにそれは苦しくもあるが、苦しい分だけ余計に、至は竹細工が好きだ。
「ああ。……俺だけじゃなく、譲もきっとそうだよ。死んだ母さんとの、思い出だから」
「譲?」
「弟だ。眼鏡の」
「ああ!」
ようやくピンときたというようにするから、譲がちょっと可哀想だ。譲が綾人を連れてきたのに。苦笑しながら至がそれを指摘したら。
「だって、あのときは至のことしか考えてなかったから。あ、今もだけどね」
そうして、べた惚れだというのを満面の笑みで伝えてくるから、赤面してしまった至だ。
「……綾人みたいな良い奴は、俺には勿体ない」
「何それ? 遠回しにフラれてる? おれ」
ふくれっ面をする綾人の頭を撫でてやり、くく、と至は喉で笑う。綾人はますます不機嫌そうになる。
「あーあ。おれも、竹細工みたいに至に好かれたいな」
頭の上に腕を回して口を尖らせた綾人に、苦笑した至は、思い切って全て話すことにした。
「竹細工は、俺の光なんだ」
だが、その反面、いつも至の側には闇が落ちていた、と。
父に、子供として大事にしてもらえず苦しかった。
父の横暴の所為で死んだ母を知っているから、運命も血のつながりも信じられなくなった。
母との清らかな思い出のある竹細工だけが、至を夢中にさせ、側に居てくれ、救ってくれたこと。
綾人は彼らしくもなく黙っていて、だがじっと、頷きながら聞いてくれた。話終わった至の頭を綾人はぽんぽんと撫でてくれて、思わず目許が熱くなる。
「ずっと耐えてたんだね、至は。もう大丈夫だよ、おれは側に居るから」
「……綾人」
喉が詰まって、言葉が出てこない。
運命の番なんて、碌なものではないと。それどころか、命を落とさせるほどの、邪魔で悲惨な鎖だと思っていた。あの紬に嘘を吐かせ至を裏切らせる、悪意そのものであるような気さえした。
だけれど、今。
それが綾人をここに導いてくれたなら、そう悪くもないものかと、至は思わず笑う。
「……どうして綾人は、ここに来てくれたんだ」
「ん? 運命だよ」
「そうじゃなくて。どうして今頃になってから『登録所』に」
それはずっと、気になっていたことだ。綾人が産まれたときに登録されていたなら、今、至は違う道を歩いているかもしれないし、紬はあんな、人体改造めいたことなど、受けなかったはずなのだ。
綾人が悪いのではない。だが、至が長く綾人と巡り会わなかったことで、狂った歯車はきっと、幾つもあった。
綾人は困った顔で「楽しい話じゃないよ」と言う。
「構わない。君のことが知りたい」
「……至がそう言うなら」
目を伏せた綾人の語った過去は、悲惨そのものだった。
オメガ差別が強く残る集落に生まれ、性別検査の結果を聞いた両親に、その場で捨てられたのだそうだ。
「まだそんな場所、あるのか」
「あるよ。都会じゃ違うのかもしれないけど、おれの産まれた場所はそうだった」
集落の長に引き取られるが、そこにいないもの扱いされたらしい。『登録所』の事務処理なんて当然されていなかった。
「集落にオメガが産まれたことを恥だと思ってるひとしか、いなかったからさ。『登録所』なんて、話すら聞いたこともなかった」
綾人に物心がつく頃にはもう、周囲からの暴力や暴言を受けていたのだそうだ。オメガとは蔑まれるべき存在、男を堕落させる悪魔だと吹き込まれた。綾人はいったい何のことか理解できなかったけれど、自分は生まれてきてはいけなかったのだとずっと思っていた、と寂しそうに告げる。
「でもさ、もうおれ、生まれちゃったから。せめて誰にも迷惑かけないようにって、いつも縮こまってたんだけど」
本当の地獄はヒートが来てからだった。いつも薄暗い、座敷牢のような場所に監禁されたのだという。
「多分、集落の男のひとは全員、俺を犯しに来た。まあ、そんなにたくさんはいないけど、でも、ああいう──回されるっていうの? 怖くて、怖くて。でもおれオメガだからさ、身体は気持ち好いんだ。そしたら『いんばい』って笑われる。意味は知らないけど」
至はもう、かけてやる言葉も思い付かない。笑いながら話す綾人の代わりに怒るのも、同情するのも、きっと違う。綾人はそんなことでは慰められないだろうし、そもそも「慰めて」だなんて、彼は言っていないのだ。
「忌まわしいオメガの子供なんていらないからって、避妊はしてくれてたのだけが救い。俺がヒートで苦しいのを面白がって、ひどい言葉ばっかりぶつけてくるんだ。悔しくて泣いてると、もっとひどくされた」
そんな毎日に絶望していた綾人に契機が訪れたのは、他の集落の『えらいひと』がやって来たときだという。
「一夜のお相手をしなさい」
集落の長に言われ、檻の外に目を向けると、見たことのない、恰幅の良い男が立っていて、綾人を見下ろしていたのだそうだ。
「『登録』さえされていないオメガか。哀れだな」
下卑た笑みを浮かべた男の言った『登録』。それが妙に綾人の耳に残ったらしい。
「お前に運命の王子様は来ない。だが儂なら、お前を囲ってここから出してやれる。どうだ?」
何を言われているかほとんど分からない。だが、出られるのだと思うとその男が神様のように思えたという。
「何でもいいからここから出して!」
その日のうちに別の集落に移され、屋敷の一部屋を与えられた。しばらく男の性欲の相手をしていたが、たまたま聞いた女中の噂が、綾人の心を動かすことになったのだそうだ。
「親に捨てられ『登録所』も知らない、哀れなオメガ」
『登録所』が何かは分からない。だがそこに行けばオメガはよくしてもらえるのではという、予感が胸に渦巻いたらしい。
(よく気付いたな)
だが、綾人がそれまでされてきたことを考えれば、至にも納得がいった。ひとの顔色を伺わなければ生きてこられなかったのだ、椿綾人は。だから、他人の言葉の裏を読むようになったのだろう。
「……おれ、夜に屋敷をこっそり抜け出してさ。窓から出たから、裸足で。隣町に行けば、何とかなる気がしてた。おれのことを誰も知らないからさ」
オメガが逃げたと分かれば、殺されると思っていたという。だから、すれ違う車やごく稀に遭うひとにも、オメガだと知られないように、苦心した綾人だ。
「朝には、隣町に着いて。バス停の行き先に『登録所』があったから、ほっとしたよ。おれ、無賃乗車したの初めてだった。パスの運転手さんに怒鳴られたけど、目の前の建物に駆け込んだら」
萎えた足で走った所為で転んだ綾人に、職員が手を差し伸べてくれたのだそうだ。
「助かった、って思った。おれは初めて、ひととして扱ってもらえたんだ」
思い切って、綾人が「オメガです」と名乗り出ると、職員にすら驚かれたようだが、それでも綾人を匿ってくれたのだという。
「遺伝子登録っていうやつ? してもらって。『解析結果が出るまで』って言われたけど、広くてベッドまである部屋で、過ごして良いって言われた。あそこだとさ、誰もおれを蔑まないし、笑いかけてくれるし、生きてていいんだって思った」
そうして運命の番が見つかったとき、そこから新しい人生が始まったと、綾人はきれいに笑う。
「おれにとって至は王子様なんだよ。至の運命だったから、おれは人間扱いをしてもらえた。だからおれ、至と一緒に生きていきたいんだ」
そう言いながら、至の肩に頭を載せた綾人の体温が、至を切ない気持ちにさせる。
綾人にふれるといつも、至は翻弄される。運命の番だからだ。だが今は、きっと少し違う。
悲惨な人生を送ってきたのに、そんな素振りすら見せずただ至を慕ってくれる、その健気さが、愛おしい。
(綾人を、しあわせにしてやりたい)
凄絶な過去すら帳消しになるくらいに。
(だけど)
父の命令通りに綾人と番い、彼と子を成すのが、綾人のしあわせなのだろうか。
「綾人、今、しあわせか?」
「うん! 至がいるし、つむつむとも友達になれた! めちゃくちゃしあわせだよ!」
「……そうか」
だけれど、当の至は。
綾人の人生を左右していいほどの人間だと、自分で思えなかった。
「ただいま」
「至、お帰り!」
至が玄関の扉を開けた途端、軽い足音が駆けてきて、綾人が飛びついてきた。浴衣姿の彼はもう風呂に入った後なのだろう、石鹸のいい香りがした。安心して、何だか胸がいっぱいになって、いつもは運命の番を安易に抱き返したりしないのに、綾人に腕を回した。
「綾人。江ノ島は楽しかったか?」
「うん! 変なくらげがいたんだ!」
「カツオノエボシです」
珍しく、紬まで出迎えてくれた。二人とも、余程楽しめたのだろう。至もちょっとだけ、気分が良くなる。
綾人が持ち帰った荷物を工房に運んでくれ、紬は風呂の湯を沸かし直してくれた。
「先にお風呂に入っていてください。食事、何か軽いものを用意しますから」
「紬さん、ありがとうございます」
一風呂浴びると、気持ちがさっぱりした。嫌なことも多かった日だが、師匠の言葉を噛みしめ反省し、明日からまた頑張らなければ。そう考え直し、誰にも売れなさそうなあの虫籠は、教訓として目に付きやすい居間の飾り棚に置いた。
紬が作ってくれた胡麻だれ味の鯛茶漬けを食べながら、卓の向かいで紬と綾人が楽しそうに今日のことを話しているのを聞いている至だ。綾人が楽しかったことを挙げ連ね、紬は相槌を打つだけだが、二人がとても嬉しそうだから、至は微笑ましく見守る。
「至さんは、今日はいかがでした」
不意に紬に水を向けられた至は、咄嗟に先ほど飾ったばかりの虫籠に目を向けてしまった。暗い気持ちが押し寄せてくる。
至が顔色を変えたためか、紬と綾人も振り返る。新たに棚に加わった虫籠に二人とも気付いたようだ。
「あの虫籠、売らないの?」
「……そうだな。一点もので作ってみたけど、師匠にも顧客にも、切り捨てられてしまったから」
滅多に愚痴を言わない至がぽろりとこぼしたためか、紬と綾人は顔を見合わせて、それからこちらに気遣わしげな目を向けた。
「面白い形なのにね」
綾人は首を捻って不思議そうにしている。面白い、と言われたかった訳ではないが、興味を持たれないよりましだと至は思う。
「眞下さんは何故駄目だと」
紬の目の色が、いつの間にか、あの芸術を愛おしむときのものに変わっている。だから彼は、あの的確な目線で評価してくれるかもしれないと、至は眞下師匠に言われたことを白状する。
「竹細工は道具だ、と。俺はそれを理解できていない、そうです」
至の顔と虫籠をしばらく見つめた紬は、ぽつりと言った。
「そうかもしれませんね」
返された言葉に、至はむっとした。眞下師匠のような熟練の工芸士でもないのに、初見の紬が師匠に同意したのが、気に障った。
「あなたに何が分かる」
「竹細工のことは分かりませんが、あなたのことなら多少は」
芸術が分かると通ぶられたなら、至は鼻で笑ったのに。紬が全く意外で、心を衝くことを言うから、口籠もってしまった。
「……何が、ですか」
「その虫籠、どう使われるために作ったのです」
「それは……」
至は二の句が継げない。少なくとも、虫を入れたところを想像して作らなかったのは確かだ。
「使うひとのことは考えなかったでしょう。もしかして、デザインの力量を認められたいとか、そういうことばかり考えていたのでは?」
思い当たるところしかなくて、言葉も出ない。紬がいとも簡単に理解できたことを、どうして至は分からなかったのだろう。いつの間に紬は、至の心を見透かすほどに、なっていたのか。
(本当はベータ性のくせに)
悔しくて悔しくて──だが、尊敬するしかなかった。オメガの先天的な適正のためではなく、芸術を研鑽した者だけが獲得する視点で、これまで至を支えてくれたのだ、長谷合紬は。
(何てことだ)
紬から目を逸らせない。ぐちゃぐちゃで、ほどけない、絡まった糸のような気持ちを、そのまま紬に向けている自覚が至にはある。この期に及んで、甘えているのかもしれない、紬に。
「やだよ、二人とも喧嘩しないでよ」
綾人が潤んだ瞳で言う。至は、自分が紬を睨み付けていたことに気付いた。紬に謝らなければならないのは分かっていたのに、言葉が出ない。
「ごめんなさい、綾人さん。怖がらせてしまって」
紬が柔和に綾人に笑いかけた。至にはそんな風に笑ってくれることは少ないのに。その事実が、至の身の置き所がなさに、拍車を掛けた。
「……すまない。少し一人になりたい」
茶漬けを残すことを謝って、食卓を出た。工房に急ぎ、自作のデザイン画を全部引っ張り出してくる。
どれも。これも。
紬の言ったとおり、使ってもらうことを想像しながら描いたものはなかった。
(ああ)
情けない。
こんな、独りよがりで躓いていたなんて。
眞下師匠の虫籠に夢中になったのは、きれいだったから。それもあるが、捕まえた虫がちゃんと見えて、それでいて虫が寛いで生活できるものになっていたからだ。
至は式台に座り、土間に足を下ろす。
腕に抱いたスケッチブックを一枚ずつ見直しながら、至は自分の考えのどこが誤っていたか、書き込んでいく。見れば見るほど、思い上がり自己陶酔したデザインだ。羞恥に暮れて破り捨ててしまいたいが、だが、ここを超えなければ至は先に進めない。
無我夢中で、改善点を書き付けていたら、喉が貼り付くような感触があった。根を詰めすぎて、喉が渇いている。そこに。
「至、おむすび握ってきた。食べられる? 冷茶のボトルも持ってきたよ」
至の身をを案じたような、綾人の声がした。ほっとする。
「ああ。ありがとう」
襖を開けて、至は綾人を迎え入れる。まだ心配しているのだろう彼の焦げ茶の目は、至の一挙一動をじっと見ている。
綾人のおむすびは、不慣れなのが分かるかちかちのもので、至は気持ちがほころんでいくのを感じる。至も綾人も一生懸命同士なのだ。綾人にそんな風にしてもらえる価値のある人間だと、至は自分で思えなかったが。
「ありがとう。美味かった」
そうして盆を差し返すと、綾人が大きな目を見開いて、まるで芍薬でも咲いたかのように笑った。
「良かった。ねえ、おれも一緒にいていい? 至、怒ってたから、慰めたいんだ」
「綾人は優しいな」
つい素直に言葉が出た至だ。こんな自分を慕ってくれて、気を遣ってくれる。こんな友人のひとりでもいたら良かったと、そう考えてしまう。それなら番にすればいいのに、至はそれができないのだけれど。
二人並んで、襖の前で胡座をかく。綾人の浴衣の裾から出た足がなまめかしくて、至は彼の反対を向いた。
「俺が悪いんだ、紬さんの言うとおりだった」
「そうなの? でも、至にとって大事なことだったから、沢山考えてたんだよね」
「……そうだ。でも、それよりもっと大事なことがあるのに、俺は気が付けなかった」
少しだけ、喋りたい。慰めが、本当に欲しかったのかも知れない。
何から話すべきか至が迷っていると、綾人がくすりと笑うのが聞こえた。
「至は竹細工が大好きなんだね」
その通りだ。
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「ああ。……俺だけじゃなく、譲もきっとそうだよ。死んだ母さんとの、思い出だから」
「譲?」
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「だって、あのときは至のことしか考えてなかったから。あ、今もだけどね」
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「何それ? 遠回しにフラれてる? おれ」
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喉が詰まって、言葉が出てこない。
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「……至がそう言うなら」
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至はもう、かけてやる言葉も思い付かない。笑いながら話す綾人の代わりに怒るのも、同情するのも、きっと違う。綾人はそんなことでは慰められないだろうし、そもそも「慰めて」だなんて、彼は言っていないのだ。
「忌まわしいオメガの子供なんていらないからって、避妊はしてくれてたのだけが救い。俺がヒートで苦しいのを面白がって、ひどい言葉ばっかりぶつけてくるんだ。悔しくて泣いてると、もっとひどくされた」
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「朝には、隣町に着いて。バス停の行き先に『登録所』があったから、ほっとしたよ。おれ、無賃乗車したの初めてだった。パスの運転手さんに怒鳴られたけど、目の前の建物に駆け込んだら」
萎えた足で走った所為で転んだ綾人に、職員が手を差し伸べてくれたのだそうだ。
「助かった、って思った。おれは初めて、ひととして扱ってもらえたんだ」
思い切って、綾人が「オメガです」と名乗り出ると、職員にすら驚かれたようだが、それでも綾人を匿ってくれたのだという。
「遺伝子登録っていうやつ? してもらって。『解析結果が出るまで』って言われたけど、広くてベッドまである部屋で、過ごして良いって言われた。あそこだとさ、誰もおれを蔑まないし、笑いかけてくれるし、生きてていいんだって思った」
そうして運命の番が見つかったとき、そこから新しい人生が始まったと、綾人はきれいに笑う。
「おれにとって至は王子様なんだよ。至の運命だったから、おれは人間扱いをしてもらえた。だからおれ、至と一緒に生きていきたいんだ」
そう言いながら、至の肩に頭を載せた綾人の体温が、至を切ない気持ちにさせる。
綾人にふれるといつも、至は翻弄される。運命の番だからだ。だが今は、きっと少し違う。
悲惨な人生を送ってきたのに、そんな素振りすら見せずただ至を慕ってくれる、その健気さが、愛おしい。
(綾人を、しあわせにしてやりたい)
凄絶な過去すら帳消しになるくらいに。
(だけど)
父の命令通りに綾人と番い、彼と子を成すのが、綾人のしあわせなのだろうか。
「綾人、今、しあわせか?」
「うん! 至がいるし、つむつむとも友達になれた! めちゃくちゃしあわせだよ!」
「……そうか」
だけれど、当の至は。
綾人の人生を左右していいほどの人間だと、自分で思えなかった。
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