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焦げ付くような夏。紬と綾人にたまには江ノ島あたりまで遊びに行ったらどうかと話をして、至は単身、東京の高級ホテルの一室にいる。父の紹介があった新しい客が、ホテルを転々とする暮らしをしている奇矯なひとで、品のいい一室で作品を見せた至だ。
だが、いつものように、父の機嫌を取りたい相手で、しかもそれを隠そうとしない人物だった。至はすっかり気疲れして、新宿駅の反対側、山手線ホームに向かうのさえ億劫だ。
(これなら、二人と一緒に海に行きたかった)
いつも仕事詰めの至は、鎌倉に住み始めてもう長いのに、相模湾を見たことがないのだ。だから、至に付き合って屋敷にばかりいる二人に、遊んでくるように勧めたのだが。
(でも、今日はまだましだ)
眞下師匠が東京に来ていて、会ってくれる約束をしているからだ。昔、至の目の前で技を披露してくれたように、良家の息女の前で菓子入れを作るらしい眞下師匠とは、目白のホテルで合流する約束だ。甘党の師匠が「アフタヌーンティーというものをしてみたい」と言ったので、至が席を予約している。
彼と雑談をするつもりはない。この日のために至が作った竹細工を見てもらうのだ。
以前は、紬にさえ気恥ずかしくてデッサンも見せられなかったが、思い切って作品にしてみた至だ。一番自信があるもの──悩みに悩んで作った虫籠を、一つだけ。今は一つ認められるだけでも、十分だ。
「やあ至。東京のホテルは美しいね。創作意欲が湧く」
「師匠、ご足労ありがとうございます」
眞下師匠は先に席に着いていたので、待たせてしまったことを詫びる。師匠は「紅茶を楽しめたからいい」と笑った。
「緑茶は素晴らしいが、紅茶もなかなかやるものだ。幸江の土産にしてやろうと思ってね」
「お口に合って何よりです。奥様はお変わりありませんか」
そう尋ねたのだが、眞下師匠は答えず、至のほうへすっと手のひらを差し出した。「手は職人の命だ」と、師匠は手先のケアを欠かさないから、年齢よりずっと若く見える肌だ。
「そんなにそわそわされたら、菓子の味も楽しめない。さっさと作品を出しなさい」
至の意図などすっかりお見通しだったようだ。持参した紙袋から、入魂し作り上げた虫籠を入れた箱を出し、そっと、作品を眞下の前に置いた。
途端。
「これは駄目だね」
一刀両断。
まさにそういった具合に、眞下師匠は切り捨てた。
「前にも言ったが、伝統工芸だからって、甘えてはいけない。竹細工は人が使うもの──道具だ。お前はまだそれを理解していないね」
軽やかにそう告げて、紅茶を啜った眞下師匠のティーカップが空になったのに、至は動けない。
至だって、師匠に諸手を挙げて認めてもらえると思っていた訳ではない。だがこんな、一瞥しただけで「駄目」と判じられるほど、悪いものだとも思っていなかった。
「至。お前も紅茶や菓子を楽しみなさい。少し、その血気盛んなところを、落ち着ける日もあった方が良い」
眞下師匠はそう言って、自ら手を挙げフロア係を呼んでくれたが、至は自分の不束を詫びることさえ思い付かなかった。
日の傾く前に、師匠とは別れた。眞下師匠はホテルからタクシーに乗ってもらったが、至は駅まで徒歩だ。
至は歩きたかった。そして何より、雑多なことを考えて、自分のふがいなさを忘れたかった。
(アフタヌーンティーがトラウマになりそうだ)
少なくとも、眞下師匠とご一緒させてもらうことはもうないだろうと、至は嘆息する。
少しは養われてきた自信を、完膚なきまでに打ち砕かれた。眞下師匠から見れば、至など未熟も未熟なのは分かっていたつもりだったのに。
目白駅がやけに遠い。暑くて、正装の絽ですら生地が鬱陶しい。また嘆息する。
そこで、スマートフォンが震えた。紬か綾人からのメッセージだろうかと思ったが、父から昔紹介された客からの電話だった。
「香坂さん、今度お時間はありますか。またあなたの作品を見させていただきたい」
通話先の声は弾んでいて、至の作品を認めてくれているのが分かる。
「目に掛けていただきありがとうございます」
僅かに気持ちが上向く。ちらりと今都内で品を持っていることを告げると「それならすぐにいらっしゃい」と招かれた。
最近は、多少のリピーターができたので、売れた分は貯蓄している。本来ならば父に借りた金を返すのに充てるべきかもしれないが、父が気にする金額でもない、それなら少しでも手元に資金が欲しい。
山手線を有楽町で降り、日比谷の客先。馴染みになりつつある客は、至を快く迎えてくれた。高級マンションのワンフロア、その客間で手元の品を全部見せた。それに。
(このひとなら、もしかして)
眞下師匠の眼鏡には全く適わなかった、あの虫籠。この客なら、手に取ってくれるかもしれないと、他の作品と混ぜて、紹介してみた。
しかし。
他の品は食いついてくれたが、至の力作は、素通りされた。虫籠の需要がなかったか、至の力不足かは、分からないけれど。
だが、いつものように、父の機嫌を取りたい相手で、しかもそれを隠そうとしない人物だった。至はすっかり気疲れして、新宿駅の反対側、山手線ホームに向かうのさえ億劫だ。
(これなら、二人と一緒に海に行きたかった)
いつも仕事詰めの至は、鎌倉に住み始めてもう長いのに、相模湾を見たことがないのだ。だから、至に付き合って屋敷にばかりいる二人に、遊んでくるように勧めたのだが。
(でも、今日はまだましだ)
眞下師匠が東京に来ていて、会ってくれる約束をしているからだ。昔、至の目の前で技を披露してくれたように、良家の息女の前で菓子入れを作るらしい眞下師匠とは、目白のホテルで合流する約束だ。甘党の師匠が「アフタヌーンティーというものをしてみたい」と言ったので、至が席を予約している。
彼と雑談をするつもりはない。この日のために至が作った竹細工を見てもらうのだ。
以前は、紬にさえ気恥ずかしくてデッサンも見せられなかったが、思い切って作品にしてみた至だ。一番自信があるもの──悩みに悩んで作った虫籠を、一つだけ。今は一つ認められるだけでも、十分だ。
「やあ至。東京のホテルは美しいね。創作意欲が湧く」
「師匠、ご足労ありがとうございます」
眞下師匠は先に席に着いていたので、待たせてしまったことを詫びる。師匠は「紅茶を楽しめたからいい」と笑った。
「緑茶は素晴らしいが、紅茶もなかなかやるものだ。幸江の土産にしてやろうと思ってね」
「お口に合って何よりです。奥様はお変わりありませんか」
そう尋ねたのだが、眞下師匠は答えず、至のほうへすっと手のひらを差し出した。「手は職人の命だ」と、師匠は手先のケアを欠かさないから、年齢よりずっと若く見える肌だ。
「そんなにそわそわされたら、菓子の味も楽しめない。さっさと作品を出しなさい」
至の意図などすっかりお見通しだったようだ。持参した紙袋から、入魂し作り上げた虫籠を入れた箱を出し、そっと、作品を眞下の前に置いた。
途端。
「これは駄目だね」
一刀両断。
まさにそういった具合に、眞下師匠は切り捨てた。
「前にも言ったが、伝統工芸だからって、甘えてはいけない。竹細工は人が使うもの──道具だ。お前はまだそれを理解していないね」
軽やかにそう告げて、紅茶を啜った眞下師匠のティーカップが空になったのに、至は動けない。
至だって、師匠に諸手を挙げて認めてもらえると思っていた訳ではない。だがこんな、一瞥しただけで「駄目」と判じられるほど、悪いものだとも思っていなかった。
「至。お前も紅茶や菓子を楽しみなさい。少し、その血気盛んなところを、落ち着ける日もあった方が良い」
眞下師匠はそう言って、自ら手を挙げフロア係を呼んでくれたが、至は自分の不束を詫びることさえ思い付かなかった。
日の傾く前に、師匠とは別れた。眞下師匠はホテルからタクシーに乗ってもらったが、至は駅まで徒歩だ。
至は歩きたかった。そして何より、雑多なことを考えて、自分のふがいなさを忘れたかった。
(アフタヌーンティーがトラウマになりそうだ)
少なくとも、眞下師匠とご一緒させてもらうことはもうないだろうと、至は嘆息する。
少しは養われてきた自信を、完膚なきまでに打ち砕かれた。眞下師匠から見れば、至など未熟も未熟なのは分かっていたつもりだったのに。
目白駅がやけに遠い。暑くて、正装の絽ですら生地が鬱陶しい。また嘆息する。
そこで、スマートフォンが震えた。紬か綾人からのメッセージだろうかと思ったが、父から昔紹介された客からの電話だった。
「香坂さん、今度お時間はありますか。またあなたの作品を見させていただきたい」
通話先の声は弾んでいて、至の作品を認めてくれているのが分かる。
「目に掛けていただきありがとうございます」
僅かに気持ちが上向く。ちらりと今都内で品を持っていることを告げると「それならすぐにいらっしゃい」と招かれた。
最近は、多少のリピーターができたので、売れた分は貯蓄している。本来ならば父に借りた金を返すのに充てるべきかもしれないが、父が気にする金額でもない、それなら少しでも手元に資金が欲しい。
山手線を有楽町で降り、日比谷の客先。馴染みになりつつある客は、至を快く迎えてくれた。高級マンションのワンフロア、その客間で手元の品を全部見せた。それに。
(このひとなら、もしかして)
眞下師匠の眼鏡には全く適わなかった、あの虫籠。この客なら、手に取ってくれるかもしれないと、他の作品と混ぜて、紹介してみた。
しかし。
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