【完結】残さず食べろ

麻田夏与/Kayo Asada

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4.天国より愛を込めて

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 マデュという人間族の男の奇妙な魂に最初に気が付いたのは、弟だった。
 草原の大地、街々で金持ちを襲う義賊の頭領をしている若い男の話を、弟はしたのだ。
「兄上。あの魂、表面だけが黒い」
 キリエが何を言っているのか、はじめよく分からなかった。『悪』は『こころ』の奥から湧き出ずるものだ。心のうちにある醜い情念が、『悪』として噴出するのだ。
 だから魂は、中心から次第に黒くなっていく。
 キリエの見間違いではないかと、しげしげと天界から見下ろすと、草と草の間に確かにそのような魂があった。
 外側は、今まで見たどんな魂よりも黒いのに、その中心ときたら白銀に光り輝き、天使の魂などより余程美しい。
 異形、だった。
「何だろうね、あれ。面白いよね、兄上」
「そうだな。名は……マデュ・カリナン、か」
 そう楽しげに、弟はその魂をずっと見ていた。
 ユイエは、正直あまり興味がなかった。突然変異の魂は、居ないことはない。だから、マデュという男の魂も、その類いだろうと思ったし、特異なものを鑑賞するということ自体、あまり趣味の良いことではないと思っていた。
 だが、予想だにしない事が起きた。
 キリエが注目した人間族の魂があるという噂が、天使の間で瞬く間に広まったのだ。
「あ、あれがマデュ・カリナン。確かに珍しい」
「『神』様のお眼鏡に適った人間だそうだ」
 皆がその魂に注目した。
 天界中の者が口々に「美しい」「なんと珍奇な」とマデュを褒めそやした。
 それが『キリエ』の不興を買った。
 自分より珍しいもの、注目されるものを、キリエは許せなかったようだ。
 弟は生まれたときから、そういう子供のようなところがある。良くない癖だが、人目につくの快感とし、王として振る舞えるのは、ある種才能だとユイエは思っている。
 他人に興味を持たず、淡々と天国の美しい青の空を眺めて過ごすだけの自分には、そんな真似はできないから。もしユイエが『神』になっていたら、天国領はたちまち失われて、この世は全て地獄領になっていただろう自信がある。
 だから。
「兄上、あの魂を地獄に堕としてきてくれないか」
 可愛い弟の頼みを、聞くことにした。それに、あの魂の表層に溜まった『悪』の量は尋常ではない。地獄行きは免れないだろうから、それが早まったところで結果は変わらないだろう。
 仕方のない弟だと思いながら、ユイエは地上の人間界に降りたった。
 草原の地、満月の夜。
 仲間と宴をしていたマデュ・カリナンが、夜が更けて自分のテントに向かったところを見計らって、彼の前に立った。
 ユイエのすることはたった一言告げるだけだ。「地獄第七層さいかそうへ、帰去来兮かえんなんいざ」、そう言えばいい。
 だが、男の目を見た途端、ユイエの唇は動かなくなった。
 そのつぶらな瞳は、澄んだ紫。夜闇の紺も混じっている。そして、満月をそのまま宿していた。
 それがあまりに可憐で、美しかった。
 長い髪が風に揺れる。まるでこの草原が金色に変わって、彼の首元で輝くかのようだ。生命の息吹がそこに宿っている。
「何だ……お前、その羽。もしかして、天使?」
 男は、子供のように屈託なく笑った。
 そのくせ、その瞳ときたら、ユイエに剣でも突きつけるように、爛々と輝いている。
 相手が『上位存在』と知った魂は竦み、ユイエをただ見上げるばかりだ。人間でも天使でも必ずそうなる。
 でも、この男は違った。違ったのだ。
「俺を地獄に堕としに来たのか? 別にいいけどさ、そんな暇あったら、この地上をちっとくらいマシな世界にしてくれよ」
 幼気な笑顔のまま、そう皮肉を言う彼に、ユイエは気が付いた。
 この魂は突然変異などではないと。
 心の中心から、光さすように輝いているのだ。心がきれいなのだ、この魂は。表面の『悪』などものともしない。『悪』は心には入り込めないのだ。
(これは面白い)
 地獄に送ってしまうのが惜しくなった。地獄は天使からは覗くことができない場所だ。一度そこに送ってしまえばもう天使は手出しができない。
 生きているこの魂を、もう少し眺めたい。そんな欲がユイエに湧き上がった。
 他人に、興味を持ったことなどなかったのに。
 挑むような瞳はユイエよりかなり低い位置にあった。その頭に手を乗せる。
「なっ、」
「眠れ。記憶消去」
 そうした途端、マデュ・カリナンの身体は意識を失ってぱたりと前に倒れてきた。抱き留めた身体が、軽い、軽すぎる。
(こんな細い身体で戦っているのか?)
 義賊の頭領というのだから、屈強な肉体の持ち主と思っていた。実際の彼は満月の髪色、夜と夕を混ぜた紫根の瞳、細く白い身体の美しい成年だった。髪は年がら年中草原の風に吹かれてなびいているせいだろう、所々痛んでいるが、この美貌の男が、今まで奴隷売人の手に掛からず過ごせているというのは、奇跡に近い。
(……強く、生きているのか)
 自分を、自分の『義賊団』を、そして貧困に喘ぐ人々を、守るために。
 そう思うと、何故か、心の底をぎゅっと握られたような心地になった。

 翌朝、人間族の姿に擬態して、マデュの義賊団のテントの群れに助けを求めた。旅の途中に野盗に身ぐるみ剥がされたという設定で。
「お前、本当に服しか持ってないな。草原の真ん中までどうやって歩いてきたんだ」
 呆れたような検分役の男に、もごもごと言い訳をする。洗脳するのは訳ないが、全てをそれでやり過ごすのは面倒だ。だから、それっぽく聞こえるように気を配った。
「……草原の夜霧の露を集めて飲んで、食べられる葉を選んで食べていた。今回は野盗に遭ったが、それさえなければ旅慣れている」
「ふうん。まあいい、泊まっていくにしてもうちの頭領に会ってからだ。ものすごい美人なんだ、惚れんなよ」
 そうして敷地の中央にある、十名以上も入れそうな大きなテントの中に押し込まれた。分厚い生地のためか、中は暗い。目を凝らすと、
「お前がユイエ?」
 奥の方で、瞬く紫紺と目線が合った。
 テントの中には他に何名もいるのが分かるのに、マデュ・カリナンだけが浮き上がっているようにはっきり見えた。
 アイボリーの地の厚いシルクに白糸で瀟洒しょうしゃな刺繍の入った膝下丈の外套シャルワニに、ゆったりとして多くの布地を使ったズボンシャルワールを履いた、優美さ。『頭領』として充分に威厳のあるすがただった。
「はい。姓はありません。ただの旅の流れ者です。路銀が貯まるまで、下働きをさせていただきたいのです、カリナン様」
「あー、その名前、かゆくなる! マデュでいいよ。様とかもいらねえ。で、ユイエとやら。何ができる? ここは働かざる者食うべからずだ」
「植物の採取と料理ならば得意です。初夏ですから、食べられる新芽はもうありませんが、葉物や実のなるものなら採って来られます。味付けは異国風になりますが」
 マデュは『異国風』というところに興味を覚えたようだ。どの地域の味付けができるかと問われたので、二、三挙げると、彼は手を叩いて喜んだ。
「おふくろの出身地だな。まあおふくろ、その国じゃ姫君だったらしいから、手料理なんてしてくれなかったけど。一度食べてみたかったんだ」
 その言葉で採用は決まったようだ。一ヶ月の契約で、料理当番を務めることになったユイエは、働く肉体だけ地上に残し、意識だけ天国に戻った。巧妙にマデュ・カリナンの魂に、天上からは見えないように細工をしてから。
「キリエ、マデュ・カリナンを地獄へ送った」
 言うと、キリエは神の玉座から地上を一通り睨めて、それからにっこり笑った。この笑顔に弱いユイエは罪悪感が湧いたが、それでも顔色一つ変えない。
「ありがと! さすが兄上、仕事が早い……でも何で、霊体だけで帰ってきてるんだい?」
「ああ、地上の空気が気に入った。有給休暇がかなり溜まっているから、少し滞在してくる」
「ああ、地上は初夏だからね。気持ちいい季節らしいからね。いいよ、兄上。ゆっくり休んできて」
 欺したかたちになるが、神の許可を得たので、ユイエはほっとして、霊体も地上に戻った。事前に仕掛けていたとおり、肉体は初夏の山菜や杏を採取して背負い籠に入れて義賊のテントへの道を辿っていた。
「おお、ユイエ。大漁だな。もう杏の時期か。頭領の好物なんだ。頭領に持ってってやれよ、今訓練の時間の終わりくらいだから、丁度いいと思うぜ」
 そう料理長が言うので、ユイエは訓練場の場所を教えてもらいマデュ・カリナンに献上しにいった。すると、小川で二十名ほどの戦闘員が裸で水を浴びていた。訓練はもう終わったようだ。マデュ・カリナンは、と探す前に、向こうから声が掛かった。
「おーいユイエ! それ、持ってるの杏じゃねえ!? わざわざ持ってきてくれたのか」
 そうして寄ってきたマデュ・カリナンの裸体が、何故だろう眩しく見えた。初夏の午前の爽やかな木漏れ日の下にいるからかもしれない、だが、ユイエには、その淡く白い肌が光を発しているように見えたのだった。
(きれいだ)
 筋肉の薄い、細い身体。これで頭領をしているというのだから、不思議に思ってしまう。
「ああ、今年も美味そう! なあ、食わせてくれ。今、訓練着洗ってて手が塞がってるんだ」
 ユイエは、少し躊躇った。あの唇が何かを咀嚼するかと思うと、それはなにか扇情的なものであるような気がしたのだ。
(何を考えている、俺は)
 たかが熟れた杏を食わせるくらいで。
 自分の気持ちを抑えながら、杏を小川で洗い、マデュ・カリナンの口へと運んだ。
 じゅく、と水分の溢れる音。ユイエの指先が杏の汁で濡れる。その汁までマデュ・カリナンは追いかけてくるから。
(……っ)
 指の先が、知らない感覚に戸惑った。
 痺れるような、蕩けるような。
 真逆の反応に、ユイエは混乱する。
 そんなこちらの気も知らないで。
「美味かった! なあ、まだある? 他の奴にもやったほうがいいかな」
「……料理長は、頭領に、と」
「やった! じゃあ遠慮なくもらうぜ」
 マデュがどんどん食いついてくるので、ユイエはとても居たたまれない。この魂が、身体が、とても可愛く見えてしまって。
 困る。
 そんなのは、困るのだ。

 しばらく義賊団に置いてもらううち、近くの街の官吏が、人馬を百も率いて義賊団を粛正しにきた。数日前にその街一番の金持ちの家に押し入ったのが良くなかったのだろう。
 義賊団のテントは惨劇の様相を呈していた。
「この場所に拘るな! 逃げろ!」
 マデュ・カリナンはそう指揮したが、非戦闘員がどんどん殺されていって、彼は悔しそうな顔をした。馬から下り、子供や手伝いの女性たちを必死で守っている。
 ユイエは。
 潮時だと思っていた。もう充分彼を見たと思ったし、キリエや他の天使に彼が見つからない細工も重ね掛けしてある。この修羅場の中なら、ユイエの遺体一つくらい見つからなくても不思議ではないだろう。
 そう思案していたときだった。
「ユイエ!」
 マデュ・カリナンの声がユイエを呼んだ。そうして、覆い被さってきた彼と、背中から流れる、彼の血。
(嘘、だろう)
 庇われた。
 そんな必要、ひとつもないのに。
「……ユイ、エ……無事か」
 壮絶な痛みの中だろうに、マデュ・カリナンは──マデュは。屈託なく笑った。あの、最初に出会ったときと同じ笑みで。
(ああ、これは)
 駄目だ。心が溢れる。
 ユイエの、深い傷を負った背中に腕を回した瞬間に、だと思う。引きずり落とされた、恋という、人間の感情を持つ存在へと。
 このままだと、彼は死んで、地獄へと堕ちるだろう。
 それがどうしても許せなかった。
 マデュにふれて。マデュが笑って。そうやって、生きていきたいと思った。
「ユイエ……?」
 答えないユイエを心配したのだろう彼の頬に、手を寄せた。
 あたたかい。
 この温度が失われるのは耐えられない。
 そう心が叫んだところで。
 キリエの拗ねたような声が脳裏を過った。
『地獄に堕としてきて』
 だがユイエには、地獄手の届かないところへ彼を遣ることなど、もうできなかった。
 命令に逆らったのがもし『神』に知られたなら、自分にもこの美しい魂にも危害が及ぶ。
 ユイエは迷って。
 だが、本当はマデュへと恋をした瞬間に、決めていた。
 天使としての正体を現す。
 純白の羽、頭上の輪。それにマデュが目を真ん丸にした。
「天、使? ……ユイエ、お前、天使だったのか」
「ああ」
 そのままユイエは、マデュに口付けをした。
 魂を浄化する、天国へと送るための口付けを。
(ああ、心地いい)
 ふれて、彼の瞠られた目に映っただけなのに、それがこれほどの愉悦だなんて。
 そうしてマデュの魂は、天国へと飛んでいった。

*

 しばらくの間は、マデュが天国にいることは露見しなかった。マデュの魂の表面の黒が消え、白となって、他の人間族の魂とそう簡単に区別が付かなくなったからだ。表面の白の奥底が銀彩地ぎんだみじになっているなんて、普通は考えないだろうから。
 ごくたまに、天国の端でずっと地上を見下ろしているマデュと会った。
「ユイエ! てめえ、俺をずっと欺してたな!」
 そう目を怒らせて言うのには、申し開きのしようがない。
「ああ。すまない。人間に擬態してお前を観察していた」
「はぁ!? 事によっては許さねえぞ! こっちはお前を戦えない奴だと思って守った所為で死んじまったんだからな!」
 武器も持っていないのに、くびり殺されそうなマデュの瞳。それすら好きだと思ってしまう。初めての恋心はとても、儘ならない。
「戦える奴らはほとんど生き残ってたけど……俺が頭領やらなかったらあの義賊団はばらばらになっちまう。そしたらあの草原の孤児たちは、どうやってメシを食うんだよ」
「……すまない」
 ユイエは何もしてやれない。
 だから、「悪いことをした。お前の意志を尊重できなかった」とひたに謝るしかなかった。
 マデュは許してくれない。すぐに地上に帰してくれと、ユイエの胸を叩いた。
 あんなところで死にたくなかったのだろう。そう考え、この世界の摂理で、天国から地上へと戻ることはできない。そう説明しようとしたのだが。
 マデュが気にしていたのは、他人のことだった。
「お前、天使なら孤児たちにちっとくらい良い目を見せてやれよ。親もいないし、いつも腹を空かせてる。天国の食べ物分けてやること、できないのか」
 ユイエは、マデュの心の美しさに、感嘆するしかなかった。人間のふりをしたユイエを庇ったときといい、この言い種といい、マデュは自分のことは二の次なのだ。
 このきれいな魂が愛おしすぎて、いけない。
「……俺はいいから。あの子供たちを、頼むよ」
 そう言って悔しそうにするのが、ユイエの胸を静かに刺した。その痛みに、ますますマデュを愛しく思ってしまった。
 だが、一部の人間だけ目を掛け救うなど、天使には許されていない所業だ。申し訳ない気持ちでそれを告げる。
「すまない。俺の所為でお前を死なせてしまった」
「それはいいよ。俺が好きでやったことだから。でも……俺、天国こんなばしょからじゃ何もできねえ」
 無力さに揺れる、紫紺がきれいで。傷付いた彼まで美しいなんて、どうしようもない。

 何度か謝罪を繰り返し、拙い言葉で事情を話すうち、マデュは少しずつ心を許してくれた。
「お前、天使なのに馬鹿だな。弟っていっても相手は神様なんだろ? 言うこと聞いて、俺なんか地獄に落としゃ良かったのに」
 そう苦笑いするマデュに、恋心を告げることはできなかった。
 天使が人間に恋をするなど、許されないことだ。
 それにもしマデュが天国にいてユイエと密会していることが弟に露見したなら、弟の怒りに触れるだけだろう。それだけは避けなければ。
 だから、自制に自制を重ねて、マデュには極力会わないようにした。
 すると。
 あり得ない事が起きた。
 マデュを自分のものにしたい。
 組み敷いて、鳴かせて、あの細い身体に入りたいと、その考えに心が捕らわれるようになったのだ。
 生殖欲など、これまで覚えたことがなかったのに。
(マデュ)
 彼のことを想うと、全身が熱くなって、性器に欲望が灯り、そして彼の中に自分の全てを吐き出してしまいたいと、そう身体が叫ぶ。
(あの魂は、どうやって乱れるのだろう)
 天国の端っこ、一人でいるマデュの姿を天眼で視る。マデュは地上を憂いた顔で見ているのに、その顔かたちから、欲望に堕ちたすがたを想像してしまう。あの勝ち気なマデュの紫紺の瞳が快楽に潤む様を。打ち付けるユイエにあの細い身体がしなる様を。
「ユイエ」
 まるで求められているかのように、彼が自分を呼ぶ様を。
 やがて耐えられなくなり、そうしてそのまま、初めてユイエは射精した。
 やってしまった。
 まるで人間族の小僧のように、好きな相手の淫らな様子を想像し、白い欲まで吐いてしまった。
(許してくれ、マデュ)
 彼に詫びたい心はあるが、後悔はなかった。
 何度かそうしているうち、どうしてもマデュに会いたくなった。
 危険だと、そう頭では理解しているのに、ますますマデュを欲する心を、抑えられなかった。
 遠くに見るのではなく、隣で彼を感じたい。その心が飽和して、マデュの元へ行った。
 すると珍しく、マデュが苛立っていた。
「俺さ、弟が二人いるんだけど、生き別れちまって。ようやくさっき下の弟を見つけたら、ひどい扱い受けてるみたいだ。俺は天国でお気楽にしてるっていうのに」
 あそこ、と指した魂は、惨めに傷付けられており、見ていられないような有り様だった。おそらく、最下層の奴隷として扱われているのだろう。
「ロリュは盗賊団に売られたんだ。まだ五歳だったのに」
 マデュが十四のとき、盗賊団がマデュの住んでいた邸宅に入り込んだのだそうだ。裕福な商家であることと、マデュの父親が横暴な商売をしていたことを恨まれてのことだったという。
 両親は殺害され、弟二人は人身売買に即刻送られた。
 マデュだけは、愛らしい顔立ちや華奢な身体から、少女と思われ慰み者にされかけた。それを、幼い頃より仕込まれた武術で撃退し、盗賊団の頭領を殺して、十名ほどの男たちを屈服させ、新たな頭領になったのだという。そうして、盗賊団は義賊になった。
「親父やおふくろがアコギな真似してたのは、俺も知ってたからさ。正直全然悲しくなかったんだ。でも、弟たちは違うだろ。何の罪もない。だから、いつか見つけて自由にしてやりたかった」
 あの草原の地では珍しい金の髪が、目印になると思ったのだとマデュは言った。異国の姫君でマデュの父と政略結婚をした母親譲りの色らしい。
「俺の名と、この金の髪が有名になったらさ、弟たちも気付いてくれると思ったんだ。そして、助けを呼んでくれないかって。だから髪、伸ばしてたんだけど、天国ここじゃ邪魔なだけだな。枝毛探し、趣味だったのに、なくなっちまってるし。切っちまおうかな」
 そうして「ナイフ持ってないか」と無邪気に訊いてくるので、ユイエは慌てて思考を巡らせた。この美しい髪も、マデュの一部であり、愛していたから。
 考え抜いた結果、葡萄の蔓を少々拝借して、マデュの髪を編んで留めた。
「これで邪魔ではないだろう」
 ぱちぱちと瞬いたマデュが、あちこちほつれて不格好な三つ編みを、まるで宝石でも見つけたみたいにしげしげと眺めている。ユイエは気まずかった、とても。突発的な行動を笑われたなら、どうしようかと。マデュへの執着を悟られたなら、どうしようかと。
 だが。
「ありがと、ユイエ」
 ふんわりと笑ったマデュが、あまりにきれいで、可愛くて。
 知らない、激情がマデュを襲った。
 目を向けているのが、苦しい。
 この男にふれることができない自分が、悔しかった。
 手を引いて、何処か、誰の目にも付かないところへ連れ出して、抱き締めて、呼吸すら奪ってしまいたい。
(ああ、好きだ)
 どうしたらいいのだろう、この、身体を焼くような想いを。
 思いあぐねて、ちらりと彼を覗くと。
 丸く白いはずの耳が、赤くて。
 もうユイエは困ってしまって、その場を離れた。
「ユイエ?」
 追いかけるような声に、振り向くことさえできない。
 もう、この魂はだめかもしれない。マデュという存在に捕らわれて、マデュのすがたの、声の、仕草の記憶で溢れて、溢れ出してしまいそうだった。

 何度かそうして会ううち、少しずつマデュは打ち解けてくれるようになった。
 いつも三つ編みをしていてくれるので、そのとき咲いている一番きれいな花をかんざしとしてお土産にしたら、マデュは苦笑しながらも、受け取ってくれた。
「女じゃないんだから、こんなの似合わないだろ」
 そうしてしばし花を見詰めて、最終的には耳の上に差して見せてくれる。
「あの草原だとさ、一番きれいな季節の花をかんざしにして恋人に贈ると、求婚の証だったんだ。お前、かなり恥ずかしいことしてるぜ」
 そうして笑うのに、受け取ってくれたというのは、どういうことなのだろう。
 足繁く通うようになる。毎日、目覚める度にマデュに会いたくて、退屈なばかりの書類仕事を抜け出してマデュの許へ行った。
 マデュは、些細なことで笑ってくれる。
 マデュは、地上で餓え痩せ細った魂を見るたび、悲しそうに目を伏せる。
 マデュは、紫紺の目を燃やし「どうにかしてこんな場所おさらばして、地上に戻ってやるんだ」と意気込んで、拳を震わせる。
 そして、マデュは。
「そうなったらもう、お前とは会えないな、ユイエ」
 か細い声でユイエを呼んで、眉を下げて切なげに笑う。
 抱き締めて、こんな場所から攫ってしまいたかった。

 マデュの隣に居る時間が更に増えた。危険なのは自分で分かっていたのに、自分を制御できない。
 このままでは、この平穏は長くは続かないのではないかと、そんな予感が常にしていた。
 その予感は当たった。
 あの誰よりも輝く魂が、キリエの目に見つからずにいることなんてできない了見だったのだ。
「兄上。どうしてそいつ、天国にいるの」
 激怒したキリエは、ユイエにそれしか言わなかった。だが、すぐに背を返し、
「兄上と、その汚らしい人間を拘束しろ」
 そうすぐに他の天使に命じて、ユイエとマデュを牢に入れたのだ。
 ユイエは、罰として、天使としての最も下の位に堕とされた。羽のない、地獄の底の果てから飛んで帰ることもできない天使に。
 そしてキリエは、もっとひどい罰をマデュに与えた。マデュを『魂の悪魔』にしてしまったのだ。
 それは、マデュの魂をユイエ自ら消してしまえという、『神』からの無言の圧力だった。
 きっと、それを正しく実行したなら、ユイエだけは許されたのかもしれない。
 だがユイエは、『第十二層』の天使になってすぐに、マデュの記憶を消した。恨まれたくなかったからだ。マデュに会えるのに、あの美しい瞳が怒りや憎しみを以てユイエを映すのが嫌だったから。
 だが、マデュがユイエのことを忘れてしまうということは、かなり堪えた。マデュがユイエに心を開いて笑ってくれることはもうなくなるのだ。そして、ユイエだけがこの恋心に苦しめられる。
 しかしそれでも、『神』に背くことを選んだ。
 マデュに浄化した魂だけを食べさせ、延命を図ったのだ。
 もはや、マデュはユイエを知らない。
 そうして。
 ユイエとマデュは、『看守と囚人』という関係になった。
「お前はマデュだ。二十歳の重罪人で、『魂の悪魔』に堕とされた」
 そう、心を殺してそれだけ告げた。
 マデュが、無垢な瞳を見開いて。
 やがてそれが悔しげなものに変わるのを、絶望的な気持ちで見た。

*

 想定外のことがあった。
 マデュに食べさせたのが白い魂だったせいで、『魂の悪魔』としての絶頂、言うなれば消化にひとしいそれが起こらなかったのだ。
 そのままでは、エネルギーを得ることができずに、餓死してしまう。
 だから。
 だからユイエは、マデュに快楽を与えた。
 決して、自身の肉欲だけからマデュをあんな目に遭わせている訳ではないのだ。もちろん、下心がないとは、言えないが。
 マデュの身体は、ユイエから理性をまるごと奪うほどに淫靡で、艶麗で、ユイエは抑えられない欲情というものを痛いほどに知ることになった。
 無理矢理に彼を手籠めにして、全て暴いてしまいたいと、心が叫ぶ。
 それを押さえつけるために、いつも、人間のマデュとしたキスを思い出す。
 あの、触れただけなのに、蕩けて交ざり合ってしまいそうなキスを。
 欲望の赴くまま、マデュの痴態を見ているのに、もう一度あの甘いキスがしたい。マデュの心に、ほんの少しでいいから、映り込みたいのだ。
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