精神病棟日記

喜多條マグロ

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一般病棟

15日目、16日目

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 西野はあくびをしながら授業を聞いている同級生を横目に見ながら、自分の読書部が設立にまで至らないのに苛立ちを感じていた。
 ポスターが悪いのだろうか?おれの考えていることが相手に伝わらないのか?いや、伝わってはいるが興味が無いのだろう。現に部活の設立には最低5人必要だが、自分含め4人までは人数が集まったのだから。
 けれど、あと1人がどうしても集まらない。
 取り止めもなく考えている間にチャイムが鳴り授業が終わる。西野は担任の教師から放課後職員室へ寄るようにと呼び出された。
「君のやりたいことは分かるんだけどね、もう5月も半ばで集まらないんじゃないかな」
 教師に言われて西野が驚いたのは、てっきり『セックス論』と書いたポスターの件で呼び出しをくらったと思ったからだ。しかし、ポスターが問題なのではなく、部活設立を諦めろと説かれるのはもっと事態が悪かった。
「しかしですね...もう4人は集まったんですよ」
「それも帰宅部の連中だろう?こんなことをやっていないで早く他の部活に入った方がいいんじゃないかな」
 他の部活に入る気など更々無かったが、西野の逆鱗に触れたのは読書部の設立を「こんなこと」と言われた事だった。
「君も知ってると思うけど野球部の人たちがね、6月の修学旅行を返上すると言ってきたんだ。帰宅部なんかより部活に専念する方がよっぽど健康だと思うけどなあ」
 西野は野球部や運動部連中の笑顔を思い出し言いようのない居心地の悪さを感じた。「考えておきます」というなり職員室から出たが、帰り道、友人に愚痴を言いながら、なんとも言えないやりきれなさで胸が一杯だった。

 海藤はベッドに横たわりながら今朝見た不思議な夢について考えていた。
 夢の中で自分が死ぬまでの未来が全てわかってしまい、その途端拳銃で自殺するという夢である。
 それは悪夢ではなかったが、しかし心地のよい内容でも無かった。
 精神病棟内では基本的になにも起こらない。ただ毎日同じ状況の繰り返しである。だからデジャブ体験のようなものが繰り返し現れるのだが、海藤はいつからか何度も起こるデジャブを体験するうちに、デジャブへの気持ちの悪い違和感に襲われた。
 海藤がその夢について考え出した結論は、デジャブ体験で気持ちの悪い違和感を覚えるのと同じく、何度も何度も同じことを繰り返すことへの気持ち悪さが悪夢のような形として現れたのだということだ。
 看護師から面会だと呼ばれついて行くと母親とケースワーカーが談笑しながら待っていた。海藤は胃の痛みを感じながら、苦痛の度合いは今朝見た夢よりもずっとこちらの方が大きいと思った。
「調子はどうですか?」
 と慣れ慣れしくケースワーカーが話しかけてくる。海藤は「ええ、まあ」などと曖昧な返事をしながら、今日は金曜日だから母親しか来ていないのかと思い至った。
 ケースワーカーと母親がつまらない談笑を続けているのを眺めながら、彼は孤独を感じ、孤独について考えていた。
 孤独とは誰からも必要とされることのない状況のことだろう。透明人間と言い換えても良い。もしぼくがこの場にいなくとも、母とケースワーカーは取り止めもない談笑を続けるのに違いない。居場所の無くなった人間に孤独は訪れる。
 ではロクちゃんは孤独だろうか?ぼくには彼が孤独に見えないが、しかしもしロクちゃんが孤独だとしても、彼はそれを誰にも伝えられない。それこそ孤独よりいっそうタチの悪い事態なのでは?
 だってロクちゃんのことばは誰にも理解されず、誰にも共感されないのだから。
 そう海藤が考えたのは、少しでも自分より不幸な人間を見つけようとして安心したかったからかもしれない。実際の所、ロクちゃんが孤独か否かなど誰にも分からないのだ。
「そうそう、高校のことだけどね」
 という母親のことばで彼は空想から現実へと戻った。そうだ、ぼくにはまだ高校があった。
 彼はさっそく母にテレフォンカードを頼んだ。同級生に電話しようと思ったのだが、あいにくスマホの電話番号を忘れてしまっていたので、彼は母に西野の家の電話番号を調べてもらいメモすることとなった。親に友好関係を探られる屈辱を味わいながら。
 面会後、いてもたっても居られず西野の家に電話したが、出たのは彼の母親だけで西野はまだ帰っていないとの返事だった。時間からしてとっくに高校は終わっているはずなのに?

 ちょうどその頃、西野はバイトで貯めた金でチェーンのレストランへ行っていた。放課後の教師のことばで若干自暴自棄にすらなっていたのである。
 けれど、この気晴らしは彼にとって逆効果となった。レストランとはいえチェーン店だろうと思い安易に入ったが、いざメニューを見るとたかだかパスタ一品に3800円もしたのだ。
 店員がやって来て愛想良く「よく来られるんですか?」と微笑んだが、彼にはまるで百億光年も離れた別の惑星のことばでも聞いているように感じられる。
 西野の家が母子家庭で経済的に苦しくとも何度か外食に連れて行って貰ったことはあった。回転寿司では毎回納豆巻きといった100円の皿をとるのだが、130円の皿は三回までと決められていて、それ以上とると母親から遠回しの注意が飛んでくるのである。
 しかしここでは何もかもが違う。呆気にとられながらレストランを見渡していたが、なにより西野が驚いたのは、そのレストランにいる人たち全員が“笑っている”ということであった。
 誰一人としておれのように値段に疑問も感じず、おれのように呆気にとられたような顔もしていないと知ったとき、西野は内心、ああ、おれはここにいるべき人間では無いのだなと感じた。それは乗り越えられない壁のように決定的な格差としてそびえ立っていた。
 近くの席では大勢の会社員が歓迎会だかコンパだかで縦長のテーブルを囲み盛り上がっている。みな笑いながら。
 そうだ、この例の笑いが運動部の連中たちにもあった。そこにいることになんの疑問も無く、安住しきっている笑い。疑問符を差し込む余地もない笑い。彼が感じた言いようのない居心地の悪さはその笑いであった。
 西野が読書部設立にこだわるのはただこの壁を乗り越えんとする試みであるのかもしれない。

 夜中、誰かと話したいという欲求にジリジリとしながら、海藤は今までの日記をパラパラと見直していた。福良も竹宮もロクちゃんももう眠ってしまっていたが、彼だけ睡眠薬の効き目が悪くあまり寝付けずにいたのだ。
 否応なく開かれたドアからかすかに差し込む灯りで、彼は久しぶりに日記を付けた。

『一般病棟に移り8日目 最近デジャブが酷いが、もっと酷いのはデジャブの後に奇妙な気持ち悪さが続くことだ。これは恐らく今朝に見た夢とも関係がある。
 未来に起こることを全て知ってしまった途端自殺してしまうという夢...デジャブと同じで同じことの繰り返しに人は耐えられない。
 ...ところで孤独さはどうやって伝えれば良いのだろう?きっとぼくが孤独だと言っても、この感覚は誰にも理解されないのだろう。』


 翌朝、西野は本を読みながら退屈について記されている行に目を留めた。
 〈退屈には3種類ある。受動的な退屈。能動的な退屈。反抗的な退屈。〉
 この本に当てはめれば、と西野は考えた。受動的な退屈とはあくびをしながら授業を聞いている同級生や修学旅行生を指すのだろう。能動的な退屈とは運動部の連中や昨日見たレストランの客たちだ。そして反抗的な退屈とは読書部を立ち上げようとするおれのことを指すのではないだろうか?
 退屈のルールに従えば、帰宅部が悪とされるのはこのどれにも属さないからだ。
 西野がうろうろと歩き回って考えているとき、家の電話がなった。海藤からであった。

 西野の考えを(正確には読んでいた本を)応用すれば、わたしは精神病院から高校、会社までをも繋げることができる。
 精神科医も看護師も高校教師も会社員も、共通の仕事への無関心さによって結びついていると。
 あるいはこれらの人たちと同様、患者や生徒も、同じ退屈さによって結びついていると。
 福良とロクちゃんは広間で頬杖をつきながらテレビを見ている。竹宮はいつものようにこの時間喫煙所へ行っている。
 休憩時間中の看護婦が喫煙所へ入りタバコを一本吸い出す。竹宮は緊張してしまうが、喫煙所にいた患者の一人は看護婦と顔馴染みで一言二言談笑する。
 仕事への無関心と退屈が手を取り合って全ての人たちにあくびをさせる。あるいは笑わせる。あくびは受動的な仕草であり、笑いは能動的な仕草である。
 けれど海藤は切羽詰まっている。

「すいません、西野さんのお宅でしょうか?」
「そうだけど...もしかして海藤?」
「ああ、西野?久しぶり」
「どしたの?家に電話なんて...」
 テレフォンカードの残り度数を知らせる数字が一つ下がる。海藤は急いで精神病院にいることを知らせる。
「けれど、こんなのは全部誤解なんだ。一ヶ月で出れるからさ」
「へえ、戻ったら話聞かせろよ」
 海藤は高校がいまどうなっているのか聞きたいと願う。精神病棟で起こったことを話すには3000円のテレフォンカードではとても足りない。
「ところで、読書部はもう設立できたの?」
「いや、それがあと一人足りないんだよな...そういや一ヶ月で出られるって?」
「正確にはあと半月で出られるね、このままいけば」
 これは読書部設立を願う西野にとっても嬉しい知らせであった。二人は久しぶりに冗談を言い合い、面白がり、幸福だ。
「まだ例のポスター書いてんの?」
「ああ、また昨日教師に呼び出しくらちゃってさ」
「へえ!今度はまたなにを?」
「そりゃあ...」
 そう言いかけて西野が吃ったのは、昨日のレストランのことが気にかかっていたからであった。
 今までおれはポスターで論を書いてきた。けれどあのレストランのなんとも言えない体験を伝えるのに論理ではダメだろう。必要なのは生のことば、吃ったことば、感情に訴えかけるしかないのではなかろうか?
「まあ、色々あるんだよ、そっちはどうなん?」
「こっちは...なんとか楽しくやってるさ、精神病院の体験談なんかなかなか無いからな、きっときみも興味を持つぜ」
 時間いっぱい様々なことばが交わされたが、海藤は話しに熱中していて竹宮から伝染した手の独特の動きを意識していない。
 一方の西野も受話器片手にうろうろと歩き回っていたが、手と足の動作には違いがある。
 尤も、そんなのは精神病棟と高校との違いにすぎない。
 虚しく空中で弧を描く手は相変わらず進むべき未来が無いことを意味していた。それは扇風機のようにいくら回ろうが前進しない。デジャブは海藤を怖がらせる。
 一方動き回る足はどこまでも進み続けるだろう。西野の退屈は反抗的であり直線的である。しかしその代わり彼は移動し続けなければならず、安住して笑うことができない。

 この相違はどちらも等しく人間が一つの場所に安住していられないという事実を示すに過ぎない。
 海藤は電話を終えベッドに戻る。半月後を夢みながら。
 西野は電話を終え友人と遊びに行く準備をする。もう先ほどの電話のことは記憶の片隅へと追いやられる。
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