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【第3部】13章 切り裂く刃

5話 薄暗い悪意

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「まあああ、ベルちゃん、お帰りなさい! 聞いたわよ、ねえ、聖女候補ですって!?」
 
 サンチェス伯の屋敷に帰ると、母が大声を出しながらバタバタと駆けてきて、あたしをひっしと抱きしめて頭を撫でる。
 
「ああ、お母様鼻が高いわ! さっすが私のベルちゃんねっ」
「………………」
 
 何の感情も湧かず、表情が作れない。
 母がこうやってあたしを抱きしめて頭を撫でたことなんてあったかしら?
 
 何が「私のベルちゃん」よ。
 娼婦のようないやらしい体つきに成長した、価値のない娘でしょう。
 自分のアクセサリーになりそうなこんな時だけ、殊更ことさらに褒めそやして……。
 
「……気持ち悪い」
「えっ?」
「!!」
 
 ――しまった。
 つい、思ったことが口に出てしまった。
 また烈火のごとく怒り出すわ。どうやったらごまかせるかしら?
 
「……ごめんなさい。馬車に揺られて酔ってしまったみたい。わたくし、部屋で休みます」
 
 抱きついてきている母を両手で押し戻して目を伏せながらそう言うと、母は鼻息を1つ鳴らし「そう」と不服そうに呟いた。
 そこから間を置かずに、母の後ろに控えていた家令のハンスがメイドを呼んであたしの荷物を部屋まで運ばせる。
 
「ハンス。お父様は、どちらへ?」
「はい。旦那様は……」
「また部屋に引きこもっているのじゃないかしら? このところ、前にも増してずーっと辛気くさいのよねぇ。嫌になっちゃう」
「…………ハンス。お父様は」
「……はい。執務室におられます。お嬢様がお戻りになられたら、一度来られるようにと……」
「ほぉーら。だ・か・ら 言ったじゃないの。どうしてわざわざハンスにまた聞くのよ?」
「……この家のことは、ハンスが一番よく知っていますので」
 
 そう返すと母はあからさまにムッとした顔をする。
 
 ――実際、この家のこと、そしてサンチェス伯領のことで母が知っていることは皆無に等しい。
 名産品がぶどう――しかし名産地であるレザン地方より味も質も劣っている物である ということくらいじゃないだろうか。
 知っている理由は、とにかくこの地には何もないということを馬鹿にしたいがため。
 
 貴族の女のあり方も様々。
「学がある女は生意気だ」なんて価値観も、母の時代ならまだ根強かっただろう。
 別に父の執務を手伝わなくてもいいし、お飾りとして隣にいるだけでもいい。
 だけど隣にいない上、夫も領地も尊重しないなんてことは、さすがに……。
 
「……嫌味ね~。聖女候補様だからって、なんでも言っていいというわけじゃないのよ?」
「…………失礼します」
 
 軽く頭を下げ、足早にその場を立ち去る。
 
(音楽を流す、ラーメンのことを、考える……)
 
 スタスタと歩きながら隊長が言っていたことを実践しようとするけれど、うまくいかない。
 胸の中に、何か黒い物がじわりと拡がる感覚がする――。
 
 
 ◇
 
 
 部屋で少し休憩したあと、いつものように父不在の夕食。
 
 ――味が、しない。
 
 決して料理人の腕が悪いわけではないだろう。
 母の誰かに対する悪口と愚痴が、ずっと楽隊の演奏する音楽のようにずっと流れているからだ。
 
 今は食後のティータイム。
 帰ってきた初日だから付き合っているけれど、正直どこかの建設現場の作業音の方が耳にいいとすら感じる。
 せっかく給仕が入れてくれた紅茶も、ただの温かい色水に感じる――……?
 
(ん……?)
 
「ねえ、あなた……ええと、ニナ?」
「はい……?」
「この紅茶って、もしかしてぶどうなの?」
「はい」
「珍しい……初めて飲んだわ」
 
 あたしがそう言うと、給仕のニナが嬉しそうに笑った。
 続いて近くにいた家令のハンスが、この土地で採れたぶどうで新しく作り始めたのだということを教えてくれる。
 
「そうなのね。ふふ、おいしい……」
「そうねえ、こういう物に加工しない限り生き残れないわ、あのぶどうじゃあねぇ……」
「………………」
 
 その一言を皮切りに、先日王都で食べたというレザン地方のおいしいぶどうの話が始まる。
 
「お母様、おやめになって……」
 
 たしなめても母は「だって本当のことじゃない」と聞かない。
 さらにレザンのぶどうと比較して、ここのぶどうがいかにおいしくないかという話を延々と語り出す始末。
 そう、ぶどうの紅茶を飲みながら……。
 
「パイやジャム、それにこの紅茶とか色々小細工して……なんというか、努力は認めるけれど結局本場のそれにはかなわないのよねえ……残念ながら」
(ちょっと、やめてよ……!)
 
 もう本当に、本当に頭が痛い。
 
 今目の前にいる給仕のニナの夫は、サンチェス伯領にあるぶどう農園を取り仕切っている。
 今飲んでいるぶどうの紅茶は、その農園で作り始めたものなのだろう。
 だからこそきっと、あんなに嬉しそうに笑った。
 
 母はニナの事情なんかきっと知らないだろう。
 でも、この地方の名産品といえばぶどうぐらいしかない。
 伯爵家に仕える者の親類縁者、友人、その他多くの領民がぶどうの生産事業にたずさわっている。
 それをこんな風に悪し様に言うことは、この地で生きる者へのあざけりに等しい――。
 
「……!?」
 
 ふと顔を上げると、張り付いた笑顔で立っているニナの身体から何か薄く黒い煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
 それは食堂の扉の方へ流れ、スイッと吸い込まれるように消えていく……。
 
(……何、今の……!?)
 
 驚いているのはあたしだけ。
 母もハンスも、そしてニナ自身もそれに気づいていない。
 
 あたしは魔法を使うけれど、紋章使いじゃない。
 だから人の本質を示す火や水なんかはえない。
 だけど、それなら、今視えたあれは何?
 
瘴気しょうき……?)
 
 とても薄い色をしていたけれど、闇に堕ちそうになったジャミル君、赤眼になってしまった隊長から立ち上っていた瘴気――それに似ていた。
 でもあれは紋章や術の資質関係なく、誰にでも視認できたはず。
 どうして、あたしだけに視えているの?
 
 思い当たることといえば……あたしの今の精神状態、だろうか。
 今あたしは、心が後ろ向きになっている。好きな人と別れなければいけないかもしれない悲しみに、絶望しかかっている。
 
 ……もしかして今あたし、闇に堕ちそうになっているの……? 
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