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10章 "悲嘆"
19話 誇り高き、その名前
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パキン、と何かが割れる音がした。
それと同時にアルゴスの髪の白い色が古い塗料のようにひび割れていき、パサパサと剥がれ落ちていく。
剥がれた白色の欠片は地面に落ちた瞬間にわずかに光を放ち溶け消え、全て剥がれた後、アルゴスの頭髪は手配書の写真と同じ黒色になった。
頭の色は変わったけれど瞳は赤のままだ――今、何が起こったんだろう?
アルゴス自身も状況を飲み込めないのか、頭を抑えながら呆然としている。
ひどく驚いた顔をしているのは髪色が変わったことに対してなのか、それとも目の前にいる青年に名前――おそらく真名を呼ばれて、かつその青年が自分と同じ名前であることに対してなのか――。
経緯は全く分からない。
グレンさんは昔「光の塾」の下位組織で名前を持たず番号で呼ばれていた。そんな彼に、おそらくこの人が自分の名前をあげた。
彼にとってこの人は恩人なのだろう。その人とまさか、こんな形で再会を……。
「『お前はゴミじゃない、人間だ。人間は生まれた時から人間だ』『ゴミになる人間はいるが』と、あんたは昔、そう言った……のに……」
「……グ……」
「キャプテンは、ゴミになってしまったのか!?」
今までで一番大きな声で、彼は肩と唇を震わせながら叫んだ。
目から涙は流れていない。だけど、今彼は泣いている。心が叫び声を上げている――。
"キャプテン"は何も言わず、時間が止まったかのように目と口を開いたままただ目の前の青年を見上げている。
キャプテンの言葉を待つことなく彼は踵を返した。そして……。
「……キャプテンの火は……汚い……!」
そう言い捨てて、フラフラと階段を上っていった。
「あ…………!」
去って行く彼を慌てて追いかける――去り際にちらりと牢の中のキャプテンに目をやると、やはり彼に名前を呼ばれた時のまま固まっていた。
あの人が今どういう気持ちなのか分からない。
だけどわたしの思考の範囲は、あの人を理解しようとするほどに広くはない。
地上に出ると、彼が両手で顔を覆い隠しながら歩いていた――歩いていると言うよりむしろ、倒れそうになるのを片一方の足で支えそれを繰り返している結果前に進んでいるだけに見える。
昼間の豪雨が嘘のように空には雲一つない。真円に近い月の明かりが弱々しくゆらめく彼の影を残酷なまでにはっきりと映し出している。
「待って、グレ……」
「近寄るな!!」
「……!!」
「誰の顔も……見たくない、放っておいてくれ……!」
そう言ったあと、彼は転移魔法で姿を消してしまった。
「っ……グレンさん……、グレン、さん……っ!」
残されたわたしはその場にしゃがみ込んで泣きじゃくってしまう。
ここ数日で、もう何度目だろう?
だけどこんなの無理だ。何もかも、あんまり辛すぎる。
どうしてこんなことが起こるの?
どうして彼があんなにまで傷つけられないといけないの?
どうして彼が打ちのめされているのに、わたしは何もできないの?
なんにも、なんにもできない。わたしは無力だ。
◇
――翌日朝早くに、キャプテンを連行するために聖銀騎士がやってきた。カイルが連絡を入れたんだろう。
キャプテンはアーテさんの時のように白銀の手錠を嵌められた上、身体をロープで拘束された状態で聖銀騎士4人に取り囲まれながら連行されていく。
わたし達――グレンさん以外のメンバーで、それとなくその様子を見ていた。
グレンさんはあの後医務室ではなく自室に飛んでいったようだ。
扉には鍵がかかっていた……今日はまだ、顔を見ていない。
わたし以外の3人は、昨日対峙した「アルゴス」の髪色が黒になっていた上、彼の様子があまりに違うために驚いていた。
あれほど饒舌だったのに一言も発さない。
狂気に満ち満ちた赤い瞳は輝きを失い、生気をなくしたような表情で下を見つめながら重い足取りで歩いている。
やがてキャプテンは中庭に面する廊下に来た辺りで聖銀騎士に何事か囁き、彼らと共に歩みを止めた。そして――。
「……お嬢さん」
「!!」
中庭で花に水やりをしているわたしになぜか声をかけてきた。
……肩の筋肉が強ばる。周りに聖銀騎士様がいるから襲われたりはしないだろうけど、さすがに怖い。
一体何を言われるんだろう?
「…………すまなかった」
「………………!」
予想外の言葉に、体温が下がるような感覚を覚える。
――「すまなかった」って何? 何を言うの? 何を言ってるのよ。
自分が何をしたか分かっているの?
急にやってきてジャミルを滅多打ちにして、ウィルにはナイフを突き刺して。
あの子はジャミルの精神が落ち着かないから形作れないといって未だに出てこられない。
あんな泥人間を出してわたし達を襲わせて、宝玉の中の子を嘲り笑って。
それにわたし達は、この人の出した巨大な火球で焼き殺されるかもしれなかった。
すんでのところで彼が助けに来てくれて事無きを得たけれど……。
――そう、彼。
わたしの大事な彼の心をこの人はズタズタにした。
この人がいなかったら、彼は今存在していないのかもしれない。
もしかしたら、この人が名前をくれたことで彼の人生が始まっているのかもしれない。
だけどわたしには、そんなこと何も分からない。
この人のおかげで人生が始まったかもしれない。
だけど、この人のせいで彼は人生を終わらせてしまうかもしれない。
それだけのことをした。
許せない。許せるはずがない……!
「…………意図の分からない、謝罪は……受けられません……」
「…………」
喉が締め付けられるような感覚を覚えながら、それだけ絞り出した。
――わたしは知っている。
責められた方が、許されない方が、ずっと楽かもしれないことを。
許すことも許さないこともこの人の心を軽くしてしまうのなら、だったらわたしはこの人に何の答えも出さない。
「…………」
キャプテンは何も言わず、横にいる聖銀騎士に「用事は済んだ」と告げてまた歩き出す。
雲一つない青空の下。
こうしてわたし達を恐怖と絶望の底に叩き落とした「赤眼の男」は護送車に乗せられて去って行った――。
◇
その翌日の新聞の一面に「赤眼の賞金首の男を逮捕、処刑」という記事が掲載されていた。
いくらなんでも早すぎるし、大量殺人犯とはいえ見知った人間が会ってすぐに死んだというのはショックだ。
記事によると、彼は自分の家族を銀髪の貴族に殺され、憎しみの気持ちに囚われた毎日を送っていたらしい。
そしてある日闇の剣を拾ったことでその気持ちに歯止めが利かなくなり敵討ちをした。でもそれだけでは済まず、次第に銀髪貴族を殺すことが生きる目的になっていった――ということだった。
新聞にはあの黒い義手や血の宝玉のことは載っていなかった。
そして、彼自身の名前も。
『闇に囚われ名前も忘れ、怨恨だけが頭に残った殺人鬼』なんて記されていた。
テスト休みが終わったので、わたしは学校へ。
今日は終業式。
朝礼ではやはり賞金首の男が逮捕され処刑された旨の話があった。
武装した傭兵の姿も今日はなく、みんなどこか晴れやかな顔をしていた。
すぐに処刑されたことに疑問を感じつつも「冬休み前に逮捕されてよかった」「やっと出かけられる」なんて言い合っている。
これでみんな元通り。平和な日常が帰ってきた。
何も知らなければ、わたしもそのはずだった――。
◇
「……あれ……?」
その日の帰り。
図書館の跡地にまたグレンさんが立っていた。
またこの季節にそぐわない薄着だ。声をかけていいものかどうか迷う。
手には大きな紙をぐしゃぐしゃにして握っている。
(新聞……)
「…………グレンさん」
「…………」
意を決して彼の横に並んで声をかけた。
何も言わないし、こちらに目を向けることもない。ただ、先日のように拒絶されることもないのでそのまま隣に立っていることにした。
2週間ほど前も彼はここにいて、空を見上げていた。
あの時も今もどういう気持ちでいるのだろう――。
「……ギルドから連絡があった」
「……え?」
不意に、彼がボソリと呟いた。
今日はそんなに風が強くない。その風で生じたわずかな葉擦れの音でかき消えそうなくらいに小さい声だった。
「冒険者のランクが、来月から上がるそうだ」
「そうなんですね。よ……」
『よかったですね』なんて言葉が喉まで出かかり、すんでのところでそれをせき止めた。
――どうして今ランクが上がるの?
彼はずっと倒れて寝込んでいて、2週間以上は冒険に出ていないはず。
前からそういう話が出ていたのだろうか? ……きっと違う。
彼が賞金首の男を……キャプテンを、捕まえたからだ……。
「……レイチェル」
「……はい」
「…………キャプテン、処刑されたって」
「……は……い」
「……キャプテンは……どうして名前を名乗らずに死んでいったんだろうか」
「え……?」
――分からない。分かるはずがない。
『こうじゃないだろうか』という予想もできない。
なぜ彼は「アルゴス」とも「グレン・マクロード」とも名乗らず、名前のない殺人鬼として死を受け入れたのか。
わたしはあの人の人間性も何も知らない。
真意は、あの人自身しか……。
「ごめんなさい……わたしには……分かりそうにありません」
「……そうか……」
「…………」
「……俺が……」
「え?」
「俺が……あの人の名前を、取ったから」
「……!?」
「だから、キャプテンの名前は、なくなったんだ」
「な……」
突如彼の口から発せられる理解の及ばない言葉にわたしは目を剥いた。
「なに、何を、言ってるんですか!? 名前はなくならないですよ! 一体どうして、」
「俺が、キャプテンから、名前を、取り上げ」
「ちがうよ! やめてよ! どうしてそんな風に考えるの? あの人の名前を名乗っていたって、なくならないよ!」
震える声で弱々しく言葉を放つ彼の正面に立ち、彼の両腕を持って身体をゆすって必死に叫んだ。
「…………じゃあ、どうし、て」
「それは……分からない、けど……、でもキャプテンは名前取られたなんて絶対思ってないよ! キャプテンも、あなたも、どっちとも『グレン・マクロード』だよ! お願い、そんなこと言わないで……!」
わたしがそこまで言ったところで、彼は糸が切れたように地面に膝をつき、そのまま顔を覆って突っ伏した。
赤い目から涙があふれ、顔を覆っている手の指の間を通って流れ落ちる。
「…………っ」
「……グレンさん……!」
しゃがみ込んで彼の背中をさする。
「……レイチェル……、俺は」
「……はい」
「この……図書館……、なくなってほしく、なかった……」
「……!」
その後彼の口から言葉が出ることはなく、ただ地面に頭をこすりつけて嗚咽するだけになってしまった。
「……グレン……」
――"風と鳥の図書館"。
ここは、テオ館長と奥さんの「魔法を使える者使えない者、髪色や身分も関係なくみんなが気軽に訪れて好きな本を読める場所を作りたい」――そういう願いを込めて作られた夢の場所。
『あそこは良い……俺が紋章使いと分かっていても館長は何も聞いてこない。死んだような目をしていても誰も咎めないし、ただそこにいることが許される』
以前、彼がそういう風に言っていた。
ここでは彼は何者でもなかった。
紋章も何も関係ない。騎士でもノルデン人でも、もちろんカラスでもない、ただの司書のお兄さん。
ボーッとして、本を読んで、たまに2人でつまらない話をする。
あたたかく優しい風が吹く、安らぎの空間。
この図書館は彼にとって本当に大事な場所だったんだ。
光の塾の神はまやかし。
名前をくれたキャプテンは彼を裏切り、闇に堕ちて死んだ。
辛い心を癒やす図書館も、もうない。
――なくなる。彼の信じたものが、大事なものが全て、奪われて消える。
(……テオ館長……!)
もう何も分からないです。わたしはどうしたらいいですか?
どうやったら彼に、また"いい風"が吹きますか?
教えてください。このままだと、彼自身が消えてしまいそうなの。
それと同時にアルゴスの髪の白い色が古い塗料のようにひび割れていき、パサパサと剥がれ落ちていく。
剥がれた白色の欠片は地面に落ちた瞬間にわずかに光を放ち溶け消え、全て剥がれた後、アルゴスの頭髪は手配書の写真と同じ黒色になった。
頭の色は変わったけれど瞳は赤のままだ――今、何が起こったんだろう?
アルゴス自身も状況を飲み込めないのか、頭を抑えながら呆然としている。
ひどく驚いた顔をしているのは髪色が変わったことに対してなのか、それとも目の前にいる青年に名前――おそらく真名を呼ばれて、かつその青年が自分と同じ名前であることに対してなのか――。
経緯は全く分からない。
グレンさんは昔「光の塾」の下位組織で名前を持たず番号で呼ばれていた。そんな彼に、おそらくこの人が自分の名前をあげた。
彼にとってこの人は恩人なのだろう。その人とまさか、こんな形で再会を……。
「『お前はゴミじゃない、人間だ。人間は生まれた時から人間だ』『ゴミになる人間はいるが』と、あんたは昔、そう言った……のに……」
「……グ……」
「キャプテンは、ゴミになってしまったのか!?」
今までで一番大きな声で、彼は肩と唇を震わせながら叫んだ。
目から涙は流れていない。だけど、今彼は泣いている。心が叫び声を上げている――。
"キャプテン"は何も言わず、時間が止まったかのように目と口を開いたままただ目の前の青年を見上げている。
キャプテンの言葉を待つことなく彼は踵を返した。そして……。
「……キャプテンの火は……汚い……!」
そう言い捨てて、フラフラと階段を上っていった。
「あ…………!」
去って行く彼を慌てて追いかける――去り際にちらりと牢の中のキャプテンに目をやると、やはり彼に名前を呼ばれた時のまま固まっていた。
あの人が今どういう気持ちなのか分からない。
だけどわたしの思考の範囲は、あの人を理解しようとするほどに広くはない。
地上に出ると、彼が両手で顔を覆い隠しながら歩いていた――歩いていると言うよりむしろ、倒れそうになるのを片一方の足で支えそれを繰り返している結果前に進んでいるだけに見える。
昼間の豪雨が嘘のように空には雲一つない。真円に近い月の明かりが弱々しくゆらめく彼の影を残酷なまでにはっきりと映し出している。
「待って、グレ……」
「近寄るな!!」
「……!!」
「誰の顔も……見たくない、放っておいてくれ……!」
そう言ったあと、彼は転移魔法で姿を消してしまった。
「っ……グレンさん……、グレン、さん……っ!」
残されたわたしはその場にしゃがみ込んで泣きじゃくってしまう。
ここ数日で、もう何度目だろう?
だけどこんなの無理だ。何もかも、あんまり辛すぎる。
どうしてこんなことが起こるの?
どうして彼があんなにまで傷つけられないといけないの?
どうして彼が打ちのめされているのに、わたしは何もできないの?
なんにも、なんにもできない。わたしは無力だ。
◇
――翌日朝早くに、キャプテンを連行するために聖銀騎士がやってきた。カイルが連絡を入れたんだろう。
キャプテンはアーテさんの時のように白銀の手錠を嵌められた上、身体をロープで拘束された状態で聖銀騎士4人に取り囲まれながら連行されていく。
わたし達――グレンさん以外のメンバーで、それとなくその様子を見ていた。
グレンさんはあの後医務室ではなく自室に飛んでいったようだ。
扉には鍵がかかっていた……今日はまだ、顔を見ていない。
わたし以外の3人は、昨日対峙した「アルゴス」の髪色が黒になっていた上、彼の様子があまりに違うために驚いていた。
あれほど饒舌だったのに一言も発さない。
狂気に満ち満ちた赤い瞳は輝きを失い、生気をなくしたような表情で下を見つめながら重い足取りで歩いている。
やがてキャプテンは中庭に面する廊下に来た辺りで聖銀騎士に何事か囁き、彼らと共に歩みを止めた。そして――。
「……お嬢さん」
「!!」
中庭で花に水やりをしているわたしになぜか声をかけてきた。
……肩の筋肉が強ばる。周りに聖銀騎士様がいるから襲われたりはしないだろうけど、さすがに怖い。
一体何を言われるんだろう?
「…………すまなかった」
「………………!」
予想外の言葉に、体温が下がるような感覚を覚える。
――「すまなかった」って何? 何を言うの? 何を言ってるのよ。
自分が何をしたか分かっているの?
急にやってきてジャミルを滅多打ちにして、ウィルにはナイフを突き刺して。
あの子はジャミルの精神が落ち着かないから形作れないといって未だに出てこられない。
あんな泥人間を出してわたし達を襲わせて、宝玉の中の子を嘲り笑って。
それにわたし達は、この人の出した巨大な火球で焼き殺されるかもしれなかった。
すんでのところで彼が助けに来てくれて事無きを得たけれど……。
――そう、彼。
わたしの大事な彼の心をこの人はズタズタにした。
この人がいなかったら、彼は今存在していないのかもしれない。
もしかしたら、この人が名前をくれたことで彼の人生が始まっているのかもしれない。
だけどわたしには、そんなこと何も分からない。
この人のおかげで人生が始まったかもしれない。
だけど、この人のせいで彼は人生を終わらせてしまうかもしれない。
それだけのことをした。
許せない。許せるはずがない……!
「…………意図の分からない、謝罪は……受けられません……」
「…………」
喉が締め付けられるような感覚を覚えながら、それだけ絞り出した。
――わたしは知っている。
責められた方が、許されない方が、ずっと楽かもしれないことを。
許すことも許さないこともこの人の心を軽くしてしまうのなら、だったらわたしはこの人に何の答えも出さない。
「…………」
キャプテンは何も言わず、横にいる聖銀騎士に「用事は済んだ」と告げてまた歩き出す。
雲一つない青空の下。
こうしてわたし達を恐怖と絶望の底に叩き落とした「赤眼の男」は護送車に乗せられて去って行った――。
◇
その翌日の新聞の一面に「赤眼の賞金首の男を逮捕、処刑」という記事が掲載されていた。
いくらなんでも早すぎるし、大量殺人犯とはいえ見知った人間が会ってすぐに死んだというのはショックだ。
記事によると、彼は自分の家族を銀髪の貴族に殺され、憎しみの気持ちに囚われた毎日を送っていたらしい。
そしてある日闇の剣を拾ったことでその気持ちに歯止めが利かなくなり敵討ちをした。でもそれだけでは済まず、次第に銀髪貴族を殺すことが生きる目的になっていった――ということだった。
新聞にはあの黒い義手や血の宝玉のことは載っていなかった。
そして、彼自身の名前も。
『闇に囚われ名前も忘れ、怨恨だけが頭に残った殺人鬼』なんて記されていた。
テスト休みが終わったので、わたしは学校へ。
今日は終業式。
朝礼ではやはり賞金首の男が逮捕され処刑された旨の話があった。
武装した傭兵の姿も今日はなく、みんなどこか晴れやかな顔をしていた。
すぐに処刑されたことに疑問を感じつつも「冬休み前に逮捕されてよかった」「やっと出かけられる」なんて言い合っている。
これでみんな元通り。平和な日常が帰ってきた。
何も知らなければ、わたしもそのはずだった――。
◇
「……あれ……?」
その日の帰り。
図書館の跡地にまたグレンさんが立っていた。
またこの季節にそぐわない薄着だ。声をかけていいものかどうか迷う。
手には大きな紙をぐしゃぐしゃにして握っている。
(新聞……)
「…………グレンさん」
「…………」
意を決して彼の横に並んで声をかけた。
何も言わないし、こちらに目を向けることもない。ただ、先日のように拒絶されることもないのでそのまま隣に立っていることにした。
2週間ほど前も彼はここにいて、空を見上げていた。
あの時も今もどういう気持ちでいるのだろう――。
「……ギルドから連絡があった」
「……え?」
不意に、彼がボソリと呟いた。
今日はそんなに風が強くない。その風で生じたわずかな葉擦れの音でかき消えそうなくらいに小さい声だった。
「冒険者のランクが、来月から上がるそうだ」
「そうなんですね。よ……」
『よかったですね』なんて言葉が喉まで出かかり、すんでのところでそれをせき止めた。
――どうして今ランクが上がるの?
彼はずっと倒れて寝込んでいて、2週間以上は冒険に出ていないはず。
前からそういう話が出ていたのだろうか? ……きっと違う。
彼が賞金首の男を……キャプテンを、捕まえたからだ……。
「……レイチェル」
「……はい」
「…………キャプテン、処刑されたって」
「……は……い」
「……キャプテンは……どうして名前を名乗らずに死んでいったんだろうか」
「え……?」
――分からない。分かるはずがない。
『こうじゃないだろうか』という予想もできない。
なぜ彼は「アルゴス」とも「グレン・マクロード」とも名乗らず、名前のない殺人鬼として死を受け入れたのか。
わたしはあの人の人間性も何も知らない。
真意は、あの人自身しか……。
「ごめんなさい……わたしには……分かりそうにありません」
「……そうか……」
「…………」
「……俺が……」
「え?」
「俺が……あの人の名前を、取ったから」
「……!?」
「だから、キャプテンの名前は、なくなったんだ」
「な……」
突如彼の口から発せられる理解の及ばない言葉にわたしは目を剥いた。
「なに、何を、言ってるんですか!? 名前はなくならないですよ! 一体どうして、」
「俺が、キャプテンから、名前を、取り上げ」
「ちがうよ! やめてよ! どうしてそんな風に考えるの? あの人の名前を名乗っていたって、なくならないよ!」
震える声で弱々しく言葉を放つ彼の正面に立ち、彼の両腕を持って身体をゆすって必死に叫んだ。
「…………じゃあ、どうし、て」
「それは……分からない、けど……、でもキャプテンは名前取られたなんて絶対思ってないよ! キャプテンも、あなたも、どっちとも『グレン・マクロード』だよ! お願い、そんなこと言わないで……!」
わたしがそこまで言ったところで、彼は糸が切れたように地面に膝をつき、そのまま顔を覆って突っ伏した。
赤い目から涙があふれ、顔を覆っている手の指の間を通って流れ落ちる。
「…………っ」
「……グレンさん……!」
しゃがみ込んで彼の背中をさする。
「……レイチェル……、俺は」
「……はい」
「この……図書館……、なくなってほしく、なかった……」
「……!」
その後彼の口から言葉が出ることはなく、ただ地面に頭をこすりつけて嗚咽するだけになってしまった。
「……グレン……」
――"風と鳥の図書館"。
ここは、テオ館長と奥さんの「魔法を使える者使えない者、髪色や身分も関係なくみんなが気軽に訪れて好きな本を読める場所を作りたい」――そういう願いを込めて作られた夢の場所。
『あそこは良い……俺が紋章使いと分かっていても館長は何も聞いてこない。死んだような目をしていても誰も咎めないし、ただそこにいることが許される』
以前、彼がそういう風に言っていた。
ここでは彼は何者でもなかった。
紋章も何も関係ない。騎士でもノルデン人でも、もちろんカラスでもない、ただの司書のお兄さん。
ボーッとして、本を読んで、たまに2人でつまらない話をする。
あたたかく優しい風が吹く、安らぎの空間。
この図書館は彼にとって本当に大事な場所だったんだ。
光の塾の神はまやかし。
名前をくれたキャプテンは彼を裏切り、闇に堕ちて死んだ。
辛い心を癒やす図書館も、もうない。
――なくなる。彼の信じたものが、大事なものが全て、奪われて消える。
(……テオ館長……!)
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