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10章 "悲嘆"

10話 せめぎ合い

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「駄目だよ……その男について行っちゃ、駄目だ……」
「…………」
 
 息を切らしながら、アルノーという人がこちらに近づいてくる。
 ここは街じゃない。きっと砦からも離れている、どこかの森。
 どうしてわたしを見つけたんだろう?
 ……でもそんなことどうでもいい。
 わたしはもう、あんなヒトは知らない。
 
「ルカ。彼は?」
「知りません」
「え……」
「知りません。……あのヒトも、わたしを知らないって言いました」
「っ……」
「君を否定したのだね」
「はい。わたしのお兄ちゃまを否定して、わたしを知らないと怒ったヒトです」
「酷い男だ。忘れてしまえばいい」
「はい」
 
「ま……待って、駄目だよ、その男は」
「"その男"じゃない。ロゴスさま。司教さまよ。神様に一番近い方。無礼な呼び方は許さない」
「な……」
「もう、いいかな? 行こうか、ルカ」
「はい……」
 
「待って! 駄目だ、駄目なんだ! その男は、僕達から君を奪って家族を壊した人間だよ!!」
「…………?」
 
 彼は眼を見開いて、大声で叫ぶ。
 ……何を、言っているんだろう。
 ロゴスさまがわたしを奪って、彼の家族を壊して……?
 
「ルカ、耳を貸しちゃいけない」
「は……はい」
 
 ロゴスさまが、わたしの肩に手を回し囁く。
 そして彼を見据え、口を開いた。
 
「君は"ヒト"だね。僕の天使をかどわかすのはやめてもらいたいな」
「あ、あなたは……10年前に家に来て、妹を連れ去っていきました」
「…………?」
 
 彼の口から語られる事実に胸の辺りがギュッとなる。
 何? 何を言っているの?
 
「なるほど、君はルカの"兄"だというのだね。……しかし君はこの子なんか知らないと怒鳴ったのだろう?」
「そ、それは……突然のことで、困惑していて……でも、」
「ごらん、ルカ。これがヒトの所業だよ。彼らはこうやって、気分によって言うことをひるがえして惑わす。悪魔だよ」
「…………はい」
 
 あのヒト、最初会った時は「妹なんかいない」って言って怒ったのに。どうして違うことを言うの。
 ロゴスさまの言う通り。彼は悪魔だ。
 
「なぜ今になって彼女を妹と言うんだい? 彼女はずっと泣いていたのに。君の言葉で傷ついて……それは"お兄ちゃま"がすることかい?」
「…………」
「この子がどれだけ心の中の"兄"を大事にしていたか……君に会えてどれほど嬉しかったことか。しかし君はこの子の気持ちを否定し――」
「"光の塾"というのは、喜びを禁じ、食べ物を美味しいと思うことすら許さない宗教なのでしょう。なら、この子が"兄"を大事だと思い、再会を喜ぶ気持ちは"穢れ"ではないのですか? あなたがたの教義にのっとるなら、それを否定した僕の行動は別に"悪"ではないでしょう」
「…………」
 
 ロゴスさまの言葉の途中で、彼はロゴスさまを睨みながら言葉を発する。
 怒鳴った時のように大声ではないのに、なぜか頭に響いてグラグラする。
 ――これは、なんなのだろう?
 
「ルカ、ヒトはああやって詭弁きべんろうして僕達を穢す。光の塾を、我々の神を否定し、甘言に乗せられた信徒はヒトに落ちる。君はまた苦しみたいかい?」
「あ……」
「詭弁なら詭弁で、好きに取って下さい。……苦しみのない人生なんてあり得ない。度合いの違いこそあれど、生まれてきたからには人はどこかで必ず苦しむ。痛みと苦しみのない世界なんて、彼らの言うことこそ甘言だよ」
「…………っ」
「ルカ、聞いてはいけない」
「お願いだ……僕の話を聞いて」
「あ……あ……」
 
「聞いて」「聞かないで」――ロゴスさまと彼が、交互にわたしに言葉を投げかける。
 ――分からない。頭の中がぐるぐるして、どちらも受け取れない。
 眼から勝手に涙がこぼれる。わたしは何なの。何も分からない。
 
「泣かないで……やっと思い出したんだ。君は、僕の妹だ。……ひどいことを言って、傷つけてごめん」
「なに……を、」
 
 彼は泣いているわたしを見て、眼を潤ませて笑う。
 そんな顔見たくない。胸が苦しい、しめつけられる……。
 
「僕達の父さんは、君をこの男……"光の塾"に売り渡した」
「……とう、さん……?」
 
「そう。……あまり裕福じゃなかったところに突然法外な金を得た父さんは、その後高級な嗜好品を集め始めて……そのうちに夜は飲み歩いて、賭け事や女性に湯水のように金を注ぐようになった。……色んな事情で僕は縁を切られて、今はどこで何をしているか分からない」
「…………」
「母さんは、存在も記憶も奪われた君のために、ずっとケーキやかわいい小物を買い集めていた。父さんはそんな母さんを頭のおかしい人間扱いして、精神を患う人の施設にたたき込んだ。今もずっと壊れたままだ。……たまに意識が戻った時は、人形に話しかけてる」
「おとうさん、おかあさん……?」
「僕達家族はバラバラだ。何も、幸せなんかじゃない……苦しいことばかりだ。だけど、それでも……戻ってきて欲しい」
「もどる……」
「おかしな事を言う。君は妹を不幸にしたいのかな?」
「不幸になんかしたいわけがないじゃないですか! そもそも、こうなったきっかけを作ったのはあなたでしょう……!」
「…………」
 
 彼が歯噛みしながらロゴスさまを睨む。
 彼の周りに、氷の針が浮き上がって視える――凍てつくような感情を向けられてもロゴスさまは動じず、柔らかく微笑んだまま両手を広げる。
 
「『この子には無限の可能性がある。このまま埋もれさせておくのはもったいない。光の塾で魔法を学んで紋章に目覚めれば、魔術学院で特待生に迎えられる。そうなれば将来安泰ですよ』――そう言って机の上に大金を積んだら君の父親は喜んで娘を差し出したよ。動じない親もたくさんいるのに、欲深いことだ」
「くっ……」
「ロ、ロゴスさま……あの人は、本当にお兄ちゃまなんですか?」 
「そうなるのかな。でも、その事実は重要じゃないよ。君の父親はカネに眼がくらんだ原罪まみれのヒト……僕は君を救い出してあげたんだよ、悪魔の棲む家から」
「やめてください! ……僕の家は確かに正常じゃない……だけど、妹を奪ったあなたに悪魔なんて言われる筋合いはない!」
「悪、魔……ヒッ!」
 
 わたしが彼の言葉を反芻していると、唇にロゴスさまの指が当てられた。
 
「駄目だよ、ルカ。彼の言葉に惑わされては」
「やめろ、妹に触るな!」
「お、おに……」
「違うよ。彼は君の兄のふりをする悪魔だ」
「…………う、あ」
「まるで妹をずっと思っていたかのように言うけれど、君はその存在を忘れていたのではなかったかな」
「そ、それは」
「今の今まで存在を忘れていたような者が、彼女を大切になどできるかな。君は彼女にどんな幸せを与えてあげられる?」
「幸せを与えることは……できません」
 
 そう呟いて、彼は碧の眼を細め、横にそらす。でもまたすぐに眼を見開いてわたしを見た。
 
「その人の言う通りに、僕は君のことを忘れてしまっていた。たった1人の妹なのに……。ずっと自分のことしか考えていなかった……ごめん、僕を許して」
「……あ……」
「僕は神じゃないし、天使でもない。人間だ。自分勝手だし、愚かなことをする。喜びや幸せを与えるなんてできない……でも、それは自分で見つけて、感じ取っていくものだ。だから、君がそれを探すのを手伝わせて欲しい。それで、一緒に喜ばせて欲しい」
 
 彼の眼から、涙がこぼれる。
 彼の周りを飛んでいた氷のトゲは姿を消し、水の滴が姿を現した。
 あまり、綺麗とはいえない。彼の心はきっと淀んでいる。いつかのジャミルと同じだ――。
 
「もしそれが駄目でも、その人についていくのだけはやめてくれ、お願いだ。君がなくなってしまう……それは、それこそ本当に不幸なことだよ」
「お、おに…………」
「……ルカ、涙に惑わされてはいけない。ヒトはああやって相手を思うようなことを言って泣いてみせる。でもそれは自分を憐れんで流す涙なんだ。聞こえのいい台詞を言っている自分に酔っているに過ぎないんだ」
「……分かったよ、僕のことはそれでいいよ。でも、僕以外の人は? ジャミルとか、他に仲間や友達がいただろ? その人達のことは、ひとつも大事じゃない? もう会えなくなってもいいの?」
「……とも、だち……」
 
 ――砦のみんな。
 前わたしがいなくなったとき、みんなで捜してくれた。
 レイチェルも、フランツも、ベルも、カイルさんも、みんな……わたしを想って。
 
「ロ、ロゴス、さま……」
 
 隣に立つロゴスさまを見上げると、わたしの肩に手を置いたまま微笑んでいる――灰色の瞳は、澄み渡っている。
 グレンとは違う。そう、まるで清流のよう……でも、これは、綺麗なもの?
 
(ちがう……!)
 
『グレン、ヒトの世で、生きるのは……苦しい?』
『そうだな。神はいない。人間は汚いし、自分勝手だ』
『でも、そうじゃないのがいることも知ってる。そういう奴らのおかげで立っている』
『そもそも俺も人間だし、綺麗でもない。折り合いをつけて生きていかなければいけない』
 
 彼の水がどす黒くなって眼が紅く染まってしまったのは、ヒトの世で折り合いをつけながら生きて苦しんだ証。
 紅くなる前だって、決して澄んではいなかった。
 それはきっと、その眼に綺麗なものと汚いものを映しつづけてきたからだ。
 
 だけど目の前のこの人は、その眼に何も映していない。
 見ようと思うものしか映さない。だから汚れていない。だから、綺麗……、
 
(ちがう、ちがう……!)
 
 この人は、汚れていないけど、綺麗でもない。
 光、闇、どちらでもない。
 
 "無"だ――。
 
 
「ルカ、もういい。これ以上は時間の無駄だ」
「え……、ヒッ……!」
「う……っ!」
 
 ロゴスさまがわたしの思考を遮り、額の紋章を光らせた。
 頭の中にキーンという高い音が響く。眩しい、頭が痛い、動けない……。
 
「う、う…………っ!」
 
 彼もロゴスさまの放つ紋章の音が頭に響いているのか、頭を抱えてうずくまっている。
 ――だんだんと目の前が白んでいく。
 
「さあ行こうか、みんなが待っている」
 
("みんな"……?)
 
『お願いだよ……、ルカがせっかく見つけたルカを、捨ててしまわないでよ……』
 
(レイ、チェル……)
 
 眼の端から涙がこぼれる。
 いやだ、砦のみんな以外の、知らない"みんな"のところになんて行きたくない。わたしはわたしを捨てたくない。
 でも身体が動かず、声を出すこともできない。目の前で閃く紋章から目が離せない。
 光の粒が集まる。何一つ視認できないほどのまばゆい光が、わたしの意識をかき消していく――抗うことは、できない。
 
 ――もう駄目。わたしが見つけた"わたし"は消える。
 全部の感情と一緒に、何もかも忘れてしまう。
 
「ま、待って……駄目だ……連れて、行かないでくれ……」
 
 ――遠くの方で、彼の声が聞こえる。そんな彼を見てか、ロゴスさまは微笑みながらため息をついた。
 
「――もういいだろう? 僕の天使をこれ以上苦しめないでくれ」
「……ちがう! 何が、天使だ……やめろ……!」
 
 もういいの。もういい。これ以上逆らうと、あなたは消されてしまう。
 わたしのことはもう、忘れて――
 
「行かないで、!!」
 
 ――一陣の風が吹いた。
 わたしを包む光の粒が、全て霧散していく。
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