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予感
しおりを挟むその日は朝からついてなかった。
取引先から会合延期の連絡が入ったのが朝1番。
あくまであちらの都合によるキャンセルで、こちらには落ち度はない。
そこまでは良かった…。
けれど唐突に空いたその時間に、本社での会議が飛び込んできた辺りから、雲行きが怪しくなってきた。
本社自体はそう遠くにある訳ではない。
道が空いていれば、車で30分ほど。
なのに今日に限って道は混雑しているわ、会議の終了時間が予定よりもだいぶオーバーするわ。
1つ予定が狂えば、当たり前の事だけどその後の予定全てがずれ込む。
そして予定していた会合は、どれもキャンセルの許されないもので。
当然、調整は二転三転し、スケジュールはどんどん押してゆく、
必死に携帯を耳に押し当て、相手の言葉を聞き漏らさないようメモをとり、復唱して確認する。
それでも些細な連絡ミスもあり、美月の神経はすり減るばかりだった。
そうしてようやく乗り切った1日のシメが、取引先社長の在職25時年記念パーティ。
もちろん社長である神崎も、秘書の美月も招かれているそれに遅刻は許されなかった。
会場となるホテルはもちろん、神崎グループでも最高クラスの立地とサービス、食事を誇るところで。
用意してきたドレスに着替えながら、美月は密かに気合を入れ直した。
上品かつシンプルなデザインのドレスは、黒に近い濃紺。
ゴテゴテしたデザインを好まない美月は、小ぶりなパールのネックレスを控えめに開いた胸元から、少々大胆に開いた背中へ流して結んだ。
体の線に沿ったシンプルなドレスは、手触りもデザインも気に入っているが、こういうドレスを身につけると…セクハラまがいの言動をする者が少なからずいる。
もちろん、神崎が一緒の時はそうでもないが1人になった途端、露骨な視線を向けてくる者もいるのだ。
とはいえ、このような場でいちいちそんな事を気にしていては秘書は務まらない。
最初こそ神崎と一緒に回っていた美月も、神崎が取引先の社長に捕まってからは1人で挨拶回りをこなしていた。
「これは美月ちゃん、相変わらず綺麗だね」
パーティは始まったばかりだというのに、もう酔っ払っているのか真っ赤な顔で近寄ってくる、別の取引先の常務に美月はため息を押し殺した。
——美月ちゃんって。
ここはクラブではないんですけど。
笑顔が強張らないよう、細心の注意を払いながら頭を下げる。
「日高さま、ご無沙汰しております」
会えばいつもねっとりとした視線を向けられ、さり気なく触ってくるこの取引先が、美月は大嫌いだった。
…そんな素振りは決して見せないが。
——取引先の秘書を名前で呼ぶわ、セクハラするわ。
一体どういう神経してるのかしら。
「相変わらずここの酒は美味しくてね、ついつい飲み過ぎてしまうよ。
君もどうだい?」
「ありがとうございます。でも私は…」
「まぁ、そう言わずにこの年寄りに付き合ってくれよ」
言いながら、有無を言わさず手渡されたシャンパンを空ける美月を、目を細めて見つめる。
その眼差しは、孫ほど歳の離れた若い女性を愛でるというには熱を帯びたもので。
美月は向けられる視線にゾッとしながらも、表面上は丁寧に接し続けた。
「これは日高常務、お久しぶりです」
その時だった。
美月の背後から救いの手が差し伸べられたのは。
「神崎君、ここのアルコールも料理も相変わらず最高だね」
自分を見つめていた時の脂下がった表情を改め、好々爺の顔で話し出す日高常務の変わり身の早さに辟易しつつ、美月は2人にグラスを手渡した。
その際、さり気なく指先で手の甲を撫でられ悪寒が走るが、表情を崩す事は出来ない。
心もち強張った笑みを浮かべる美月を、神崎は複雑な想いで見つめた。
* * *
セレモニーも主催者の挨拶も終わり、人々は料理に舌鼓をうち、或いはグラスを片手に歓談している。
愛想の良い笑顔を絶やさぬまま、人の間を渡り続けた神崎がふと漏らした吐息に、美月は彼の疲れを察し
「何か食べ物を取って参ります」
と側を離れた。
神崎の好みは熟知しているので見繕って皿に綺麗に盛り付け、少し考えて炭酸水も持って戻ると、神崎の傍には見た事のない女性がいた。
話し中なら、と手にした皿をテーブルの上に置き様子を伺う。
神崎はこちらに背を向けている為、表情などは分からないが、女性は神崎の腕に手を置き親しげに話し込んでいる。
と、その時、神崎の背中越しに女性が向けてきた視線に美月はピンときた。
「あぁ、本城、すまなかったな」
女性の視線で気づいたのか、神崎が振り向く。
「こちら、井上 夕子さん。
うちのウエディング部門でドレスのデザインをしてもらってる。
こっちは秘書の本城だ」
紹介されて美月が頭を下げると、密かに値踏みするよう見つめていたその女性…井上が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「聡一郎、貴方、女性の趣味変わった?」
「余計な誤解をされたくないのでね、聡一郎はよしてくれないか。
だいたい君の旦那はどうしたんだ?」
——あれ?
媚びるような目を向ける井上に向けて放たれた神崎のその台詞は、日頃の愛想の良さなど微塵も感じられないもので。
というか…社長?
——密かにイラっとしてます?
神崎の温度の感じられない声色にムッとしたのか、それでも余裕の笑みを保ったまま彼女は離れていった。
私にしか聞こえないよう
「貴女のような小娘に、彼を満足させられるのかしら?」
と言い残して。
「…何を言われた?」
渋面の神崎に
「小娘、ですって」
苦笑を返す美月。
ふ、と眉間にしわを刻むと神崎は言い訳のように言葉を重ねた。
「言っとくが、彼女は元カノとかそういうんじゃないから。
2~3回寝ただけって…これって墓穴?」
——そうですね。
しかも結構酷い事言ってますよ、寝た「だけ」とか。
そう思いながらも口を突いて出たのは、本心には程遠い言葉で。
「別に言い訳なさらなくても。
社長がおモテになる事はよく存じております」
綺麗に微笑みながら言い切った美月に、神崎の眉間の皺が一層深くなる。
「美月…」
「本城です」
何とも言えない沈黙は、ほんの一瞬。
その短い間に気持ちを切り替えたのか、神崎は「若社長」の仮面を被り直し、美月も秘書として、自分の中に沸き起こる名前のつけられない感情に蓋をした。
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