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数年後の2人
シアワセノカタチ〜前〜
しおりを挟む「いってらっしゃい」
玄関先で微笑む私のお腹に触れ、航平は
「今日もお利口さんにしてるんだぞ。
あんまり暴れるなよ」
と言い聞かせる。
「那月も、大人しくしててくれよな。
家の事なんて、少々ほったらかしでも死にゃしない。
それよりも、くれぐれも無理だけはしないで、何かあったらすぐに俺か多恵子さんに連絡するんだぞ」
毎朝聞かされ耳にタコができているけれど、愛情ゆえの台詞なので笑って頷く。
「じゃ、行ってくる」
航平の肩に手を置き、頬に唇を押し当てる。
当然それだけで済む筈もなく、お返しをもらい、時に息も絶え絶えで見送るのだけど…それもすっかり我が家の朝の恒例となった。
昨年、航平と結婚しすぐに子供を授かった私は、先月末で育児休暇入った。
臨月に入り、ますます大きくなったお腹は今にもはち切れそう。
予定日は2週間後。
発育は順調で、母子ともに問題無し。
もういつ産まれても大丈夫と、医師からお墨付きをもらっているものの。
初めてのお産に底知れない不安を感じているのも、事実だった。
家族が増えるのだ。
希望と期待を抱きこそすれ、不安や恐れなんて。
そう、思うのだけど…。
本来なら航平と共に自分を支えてくれたであろう母の不在。
初めての妊娠に出産。
聞きたい事、相談したい事はいくらでもあった。
いや、何もなくても話したい事は沢山あったけど……返事が返ってくる事はない。
母の遺影に語りかけるだけの、いつも、いつでも一方通行。
それが自分でも思っていた以上に、寂しさと心細さ、やり切れなさをもたらしたのだ。
もちろん母代わりの祖母もいるし、出産経験者の綾香も、色々アドバイスくれるけど。
それでも、孫の顔を見る事なくこの世を去った母の若さに、改めて涙する事も多々あった。
もっとも、航平は航平で親になる事に対して違う恐れを抱いていた。
結婚を前に初めて聞かされた彼の過去。
彼の母親は航平を身ごもってすぐ、体調を崩しがちになり、出産後は床から起き上がれないまま、1年ほどで亡くなったのだという。
航平の母は未婚だった。
父親の名前は最後まで言わなかったらしい。
赤ん坊だった航平は、引き取り手がないまま施設へ預けられた。
「赤ん坊がお腹の中にいるという事は、文句なしに嬉しい。
那月が俺の子を産んでくれる…家族が増えるという事に対しては喜びしかない。
だけど…実際、怖いんだ」
妊娠を打ち明けた際、航平が漏らした弱音。
彼が弱音を吐いたのは、初めてかもしれない。
「親の記憶がないんだ。
愛された記憶もない。
施設でそれなりに可愛がってもらったとは思うけど、親の愛情を知らない俺が親になれるのか…産まれてくる子を本当に愛せるのか、不安なんだ。
それに記憶にはないけど、やっぱりどこかで出産て怖いものだって刷り込まれてて。
確実に安全なお産なんて、どこにもないって…怖いんだ」
初めて耳にする航平の過去に、私まで不安を口に出すのは憚られた。
「心配しないで、私は元気だから。
むしろ今まで悪阻もなくて気が付かなかったくらいだし」
「そうだけど…出産は代わってやれないし」
「大丈夫よ。
それよりも産む時はそばに居て」
「ああ、絶対そうする」
怖いのも不安なのもお互い様。
だけどいざとなったら「女は度胸」…いや、「母は強し」か。
密かに腹をくくった私を、航平は真剣な目で見つめた。
「お腹の子もだけど、那月も無事で元気に出産が終わるよう祈ってる」
まだ膨らんでも居ないお腹に額を押し当て、何度も摩る航平を抱きしめる。
——大丈夫。
私もお腹の子も、きっと大丈夫。
不安が消える事は多分ないのだろう。
けれど何度も、何度も宥める。
航平を…そして、私自身を。
そう言い続ければ、いつか本当になると信じて。
* * *
妊娠を知らせた時、電話の向こうで綾香は叫んだ。
「今すぐ日本に帰る!」
と。
「い、今すぐ?
綾香、あのね、今すぐ産まれる訳じゃないのよ?」
慌てる私の声と、電話の向こうのアーニィの声が重なる。
もっとも…日本にいた時と違い、彼の母国語ではなんて言っているのかさっぱりわからなかったけれど。
「だって!
悪阻は悪阻で気持ち悪いし辛いしだるいし。お腹が大きくなってくれば、それはそれでしんどいし。
それに何よりお姉ちゃんが心配なの」
必死で宥めているらしいアーニィに、何か言い返しながら電話で言い募る綾香。
気持ちは嬉しい。
とても有難いのだけど…。
「心配してくれるのは嬉しいけれど、私まだ働くわよ。
産休取るのはまだ先だし、来てくれてもそうそう会えない」
「まだ働くですって?産休?
産み月ギリギリまで働くつもり?」
電話口で綾香が何か叫んだ。
なんて言っているかはわからないけれど、キンキン声で耳が痛いので携帯を遠ざける。
「綾香、とりあえず今日は報告だけだから切るわよ。
アーニィとアリサによろしくね、綾香も元気で」
「あ、ちょっ…」
通話を切った途端、苦笑する航平と目があった。
「綾香ちゃん、テンション跳ね上がってたな」
「心配してくれるのは嬉しいけれど、迂闊な事言うとあの子、プライベートジェットとかで本当に飛んで来そうだから」
航平と顔を見合わせ、ふふっと笑う。
「なぁ、那月」
「なぁに?」
ソファに並んで座っていた航平が、改まった顔をする。
「ありがとな、俺の家族になってくれて。
その上、子供まで…もう1人家族を増やしてくれて」
まるで宝物のように、大事にそっと両腕で包まれる。
「男の子かな?女の子かな?」
「それがわかるのはもうちょっと先ね。
航平はどっちがいい?」
興味半分の問いに、航平はアッサリ
「どっちでも。
元気に産まれてくれればそれでいい」
と笑った。
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