狼王のつがい

吉野 那生

文字の大きさ
上 下
34 / 46
過去の亡霊編

王都へ〜シルヴァン〜

しおりを挟む

辺境伯という一貴族が使用するには豪華な馬車も、乗り心地の面では決して良いとは言えない。

ずっと同じ姿勢を保ち、緊張して乗っていればなおの事。
足腰も痛くなってくるし、地味に辛い。

私でさえそうなのだから、乗り慣れないユイにとってはどれ程の苦痛だろうと案じているのだが…。

気丈に振る舞うユイに今のところ疲れの色は見えない。


砦内ではお仕着せを身につけていたユイだが、今は簡素なドレスを着て背筋をピンと伸ばして座っている。

簡素とはいえ、お仕着せよりはるかに華やかな布地で作られたドレスは、派手さはないがユイの清楚さを引き立てていると思う。


髪の毛が短いのが少し残念だが、レプスの手により綺麗に整えられたそれは、本人がジャキジャキに切ってしまった頃より多少はマシになった。



——あんな、強さを持った子だとは知らなかった。

リサの明らかな侮辱に対し、メソメソ泣く事も喚き散らす事もせず、髪の毛を惜しげもなく切り落としたあの時のユイの静かな、けれど強い抗議と憤りを孕んだ瞳。

あの目を忘れる事はないだろう。


漆黒の艶やかな髪もよく手入れされていて、おそらく本人も好んで伸ばしていたのであろうに…。


“黒“という色は本質的に好まないが…それでもユイの髪なら、何度も指を滑らせてみたい。
いや、髪と言わず柔らかそうな頬でも露わな首筋でも触れてみたい。



——しかし…。
私が感じているような衝動も情念も、ユイには無縁のモノなのだろうな。


ふと苦笑いとも自嘲ともつかない想いに駆られ、唇の端を歪めた。

今だって、手を伸ばせばすぐに届く距離に、しかも人目が全くないとは言わないが密室に2人きり。

出来るものなら膝の上に乗せて、思うさま抱きしめたい。
赤く柔らかそうな唇を味わってみたいという衝動に、必死に耐えているというのに。



相手をつがいと認識する感覚は個体によって…そして獣人とヒトとではかなりの差があると聞く。


私は…崖から落ちたアリシア…ユイを助けた時に、そうと感じてはいた。

同時に、彼女の置かれた状況や背景が掴めず混乱に困惑、猜疑、不審、動揺、あらゆる感情に囚われ、つがいと認める事がなかなか出来なかった。


迷いびとであるという確信を持つに至って、初めて余計な先入観なく彼女と接する事が出来た。

獣人である私ですら、戸惑ったり悩んだりして受け入れた事実であるのに、獣人のようなつがいという概念も獣の本能もないユイに、受け入れろの強いるのも酷な話だ。



ユイはこの世界の者ではない。

この世界のことわりの外に生きる者。

無理やりこの世界に縛り付けてはいけない。


まして…この世界に残るという事は、元の世界の全てを捨てろと言うのと同義なのだ。

彼女は両親も恋人も、自分を待つ人は向こうにはいないと言ったが、それでも…何もかも捨てて私を選んでくれなんて事、言える筈がない。


そんな事を考えていると、向かいに座っているユイとパチリと目があった。


「どうかしたんですか?」

心配そうにこちらを見つめているユイを安心させようと、ぎこちなく笑いかけた瞬間。

異変を感じ取ったのはやはり他の獣人より優れた“狼の耳”だった。


「リサ!何か来る」

馬車の窓を開け放ち怒鳴るのと、空気を切り裂く音が聞こえるのがほぼ当時だった。


声にならない悲鳴と馬の甲高い嘶き。

そして鈍い衝撃音。

とっさに窓を閉めユイを抱きしめた私の鼻に錆びた鉄のような匂いが届いた。



——この臭いは…血?
……誰の?


「シルヴァン様!」

ドサリと重たい音と同時に馬車が止まる。


窓の外を窺うと、我々の馬車は馬に乗った10数名の獣人に包囲されていた。

その中に知った顔を見つけたのか、ユイが1人の男を指差す。


「あの時私を襲った猿人です」

あの時がどの時などと聞かなくてもわかる。

全身の毛が逆立ち、血が逆流するかのような感覚に、腕の中のユイがビクリと身体を震わせた。

「すまん、怖がらせたか」


宥めるように優しく背中を摩りながらも、明日には王都につくという状況と場所で襲ってきた奴らの狙いを考える。



——確かに、今通っている森が最後にして絶好のポイントではある。

王都へ入るにはこの森を抜けたら後は一本道で、比較的人通りが多く整備された街道を行く事になる。


しかし…狙いは私とユイ、どちらだろう。

捕獲か殺害か、まさか脅しという事はあるまいが。


考えている間にも、断末魔の叫びがすぐ近くで聞こえる。



——この場をどう切り抜けるか。
いや、この場合ユイを助ける事が先決か。


己のなすべき事が、優先順位が決まれば…。


「ユイ、緊急事態だ。
今から私は完全獣化するので、上着を持っていて欲しい。
あと、ドレスの裾を割いて紐状にしておいてくれ。
私が獣化したらお前と私をその紐で結ぶのだ」

「は…?あ、え?」


慌てて後ろを向いたユイの耳は、真っ赤に染まっていて。
察しの良い事だと笑いながら私は上着を脱いだ。


「頼んだぞ、後はしっかり掴まっていろ」

衣類を渡すと同時にヒト型を解いた私は前足で馬車の扉を開け、ユイを背に乗せる。


「シルヴァン様⁉︎」

低く吠えた私と背にまたがるユイとを、驚きに見開かれた目が捉え、僅かに眇められる。


「…お任せを」


しかし…ユイが、私が王に呼ばれし者である以上、護衛リサのすべき事は明白で。

この場を任せるという眼差しを理解したリサは、小さく頷いた。
 


馬車の反対側からユイを背に乗せたまま、跳躍する。
獣人達から十分な距離をとって着地し、一気に駆け抜けた。

血の匂いと剣戟が遠ざかる中、森の中をあえて出鱈目に走る。

当然、追手が追いつける筈もなく、これで逃げ切れると確信した瞬間。


「…っ!」

左の後ろ足に焼けるような痛みを感じた。


苦し紛れにはなった敵の矢が掠ったのだ、と理解できたが今さら止まる事はできない。

「シルヴァン様⁉︎」

気遣うような声にグルルと低く唸り、速度を上げてさらに敵を引き離す。



意外にも、ユイは乗り手としては優秀だった。
風の抵抗を可能な限り受けぬようぺたりと身を伏せ、太腿に力を入れて上手にバランスを保っている。

その事に少しだけ安心して、全速力で森を突っ切った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

果たされなかった約束

家紋武範
恋愛
 子爵家の次男と伯爵の妾の娘の恋。貴族の血筋と言えども不遇な二人は将来を誓い合う。  しかし、ヒロインの妹は伯爵の正妻の子であり、伯爵のご令嗣さま。その妹は優しき主人公に密かに心奪われており、結婚したいと思っていた。  このままでは結婚させられてしまうと主人公はヒロインに他領に逃げようと言うのだが、ヒロインは妹を裏切れないから妹と結婚して欲しいと身を引く。  怒った主人公は、この姉妹に復讐を誓うのであった。 ※サディスティックな内容が含まれます。苦手なかたはご注意ください。

友情結婚してみたら溺愛されてる件

鳴宮鶉子
恋愛
幼馴染で元カレの彼と友情結婚したら、溺愛されてる?

子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。

さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。 忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。 「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」 気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、 「信じられない!離縁よ!離縁!」 深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。 結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

【完結】おしどり夫婦と呼ばれる二人

通木遼平
恋愛
 アルディモア王国国王の孫娘、隣国の王女でもあるアルティナはアルディモアの騎士で公爵子息であるギディオンと結婚した。政略結婚の多いアルディモアで、二人は仲睦まじく、おしどり夫婦と呼ばれている。  が、二人の心の内はそうでもなく……。 ※他サイトでも掲載しています

溺愛ダーリンと逆シークレットベビー

葉月とに
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。 立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。 優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?

人違いラブレターに慣れていたので今回の手紙もスルーしたら、片思いしていた男の子に告白されました。この手紙が、間違いじゃないって本当ですか?

石河 翠
恋愛
クラス内に「ワタナベ」がふたりいるため、「可愛いほうのワタナベさん」宛のラブレターをしょっちゅう受け取ってしまう「そうじゃないほうのワタナベさん」こと主人公の「わたし」。 ある日「わたし」は下駄箱で、万年筆で丁寧に宛名を書いたラブレターを見つける。またかとがっかりした「わたし」は、その手紙をもうひとりの「ワタナベ」の下駄箱へ入れる。 ところが、その話を聞いた隣のクラスのサイトウくんは、「わたし」が驚くほど動揺してしまう。 実はその手紙は本当に彼女宛だったことが判明する。そしてその手紙を書いた「地味なほうのサイトウくん」にも大きな秘密があって……。 「真面目」以外にとりえがないと思っている「わたし」と、そんな彼女を見守るサイトウくんの少女マンガのような恋のおはなし。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しています。 扉絵は汐の音さまに描いていただきました。

処理中です...