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第13章 墨染めの恋

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「伍名――お前」
「もしもそうだとしたら、私が今、この時に……こうして参った事情を、多少なりとも酌んでいただけたでしょうか」
「……」
「昨晩私は、その神依という少女の元に天降りました。そして今は、その帰りです。……意味は、おわかりになりますね?」
「伍名……ッ」
「……」
その瞬間、伍名の眼前の空気が震える。それに呼応するように、空虚だったはずの空間がざわざわと騒ぎ出し、八方から刃を突き出すように伍名を取り囲む。
 天照、月読、そして素戔鳴と……そのいずれをも知る伍名は、一気に荒びた若き神の魂にその血の暴威を垣間見て苦々しく笑んだ。自らも神としてあらねば身くらいは弾き飛ばされてしまいそうな、圧倒的に暴力じみた神気でもってなされる威嚇。それを隠さないのは若さゆえとも言えるが、ただ……それでも伍名は少しだけ、嬉しいような安堵したような、不思議と穏やかな気持ちを心の片隅に保つことができた。
 あの一言でこうも有り様を変えるほど、この青き苗の神は今日まであの子を慈しんでくれていたのだ。そしてそれを、少女がはにかんで語ることができるくらい……大切に、穏やかに、優しいままに。この力に任せ無理矢理に組み伏せるでもなく、傷付けるでもなく、ただ寄り添うに留め、あってくれたのだ。それだけは……純粋に、ありがたい。
 日嗣は髪に、袖に、裳裾に怒気を孕み乱雑に立ち上がると、伍名の胸ぐらを引っつかんだ。突き出される空気の刃が喉元を抑えるように狭まり、しかし伍名はそれにも動じず、ただ真っ向から日嗣を見返す。
「衣に、花の残り香でもいたしますか」
「貴様……!」
日嗣はそれになお苛立ちを強め、唸る。
 それはかつて、洞主に迫ったときとも異なる恫喝だった。心を寄せず寄せつけない、理性ある凍てついた覇気ではなく――ただ雄としての憤怒と嫉妬に任せた、乱暴な恫喝。
 ――御霊祭の夜、たしかに日嗣も一度はそれを想った。もしもこの神に召し上げられれば、神依もその従者たちも今と変わらぬ幸せを得ることができると思った。
 伍名はすでに数多あまたの妻を持ち、子も今なおその数を増やしている。そして妻巫女たちは正妻たる女神を敬い自ららの頂点に据え、例え伍名が訪れる日がなくとも、子を抱き幸せを噛みしめ、時に女同士心を交わす――そんな和やかな共同体を形成しているから、そこならば神依も辛い思いをすることなく過ごせると思った。
 あるいは背の神の来訪なさを紛らすに、自らの従者と睦んだとて伍名は何も責めないだろう。それは無関心でも薄情でもなく、それさえ受け入れ女を愛せるだけの、度量があるのだ。それはもしかしたら、あの禊の幸せにも繋がるかもしれない。
 だが――あの夜、神依はその虚像さえかき消すような、絹の言葉を紡いで差し出してくれたのだ。それはまだやわらかく、もろく、華奢な紙風船を扱うように大切に扱わなければいけないものだったけれど。
 けれど自らもそれを欲して受け取った。軽くて儚いものではあったけれど、自分たちにはそれが必要だったのに。二人で大事に、それを守っていこうとしたのに。
 なのに――潰されてしまった。
「ッ……く」
 これではまるで、無法者に脇からぺしゃりと潰されて、神依ごと拐われてしまったかのようだ。挙げ句、寝取られて――。
 その思考に陥ったとき、日嗣は無意識にぎりぎりと奥歯を噛んでいた。身体の奥から煮えたぎった怒りがとめどなく湧いてきて、だが神依を想えば想うほど、その怒りは耐え難い痛みと悲しみに変わって自らの心と魂を痛めつけてきた。
「――っ貴様……それは私が御霊祭にてあの娘を取り立て、後も通っていることを知っての上でか……」
「……無論、存じ上げております。ですが貴方様は、正式に妻問いをなされていない。……貴方様の幼き威は、一人の女性を囲うにはあまりに隙間だらけのかごでありました。並みの神ならばその見えぬ壁でもよろしかったでしょう。ですがあいにく、私を阻むものにはなり得なかった。かりそめの権力で編まれた籠など、この伍名には無意味です。貴方様は一人の男として、もっと違うものでその籠をお造りになるべきだったはずなのに、生まれながらのご威光を過信してそれを怠った。そこは、貴方様の非ではございませんか」
「……ッ」
精一杯の矜持でもって問うも、逆に伍名は挑むような眼差しで日嗣に対してきた。
 それはあの夢でみたもう一人の男と同じように、もはや何の迷いもなく。
「……あの子はとても、いい子でした。今まで甘い言葉の一つも含ませてもらえなかったのか、いちいち私の言葉に反応するのも楽しくて。少し意地の悪い言い方をすれば頬を染めてうつむいてしまうような、な子でした」
「やめろ……」
「ちょうど湯上がりで、髪もしっとりと水気を含んでとても美しかった。肌も、そのすべてに頬紅を差したかのように淡く色づいておりました。……貴方様の朱印も見受けられましたが、その肌に舞わせる花弁も負けず劣らず鮮やかに翻って。そして――貴方様はその身をいずこまでその黄金の瞳に映されたのでしょう。私たち男が世界でもっとも丁重に扱い、もっとも慈しみ、もっとも愛さなければならないその秘された女の園は、可愛らしい桃の色をして……天酒のごとく、甘い露を満たしておりました」
「……黙れ……」
「……」
ふと楽になった胸元に伍名が目を遣れば、荒々しく衣を鷲掴んでいたはずの手が少しずつ力を失い、離れていくのが見えた。
 伍名の言葉とともにうなだれていく日嗣は、ただ伍名の言葉どおりの光景を思い描いて、それが真実なのだと思い込んで、怒りも憤りもすべてを絶望に変えて、それに呑み込まれてしまっていた。
 神も巫女も関係ない。ただただ想う少女の純潔を散らされたその悲痛は、物をつかみ、唸る気力さえ根こそぎ削ぎ落とした。
(……神依はそれを、一言も拒まなかったのか……? 巫女として、男神の来訪を断りきれないのは仕方がない。しかし、俺のことは想わなかったのか……俺の名を出し拒めば、あるいはその一線は越えずに済んだかもしれない。……なのに――)
 と、そこまで思って、日嗣は伍名から離れ崩れ落ちるように畳の上に座り直した。
(……もういい。何も考えたくない。考えるな。考えたら……俺は今度こそ、神依を傷付けてしまう)
すでに思考が刃となって神依に向かっていたことを自覚すれば、むしろ伍名より自分の方に腹が立った。それは形容し難い怒りで、物があったら壁にぶつけて当たり散らしたいような幼い怒りではあったが、その物もなければ今はそれをするだけの気力もない。ただ一度自分を戒めるように渾身の力で畳を殴れば、痺れるような痛みがようやく声を出す方法を思い出させてくれた。
「……ね。そして二度と、私の目の前にその姿を見せるな……」
「……」
そして日嗣は、呟くようにそれだけを命じる。しかし伍名は乱された衣を正すと、再び深く座り直し、語った。
「……貴方はいつも、人を愛する覚悟が足りない。あの姉妹神のときも」
「……」
静かに紡がれたその言葉も、不思議と昔ほど日嗣の胸を痛めつけはしない。
 薄情なものだとは思う。けれどそれがなぜだか改めて問い直すまでもなく、今の日嗣にはすべてわかっていた。
 悠久の時を経てすらどうにもならず、膿み尽くして……もはや干からびた骨だけのようになっていたそれは、あの星空のもと神依が紡いでくれた言葉と、その後に過ごしてくれた時間とによって……少しずつ癒やされていたのだ。
 神依はともにその罪と罰を引き受けて、重荷と痛みを減らしてくれた。その上、男としても夫としても父としてもできなかったあらゆることをさせてくれた。
 幸せだった。二人でなければ分かち合えない身勝手な幸せだった。だからその傷はきっと……もう、癒え始めていたのだ。
 だから今は、その傍らにあったものを失ってしまったことの方が何倍も辛く苦しい。
 赤子を抱いて隣同士座っていた光景がまた思い浮かぶ。しかし次の瞬間には赤子は破れた紙風船に姿を変え、隣には誰もいないまま、黒ずんだ床があるだけのむなしい光景に変わってしまった。
「……此度もまた、俺のせいだと言うのか」
 問えば、伍名は静かに頷く。
「ですから私は縁を司る神として、あえて今、貴方様に奏上いたします。……あの子はたしかに〝神依みより〟だ。そして女であるがゆえに多くの男を引きつけ、その心や、欲や、興味を依せられている。そして貴方様は今、その女を想う男たちの中でもっとも縁薄き者になっているという――その自覚はございますか」
「……それをたった今、もっとも薄めたのがお前であろうが……」
どこか遠くで聞こえてくるような伍名の言葉に、日嗣は自棄を含んだ笑みと声とで答える。
 それと同時に夢の中の青年の姿が思い浮かんで、その手首に結ばれた下手くそな紐飾りが思い浮かんで、代わりに自分には何もないことを改めて思い知った。
 ところが――
「私は神依を抱いてはおりません。その操を傷付けてもおりません。ただ……その器に、朱印を刻んだだけです」
「……、……何……」
次に耳に届いた言葉に、まるで救いを求める子のような眼差しで、伍名に応えた。
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