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第7章 神として

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 ――その直後、天地を裂く稲妻がほとばしり、淡島を凄まじい突風が駆け抜けた。
「――…!?」
唐突にわきあがるどよめき。その中で、日嗣はばっと空を見上げた。
 雨空は一層翳り、糸筋のような雷を宿した雲が蛇のように渦を巻いている。その雲は雨雲を喰らい、その中に埋もれていた太陽を隠し、八衢ごと朝と夜を混ぜたような黒い光で包み込んだ。
 それだけではない。足元では地が揺れ、広場を流れる小川の水が一斉に荒ぶって石畳を呑み始める。乾坤けんこんは共鳴するように震え、草木はざわめき、立っていることすらままならない。
 再び空で鳴る轟雷に、観客たちの間にさらなる悲鳴が沸き上がり皆一斉に地面に伏せた。
 そして境界を成していた注連縄が裂かれ、一直線の炎となって空を舞い塵となって消えた瞬間――まるで神依を目にしたように、凄まじい風が巻き起こった。
 それは唸り声を立てて広場中の水を巻き上げると、草花をむしり木を薙ぎ倒し、その土を削るように地を這いずる。
「な……」
それはまるで……一匹の、巨大な荒ぶる龍だった。
 水で成った形の定まらぬ龍は、痛みに暴れるように広場の上をのたうちまわる。
 観客たちは誰かが動く方に這いずり、あるいは崩れていく地から逃げようと人を押し退けて、我先にと朱の楼閣へと向かい助けを求めてその門を叩いた。
 しかし殴るような雨風が彼らに叩き付けられ、端から折り重なるように倒れていく。あるいは崩れていく大地に足を取られ、悲鳴だけを残して雲海へとその姿を消していく。
 阿鼻叫喚の図。
「――ち…ッ」
その中で真っ先に動いたのは、猿彦だった。
「これは一体――。さ、猿彦様――」
「うるせえ、下がってろ!! ――行け、お前たち!! 絶対に一人も取りこぼすな!!」
猿彦は理性を取り戻し始めた洞主を押しやり、羽扇を取ると自らを境に結界を張り直す。道俣ちまたの神であり、境を見守る猿彦の神威。続けて稚児と伶人たちに指図すれば、稚児らはその可愛らしい、あるいは麗しい姿を巨大な蛙の姿に反転させ――主命に従い落ちた人々を救うべく、一直線に雲海へと向かい大きく跳ねた。
「――孫!」
「彦――」
それを見送るのと同時に宙を蹴り日嗣の隣に浮かべば、日嗣は我に返ったように人々が集まる朱の楼閣を見遣る。
 猿彦の結界のおかげで身動きができる程度にはましになっているが、なおも嵐は収まらない。荒ぶる乾坤は高天原まで影響を及ぼしているだろうが、神々の加護が強いぶん被害は軽いはずだ。神域に護られると認識すれば多少なりとも人心は落ち着くだろう。
 ……たった一人の少女に、こぞって悪意を向けた人々。それでも……だからこそ。
 見捨てるわけにはいかない。
「……開門せよ!! 天つ皇御孫すめみまの勅令であるぞ!!」
日嗣はなりふり構わず、人が逆らえ得ない絶対的な言葉を選びそう叫ぶ。その声と言葉に、残った陸地や倒れた木々にすがる人々はほのかな希望と安堵感を持って朱の楼閣を見上げる。
 だが……しかし、門は一向に開く気配を見せなかった。そしてそれを悟った日嗣もまた、顔を歪めた。
「お祖母様……!」
あの言葉選びでなされた命を差し止めることができるのは高天原でもわずかばかりの神のみ。そのわずかばかりの天津神は、人命よりも神たる矜持とそれゆえの神性を選んだのだ。
「ッ……」
それは日嗣にも理解はできる。やはり人が踏み込んではならない領域というものがこの世には確かに存在するのだ。だがこれでは――神も人もどちらも同じくらい醜く、同じくらいやるせない。
「孫……仕方ねえ。何事にも一線はある。こっちだけで何とかするぞ」
「……すまない」
日嗣の苦々しい想いを理解する猿彦は何事もなかったかのようにそう言うが、それもはなから期待されていなかったようで……日嗣は己の無力さに、憤りに似た悔しさを覚えた。
「――いやああぁっ!!」
そしてそう思った瞬間、それを音にしたような凄まじい金切り声が背後で発せられた。振り向けば、神依と神楽鈴、そして骸の蛟を残し、池の周りにあった他のものはことごとく黒く渦を巻く雲海に呑まれている。
 それはもちろん、そこにいた左右の巫女も例外ではない。否――一人はその細い指先で神依の足元にすがりつき、必死で助けを求めていた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!! 許して――お願い、謝るから――許して、助けてェエッ!!」
目を見開き、歯を鳴らし……顔面を恐怖と涙とに歪めた巫女の体を、あの黒いどろどろとした液体が這う。それは雲海の水の中から染み出して、ひるのような触手となり巫女の体を下へ下へと引きずり下ろしていった。
 ……その黒い何かは、あの日海の中に見たものと似ている気がした。
(神依……まさか)
日嗣は一瞬それを思う。
 ずっとずっと……今日まで神依が心の底に溜めていたもの。
 それに禍津霊たちが依り憑き、人々に災禍を及ぼしているのではないか。自らを傷つけた者たちに、抱いた怨みを晴らそうと……その心をくらい淀に浸してしまったのではないか。
(俺は……すくい取ってやれなかったのか)
荒れ狂う暴風の中、日嗣は最後に視線を交わしたときのように台の上から神依を見下ろす。
「……神依……」
しかし――しかしそこにあったのは自身の暗い思いに反し、ただひたすらに悲しく、ただひたすらに幼いだけの光景だった。
 ……日嗣が見た、少女の周りの空気は凪……。
 神依は淡島の中でたった一人、何かに護られているかのように周りの一切を通さず、ないものとして――ただ立ち尽くし、うつむいたまま泣いていた。
 子供のように両手で目を拭い、細い声で。
 そしてその後ろで、カタカタと音を立てて鳴る玉の緒。
 いつの間にか、そこにあった包みはそれ自体を苗床として、白い可愛らしい花をつけた藻草が群れる花束のようになっていた。
 毎日神依が水の中からささやかに摘み、この広場で捧げていたものだった。
 そしてその苗床は涙のように黒い粘液を滴らせ、わずかな理性でもって断片的に、日嗣に意思を送ってくる。
 水霊の御霊はすでにその花に依せられた祈りを知り、心穏やかに優しい少女を待っていた。その少女を救い、誠実に振る舞ってくれた天の神を待っていた。そして少女の近くで穏やかな水の神となることを願っていた。新たな神として、また優しい祈りを依せられるのが嬉しかった。
 しかしその魂に届いたのは、心をつんざく……悲鳴のような鈴の音だった。
 少女は汚されてしまった。一度目は自らの手で肉の器を。二度目は人の手で心の器を。
 それを知った魂は刹那の内に荒ぶり千年の時を越え、蛟を龍に変えた。
「く……ッ」
理性を失い、荒ぶり祟る龍神に、日嗣もまた己の力が及ばないことを悟り、焦りと不甲斐なさに歯を噛む。
 〝――龍は神にも人にも属さぬもの。蛟と侮り、千年後に大蛇と成ってはわらわも敵わぬ〟
 それはもはや、高天原の神々にさえどうすることもできないもの。神のほかにも神は在り、神の上にも神は在るのだ。
 殺すは易い。しかし――。
(……なぜ俺は、剣のようにしか振る舞えぬのか)
それをどうにかできる者があるとしたら――
(神依……)
怒る雷鳴、泣く悲風。
「神依……神依!!」
その轟音が耳に響く中、日嗣は今度こそ……ただ一人の少女を求めて、声を張り上げた。
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