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第7章 神として

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「……え?」
 しかし音が鳴った瞬間、神依は一気に現実に引き戻されて顔を上げた。
 そして自身に何が起きたかわからず、その場に固まった。
 また台の上にあった日嗣も同じように、目を見開いた。
 何が起きたか――困惑する神依に反し、それを一瞬で悟った日嗣は愕然とする。
(まさか――)
――まさかよりによって、己の司する祭祀でこんなことを仕出かすとは。そこまで淡島の巫女達は――と、憤りを通り越して酷い締感に襲われた。
 くすくすと笑む声が四方から聞こえる。神依にも聞こえるだろう。声ではない、眼差しや空気に乗せられる悪意は、本人たちが思う以上にのだ。
 まるで邪魔だと言わんばかりに、二人の舞巫女が左右から神依を追い立てるようにその舞を美しくこなし、振られた袖が動けないままの神依にぱさ、ぱさと触れる。
 その度に少女の中の何かがぽろぽろと崩れていくような気がして、日嗣はぐっと奥歯を噛みしめた。
 ――あの――神楽殿での時間は、何だったのだろう。
 すべてが、のだ。

***

 そして、日嗣以外にもそれを正しく理解していた者がいた。
 禊だった。
 神依以前にも数人の巫女に仕え一の位を得て、また毎晩遅くまで稽古に付き合っていた禊だからこそわかったこと。だが――
(――そんな)
そんなことがあるはずがない。しかし、それは目の前で現実に起きている。
「なあ……なあ、一ノ兄。神依様――なんで」
「……っ」
「一ノ兄――」
傍らの童に袖を引かれ、我に返った禊は乱雑に人をかき分け洞主の元へ走る。しかし結界となる注連縄を越えようとしたところで、それを見越していたように大兄によって横の茂みに引きずり出され、地に押さえつけられた。
「――抑えろ……抑えろ、大弟」
「大兄――離せ、俺は洞主様に――!」
「静かにしろ! ……こんなざまでも、今は祭祀のただ中だ。御令孫の御前だぞ……御令孫の司する祭祀だぞ。これ以上……神々に無様を晒すな。お前は人ではない――〝禊〟だろう」
「……ッ!!」
苦虫を噛み潰したような顔でそう唸る大兄に、禊は怒りも露に、しかし多少の分別は取り戻したかのように口を閉じ土を握りしめる。
 普段感情を露にしない弟分のその姿に、大兄は怒りの度合いを悟って苦々しくその表情を変え、腕の力を緩めた。
「……失敗すれば、玉衣様かてどうなるかわからぬ……」
「大兄……」
「わかるだろう……これは、お前の主だけに向けられた悪意ではない。これは彼女を取り立て、庇い、見守り、助けてきた者すべてに対しての悪意の結晶だ。俺たちが取り乱せば、ますますの思惑どおりになってしまう」
「俺は……俺はそれでもいい……、だが神依様はどうなる。神依様は今、お一人であの場にお立ちになっているんだぞ……! その悪意をすべて一人で背負われているんだぞ……!! 大兄、あんたならわかるだろう、彼女は……神依様は、あの場にある誰よりも正しく、巫女であったのに……なのに……!!」
「……すまん。……すまん、大弟。あと俺と玉衣様にできるのは……あの水霊が無事になにがしかの神に成るよう祈ることと、御令孫と神々に頭を垂れこの非礼をひたすらに詫び、慈悲を乞うことだけだ」
「大兄……っ!!」
「……俺は玉衣様の元に戻る。あの方かて……そうして、今まで一人で立っていらしたのだ」
餓えた獣のように歯を剥き出し悲憤に唸るかつての弟分に、大兄は言い含めるようにその肩に手を置き立ち上がる。
 入れ違いに、ようやく人の隙間を抜けてきた童が禊に走り寄った。
「一ノ兄」
「……」
事態がどれほど重いか、今にも泣きそうな童の声がそれを改めて禊に報せる。
 立ち上がり、引きずり込まれた茂みから抜ければ風のように、いやな囁きがさわさわと広場を満たしているのがわかった。皆好き好きに、剃刀のように小さな言葉の刃をある一点に向けて飛ばしている。
「……」
しかし禊の脳裏に過ったのは、どこまでもどこまでも……ただひたすらに無責任で、優しい言葉。

――……わたし、頑張るね。禊の気持ちが無駄にならないように……一番下手かもしれないけど、一番カッコ悪いかもしれないけど、でも今までで一番綺麗に舞うから
――見てて。

「――……」
「一ノ兄……」
その未熟さと門外漢であるがゆえに何が起きているのか理解が及ばず、ただすがるように自身を呼ぶばかりの弟分に、禊は悲痛に満ちた声で呟いた。
「……一ノ弟。お前は家に戻れ。戻って、湯でも布団でも、神依様が心安らぐあらゆるものの準備をしておけ」
「え……」
しかし童はその意味がわからず、ただこの場から追い出されるだけのような――そんな気がして、頭を横に振る。
「や……やだよ……。一体何なんだよ、姉ちゃん――どうして。姉ちゃん、あんなに頑張って練習してたのに……なんで――なんでんだよ。何か、あったんじゃ――」
「……違う、何もない。神依様は……んじゃない。あれは、んだ」
「は……?」
今まで見たこともないほどに剥き出しにされた、兄貴分の静かな哀しみと怒りに、童はたじろぐ。
 だが――次に聞こえてきた言葉にようやくこのあり得ない状況を悟って、主がどれほど辱しめられ、それを支えてきた禊がどれほど怒り悲しんでいるのか理解して……また自らも、殺意にも似た鋭い憤りを感じて目を見開いた。
 諦めにも似たように、ただ淡々と禊が伝えた言葉、それは――
「これは……神依様が教えられた舞じゃない。……まったく、別の舞なんだ」

***

 「……」
一方、神依は一人、時が止まってしまったかのようにその場から一歩も動けなくなってしまっていた。
 唯一動かせた瞳が、楽人たちを映す。皆、何事もないように指を動かし音を奏でている。洞主を映す。洞主は何か苦心するように目を閉じ、また何かを考えている。猿彦を映す。どうした、と優しい声が聞こえた気がした。観衆を映す。皆、自分を見て何かを囁き合っている。
 それで怖くなって、もう視線すら動かせなくなった。顔を隠すように下を見れば、足元には石畳の隙間から生えた雑草があった。
(……わたし……こんなに嫌われていたんだ……)
何が起きたかようやく理解した神依は、ただそれだけを思った。
 ようやく、ようやく理解した。
 自分は始めからあの巫女たちの誰一人にも受け入れられておらず、すべてが始めからのだ。
 自分はただ、一つの舞を一生懸命覚えた。毎日怒られながら、それでも神楽殿に通って、家でも禊や童に当たってまで練習した。でもそれも全部最初からのだ。
 結局三人の舞巫女も、楽を奏でる巫女たちも、始めから自分を舞わせる気などなかった。
 稽古で教えられた舞と本番で行う舞は……最初から別物だったのだ。
 いや――それは少し違う。本来は、あの舞こそがこの御霊祭で舞われるべき舞だったのだろう。でなければ、洞主らが稽古の時点でいぶかしむ。
 ただ自分を憎む巫女たちは、裏で密かに結託してこうすることを選んだ。それは今日まで、こつこつと稽古に励み自らの手でその地位を得てきた彼女たちだからこそ、正当に成し遂げることができた――復讐だった。
 彼女らは本番でまったく違う楽と舞を披露し、もちろん舞うことなどできるはずもない自分を「本番で失態を演ずる無能な巫女」として公衆に――日嗣の前に晒すことを、選んだのだ。
 もし御霊祭が上手くいけば、認めてもらえるかもしれないと思っていたのに。友として接してもらえる日が来るかもしれないと思っていたのに。
 でもそれも、やはり最初から違っていて――これからどうなるのだろう、と神依の目に涙が浮かぶ。
 これは巫女たちの、日嗣や洞主への訴えでもあっただろう。ならば洞主は、彼女らと自分どちらを庇うだろう。
 ……だがそんなことは考えるべくもなく、自分一人が頭を下げ罰を受けることが一番無難に事が済むような気がした。そうすれば、それこそただの経験不足な巫女が本番で失態を演じただけ、と洞主たちも神々に申し開きできるだろう。そして日嗣もまた……自分の知らないところで、自分の知らない慈悲をきっと与えてくれるのだろう。
(……でも……)
それをしてしまえば、今までの何もかもが無意味なものになってしまう。
 いや――もうとっくに、無意味になっているのかもしれないけれど。
(……なんて馬鹿だったんだろう)
神依は一人、ぽつんと佇みそれを思ってしまった。
(やっぱりみんなが言うとおり、最初のうちに辞退しておけばよかった。そうすればこんなことにはならなかった。こんな思いすることなかった。全部、全部――無駄にすることはなかった)
禊の不器用な優しさも、童の贈り物も、洞主や大兄の気遣いも、猿彦の思いやりも……日嗣との時間も。
(……全部、全部、全部、全部、全部……駄目にした。わたしが……裏切ってしまった)
 応えられなかった。
 脳裏に、桃色の飴が思い浮かぶ。水晶の勾玉が思い浮かぶ。小さな神々の、小さな祈りが思い浮かぶ。色の着いた爪先が思い浮かぶ。大きな手が思い浮かぶ。蜘蛛の糸が思い浮かぶ。椿の花が思い浮かぶ。死ぬ間際の、龍の真黒い瞳が蘇る。自分を見つめる、黄金色の瞳が蘇る。
「――…っ」
その瞬間、もう押し留めようもなく涙がぽろぽろとあふれてきた。
 最後の最後で、神依の中にあった何かは崩れて呑まれてしまった。
 遠くから見ている衆人たちでさえそれに気付くほどの涙を流し、ひとりぼっちの少女は小さく震える。日嗣も禊も、童もそれに気付いて――またそれがどれほどの思いを含む涙だったか、正しく理解できたのは彼らだけだった。
 そしてその少女の、力を失った指先から神楽鈴が落ちる。
 それは何に遮られることもなく宙を踊り――玻璃が割れたような、悲鳴にも似た音を響かせ、地面に転がった。
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