君が見ていた空の向こう

篠宮 楓

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朽木の右手に掴まれた肩が、地味に痛みを訴えている。少し顔を顰めたけれど、それに対して何か言えるような雰囲気じゃなかった。
見上げるのも疲れたから既に視線は外しているけれど、朽木が全身でイラつきを表現しているのは分かる。そしてその矛先が、加倉井だってことも。

「こんにちは、朽木先輩」
当の加倉井がへらへらと笑ってるのはびっくりだけどな!
加倉井のへらりとした挨拶に、俺の肩を掴む朽木の手に力が入る。思わず眉を顰めると、加倉井が困ったように首を傾けた。
「橋場先輩の肩が痣になりますよ」
「……っ」
加倉井の言葉にびくりと体を揺らした朽木は、それでも力を緩めただけで俺の方から手を外すことはなかった。
そうしてやっとしゃべった言葉は、たった一言だった。


「――なんで」

「……」

……何が?


きっと俺と加倉井の心の声は一致したと思う。いきなり登場して「なんで」ってお前、お前がなんでだろコラ。
「く……」
「朽木先輩」
俺が朽木の名前を呼ぶ前に、それに被せる様に加倉井が声を上げた。
「……の事は正直どうでもいいんですが、橋場先輩」
「ん?」
名前を呼ばれて視線を向けると、「ファイトです!」と言いながらぐっと両手を握りしめにこやかに走り去っていきやがった。
「は?」
「ちょ」
突拍子もないその行動にぽかんと口をあけたまま見送ってしまった俺だが、はっと我に返ると声を上げた。
「てめ加倉井、傘置いてけこの野郎!!」
「突っ込みどころそこですか、また今度ってことで!」
昇降口の階段を上りながら振り向いた加倉井は、それだけ言うと校舎の中へと駆けこんで行った。


この状況で、逃げるとかどんな鬼畜。


しん、と静まり返った空気を感じながら、取り残された俺は小さく息を吐いた。
「とりあえず、この手離せ」
「……」
少し逡巡するように手に力が入ったけれど、もう一度催促するとゆっくりとそれが離れて行った。

何気に痛いっつーの。

思わず左手で肩をさすると、少し申し訳なさそうな表情で朽木が視線を落とした。
「ごめん」
ぽつり、朽木の口から零れる。俺はちらりと朽木を見上げて、肩をさすっていた手を止めた。
「来たんだな。もう放課後なのに」
どんだけ重要な用事だよ、そう、ぽつりと零す。
さっきの朽木のように。


なんだろう。
さっさと話しを終わらせるかとか、そんなこと考えていたのに。
月曜までこのままいるの嫌だから、朽木んちに行こうとまで思ってたのに。
いざ目の前にすると、言葉が見つからない。


「……月曜は、ごめん」

何を話そう、どこから話そう。
そんなことを考えていた俺の耳に届いたのは、朽木の謝罪だった。
低く重い声。
思わず、顔をあげる。
朽木は目が合う寸前で、それを反らして俯いた。
俯いたってこっちの方が背が低い、顔がまったく見えないわけじゃない。
むしろ俯けば余計に見える。

その表情は、凄く困惑したもの。
そして……、どこか後悔したもの。

思わず、口端がぴくりと引き攣った。
「……謝るんだな」
「したことに対しては謝らないよ。でも祐をそんなに悩ませたことに関しては、謝る」
「なんだよそれ」
睨みつけながら問い返せば、朽木はゆっくりと指先を俺の頬に滑らせた。
「凄い隈。これ、俺の所為だよね」
うるせぇな……、思わず悪態をついて視線を逸らす。まさしくそれが答えですと言ってしまっている様なものだけど、反射的に出てしまった言葉は飲み込めない。


――友達に自分の事を好きだって言われてちゃんと断ったけれど、気持ちの上では冗談なんじゃないかって思ってませんでしたか? もしくは、無意識にそうであって欲しいと思ったか


ふいに、加倉井の言葉が脳裏に浮かぶ。





冗談としてじゃなく、ちゃんと真正面からその行動を受け入れようと心のどこかで何かが囁く。
さわさわと触れていく指先の跡を、逸らした視界に映る地面を睨みつけながら受け入れてみる。

……気持ち悪くは、ない。うん。

羞恥は感じるけれど、別に振り払いたいほど嫌な気はしない。
そう、心の中で呟く。



――自分で認めることが、一番怖くて一番しんどいんです。それに、価値観や常識が邪魔もするし



俺は今まで朽木の言葉を受け入れているつもりで、無意識に冗談だと思っていたのかもしれない。
そう言われれば、確かにそうかもしれないと思った。


加倉井の言う通りだ。男同士が恋愛関係になること自体、まったく思い至らないことで。
筋が通らないことは大嫌いだと言いながら、ちゃんと考えられていなかった……ありえないと突っぱねてしまっていた。
加倉井の気持ちに対してすんなりと返答していたことを考えれば、無意識にでも冗談にしたいと思ってしまった朽木に対して自分は、加倉井とは違う感情を持っているのだと思う。

俺が反撃しないからなのか頬を触り続けている朽木をちらりと盗み見すれば、じっとこちらを見ていたのか視線のあった目を瞠って幾度か瞬きをした。
指先の動きが、止まる。

「祐?」

いつもと違うと、気が付いたのだろう。
朽木は指先はそのままに、微かに背を屈めて俺の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
いつもぼんやりとしている双眸が、心配そうに細められている。ガラス玉みたいな目に、思わず見入ってしまった。
「具合、悪い? 寝不足……、かな」
不安が募っていくのか少しの焦りを浮かべた表情のまま、手を俺の両肩に載せる。

「……」

思わず、掌で頬をおさえる。いままで、朽木が触れていた方。
微かに残っていた感触が、自分のそれに代わる。


――悩み事全部言っちゃって二人で考えたらいいと思いますよ


思い出した加倉井の言葉に、一つ瞬きで応えた。
「朽木」
「うん?」
それまでぼんやりしていた俺がいきなり顔を上げたからか少し驚いたように目を瞠った朽木だったけれど、すぐに心配そうな表情のまま首を傾げる。
「ちゃんと話したいんだけど、うちにこねぇか?」
「……祐の、うち?」
それに、こくりと頷く。
朽木は驚いた顔のまま、それでも微かに眉を顰めた。
「忘れてるわけはないと思うけど、俺、祐の事が好きなんだ」
「忘れてるわけがないけど。何、お前部屋にはいったらすぐに人の事襲うくらい理性ってもんがないの?」
口端を上げてにやりと笑えば、朽木は大きくため息をついた。

「祐は口が本当に悪い。大丈夫だよ、理性くらいはあるよ」
「欲情するだのなんだのと、恥ずかしがらずに言うけどな」
「逆に隠して拗らせるよりいいでしょ。本当は期待に応えたい位だけど、さすがに今それを無理やりしたら祐が手に入らなくなることぐらい分かるよ」

その返答に簡単に相槌を打ちつつ、そういえば……と、自宅の方はいいのか? と聞けば、むしろ遅く帰れと父親から言われたと肩を竦めた。
「なんで」
「俺に風邪がうつるリスクを減らしたいのもあるだろうけど、まぁほら。俺だって、ここの所、普通じゃいられなかったって言うのもある、かな」

祐にキスしちゃったからね。
そう言う朽木の表情は、決して嬉しそうなものではなく困惑の混じった複雑なものだった。
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