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29 過去にならない記憶
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「ただいま」
こたろーちゃんの声を振り切るように、早足で帰宅した私は全身汗が浮かんでいた。
それほど焦っていたし、精神的にも追いつめられていた。
怖い。
あの、悪意の見えない笑顔が。
思わずぶるりと体を震わせて、両腕で自分の体を抱きしめた。それは汗が冷えて寒いからなのか、茅乃さんの存在からなのか、それともどちらのものでもあるのか。
「比奈?」
中々部屋に入ってこない私を心配したのか、母親がキッチンから声を掛けてきた。
その声にさえびくりと反応してしまって、私は思いっきり頭を振る。
「今日の夕ご飯、何?」
なんとかいつも通りの声を作り出して、ローファーを脱ぎ捨てる。
「エビチリ。奈津が食べたいっていうから」
リビングキッチンまで、数歩の距離。
その間に、何とか自分を立て直した。
ドアをくぐれば、カウンターキッチンの向こうに母親の姿。
まだ下ごしらえの段階なのだろう。
海老の臭みを抜くための料理酒が、ふわっと香った。
「少し部屋に行っててもいい? 読みたい本があって」
テーブルの上にあった急須からお茶をカップに注いで、それを手に取る。
母親の春香は頷きながら、あぁ……納得した様に声を上げた。
「いつもより早く帰ってきたからどうしたのかと思ったけれど、そういう事ね」
どくり、と。
鼓動が、耳に響いた。
「うん、久しぶりに本屋に行きたくなって。それで……」
言い訳のように口から出る言葉。
それが自分自身を追いこむように、重く響く。
「ゆっくりしてていいわよ」
ほわんとした声に、笑みを返して自分の部屋へと階段を上がった。
ドアを閉めると机にお茶を置いて、そのままベッドに倒れこむ。
目を瞑れば暗闇が待っているわけじゃなく、さっきからずっと脳裡から離れない映像が再び浮かんだ。
こたろーちゃんの隣に寄り添う、茅乃さん。
ぎゅ、と目を瞑った。
茅乃さんに会ったのは、こたろーちゃんが高校三年の時。
私が、中学校に上がった年の夏。
まだあの頃、私はこたろーちゃんの事が好きで。だから、たまに見かける女の人と歩くこたろーちゃんを見るのが凄く嫌だった。
でも、中一と高三。
ただでさえ大人っぽいこたろーちゃんの彼女に、自分が勝てるわけがない。見るだけで、劣等感に苛まれた。
十三歳と十八歳。
どうしろと?
子供の頃のように、我儘に纏わりつくなんてできない。
だって、もうその頃には気付いていたから。
こたろーちゃんは、今まで私と遊んでいたんじゃない。
子供の私に付き合って、遊んでくれていたんだもの。
それでも、好きで。
どうしたらいいのか、分からなくて。
「……ひなちゃん、だよね?」
そうやって自分の中でもやもやとしていた頃、声を掛けられた。
あれはショッピングモールの、本屋。
あまり行かないそこにたまたま友達の付き合いで行って、彼女と別れた後だった。
声を掛けられて見ていた本棚から顔を上げれば、ふわふわな髪を背に流した可愛らしいけれど確実に私より年上の女性の姿。
知り合いでもないその人を、首を傾げて見つめた。
「ひなちゃんでしょ?」
重ねて問われた言葉に、バカ正直に私は頷いた。
「あの、どちら様ですか?」
本当に知り合いだったとしたら、とても失礼な事を聞いているという罪悪感いっぱいで。
彼女はふわりと笑うと、私を促す様に本屋から外に出た。別についていくこともなかったのに、意味が分からなくて、状況についていけなくて。
促されるまま、後ろをついていく。
少し歩いてベンチのある場所につくと、彼女はなんの躊躇もなくそこに座り私を見上げた。
「小太郎の幼馴染って、あなたでしょ? ひなちゃんだよね?」
「……こたろー、ちゃん?」
知らない人に名前を呼ばれたり、いきなり連れてこられたり。
脳内がパニックになっていた私は、ただ彼女の言葉を聞くしかできなかった。
彼女は私の言葉を聞いて、くすりと笑う。
「こたろーちゃん、ね。そう、こたろーちゃんの幼馴染、やっぱりあなたね。一度見ただけだったから少し自信がなくて」
ふふ、と笑みを浮かべた彼女からは、なんの敵意も感じられない。
「会いたかったのよ、一度。あの小太郎が大切にしてる、幼馴染ちゃんにね」
「私、に?」
大切にされてるかどうかは置いておいて、幼馴染は確かに私だ。
ここまで聞いた時、私はその場から逃げだせばよかったのだ。だって、相手が自分を知っていようが初対面の人。危機感というものを発揮すれば、その場を離れるのが大正解。
けれど今までこたろーちゃんの事で何か言われたことがなかったから、逃げるという事が思いつかなかった。
思えば、こたろーちゃんは私がいそうなところで、デートというものをしなかったのだろう。
こたろーちゃんが女の人と歩いているのを見かけたのは、悉く私が寄り付かないような場所だった。
たまたま用事でその場にいたとか、そういう偶然だけだった。
だから何か言われることがなかったし、相手の女の人も私の顔を認識していなかったと思う。
それに。
ふ、と。彼女の顔を見る。
ふわりとした雰囲気のその人は、にこにこと私を見ていて。
全く、敵意が感じられれなかったから。
だから、まさか。
そんなことを言われると思わなかったのだ。
「小太郎、今日ね。ここにね」
彼女の指が、自身の首筋をすっと指さす。
「痕、あるかもしれないけど」
「?」
「あまり、からかわないでいてあげてね?」
「あと? ですか」
彼女の言っている意味が、唐突すぎてよく分からなかった。
聞き返すと、彼女はふわり、と笑みを浮かべた。
「言ってる意味、分かる?」
「……え、と?」
本当にわからなくて、問い返す。
すると彼女はベンチから立ち上がって、私を見下ろした。
けれど威圧感も何もなく、ただあのふわふわとした笑みを浮かべたまま。
「私が、小太郎のものってこと」
「え?」
そこで、やっと意味が掴めた。
首筋。痕。
小太郎の、こたろーちゃんのもの。
頬が一気に熱くなっていく。それは羞恥心と嫉妬心、すべて合わせたような。
慌てて一歩後ずさった。
そんな私を見て彼女は、ゆったりと微笑んだのだ。そしてその微笑みと全く合わない、静かな声音で私に注げる。
「本当に、ひな、ね」
ヒナ。
自分の名前に込められた本来の意味ではない、その響きに。
私はその場を逃げ出した。
さっき、茅乃さんとこたろーちゃんのもとから逃げた様に。
こたろーちゃんの声を振り切るように、早足で帰宅した私は全身汗が浮かんでいた。
それほど焦っていたし、精神的にも追いつめられていた。
怖い。
あの、悪意の見えない笑顔が。
思わずぶるりと体を震わせて、両腕で自分の体を抱きしめた。それは汗が冷えて寒いからなのか、茅乃さんの存在からなのか、それともどちらのものでもあるのか。
「比奈?」
中々部屋に入ってこない私を心配したのか、母親がキッチンから声を掛けてきた。
その声にさえびくりと反応してしまって、私は思いっきり頭を振る。
「今日の夕ご飯、何?」
なんとかいつも通りの声を作り出して、ローファーを脱ぎ捨てる。
「エビチリ。奈津が食べたいっていうから」
リビングキッチンまで、数歩の距離。
その間に、何とか自分を立て直した。
ドアをくぐれば、カウンターキッチンの向こうに母親の姿。
まだ下ごしらえの段階なのだろう。
海老の臭みを抜くための料理酒が、ふわっと香った。
「少し部屋に行っててもいい? 読みたい本があって」
テーブルの上にあった急須からお茶をカップに注いで、それを手に取る。
母親の春香は頷きながら、あぁ……納得した様に声を上げた。
「いつもより早く帰ってきたからどうしたのかと思ったけれど、そういう事ね」
どくり、と。
鼓動が、耳に響いた。
「うん、久しぶりに本屋に行きたくなって。それで……」
言い訳のように口から出る言葉。
それが自分自身を追いこむように、重く響く。
「ゆっくりしてていいわよ」
ほわんとした声に、笑みを返して自分の部屋へと階段を上がった。
ドアを閉めると机にお茶を置いて、そのままベッドに倒れこむ。
目を瞑れば暗闇が待っているわけじゃなく、さっきからずっと脳裡から離れない映像が再び浮かんだ。
こたろーちゃんの隣に寄り添う、茅乃さん。
ぎゅ、と目を瞑った。
茅乃さんに会ったのは、こたろーちゃんが高校三年の時。
私が、中学校に上がった年の夏。
まだあの頃、私はこたろーちゃんの事が好きで。だから、たまに見かける女の人と歩くこたろーちゃんを見るのが凄く嫌だった。
でも、中一と高三。
ただでさえ大人っぽいこたろーちゃんの彼女に、自分が勝てるわけがない。見るだけで、劣等感に苛まれた。
十三歳と十八歳。
どうしろと?
子供の頃のように、我儘に纏わりつくなんてできない。
だって、もうその頃には気付いていたから。
こたろーちゃんは、今まで私と遊んでいたんじゃない。
子供の私に付き合って、遊んでくれていたんだもの。
それでも、好きで。
どうしたらいいのか、分からなくて。
「……ひなちゃん、だよね?」
そうやって自分の中でもやもやとしていた頃、声を掛けられた。
あれはショッピングモールの、本屋。
あまり行かないそこにたまたま友達の付き合いで行って、彼女と別れた後だった。
声を掛けられて見ていた本棚から顔を上げれば、ふわふわな髪を背に流した可愛らしいけれど確実に私より年上の女性の姿。
知り合いでもないその人を、首を傾げて見つめた。
「ひなちゃんでしょ?」
重ねて問われた言葉に、バカ正直に私は頷いた。
「あの、どちら様ですか?」
本当に知り合いだったとしたら、とても失礼な事を聞いているという罪悪感いっぱいで。
彼女はふわりと笑うと、私を促す様に本屋から外に出た。別についていくこともなかったのに、意味が分からなくて、状況についていけなくて。
促されるまま、後ろをついていく。
少し歩いてベンチのある場所につくと、彼女はなんの躊躇もなくそこに座り私を見上げた。
「小太郎の幼馴染って、あなたでしょ? ひなちゃんだよね?」
「……こたろー、ちゃん?」
知らない人に名前を呼ばれたり、いきなり連れてこられたり。
脳内がパニックになっていた私は、ただ彼女の言葉を聞くしかできなかった。
彼女は私の言葉を聞いて、くすりと笑う。
「こたろーちゃん、ね。そう、こたろーちゃんの幼馴染、やっぱりあなたね。一度見ただけだったから少し自信がなくて」
ふふ、と笑みを浮かべた彼女からは、なんの敵意も感じられない。
「会いたかったのよ、一度。あの小太郎が大切にしてる、幼馴染ちゃんにね」
「私、に?」
大切にされてるかどうかは置いておいて、幼馴染は確かに私だ。
ここまで聞いた時、私はその場から逃げだせばよかったのだ。だって、相手が自分を知っていようが初対面の人。危機感というものを発揮すれば、その場を離れるのが大正解。
けれど今までこたろーちゃんの事で何か言われたことがなかったから、逃げるという事が思いつかなかった。
思えば、こたろーちゃんは私がいそうなところで、デートというものをしなかったのだろう。
こたろーちゃんが女の人と歩いているのを見かけたのは、悉く私が寄り付かないような場所だった。
たまたま用事でその場にいたとか、そういう偶然だけだった。
だから何か言われることがなかったし、相手の女の人も私の顔を認識していなかったと思う。
それに。
ふ、と。彼女の顔を見る。
ふわりとした雰囲気のその人は、にこにこと私を見ていて。
全く、敵意が感じられれなかったから。
だから、まさか。
そんなことを言われると思わなかったのだ。
「小太郎、今日ね。ここにね」
彼女の指が、自身の首筋をすっと指さす。
「痕、あるかもしれないけど」
「?」
「あまり、からかわないでいてあげてね?」
「あと? ですか」
彼女の言っている意味が、唐突すぎてよく分からなかった。
聞き返すと、彼女はふわり、と笑みを浮かべた。
「言ってる意味、分かる?」
「……え、と?」
本当にわからなくて、問い返す。
すると彼女はベンチから立ち上がって、私を見下ろした。
けれど威圧感も何もなく、ただあのふわふわとした笑みを浮かべたまま。
「私が、小太郎のものってこと」
「え?」
そこで、やっと意味が掴めた。
首筋。痕。
小太郎の、こたろーちゃんのもの。
頬が一気に熱くなっていく。それは羞恥心と嫉妬心、すべて合わせたような。
慌てて一歩後ずさった。
そんな私を見て彼女は、ゆったりと微笑んだのだ。そしてその微笑みと全く合わない、静かな声音で私に注げる。
「本当に、ひな、ね」
ヒナ。
自分の名前に込められた本来の意味ではない、その響きに。
私はその場を逃げ出した。
さっき、茅乃さんとこたろーちゃんのもとから逃げた様に。
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