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少女を殺す夢を見ないために(その5)

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「捜せばいいでしょう」
 おそろしく簡単な答が、即座に返ってきた。
 いろいろ聞かれるだろうと、堅く身構えていたぼくは拍子抜けがした。
「それとも、忘れなければいい。そう答えた方が良かったですか」
 戸田刑事は、ポリ袋から取り出した菓子パンを囓りながら遠くを見ている。
「いえ。もともと存在しないかもしれなくて、だから見つけられないかもしれないんですが」
 ぼくは言い訳がましく言った。
 感づかれてはいけない。
 だが、戸田刑事は、ぼくの態度の変化など意にも介さなかった。ぼくを見もせず、ことばを継いだ。
「捜し始めれば、捜す相手は必ず存在するようになります。残念ながら、捜しても見つからないというリスクはありますが」
 戸田刑事はぼくを見やって笑った。
「そこで諦めなければいいんです」  
 戸田刑事は、口の端についていた菓子パンのクリームを左手の親指で拭いながら、ぼくを見つめ、例えば、と言いながら左手の親指を嘗めた。
「被害者がいれば必ず犯罪者がいます。見つからないかもしれず、場合によってはこの世に存在しないかもしれませんが、必ずいるんです。被害者がいなくても、事件、――犯罪があれば犯罪者は存在します。犯罪者が存在した痕跡がどこにも見つからなくても、捜し続ける限り犯人はいるものです。ねえ、木塚さん。逆に、捜すのを止めてしまえば、犯罪者は存在していても、消えてしまうことになりませんか?」
 ぼくには、ぴんとこなかった。よほど怪訝な表情を浮かべていたのかもしれない。
「芸術家や小説家は、ないものを存在させるじゃないですか。例えば、ミケランジェロは、石の固まりを見て、あの中に女神が埋まっているから助け出さなくてはいけない。そう言って、石から女神像を彫り出したそうです。それも、言ってみれば、存在しないものを見つけること、――捜すことでしょう? 見えるから捜すのか、捜すから見えるようになるのかは、わかりませんが。たぶん、誰にでもできることだと思いますよ。だから、――何か手伝いましょうか、木塚さんが探しているもののことで」
 戸田刑事は、ぼくの眼の、奥底の表情を覗き込むように見つめている。ぼくは、ふーっ、と覗き込んだ戸田刑事の瞳の中に吸い込まれていった。
「五年とか、いや七年。――そのくらい前に、十代半ばで」
 ぼくはことばを呑み込んだ。
 ぼくは何をしているのだ? 
 ぼくが彫り出そうとしているのは、女神などではない。
 場合によっては骸骨そのもので、ぼくを死刑台に送り込む死神になるかもしれないのに……。
 ぼくの加速していく呼吸で、いったい幾つ分の沈黙だったろう。
 ぼくから視線を外した戸田刑事が、ぼそり、ぼそりと言った。
「その人は、例えば家出人でしょうか? 名前は覚えてますか? 顔は? 性別は?」
 それから、ほんの少しだけ間をおいて、戸田刑事はぼくの肩に無造作に手を置いた。
「ねえ、木塚さん。思い出せますか?」
 本当に驚くと、例えば心臓と一緒に両足の踵から頭のてっぺんまで、全身がいちどきに、どきんとするものだ。その、どきんとした瞬間、動揺を隠すように
「ええ、おぼろげですが」
 ぼくは思わず答えてしまっていた。戸田刑事は静かに見つめている。
 ぼくは戸田刑事の、その眼を避けるようにして、一城美奈子という名前のことと、不思議なほど鮮やかに思い出せた彼女の容貌のことを話していた。腰丈の黒髪、浅黒い小柄な顔、二重の切れ長の黒目がちの眼。ぽってりとした唇。濃く太い眉。どこか投げやりなことばづかい……。
 ぼくはことばを切った。これ以上は話せない。
――話してはいけない。
 ぼくはできるだけ平静を装って、戸田刑事を見た。
「こんなところなんですが……。出会った記憶がないのに、彼女の名前と容貌だけ覚えていて、ずっとひっかかっているんです。脳裏に焼き付いているというか」
 言い訳がましいぼくのことばに、戸田刑事は眼を細めて、口元で笑った。手には幾つ目かの最後の菓子パンを握っている。
「人間の記憶なんてあやふやなものです。繰り返せば強固になるが、一方ですり替えられていく。幾つもの違う角度から繰り返し照らし合わせていかないと、危険な結末へ走り出してしまいます。記憶を見る眼は、角度をひとつきりにしちゃいけない」
 いけないんだが、と戸田刑事はため息を付いた。
「それがなかなか難しい。私が覚えている限りでは、K県の家出人リストの中に一城美奈子という名前は思い出せない。というようなことを言いたくなるんだな」
「家出人全部覚えているんですか?」
 思わず聞き返した。
 千人単位で指名手配犯のプロフィールを覚えている警察関係者の話はしばしば聞くし、それに近い訓練をしているとも聞いたことがあった。だが、この人は犯人のみならず家出人まで記憶しているのか。一瞬寒気がした。
――ぼくは大きな間違いをしたのかもしれない。
「だと優秀なんですが。――女子高生切断事件の被害者を割り出すのに、私は家出人担当で操作していたので。この一週間そればっかり見てました。該当者の範囲も狭いし数も当然少ないので、なんとなく覚えている。ということです。それを、なんの照らし合わせもせずに自慢したくなるのが記憶の片目なんです……。悪いんだ、これが」
 戸田刑事は照れくさそうに笑って、軽く咳払いした。
「まあ、私も大きな事件を抱えているし、大したことは出来ないでしょうが、手伝わせてもらいます。何かわかったこと、わからないことがあったら、遠慮なく言ってください」
 はあ、とぼくは軽く頭を下げた。
「忙しいのに、ご面倒をおかけします」
「いやいや。下福元の事件でも、それとなく働いてもらったそうで、表向きには出来ないが、非常に感謝していると南署の連中は言ってましたよ。これまでのこともありますし、今さらのお礼のようなもんです。それに――」
 戸田刑事はことばを濁した。ぼくは気になった。彼は何を言いかけているんだろう?
「それに、なんでしょうか?」
「いや。木塚さんは、その一城美奈子という少女を消したくない。そう思っているのでしょう? 生きていれば、今はざっと二十四、五才くらいの女性でしょうが、どちらかと言えば、少女の頃の足取りを追いたい。少女の頃の面影を消したくない。必ず見つけ出して、確かなものにしておきたい、とね」
 正解でもあるが誤解でもある。とぼくは思ったが、曖昧に頷いた。
「だから、手伝ってみたい。それだけなんですが、理由にもなりませんね……」
 そう言って、
 おや?
 照れ隠しだろうか。戸田刑事は天を仰いだ。つられて見上げると、薄曇りの中、風に流され切れた雲間から覗く太陽には日光冠がかかっている。太陽の周囲を、薄く虹をまとった雲が、風に押され陸続と流れていった。
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