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第三章(その9) クラミジア(容疑者稲村直彦)

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 発生源は、鑑識課の入口から覗き込んでいる鹿箭島中央署刑事課強行犯係長の打越啓治だった。何故この時間この場所に打越がいるのだと言う疑問が、戸田によほど怪訝な表情を取らせていたと見える。
「なんちゅう顔をしとるんだ、戸田。甲突川の切断事件、やっと公判が始まるんでな。女子高生の首切りの応援に行け、という御命令だ」
 打越はずかずかと近付きながらも、言い訳じみたことばを口にした。
「バタ、ここにある分だけでいいや、取り敢えず、現場と被害者の写真見せてくれ」
 打越は、下川畑が出した現場写真に見入っている。戸田は尋ねた。
「稲村の最終的な罪状は?」
「殺人と死体損壊・死体遺棄」
「新しい物証が?」
「いや。状況と自白だけだ。木綿の方針で取調べはビデオ撮影付き。俺には取り調べるなとさ。俺が映ると判事の心証を悪くする。そう念を押しやがった。バタ、何が可笑しい。おかげで生ぬるい取調べになったが、幸いに自白強要が突っ込まれる要素は、かけらも出てこん。それでいくんだとさ」
 打越は現場写真に目を向けたまま答える。
「あれから何か吐きました?」
「いや。なにひとつしゃべらん。殺害場所も、時間も、動機も、はっきりせんままだ。酔って口争いになり、かっとなって首を絞めて殺しました。口論の内容も、場所もよく覚えていません。あとは、御覧の通りです。それだけだ」
「腕っこきの弁護士が付くと長引きそうですね」
 打越は、瀬ノ尾のことばを無視した。目の前には、八重山の現場写真が拡げてある。
「ひでえな。いつ見ても赤鬼の饅頭にはげっそりする。これで一ヶ月は使いもんにならんな。内方になんと言えばいいか」
 遺体は、腐敗が進むと発生する腐敗ガスによって著しく膨張する。ことに陰嚢・陰唇などは顕著に膨れあがることから巨人化現象、あるいは腐敗の色によって赤鬼青鬼とも呼ばれる。鹿箭島県では女性器のことを饅頭と称するから、打越は辺りも憚らず口にしたことになる。
「署で腐れ饅頭を見たから、勃たんようになったとは言えんしな。内方に、あたしへの皮肉か、どこの糞女か、とか言い出して妙な勘ぐりをされても困る……。どっちにしたって、よう勃たんなぞ、口が割けても言えるもんじゃない」
「どうだか。そんなもんとは関係なく、もともと無理なんだろうが」
 下川畑が毒付いた。打越が目を剥く。
「物証がなかろう。自白だけじゃ公判は維持できん」
「内方の証言があろうが」
「身内の証言は参考にならん」
 二人の掛け合いに、瀬ノ尾は対応に困惑しているが、戸田は眉を顰めて目を瞑っていた。こうした与太を飛ばすときの打越は、腸が犯人への怒りで煮え沸っている。
 人間の感情が度を越せば、そう単純な表現にはとどまらなくなると戸田は承知していた。おかげで、戸田は、あるヒントを得ようとしていた。戸田は、掛け合いをやり過ごして、閉じていた眼を開け、ゆっくり口を開いた。
「コロさん。稲村のカルテの中身は覚えてますか」
 あ。ああ、と意表をつかれた打越が一瞬躊躇した。 
「確か美津濃美穂から伝染されたクラミジアをこじらせて、尿道炎からなんだっけな。そう、たぶん急性精嚢炎になったはずだ。うろ覚えだからな、正確な資料がいれば用意させるぞ」
 いや、と戸田は小さく首を振った。あの、と瀬ノ尾が聞いてきた。
「急性セイノウエン? なんです、それ?」
 戸田、打越、下川畑と顔を見合わせて笑いだし、目配せをされた下川畑が答えた。
「大雑把に言うとだ。クラミジアなんかの性感染症の細菌は、まず尿道に付着して繁殖する。その結果、尿道炎になる。痒みや排尿時の痛み、膿の排出、それが普通の性感染症の症状だが、まれに尿道から精嚢、ようするにキンタマだな、そこまで細菌が入り込んで炎症を起こす。それが、精嚢炎、キンタマの炎症だ」
「痛そうですね」
「ああ、痛いのもだが、炎症で精嚢がやられると、不妊の原因もなる。希にインポになる者もいる。クラミジアなんかは、女に自覚症状がないケースが多いからなあ。ピンポン感染して、再発し易いし……。喉に細菌を飼っている女もいるから、最後までいかなくても罹かる奴は罹かる。気を付けるんだな、瀬ノ尾刑事殿」
「いや、自分は…」
 瀬ノ尾が口ごもり溜息をついた。下川畑がからかった。
「おお、若くしてインポになると悲惨だぞ」
 黙って聞いていた戸田は、
「確か、その手の動機からの黙秘事例がありましたが……」
 そう言うと打越を見やった。打越は数瞬沈思し、やがて吠えた。
「おお、そういう事例案件があった。戸田、一緒に来れるか」
 ええ、戸田はゆっくりと頷いた。

 稲村直彦が勾留されている鹿箭島拘置所は、鹿箭島刑務所の跡地に建っていた。刑務所が霧島市へ移転した跡地に、総合運動施設サツマ・アリーナと公園、そして、拘置所が建てられたのである。西署から拘置所までは五百メートルと離れていない。
 取調べとなると手続きがいる。二人は瀬ノ尾を待たせておいて面会手続きを取った。
 取調べではない。あくまでも話すだけだ。
 稲村直彦は、面会人の二人を見て顔色を変えた。面会相手が刑事だと知れば、後ろめたくなくても動揺せぬ方が嘘だろう。戸田が静かに口火を切った。
「取調べじゃない。個人的に聞きたいことがあってね。だから、面会に来たんだ。答えなくてもいいから、ただ聞いておいてほしい。いいだろうか」
 はい、と短く答えて稲村は、戸田に頭を下げた。
「先日は、お役に立てなくて、すいませんでした」
 戸田はゆっくりと首を振った。
「いや、十分助かったよ。ありがとう」  
 頷いた稲村の顔色は、柔らかな色に戻っている。打越ががなり立てた。
「稲村。お前、美津濃美穂からクラミジアを感染うつされたと知った時、どう思った? 腹が立ったか? 嫉妬したか?」
 打越のことばに、稲村の表情が一瞬で硬化し、立ち上がった。
「取調べなら、らしくやってくれ。面会は終わりだ」
「稲村さんと話しにきたのは私です。すみませんが、打越刑事は退席してください」
 戸田の声が静かに透っていく。
 打越が面会室を出ると、稲村は座り直した。戸田の声が静かに浸み透っていく。
「稲村さん。あなたには、墓の中まで持っていこうとしていることがあるんじゃないですか」
 稲村は、一瞬浮かんだ狼狽うろたえた表情を抑えながら戸田を見ている。
「どうしても言えないことがあるのなら、そのまま墓の中まで持って行けばいい。ただし、持って行くつもりなら、決して口にしても、思ってもいけない。夢に見てもいけない」
 戸田は、静かに稲村の表情を覗き込んでいる。 
「しかし、被害者の美津濃美穂さんへの謝罪は別です。彼女のしたことは、稲村さんに苦痛を与えたと思います。稲村さんが大事に思い描いていた家庭団欒の夢を、父親を夢見る男には、一番残酷な形で消してしまった。それでも、あなたのしたことは、許されることではない」
 稲村は、ことばの深意を探ろうとして戸田を凝視していたが、ふいに表情をこわばらせて戸田の視線から目をそらし、そのまま顔を伏せた。
 だから、と戸田は言った。
「あなたは、美津濃美穂さんにされたことを忘れ、してもらったことだけを思い出せばいい。あなたが、美津濃美穂さんにしてやったことを忘れ、してやりたかったことを数え上げればいい。彼女が望んでいたことを数え上げればいい」
 なあ、と戸田は続けた。
「稲村さん。それだけで彼女への謝罪になる。口に出さなくてもいい。心の中で思うだけでいい。それだけでいいんだ」
 戸田は静かに微笑んだ。稲村は、呆然としたまま見つめている。
「それだけ言いにきた」
 戸田は大きく頷いて、ほうっと長い息を吐いた。
「戸田さん、おれ」
 椅子から腰を上げかけた戸田に、稲村が声をかけて、止めた。
「一年続けられれば、一生続けられる」
 と立ち上がった戸田がぼそりと言った。
「美穂さんの部屋の流しに、そう書いた紙が貼ってあった。なんのことかわからなかったが、稲村さん。この前、あなたと話していてわかったよ。あれは、あなたに作り続けた弁当のことだね」
 稲村の開きかけた口は、声が出せないまま開いている。息の音だけが、稲村の胸から口の間を何度も行き来していた。
「最後にひとつ聞いていいかな」
 戸田は静かに稲村を見つめている。
「美穂さんは、弁当を作るのを止めると言ったのかな」
 稲村は口を開けたまま、ゆっくりと首を振った。
「美穂さんは一生作り続けるつもりだったんだね。あなたの体に何が起きていたとしても、ずっと一緒にいて……」
「戸田さん。おれ」
 頷いた稲村の目から涙がこぼれた。
「よかった。その一言が言いたかったんだ」
「それなのに、戸田さん、おれ……」
 戸田は、稲村を見つめながら何度も首を振った。
「もういい。何も言うんじゃない」
 時間です、と刑務官が入ってきた。
「生きて償うんだよ、稲村さん」
 戸田は、刑務官と一緒に出ていく稲村にそっと呟いた。
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