首筋に咬痕

あお

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太陽が天辺に昇り切る頃、半休で午前中だけの出勤だった俺はどこかへ寄ることもなく会社から直帰した。
背広をハンガーに掛け、ソファーに腰を下ろす。小さく息を吐き、昼飯をどうするか思考を巡らせた。

冷蔵庫には昨日作った煮物が入っている。一人では食べきれない程作ってしまった事を思い出し、それと同時に美味しそうにおにぎりを頬張る彼の姿が頭をよぎった。

ゆっくりと、テーブルに置いた携帯電話に手を伸ばす。






彼は、煮物は好きだろうか。






今日の予定を確認するメールを送ってみたが、二時間経っても返信は返ってこなかった。この時間はまだ大学に居るだろうから特に気にはならなかった。



いや、もしかしてまたご飯も食べずに居るんじゃないだろうか。



誰かが気に掛けなければ食事を二の次にしてしまう彼を思うと心配が募る。

紙袋を家のドアノブにぶら下げておけば、帰ってきた時に気付いて食べてくれるんじゃないか。そんな気持ちから、俺は返信を待たずに家を出る準備を始めた。

















「あれ、榊さん?」


一駅電車に揺られ、何度も訪れた改札を抜ける。目的地へ足を向けた瞬間、聞き慣れた声が俺の名前を呼んだ。
振り返るとそこにはリュックを背負いラフな服装に身を包んだ大学帰りと思われる彼の姿があった。


「音梨君」

「こんにちは。こんな所で会うなんて珍しいですね」


どうしたんですかと、私服で、しかも音梨君の家に来る時以外で利用しない駅に俺が居ることに珍しさを覚えたのか、興味津々といった表情で問われた。


「ああ、ちょっとね。音梨君は今帰りかな」

「はい。これから友達とご飯食べる約束してるんで、一旦荷物置きに帰ろうかなって」

「友達……?」

「ええ。ご飯を食べに行くか飲みに行くかでまだ悩んでるんですけど」



友達……と、心の中で反復する。

音梨君の口から友達という台詞を初めて聞いた。家だけでなく大学でもいつも一人でご飯を食べていると聞いていたから、余計に驚いた。

大学の友人なのかと聞くと、首を横に振って高校時代の友達なんですと返答が返ってきた。相手は高校卒業後平日休みの会社に就職したらしく、大学生の自分とは予定が中々合わなず今日久々に会うのだという。


会う機会が少ない友達だから、今まで殆ど話題に上がらなかったのだろう。それを理解しても、まだどこか府に落ちない自分が居て。


俺は今の今まで、音梨君には友達が居ないと思っていた。俺以外には。俺に友人と呼べる存在が音梨君しか居ないのと同じように、音梨君にも俺だけなんだろうと勝手に勘違いしていた。


そっと紙袋に視線を落とす。これはもう、渡せそうにない。


「どうかしましたか?」

「……いや、なんでもないよ」

「なんでもない感じには見えないですけど」


どこか不自然な振る舞いを見せた俺に気付いたのか、音梨君が訝しげる。鋭過ぎる観察力と洞察力に目を見張った。


「あー、その、所用で近くまで来たからご飯でもと思ったんだが……また今度誘うよ」

「もしかしてーーあっ、メールくれてたんですね。すみません、気付かなくて」

「大丈夫だよ。すまない、俺も知人を待たせているんだ。また水曜日に」


知人と会う。そう偽って音梨君に別れを告げた。

逃げるように音梨君の家とは反対方向へ向かって足を踏み出す。渡すことの出来なかった煮物の入った紙袋が、鉛のように重く感じた。



















「提案があるんだが……今日は洋服を着た状態のデッサンをしてみないか」


約束の水曜日。アトリエに先に入って行った音梨君の背中に、俺はいつもと違う形でやってみないかと問い掛けた。やり方に対して俺が何かを言うのは初めての事で、その声は、心なしか震えていた。


「寒いですか?」

「いや、いつもと違うテイストで描くのもいいかなと思って」


洋服を着た状態も偶にはいいだろうと念を押すように言うと、それに同意するように首が大きく縦に揺れた。


「そうですね。じゃあ今日はそのまま座ってください。ブランケットは必要ですか」

「このままで大丈夫だよ」


提案が受け入れられた事に、そっと息を吐く。

正直まだ、足の爪先からねっとりと這うようなあの視線を、勘違いだと断言し切れていない自分が居る。だから今日、洋服を着ていられるのがどれ程心強い事か。


「そう言えば、この間は予定合わなくてすみません」

「いや、かなり急だったからね」

「折角榊さんの方から誘ってもらったのに」

「俺とはいつでも会えるだろう」

「ご飯のお誘いとかって、こうして会うのとはちょっと違うじゃないですか」


拗ねたように唇を尖らせる姿は何とも年相応で、ちょっと可愛らしくて。音梨君の表情一つで緊張なんて一瞬で吹き飛んだ。




デッサンを初めて数分が経過した頃、音梨君の唸るような声が耳に届いた。極力動かないようにそっと視線を向けると、渋い表情を浮かべる姿が視界に入った。


「どうかしたのか」

「うーん、なんでしょう。いつもと感じが違うというか、洋服で見たい所が見えないというか……」


そう言ってまた数分俺とスケッチブックを交互に見ては鉛筆を動かすが、思うように描かないのか歯痒さともどかしさがひしひしと伝わってきた。
向けてくる視線に、いつもの鋭さは感じられない。どうやら描くモードにも入り切れていないようだ。


「もっと違うポーズを取ろうか」

「そう、ですね。でもそれだけじゃ……」


解決にはならない。そう言葉を続けたかったのだろう。音梨君は絵に関して、妥協するという事をしない。それは俺も、よく知っている。







「やっぱり、服脱いでもらってもいいですか」





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