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ブリティッシュエアウェイズのビジネスクラス。スタイリッシュで空間に余裕のある機内は、1月のロンドンの厳しい寒さに反して穏やかに暖かい。
まだ乗客の搭乗が続く中、早めに乗り込んだぼくとユウ兄は、手荷物から必要なものを不足ないよう確認しながら取り出し、これからの12時間のフライトを快適に過ごせるようにそれぞれ自分のブースを繕っていた。スマホ、充電ケーブル、ノイズキャンセリングイヤフォンやペンなどを入れたケース、ホームワークのためのタブレットと参考書・・・。よし、たぶんオーケー。
ぼくはオルトボックスの32ℓザックのファスナーを綴じ、座席上の収納棚へ揚げるためシートブースから通路へ出た。
「ナオト、整理できたのか?」
通路を挟んで隣りのユウ兄がパーテーション越しに声をかけてくれる。
「うん」
とりあえず。たぶん、そのうち何か忘れたことに気付くだろうけど。
「揚げてやるよ」
ユウ兄はそう言いながらぼくの手からザックを取り上げ、さっさと収納棚へ入れてくれた。
16歳になってもまだ身長が163cmのぼくはいつも荷物の揚げ降ろしに苦労する。けど、186cmのユウ兄は棚の中も覗けるくらい余裕だ。いつも助けてもらっている。
ユウ兄はザックだけでなく、今は使わない枕と寝具も揚げてくれた。
「ありがとう」
「取り出す時は声かけろよ」
そう言ってユウ兄は自分のブースに戻って作業を再開した。
ぼくは座席に座り、コンソールデスクに身を乗せるようにして窓の外を覗いた。小さな窓の向こうに青空が広がっている。広い駐機場にはボーディングブリッジの取り付いている飛行機が奥までたくさん並んでいた。見慣れた景色ではあるけど、やっぱり離陸前の雰囲気はワクワクする。
「お飲み物はいかがですか?」
通路から笑顔のCAさんに声をかけられ、振り返ったぼくはトレイから炭酸水をもらった。離陸して安定飛行に入るまではパーテーションのスライドドアを開けておかなければならない。出入り口から隣りを見ると、いつの間にかブース整理を終えてのんびり座っていたユウ兄がスパークリングワインをもらっていた。
ぼくたちはこれから、休暇を利用しての日本帰国のため、もう間もなくイギリスを出発する。
ぼく、香田直人と、ユウ兄こと白石佑記は、F1チームの現地クルーだ。ユウ兄はチーフメカニックで、ぼくは訳あってチームの広報アシスタントというイレギュラーなポジションに就いている。イギリスのユウ兄の自宅を拠点に一年のほとんどをレースに参加するため、ユウ兄と一緒に世界を転々としている。グランプリウィークは、大量のホームワークをこなすことを条件に、学校を休ませてもらっている。
年間24戦あるF1GPの移動手段の大半は飛行機だ。交通費はチーム持ちで、エグゼクティブでない一般クルーはエコノミーを割り当てられる。当然ぼくたちもそうで、基本的にはチームが手配したチケットで移動する。だけど、最近はフライトが6時間を超える時はユウ兄が個人でビジネスクラスを取ってくれることが多い。
2年前、チーフメカニックに昇格したシーズンの最終戦アブダビGP終了後、ぼくたちは初めてチームと別行動を取った。こっそりみんなと違う便のビジネスクラスでイギリスの自宅へ戻る時、
「終盤の三連戦を終えて中東からの帰宅くらい、ゆっくり帰ってもバチは当たらないだろ・・・」
と疲れた顔で当然のように呟いたユウ兄が今でも忘れられない。確かに、F1の年間開催数は年々増えていて、20年前の約1.5倍だ。現地クルーの負担も倍増している。
正直、こんな贅沢していいのかなと思ったけど、フルフラットで体を横にして休める段違いの快適さを知ってしまったらもうエコノミーでの長距離移動には戻れない。それ以来、遠くからイギリスへ戻る時や日本へ帰国する時はビジネスクラスを利用している。
とは言え、チケット代っていくらするんだろう? ユウ兄に聞いてみたら「時期と航空会社による」と一蹴。チーフメカニックの年俸ってそんなに高いのかな? と思ったら「マイルとチームの配当金」と一言。ふうん?
15歳年上のユウ兄は元お隣さんで、ぼくが生まれる前から家族ぐるみの付き合いだ。ぼくが保育園に通っていた時には、多忙な両親の代わりに迎えに来てくれることも少なくなかった。
ぼくはユウ兄が大好きだ。一緒にいると楽しい。対等に接してくれるし変に過保護でもない。だけど、ぼくが欲しいサポートはちゃんとしてくれる。ユウ兄の傍は居心地がいい。
でも、あまり本音や本心を口に出すことがなくて、たまに「何考えてるのかなあ」と不思議に思うことはある。
新しい機材のシートは、従来の前後交差タイプではなくヘリンボーン形式で全ての座席が前向き。綺麗なだけでなく快適性がアップしていて気持ちがいい。
飛行機は無事に離陸し、シートベルト着用サインも消えた。ぼくはホームワークに取り掛かることにした。
ひじ掛けを引き上げて座席を少しだけリクライニングさせる。テーブルを引き出して体の方へ寄せ、その上に収納ボックスに入れておいたタブレットとポータブルキーボードを出した。備え付けの大きなヘッドフォンは苦手だから、自分のイヤフォンを耳に差し込む。天井の読書灯を点けた時、CAさんが1回目の食事の希望を取りに来た。あまりお腹が空いていないし宿題をしたかったからデザートのみをお願いした。テーブルクロスも断る。
周りでは料理のサーブが始まった。ぼくはみんなより先駆けて届けられたデザートのチョコレートプディングをつまみながらホームワークを進めた。機内はパーテーションのドアを閉められる状態になっているけど、ぼくはあまり閉鎖空間が好きじゃないから起きている時は開けっ放しにしておく。
2時間くらい続けて一息ついた。イヤフォンを外して座席上で背伸びをする。背中が固まってるなあ。
隣りのユウ兄の様子を伺うと、ぼくと同じように開けっ放しの出入り口からは真っ暗なモニターと、フラットにしたシートに交差して投げ出している脚が見えた。寝ているのかな? 前かがみになって奥を覗き込むと、ユウ兄はタブレットに見入っていた。たぶん、レースのデータを見ているんだろう。移動中、コミュニケーションを交わすことはほとんどないけど、ユウ兄が横にいると思うだけでぼくはほっとする。
移動するときの座席はプライベートでもチーム移動でも、極力ユウ兄と隣同士になるようにしてもらっている。ぼくが11歳の時に両親を事故で亡くし、ユウ兄に引き取られてチームに同行するようになって以来、ずっと。
ぼくの「訳あって」とは、そういうことだ。
それからぼくは、突然独りにされると両親を失くした時に襲われた強い孤独感を思い出してしまう「クセ」がある。たとえ同じ空間にユウ兄がいたとしても、些細な何かがトリガーになってしまうこともあった。思い出すだけならまだいいけど、その感覚に耐えられず、うずくまって動けなくなってしまうこともあった。
その時の〝あの感覚〟は、胸を締め付けられるような、不安に飲み込まれて酔ってしまうような、何とも言えない気持ち悪さがある。一旦あの感覚が甦ると消え去るまでにすごく時間がかかる。
3年前、フライト直前の機材変更で座席がリセットされて離れてしまったことがあった。ユウ兄どころか他のクルーもみんなバラバラになった。移動には馴れているはずだったけど、さすがに中央列の中のほうの座席で、両側を体の大きな知らない欧州人に挟まれた状態での7時間フライトは、トイレに立つのも飲み物をもらうのも気を遣うし、なにより落ち着かなくてすごく疲れた。
一番疲れたのは、〝あの感覚〟が沸き上がらないように気を逸らし続けたこと・・・。
とはいえ、もうさすがに11歳の時に比べたら大分マシになっていて、この時は結局〝あの感覚〟に飲まれずに済んで無事に着陸を迎えられた。今では、動けなくなる前に自分で気持ちを宥める対処もできるようになった。
ぼくは少しお腹が空いていることに気が付いた。手元のリモコンでCAさんを呼ぶことも出来るけど、体を動かしたくてギャレーへ行くために立ち上がって通路へ出た。
「寝るのか?」
声をかけられて横を向くと、ユウ兄がぼくを見上げていた。
「ううん、気分転換にギャレーに行こうと思って」
「そっか。おれもなんかもらいに行こうかな」
タブレットを脇のコンソールデスクに置いてユウ兄も立ち上がった。二人で前方のギャレーへ向かう。全体を見回すと座席はほとんど埋まっていて空席は数えるほどだった。
安定飛行中とはいえ突発的に多少は揺れる。だけど、後ろにユウ兄がいると思うとそれだけで安心感がある。ぼくは揚々と通路を進んだ。
ブリティッシュエアウェイズのギャレーはドリンクも軽食も豊富、という評判らしい。
しばらくカウンター上のドリンクやスナック類、クーラーの中の軽食を物色する。あーでもないこーでもない、と二人でごちゃごちゃと日本語で喋っていたら、近くを通ったCAさんに微笑まれた。兄弟ケンカでもしてるかと思われたかな? ぼくは彼女に肩をすくめてみせる。なんとなく照れ隠しで。
ぼくはオレンジジュースとサンドイッチを、ユウ兄はジントニックとナッツをもらってギャレーを出た。ちいさな声で会話を交わしながら座席ブースへ戻る。
「さっき出たチョコレートプディング、美味しかったね」
「ああ、美味かった。ナオトなら作れるんじゃないか?」
ぼくの趣味はお菓子作り。グランプリ転戦の合間の気分転換だ。興味が沸いたものはなんでも作ってみる。でも、さすがに有名チョコレートブランドとのコラボスウィーツは難易度が高い・・・。
「チャレンジしてみるよ」
テーブルに出せる日が来るか分からないけど。
ブースまで戻ってきて、ぼくは遠慮なくユウ兄の長身に頼る。
「ユウ兄、枕とか取ってもらってもいい?」
「いいよ」
まだ眠くはなかったけど、このタイミングを活用してユウ兄に寝具を取ってもらう。枕、シーツ、ブランケットを順に受け取る。
「ありがとう。じゃあ、またね」
「ん、おやすみ。あ、寝る時はドアを閉めておけよ」
「はあい」
ユウ兄はシートに身体を投げ出すと、またタブレットを手にした。ぼくはシートをフルフラットにして寝具をセットし、ブースに入るとユウ兄の言いつけ通りにスライドドアを閉めた。
ブランケットに身を包み、枕をクッション代わりにして背をもたれさせ、タブレットを手に取る。頭の横の読書灯を回転させた。今度はホームワークではなく、予め保存しておいたたくさんの動画をサンドイッチ片手にオフライン視聴するんだ。
思わずニマニマしてしまう。好きなだけ動画を視ていてもいつもみたいにユウ兄に怒られない。これはロングフライトの最大のお楽しみ!
だけど、そのお楽しみ時間は長続きせず、照明が暗くなった機内に誘われるようにだんだん眠くなってくる。うとうとしながら動画を視ていたけど、ついには完全に眠ってしまった。
まだ乗客の搭乗が続く中、早めに乗り込んだぼくとユウ兄は、手荷物から必要なものを不足ないよう確認しながら取り出し、これからの12時間のフライトを快適に過ごせるようにそれぞれ自分のブースを繕っていた。スマホ、充電ケーブル、ノイズキャンセリングイヤフォンやペンなどを入れたケース、ホームワークのためのタブレットと参考書・・・。よし、たぶんオーケー。
ぼくはオルトボックスの32ℓザックのファスナーを綴じ、座席上の収納棚へ揚げるためシートブースから通路へ出た。
「ナオト、整理できたのか?」
通路を挟んで隣りのユウ兄がパーテーション越しに声をかけてくれる。
「うん」
とりあえず。たぶん、そのうち何か忘れたことに気付くだろうけど。
「揚げてやるよ」
ユウ兄はそう言いながらぼくの手からザックを取り上げ、さっさと収納棚へ入れてくれた。
16歳になってもまだ身長が163cmのぼくはいつも荷物の揚げ降ろしに苦労する。けど、186cmのユウ兄は棚の中も覗けるくらい余裕だ。いつも助けてもらっている。
ユウ兄はザックだけでなく、今は使わない枕と寝具も揚げてくれた。
「ありがとう」
「取り出す時は声かけろよ」
そう言ってユウ兄は自分のブースに戻って作業を再開した。
ぼくは座席に座り、コンソールデスクに身を乗せるようにして窓の外を覗いた。小さな窓の向こうに青空が広がっている。広い駐機場にはボーディングブリッジの取り付いている飛行機が奥までたくさん並んでいた。見慣れた景色ではあるけど、やっぱり離陸前の雰囲気はワクワクする。
「お飲み物はいかがですか?」
通路から笑顔のCAさんに声をかけられ、振り返ったぼくはトレイから炭酸水をもらった。離陸して安定飛行に入るまではパーテーションのスライドドアを開けておかなければならない。出入り口から隣りを見ると、いつの間にかブース整理を終えてのんびり座っていたユウ兄がスパークリングワインをもらっていた。
ぼくたちはこれから、休暇を利用しての日本帰国のため、もう間もなくイギリスを出発する。
ぼく、香田直人と、ユウ兄こと白石佑記は、F1チームの現地クルーだ。ユウ兄はチーフメカニックで、ぼくは訳あってチームの広報アシスタントというイレギュラーなポジションに就いている。イギリスのユウ兄の自宅を拠点に一年のほとんどをレースに参加するため、ユウ兄と一緒に世界を転々としている。グランプリウィークは、大量のホームワークをこなすことを条件に、学校を休ませてもらっている。
年間24戦あるF1GPの移動手段の大半は飛行機だ。交通費はチーム持ちで、エグゼクティブでない一般クルーはエコノミーを割り当てられる。当然ぼくたちもそうで、基本的にはチームが手配したチケットで移動する。だけど、最近はフライトが6時間を超える時はユウ兄が個人でビジネスクラスを取ってくれることが多い。
2年前、チーフメカニックに昇格したシーズンの最終戦アブダビGP終了後、ぼくたちは初めてチームと別行動を取った。こっそりみんなと違う便のビジネスクラスでイギリスの自宅へ戻る時、
「終盤の三連戦を終えて中東からの帰宅くらい、ゆっくり帰ってもバチは当たらないだろ・・・」
と疲れた顔で当然のように呟いたユウ兄が今でも忘れられない。確かに、F1の年間開催数は年々増えていて、20年前の約1.5倍だ。現地クルーの負担も倍増している。
正直、こんな贅沢していいのかなと思ったけど、フルフラットで体を横にして休める段違いの快適さを知ってしまったらもうエコノミーでの長距離移動には戻れない。それ以来、遠くからイギリスへ戻る時や日本へ帰国する時はビジネスクラスを利用している。
とは言え、チケット代っていくらするんだろう? ユウ兄に聞いてみたら「時期と航空会社による」と一蹴。チーフメカニックの年俸ってそんなに高いのかな? と思ったら「マイルとチームの配当金」と一言。ふうん?
15歳年上のユウ兄は元お隣さんで、ぼくが生まれる前から家族ぐるみの付き合いだ。ぼくが保育園に通っていた時には、多忙な両親の代わりに迎えに来てくれることも少なくなかった。
ぼくはユウ兄が大好きだ。一緒にいると楽しい。対等に接してくれるし変に過保護でもない。だけど、ぼくが欲しいサポートはちゃんとしてくれる。ユウ兄の傍は居心地がいい。
でも、あまり本音や本心を口に出すことがなくて、たまに「何考えてるのかなあ」と不思議に思うことはある。
新しい機材のシートは、従来の前後交差タイプではなくヘリンボーン形式で全ての座席が前向き。綺麗なだけでなく快適性がアップしていて気持ちがいい。
飛行機は無事に離陸し、シートベルト着用サインも消えた。ぼくはホームワークに取り掛かることにした。
ひじ掛けを引き上げて座席を少しだけリクライニングさせる。テーブルを引き出して体の方へ寄せ、その上に収納ボックスに入れておいたタブレットとポータブルキーボードを出した。備え付けの大きなヘッドフォンは苦手だから、自分のイヤフォンを耳に差し込む。天井の読書灯を点けた時、CAさんが1回目の食事の希望を取りに来た。あまりお腹が空いていないし宿題をしたかったからデザートのみをお願いした。テーブルクロスも断る。
周りでは料理のサーブが始まった。ぼくはみんなより先駆けて届けられたデザートのチョコレートプディングをつまみながらホームワークを進めた。機内はパーテーションのドアを閉められる状態になっているけど、ぼくはあまり閉鎖空間が好きじゃないから起きている時は開けっ放しにしておく。
2時間くらい続けて一息ついた。イヤフォンを外して座席上で背伸びをする。背中が固まってるなあ。
隣りのユウ兄の様子を伺うと、ぼくと同じように開けっ放しの出入り口からは真っ暗なモニターと、フラットにしたシートに交差して投げ出している脚が見えた。寝ているのかな? 前かがみになって奥を覗き込むと、ユウ兄はタブレットに見入っていた。たぶん、レースのデータを見ているんだろう。移動中、コミュニケーションを交わすことはほとんどないけど、ユウ兄が横にいると思うだけでぼくはほっとする。
移動するときの座席はプライベートでもチーム移動でも、極力ユウ兄と隣同士になるようにしてもらっている。ぼくが11歳の時に両親を事故で亡くし、ユウ兄に引き取られてチームに同行するようになって以来、ずっと。
ぼくの「訳あって」とは、そういうことだ。
それからぼくは、突然独りにされると両親を失くした時に襲われた強い孤独感を思い出してしまう「クセ」がある。たとえ同じ空間にユウ兄がいたとしても、些細な何かがトリガーになってしまうこともあった。思い出すだけならまだいいけど、その感覚に耐えられず、うずくまって動けなくなってしまうこともあった。
その時の〝あの感覚〟は、胸を締め付けられるような、不安に飲み込まれて酔ってしまうような、何とも言えない気持ち悪さがある。一旦あの感覚が甦ると消え去るまでにすごく時間がかかる。
3年前、フライト直前の機材変更で座席がリセットされて離れてしまったことがあった。ユウ兄どころか他のクルーもみんなバラバラになった。移動には馴れているはずだったけど、さすがに中央列の中のほうの座席で、両側を体の大きな知らない欧州人に挟まれた状態での7時間フライトは、トイレに立つのも飲み物をもらうのも気を遣うし、なにより落ち着かなくてすごく疲れた。
一番疲れたのは、〝あの感覚〟が沸き上がらないように気を逸らし続けたこと・・・。
とはいえ、もうさすがに11歳の時に比べたら大分マシになっていて、この時は結局〝あの感覚〟に飲まれずに済んで無事に着陸を迎えられた。今では、動けなくなる前に自分で気持ちを宥める対処もできるようになった。
ぼくは少しお腹が空いていることに気が付いた。手元のリモコンでCAさんを呼ぶことも出来るけど、体を動かしたくてギャレーへ行くために立ち上がって通路へ出た。
「寝るのか?」
声をかけられて横を向くと、ユウ兄がぼくを見上げていた。
「ううん、気分転換にギャレーに行こうと思って」
「そっか。おれもなんかもらいに行こうかな」
タブレットを脇のコンソールデスクに置いてユウ兄も立ち上がった。二人で前方のギャレーへ向かう。全体を見回すと座席はほとんど埋まっていて空席は数えるほどだった。
安定飛行中とはいえ突発的に多少は揺れる。だけど、後ろにユウ兄がいると思うとそれだけで安心感がある。ぼくは揚々と通路を進んだ。
ブリティッシュエアウェイズのギャレーはドリンクも軽食も豊富、という評判らしい。
しばらくカウンター上のドリンクやスナック類、クーラーの中の軽食を物色する。あーでもないこーでもない、と二人でごちゃごちゃと日本語で喋っていたら、近くを通ったCAさんに微笑まれた。兄弟ケンカでもしてるかと思われたかな? ぼくは彼女に肩をすくめてみせる。なんとなく照れ隠しで。
ぼくはオレンジジュースとサンドイッチを、ユウ兄はジントニックとナッツをもらってギャレーを出た。ちいさな声で会話を交わしながら座席ブースへ戻る。
「さっき出たチョコレートプディング、美味しかったね」
「ああ、美味かった。ナオトなら作れるんじゃないか?」
ぼくの趣味はお菓子作り。グランプリ転戦の合間の気分転換だ。興味が沸いたものはなんでも作ってみる。でも、さすがに有名チョコレートブランドとのコラボスウィーツは難易度が高い・・・。
「チャレンジしてみるよ」
テーブルに出せる日が来るか分からないけど。
ブースまで戻ってきて、ぼくは遠慮なくユウ兄の長身に頼る。
「ユウ兄、枕とか取ってもらってもいい?」
「いいよ」
まだ眠くはなかったけど、このタイミングを活用してユウ兄に寝具を取ってもらう。枕、シーツ、ブランケットを順に受け取る。
「ありがとう。じゃあ、またね」
「ん、おやすみ。あ、寝る時はドアを閉めておけよ」
「はあい」
ユウ兄はシートに身体を投げ出すと、またタブレットを手にした。ぼくはシートをフルフラットにして寝具をセットし、ブースに入るとユウ兄の言いつけ通りにスライドドアを閉めた。
ブランケットに身を包み、枕をクッション代わりにして背をもたれさせ、タブレットを手に取る。頭の横の読書灯を回転させた。今度はホームワークではなく、予め保存しておいたたくさんの動画をサンドイッチ片手にオフライン視聴するんだ。
思わずニマニマしてしまう。好きなだけ動画を視ていてもいつもみたいにユウ兄に怒られない。これはロングフライトの最大のお楽しみ!
だけど、そのお楽しみ時間は長続きせず、照明が暗くなった機内に誘われるようにだんだん眠くなってくる。うとうとしながら動画を視ていたけど、ついには完全に眠ってしまった。
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