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物語が動き始める章
第八話 「ふと気付くと」
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帰る家があるのはとても幸せなことだと、誰かに言われたことがあった。
俺はこの言葉を聞いて、この人は帰る家があることを当然と思わず、そのありがたみに感謝しなさい。ということを言いたいのだろうなと思った。
でも実際、帰る家があることに感謝しようと言っても、それはとても身近で気にすることのないくらい当たり前のことだから、「考える機会」が与えられたり、「考えるきっかけ」に遭遇しない限り、感謝の気持ちなんてものはまず湧いてこないはずだ。
じゃあ日常生活の中でありがたみを感じることはないのかと言われれば、決してそんなことはない。
例えば、深々と雪が降りゆく息が白くなるほど寒い冬の日に、凍えた体が暖まるに違いない湯加減の湯船に入った瞬間だとか、天気の良い日中の間、ずっと天日干ししていた布団と、ふかふかで寝心地の良い枕で床に就く時や、一家揃ってテレビでも見ながら、他愛のない会話に花を咲かせ、仲良く夕御飯を食べるひと時など、帰っていくべき「家」には、ありがたみや幸せを感じることの出来るシーンはたくさんある。
特別なことじゃない。
こんなほんのささやかなことでだって、ありがたみ、幸せといったものを感じることが出来るのだ。
世の中には「家」もなく、そこで送る日々の生活、そして日常の当たり前の中にあるささいな幸せすら得られない人もいる。
それを思えば、帰る家があるということは、確かに感謝すべきことなんだろう。
――でも本当に、帰る家があるのは幸せなことだと言えるのだろうか?
これじゃまるで、家がある人は幸せで、家がない人は幸せじゃないということになってしまうんじゃないか?
そこに疑問を感じて、俺は「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」の意味合いを、「衣食住としての家があるのは幸せだ」といったものではなく、もっと違う見方で解釈した。
まず「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」を言葉通りに受け取るなら、ここで言う「家」というのはまさしく衣食住としての家、住居のことを指しているに違いない。
まあ大体は「家」と聞くと「衣食住としての家」を連想すると思う。
だから「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」を「衣食住としての家」として見てみると、「帰る家があるというのはとても幸せなことで、帰る家がないというのはとても不幸なことだ」とも言えてしまうわけだ。
現にホームレス、難民などの言葉を聞いたことがあるだろう。
帰る家のないその人たちに比べれば、確かに帰る家のある俺のほうが幸せに見えてしまう。
そしてこの「衣食住としての家」だが、これは人が生活を送る上での基盤となっている。
誰だって、家がないと生活が成り立たないはずだ。
だから毎日訪れる明日に備えるため、どこかに出掛けたとしても、必ず「家」に帰っていく。
俺みたいな年代の場合、学校やアルバイト、そして遊びに行った後は必ずと言って良いほど「家」に帰るだろう。
俺みたいな年代に限らず、誰だってなにか用事が終わったら「家」に帰るし、仕事が終わって飲みに行っても、最終的に「家」に帰っていく。
中には自分の「家」ではなくても、どこかしらの「家」に帰っていく者もいるだろう。
旅館やホテルだって「家」であることに変わりはない。
そしてその「家」では、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、趣味に没頭したり、伸び伸びとソファーに寝転んだりして寛ぐ。
さっきのような、特別ではないほんのささやかなことにありがたみや幸せを感じるのも、そんな日常生活のなかでのことだ。
このように毎日を生活していくために「家」というのは必要なものだ。
無論「家」に帰らなくとも一応は明日を迎えられるが、生活の水準は劣るだろう。
だからこそ、俺に「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」と言った人は、帰る家があることに感謝しようと伝えたかったに違いない。
しかしここで思うことがある。
それは「なぜ帰る家があることが幸せになるのか?」ということだ。
住居があって、まともな生活が出来るから幸せというわけではないはずだ。
宿を転々として、一応はまともな生活が出来るという人は幸せと言えるのか?そういうわけではないだろう。
俺は「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」をこう解釈した。
「家と呼ばれる場所は、心の拠り所があり、同時に居場所でもある。だから帰る家があるというのは幸せだ」
単なる言葉の捉え方の違いなのかもしれないが、これが俺の解釈だ。
ここで言う「心の拠り所」というのは、人であったり、動物であったり、魚であったり、植物であったり、ぬいぐるみであったり、雰囲気であったり、実に様々なカタチがある。
家に帰れば家族が待っており、そこには家庭がある。
家に帰ればペットが待っており、そこには癒しがある。
家に帰れば趣味が待っており、そこには至福がある。
といったように、家には何かしらの心の拠り所が存在し、そこから何かしらの幸せを得たり、感じたりする。
そしてたくさんの心の拠り所を持つ「家」というのは一体何なんだと考えたとき、それは「居場所」なんだと思った。
己の存在理由はなんだろう?という疑問は、誰でも一度は抱くことだと思う。
そしてその多くは己の存在理由を己以外に求める。
人が大きく影響を受けるのは同じ人だ。
だから己を存在理由にしたって、それを認めてくれる人がいないと、結局は虚しくなってしまうのだ。
誰でも知らず知らずの内に人との繋がりを求めるものなのかもしれない。
その中で自然と人だけではない何か「心の拠り所」というものが生まれ、それが多くある「居場所」に帰っていくようになるのだろう。
だから「衣食住としての家」という見方だけでなく「心の拠り所がある居場所としての家」という見方をすると、帰る家があるから幸せだなんていう限定された見方は意味をなさなくなる。
帰る家があるかないかじゃない。
あっても、なくても、誰でも幸せになれるのだ。
帰る家があるのはとても幸せなことだと、誰が言っていたかは忘れてしまったが、俺は正しくその通りだと思った。
誰だって、帰る家があって然るべきなのだから。
しかしかといって、俺は帰る家がないから幸せじゃないなんて思わない。
家が自分のところへ帰ってくるか?
いや、帰ってこないだろう。
家に帰るのはいつだって自分だ。
帰る家が見つからない人もいるだろう。
家があるのに帰りたくない人もいるだろう。
はたまた帰り道が分からなくなった人もいるだろう。
でも最終的には、自分自身が自分自身の力で家に帰らなければならない。
家が手を引っ張って中に入れてくれることはない。
自分から中へ入っていかないとならない。
「家」なんてものはどこにでもあって、既に誰かが住んでいる「家」もあれば、誰でも入れる空っぽの「家」もある。
新しく「家」を作ることだって出来るし、自分の「家」に誰かを招き入れることだって出来る。
そう、全ては自分次第なのだ。
俺にとって「帰る家があるのはとても幸せなことだ」という言葉は、幸せについて考えさせられる良い言葉だった。
帰る家がある人より、帰る家のない人のほうが、正直幸せには見えない。
だからこそ、幸せがどんなものかを考えることが出来たし、帰る家がある人は幸せ、帰る家がない人は幸せじゃない。
この二つの対比から、何かと何かを比べることによる弊害までも考えることが出来たのだから。
俺の知っている世界では、帰る家があることは当たり前のことだ。
でも俺の知らない世界では、帰る家があることは当たり前じゃないかもしれない。
しかし、だからといって俺の知っている世界のほうが幸せで、俺の知らない世界のほうが幸せじゃないなんて言えない。
人は幸せについて考える。
自分が幸せなのか、幸せじゃないのかを考える。
そして、自分は幸せだ。自分は不幸だ。という風に思う。
でも、誰だって幸せなのだ。
ただ当たり前のこと過ぎて、自然なこと過ぎて、更に目に見えることじゃないから、幸せがなにか考えてしまうのだ。
じゃあなぜさっきのように自分が幸せだと思ったり、自分は不幸だと思ったりするのか。
それは、人と比べるからだ。
人と比べて考えることで、自分の境遇を勝手に決めてしまうからだ。
これこそが何かと何かを比べることによる弊害。
この弊害によって「あの人は○○なのに、自分は○○だ」「なんで自分だけ」といった僻みが生まれる。
その結果どうなるかというと、全てを自分以外の他人のせいにしてしまうとても醜い人間が誕生してしまうわけだ。
――いつの日か「帰る家があるのはとても幸せなことだ」と誰かに言われ、今の考えに至った後に、言われた言葉を同じように他の人に言ってみたことがある。
すると、言った相手は「そうだよね、世界には住む場所もない人たちがいるんだから、自分たちは……」というようなくだらないことを抜かしていた。
だから俺は「帰る家があるから幸せだとは限らないだろ」と言ってやった。
そうしたら、若干声を荒げて「これが当たり前のことだと思っている」「甘えている」などという返答が、その相手から返ってきたことを覚えている。
でもだから何なんだ?
自分の考えが固まった今は、こんな風に己の勝手な解釈で物事を計る人間は俺の特に嫌いなタイプになった。
その人しか知らない気持ち、考え、痛み、苦しみというものがあるんだよ。
じゃあお前らは俺に生きる意味を教えてくれるのか?
明確な答えを教えてくれるとでもいうのか?
きっと「こうなんだろう」「こう思う」みたいに自分なりの答えを口にするだけだろう。
あんたらの答えなんかどうでもいい。
それは俺が求めてることじゃない。
求めることと違うことにありがたみなんて感じない。
それと同じなんだよ。
でも、全てを知る者は生きる意味を知っていると言った。
確かな「答え」というものを知ってもらいたいと言った。
そしてそれを俺自身で理解させようとした。
ただ、その「答え」が俺の求める唯一無二のものかどうかはわからない。
しかし、ならなんのために俺はとても現実とは思えない体験をしたのか。
それはなぜかというと、何らかの理由があるからだ。
どんな出来事だって、理由があるから起こるのだ。
俺はそう信じている。
そしてその理由こそ、俺がずっと求めてきたもの。
なぜ生きるのか。
その意味、理由、答えを俺はずっと求めていたんだ。
だから今俺は幸せの真っ只中にいる。
少なくともそう信じておく。
「ねえ、本当に幸せだと思ってる?」
――唐突に聞き覚えのある声がしたので、俺は思わず辺りを見回した。
しかし近くには誰も居ない。
「またか」という嘆息と共に、俺はしっかりと前を見据えた。
学校を離れ、帰宅するときに通るいつものメインルートを歩いていたが、やはり普通でいつもと何も変わらない帰り道だった。
チョコチップスティックパンとコーヒー牛乳という俺にとって欠かすことの出来ない昼食を購入するコンビニも通常営業中。
――コンビニが二十四時間営業じゃ無かったら、一体何の利点があるのだろうか。
今日は朝いつもレジを打っているパートタイムのおばさんが夕方なのにまだ店内で商品の陳列をしていた。
そういや結構あのおばさん夕方まで働いてるよな……。
何かと物入りなのかな?
せくせくと働くその姿を横目に、目の前の交差点を渡ると大通りに出る。
この大通り沿いには高層のオフィスビルが立ち並び、この一帯は突然都会のど真ん中に来てしまったのかと錯覚してしまうほど圧迫感を感じてしまう。
大通りはオシャレなショップやカフェが連なり、景観を彩る整備された街路樹が実に心地良い雰囲気を演出している――。
ような、そんな昼下がりの散歩道とは全く異なり、車の排気音が耳障りで道行く人は殆どが無表情で早歩き。
しかも無駄に人がたくさんいるため、ここを歩いていると 息が詰まってしまう。
しかし俺はそれらに気を取られることなく、いつの間にか自宅の目と鼻の先を歩いていたのだった。
どこからともなく聞こえる声に気付かされたが、ここに来るまでまた俺はくだらないことを考えていたらしい。
にしてもいいかげん、考え事をしながら歩くのは止めにしないといけないな……。
電柱に頭をゴッチン!なんてわざとだろう。
と思っていたがそんなことはない。
俺がそれを保障する。
電柱だけでなく、すれ違う人や自転車、挙句の果てには踏切の遮断棒を切ってあの世にゴールインしそうになったことだってある。
笑えない冗談だろうが、あることに熱中することは、時に己を危険に晒す。
そうならないためにも歩いているときくらいちゃんと前を見なきゃいけないな。
――うんうんと軽く肯きが入っていたかもしれない。
その時にチラッとあるマンションが目に留まった。そう、俺の家だ。
「晩メシ、どうしようかな」
エレベーターの行き先ボタンを押し、今日の夕食の献立を考える。
といっても、またいつものようにカップ麺になるんだろう……。
六階建てのマンション。
階数表示の四が点灯し、エレベーターのドアが開くと一直線に帰るべき一室へ向かった――。
「ただいま」とドアを開けると、その声がこだまとなって返ってきそうな静寂が俺を迎えてくれた。
しかし部屋からはおかえりという声もただいまというこだますらも聞こえてこなかった。
なので、俺は自然と「もう出掛けたか……」と独り言を漏らし、静寂を紛らわすのだった。
俺にとって、ここは衣食住としての家でしかない。
心の拠り所もなければ、自分の居場所とも言い難い。
唯一、心の拠り所として期待できる父親と同居しているが、こうもすれ違いが多いんじゃコミュニケーションの取りようがなく、それが叶うことはない。
――俺は父親と二人で暮らしている。
父は俗に言う「夜の仕事」をしているらしい。
いつも夕方には出掛け、朝方帰ってくる。
俺が起床し、学校へ登校するまでの間は自室で眠っていて、部屋から出てくることはない。
たまに休日が被ったとしても、お互い自室で好き勝手やっているので、最近は顔を合わすことや、言葉を交わすこともほとんどない。
「夜の仕事」をしているらしい。
というのは、実のところ父がどんな仕事をしているか詳しく知らないからだ。
父は、俺が小学生の頃には休日にいつもどこかに遊びに連れて行ってくれた。
映画館、遊園地、ゲームセンター、ボーリングなどに良く行ったっけ……。
しかしたまにだがそれらへ向かう前に、特定の雑居ビル前に車を止め、「ちょっと待っててな」と、そのビルから何やら女性を連れて来る時があった。
連れてくる女性は皆外国人で、中南米辺りの出身らしき容姿をしていたことは覚えている。
この女性だけでなく、他に複数連れて来る時も多々あった。
見知らぬ、皆一様に金髪で、香水のキツイ、目のぎょろっとした異人が、理解不能な言葉を発しながら車に乗り込んでくる。
こんな休日はいつも泣きそうになっていたが、彼女らと一緒に仲良く遊んだりしたことはない。
父はその雑居ビルから車で十五分程の、まだ落ち着きを保っている静かな繁華街で彼女らを降ろすと、何食わぬ顔で「今日はどこへ行きたい?」と聞いてくるのだった……。
当時のまだまだ子供心の残る俺は深く追求したり考えたりしなかったが、恐らく多国籍パブなどでもやってるのだろう。と今は思う。
どこぞから家賃や光熱費の催促も無く、毎週の始めには五千円の小遣いが居間のテーブルの上に置かれている。
どうやら仕事は上手く行っているのだろう。
このように日々の生活には何の問題も無いのだが、流石に孤独感に苛まれてしまうことはある。
俺には兄弟姉妹もいない。
母は……俺が物心つくかどうかの頃に死んだ。
病死と聞いているが詳しくは知らない。
親戚として真っ先に思い当たるのは祖父母だが、今現在は全く音沙汰なし。
一緒にどこかに遊びに行くような親しい友人などもいないし、俺の人間関係は希薄だ。
まあ一人に慣れてしまった俺には大して問題ではない。
今、一番関心があるのは――。
風呂上がり、冷蔵庫に目ぼしいものがなかったので、買いだめしておいたカップラーメンを食べることにした。
昔から俺はよく自炊をするのだが、最近はカップ麺のみという場合が多くなった。
朝は何も食べず、昼メシにチョコチップスティックパンとコーヒー牛乳を食し、 夜にはカップ麺……。
不摂生極まりないが、まず第一、考え事をする時間が多くなった。
というのも、不摂生な生活をしてしまう一つの要因でもある。
時間が過ぎてしまうのも忘れて、ただ何かを考えている。
ふと気付くと我に返り、現実を見据える。
今も適当にテレビを点け、画面の中で熱戦を繰り広げているナイターをぼんやりと眺めていた。
期待のルーキー、小谷敦也が、相手打者をバッタバッタと三振に取っている光景など、俺の目には映っていなかっただろう。
じゃあ何が映っているのかというと、今確かに目に映っているのは、今日、美術室で出会った「彼女」に他ならない。
一度は脳裏から消え去ったかな?
と思っていたが、それは中々消えるものではない。
頭の隅っこに隠れていたようだ。
それが急に立ち上がり、ズカズカと隅から歩いてきて、今度は俺の頭の中心に座り込んできたものだから、美術室での彼女の一言一言が思い出された。
「あたし、ここでキミを待ってたんだ。本当に来てくれたんだね……」
「じゃあさ、高月くんは……あたしのこと知ってる?」
「嬉しい!ありがとう!必ずだよ?」
「……あたしね?さっきも言ったけど、来てくれたらいいなぁーってずっと思ってたんだ、高月くんのこと。心の何処かできっと来てくれるって願ってたっていうか、信じてて……」
「その……来て欲しかったの……高月くんが好きだから!」
「ありがとう……」
「ピーーーーーーッ」
――ん?
突然、それが一目散にどこかに駆けていった。
何事かと辺りを見回してみると、堪忍袋の緒を切らしたやかんが俺を呼んでいた。
俺はこの言葉を聞いて、この人は帰る家があることを当然と思わず、そのありがたみに感謝しなさい。ということを言いたいのだろうなと思った。
でも実際、帰る家があることに感謝しようと言っても、それはとても身近で気にすることのないくらい当たり前のことだから、「考える機会」が与えられたり、「考えるきっかけ」に遭遇しない限り、感謝の気持ちなんてものはまず湧いてこないはずだ。
じゃあ日常生活の中でありがたみを感じることはないのかと言われれば、決してそんなことはない。
例えば、深々と雪が降りゆく息が白くなるほど寒い冬の日に、凍えた体が暖まるに違いない湯加減の湯船に入った瞬間だとか、天気の良い日中の間、ずっと天日干ししていた布団と、ふかふかで寝心地の良い枕で床に就く時や、一家揃ってテレビでも見ながら、他愛のない会話に花を咲かせ、仲良く夕御飯を食べるひと時など、帰っていくべき「家」には、ありがたみや幸せを感じることの出来るシーンはたくさんある。
特別なことじゃない。
こんなほんのささやかなことでだって、ありがたみ、幸せといったものを感じることが出来るのだ。
世の中には「家」もなく、そこで送る日々の生活、そして日常の当たり前の中にあるささいな幸せすら得られない人もいる。
それを思えば、帰る家があるということは、確かに感謝すべきことなんだろう。
――でも本当に、帰る家があるのは幸せなことだと言えるのだろうか?
これじゃまるで、家がある人は幸せで、家がない人は幸せじゃないということになってしまうんじゃないか?
そこに疑問を感じて、俺は「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」の意味合いを、「衣食住としての家があるのは幸せだ」といったものではなく、もっと違う見方で解釈した。
まず「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」を言葉通りに受け取るなら、ここで言う「家」というのはまさしく衣食住としての家、住居のことを指しているに違いない。
まあ大体は「家」と聞くと「衣食住としての家」を連想すると思う。
だから「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」を「衣食住としての家」として見てみると、「帰る家があるというのはとても幸せなことで、帰る家がないというのはとても不幸なことだ」とも言えてしまうわけだ。
現にホームレス、難民などの言葉を聞いたことがあるだろう。
帰る家のないその人たちに比べれば、確かに帰る家のある俺のほうが幸せに見えてしまう。
そしてこの「衣食住としての家」だが、これは人が生活を送る上での基盤となっている。
誰だって、家がないと生活が成り立たないはずだ。
だから毎日訪れる明日に備えるため、どこかに出掛けたとしても、必ず「家」に帰っていく。
俺みたいな年代の場合、学校やアルバイト、そして遊びに行った後は必ずと言って良いほど「家」に帰るだろう。
俺みたいな年代に限らず、誰だってなにか用事が終わったら「家」に帰るし、仕事が終わって飲みに行っても、最終的に「家」に帰っていく。
中には自分の「家」ではなくても、どこかしらの「家」に帰っていく者もいるだろう。
旅館やホテルだって「家」であることに変わりはない。
そしてその「家」では、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、趣味に没頭したり、伸び伸びとソファーに寝転んだりして寛ぐ。
さっきのような、特別ではないほんのささやかなことにありがたみや幸せを感じるのも、そんな日常生活のなかでのことだ。
このように毎日を生活していくために「家」というのは必要なものだ。
無論「家」に帰らなくとも一応は明日を迎えられるが、生活の水準は劣るだろう。
だからこそ、俺に「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」と言った人は、帰る家があることに感謝しようと伝えたかったに違いない。
しかしここで思うことがある。
それは「なぜ帰る家があることが幸せになるのか?」ということだ。
住居があって、まともな生活が出来るから幸せというわけではないはずだ。
宿を転々として、一応はまともな生活が出来るという人は幸せと言えるのか?そういうわけではないだろう。
俺は「帰る家があるというのはとても幸せなことだ」をこう解釈した。
「家と呼ばれる場所は、心の拠り所があり、同時に居場所でもある。だから帰る家があるというのは幸せだ」
単なる言葉の捉え方の違いなのかもしれないが、これが俺の解釈だ。
ここで言う「心の拠り所」というのは、人であったり、動物であったり、魚であったり、植物であったり、ぬいぐるみであったり、雰囲気であったり、実に様々なカタチがある。
家に帰れば家族が待っており、そこには家庭がある。
家に帰ればペットが待っており、そこには癒しがある。
家に帰れば趣味が待っており、そこには至福がある。
といったように、家には何かしらの心の拠り所が存在し、そこから何かしらの幸せを得たり、感じたりする。
そしてたくさんの心の拠り所を持つ「家」というのは一体何なんだと考えたとき、それは「居場所」なんだと思った。
己の存在理由はなんだろう?という疑問は、誰でも一度は抱くことだと思う。
そしてその多くは己の存在理由を己以外に求める。
人が大きく影響を受けるのは同じ人だ。
だから己を存在理由にしたって、それを認めてくれる人がいないと、結局は虚しくなってしまうのだ。
誰でも知らず知らずの内に人との繋がりを求めるものなのかもしれない。
その中で自然と人だけではない何か「心の拠り所」というものが生まれ、それが多くある「居場所」に帰っていくようになるのだろう。
だから「衣食住としての家」という見方だけでなく「心の拠り所がある居場所としての家」という見方をすると、帰る家があるから幸せだなんていう限定された見方は意味をなさなくなる。
帰る家があるかないかじゃない。
あっても、なくても、誰でも幸せになれるのだ。
帰る家があるのはとても幸せなことだと、誰が言っていたかは忘れてしまったが、俺は正しくその通りだと思った。
誰だって、帰る家があって然るべきなのだから。
しかしかといって、俺は帰る家がないから幸せじゃないなんて思わない。
家が自分のところへ帰ってくるか?
いや、帰ってこないだろう。
家に帰るのはいつだって自分だ。
帰る家が見つからない人もいるだろう。
家があるのに帰りたくない人もいるだろう。
はたまた帰り道が分からなくなった人もいるだろう。
でも最終的には、自分自身が自分自身の力で家に帰らなければならない。
家が手を引っ張って中に入れてくれることはない。
自分から中へ入っていかないとならない。
「家」なんてものはどこにでもあって、既に誰かが住んでいる「家」もあれば、誰でも入れる空っぽの「家」もある。
新しく「家」を作ることだって出来るし、自分の「家」に誰かを招き入れることだって出来る。
そう、全ては自分次第なのだ。
俺にとって「帰る家があるのはとても幸せなことだ」という言葉は、幸せについて考えさせられる良い言葉だった。
帰る家がある人より、帰る家のない人のほうが、正直幸せには見えない。
だからこそ、幸せがどんなものかを考えることが出来たし、帰る家がある人は幸せ、帰る家がない人は幸せじゃない。
この二つの対比から、何かと何かを比べることによる弊害までも考えることが出来たのだから。
俺の知っている世界では、帰る家があることは当たり前のことだ。
でも俺の知らない世界では、帰る家があることは当たり前じゃないかもしれない。
しかし、だからといって俺の知っている世界のほうが幸せで、俺の知らない世界のほうが幸せじゃないなんて言えない。
人は幸せについて考える。
自分が幸せなのか、幸せじゃないのかを考える。
そして、自分は幸せだ。自分は不幸だ。という風に思う。
でも、誰だって幸せなのだ。
ただ当たり前のこと過ぎて、自然なこと過ぎて、更に目に見えることじゃないから、幸せがなにか考えてしまうのだ。
じゃあなぜさっきのように自分が幸せだと思ったり、自分は不幸だと思ったりするのか。
それは、人と比べるからだ。
人と比べて考えることで、自分の境遇を勝手に決めてしまうからだ。
これこそが何かと何かを比べることによる弊害。
この弊害によって「あの人は○○なのに、自分は○○だ」「なんで自分だけ」といった僻みが生まれる。
その結果どうなるかというと、全てを自分以外の他人のせいにしてしまうとても醜い人間が誕生してしまうわけだ。
――いつの日か「帰る家があるのはとても幸せなことだ」と誰かに言われ、今の考えに至った後に、言われた言葉を同じように他の人に言ってみたことがある。
すると、言った相手は「そうだよね、世界には住む場所もない人たちがいるんだから、自分たちは……」というようなくだらないことを抜かしていた。
だから俺は「帰る家があるから幸せだとは限らないだろ」と言ってやった。
そうしたら、若干声を荒げて「これが当たり前のことだと思っている」「甘えている」などという返答が、その相手から返ってきたことを覚えている。
でもだから何なんだ?
自分の考えが固まった今は、こんな風に己の勝手な解釈で物事を計る人間は俺の特に嫌いなタイプになった。
その人しか知らない気持ち、考え、痛み、苦しみというものがあるんだよ。
じゃあお前らは俺に生きる意味を教えてくれるのか?
明確な答えを教えてくれるとでもいうのか?
きっと「こうなんだろう」「こう思う」みたいに自分なりの答えを口にするだけだろう。
あんたらの答えなんかどうでもいい。
それは俺が求めてることじゃない。
求めることと違うことにありがたみなんて感じない。
それと同じなんだよ。
でも、全てを知る者は生きる意味を知っていると言った。
確かな「答え」というものを知ってもらいたいと言った。
そしてそれを俺自身で理解させようとした。
ただ、その「答え」が俺の求める唯一無二のものかどうかはわからない。
しかし、ならなんのために俺はとても現実とは思えない体験をしたのか。
それはなぜかというと、何らかの理由があるからだ。
どんな出来事だって、理由があるから起こるのだ。
俺はそう信じている。
そしてその理由こそ、俺がずっと求めてきたもの。
なぜ生きるのか。
その意味、理由、答えを俺はずっと求めていたんだ。
だから今俺は幸せの真っ只中にいる。
少なくともそう信じておく。
「ねえ、本当に幸せだと思ってる?」
――唐突に聞き覚えのある声がしたので、俺は思わず辺りを見回した。
しかし近くには誰も居ない。
「またか」という嘆息と共に、俺はしっかりと前を見据えた。
学校を離れ、帰宅するときに通るいつものメインルートを歩いていたが、やはり普通でいつもと何も変わらない帰り道だった。
チョコチップスティックパンとコーヒー牛乳という俺にとって欠かすことの出来ない昼食を購入するコンビニも通常営業中。
――コンビニが二十四時間営業じゃ無かったら、一体何の利点があるのだろうか。
今日は朝いつもレジを打っているパートタイムのおばさんが夕方なのにまだ店内で商品の陳列をしていた。
そういや結構あのおばさん夕方まで働いてるよな……。
何かと物入りなのかな?
せくせくと働くその姿を横目に、目の前の交差点を渡ると大通りに出る。
この大通り沿いには高層のオフィスビルが立ち並び、この一帯は突然都会のど真ん中に来てしまったのかと錯覚してしまうほど圧迫感を感じてしまう。
大通りはオシャレなショップやカフェが連なり、景観を彩る整備された街路樹が実に心地良い雰囲気を演出している――。
ような、そんな昼下がりの散歩道とは全く異なり、車の排気音が耳障りで道行く人は殆どが無表情で早歩き。
しかも無駄に人がたくさんいるため、ここを歩いていると 息が詰まってしまう。
しかし俺はそれらに気を取られることなく、いつの間にか自宅の目と鼻の先を歩いていたのだった。
どこからともなく聞こえる声に気付かされたが、ここに来るまでまた俺はくだらないことを考えていたらしい。
にしてもいいかげん、考え事をしながら歩くのは止めにしないといけないな……。
電柱に頭をゴッチン!なんてわざとだろう。
と思っていたがそんなことはない。
俺がそれを保障する。
電柱だけでなく、すれ違う人や自転車、挙句の果てには踏切の遮断棒を切ってあの世にゴールインしそうになったことだってある。
笑えない冗談だろうが、あることに熱中することは、時に己を危険に晒す。
そうならないためにも歩いているときくらいちゃんと前を見なきゃいけないな。
――うんうんと軽く肯きが入っていたかもしれない。
その時にチラッとあるマンションが目に留まった。そう、俺の家だ。
「晩メシ、どうしようかな」
エレベーターの行き先ボタンを押し、今日の夕食の献立を考える。
といっても、またいつものようにカップ麺になるんだろう……。
六階建てのマンション。
階数表示の四が点灯し、エレベーターのドアが開くと一直線に帰るべき一室へ向かった――。
「ただいま」とドアを開けると、その声がこだまとなって返ってきそうな静寂が俺を迎えてくれた。
しかし部屋からはおかえりという声もただいまというこだますらも聞こえてこなかった。
なので、俺は自然と「もう出掛けたか……」と独り言を漏らし、静寂を紛らわすのだった。
俺にとって、ここは衣食住としての家でしかない。
心の拠り所もなければ、自分の居場所とも言い難い。
唯一、心の拠り所として期待できる父親と同居しているが、こうもすれ違いが多いんじゃコミュニケーションの取りようがなく、それが叶うことはない。
――俺は父親と二人で暮らしている。
父は俗に言う「夜の仕事」をしているらしい。
いつも夕方には出掛け、朝方帰ってくる。
俺が起床し、学校へ登校するまでの間は自室で眠っていて、部屋から出てくることはない。
たまに休日が被ったとしても、お互い自室で好き勝手やっているので、最近は顔を合わすことや、言葉を交わすこともほとんどない。
「夜の仕事」をしているらしい。
というのは、実のところ父がどんな仕事をしているか詳しく知らないからだ。
父は、俺が小学生の頃には休日にいつもどこかに遊びに連れて行ってくれた。
映画館、遊園地、ゲームセンター、ボーリングなどに良く行ったっけ……。
しかしたまにだがそれらへ向かう前に、特定の雑居ビル前に車を止め、「ちょっと待っててな」と、そのビルから何やら女性を連れて来る時があった。
連れてくる女性は皆外国人で、中南米辺りの出身らしき容姿をしていたことは覚えている。
この女性だけでなく、他に複数連れて来る時も多々あった。
見知らぬ、皆一様に金髪で、香水のキツイ、目のぎょろっとした異人が、理解不能な言葉を発しながら車に乗り込んでくる。
こんな休日はいつも泣きそうになっていたが、彼女らと一緒に仲良く遊んだりしたことはない。
父はその雑居ビルから車で十五分程の、まだ落ち着きを保っている静かな繁華街で彼女らを降ろすと、何食わぬ顔で「今日はどこへ行きたい?」と聞いてくるのだった……。
当時のまだまだ子供心の残る俺は深く追求したり考えたりしなかったが、恐らく多国籍パブなどでもやってるのだろう。と今は思う。
どこぞから家賃や光熱費の催促も無く、毎週の始めには五千円の小遣いが居間のテーブルの上に置かれている。
どうやら仕事は上手く行っているのだろう。
このように日々の生活には何の問題も無いのだが、流石に孤独感に苛まれてしまうことはある。
俺には兄弟姉妹もいない。
母は……俺が物心つくかどうかの頃に死んだ。
病死と聞いているが詳しくは知らない。
親戚として真っ先に思い当たるのは祖父母だが、今現在は全く音沙汰なし。
一緒にどこかに遊びに行くような親しい友人などもいないし、俺の人間関係は希薄だ。
まあ一人に慣れてしまった俺には大して問題ではない。
今、一番関心があるのは――。
風呂上がり、冷蔵庫に目ぼしいものがなかったので、買いだめしておいたカップラーメンを食べることにした。
昔から俺はよく自炊をするのだが、最近はカップ麺のみという場合が多くなった。
朝は何も食べず、昼メシにチョコチップスティックパンとコーヒー牛乳を食し、 夜にはカップ麺……。
不摂生極まりないが、まず第一、考え事をする時間が多くなった。
というのも、不摂生な生活をしてしまう一つの要因でもある。
時間が過ぎてしまうのも忘れて、ただ何かを考えている。
ふと気付くと我に返り、現実を見据える。
今も適当にテレビを点け、画面の中で熱戦を繰り広げているナイターをぼんやりと眺めていた。
期待のルーキー、小谷敦也が、相手打者をバッタバッタと三振に取っている光景など、俺の目には映っていなかっただろう。
じゃあ何が映っているのかというと、今確かに目に映っているのは、今日、美術室で出会った「彼女」に他ならない。
一度は脳裏から消え去ったかな?
と思っていたが、それは中々消えるものではない。
頭の隅っこに隠れていたようだ。
それが急に立ち上がり、ズカズカと隅から歩いてきて、今度は俺の頭の中心に座り込んできたものだから、美術室での彼女の一言一言が思い出された。
「あたし、ここでキミを待ってたんだ。本当に来てくれたんだね……」
「じゃあさ、高月くんは……あたしのこと知ってる?」
「嬉しい!ありがとう!必ずだよ?」
「……あたしね?さっきも言ったけど、来てくれたらいいなぁーってずっと思ってたんだ、高月くんのこと。心の何処かできっと来てくれるって願ってたっていうか、信じてて……」
「その……来て欲しかったの……高月くんが好きだから!」
「ありがとう……」
「ピーーーーーーッ」
――ん?
突然、それが一目散にどこかに駆けていった。
何事かと辺りを見回してみると、堪忍袋の緒を切らしたやかんが俺を呼んでいた。
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