いつか森になる荒野

千年砂漠

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潮見島へ

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 作戦決行の二日前、僕は広海の体調の最終確認に病院を訪れた。
 いつものように病室へ行こうとすると、看護師さんに呼び止められた。
 もしかして広海のお母さんが来ているのかと思えば、それどころの話ではなかった。
「広海君、昨日から調子が悪いの。友達を心配させたくないから面会は検査でいないって断って欲しいって頼まれたんだけど、中原君だけはどうしても頼みたい事があるから来てもらいたいって。本当は君にも遠慮してもらいたいんだけど……長居はしないでね」
 僕は顔をしかめる看護師さんに呆然と頷きながら、動揺する心そのままの足取りで広海の病室に向かった。
 広海の病室は四人部屋だが、広海の隣は退院したのか空いていて、向かいの二人は留守だった。広海のベッドの仕切りカーテンを少し開けて中を覗うと、広海は点滴を受けながら眠っていた。カーテンの中に入り、僕が小声で声をかけると広海はすぐに目を覚まし、気まずそうに笑った。
「ごめん。何か、夏風邪引いたみたいで。でも、こんなの、大したことないから」
「広海、止めましょう」
 言い訳する広海の声を遮って、僕は首を振った。
「これじゃ、とても無理です。行ける状態じゃないです」
 僕はベッド脇に近づいて膝を折り、計画の中止を告げた。
 しかし広海は駄々っ子のように首を振って拒否した。
「嫌だ。行く。行けるから、連れて行ってくれ」
 僕が駄目だ無理だと何度言い聞かせても、広海は納得してくれなかった。
 僕は広海に危ない冒険をさせたかったのではない。広海に少しでも元気を出して欲しくて、希望を持って欲しくて約束した事だったのに、僕は何を間違ってしまったのだろう。
「駄目です。せめて、病院の屋上で彗星を見られないか、今から僕が頼んでみますから」
「待って。頼むから、連れて行って」
 ベッドから離れようとする僕のシャツを広海が掴んだ。掴むというより、縋るといった弱々しさだった。
「卑怯なこと、言おうか。……ぼくは、多分もう長くない」
 思わず息を飲んで絶句した僕に、広海は息を乱しながら歪んだ笑みを向けた。
「自分のことだから分かる。ぼくは、次回のハービルク彗星どころか、来年のペルセウス座流星群も、多分見れない。だから、これが最後のチャンスなんだ」
 広海の目はギラギラと不穏に輝き、僕のその場しのぎの嘘や慰めを許さない鋭さをも持っていた。
「潮見島なんて、いつでも、行けると、思ってた。あんなに近い島、大人になれば、どうやってでも、行けるって。でも、そうじゃない。いつでも行けると、思ってる間は、永遠に行けないんだ。ここで優人が、ぼくを止めるなら、ぼくは死ぬまで、優人を恨む。――頼む。連れて行ってくれ。頼むよ」
 駄目だと言え。無茶をさせたくないなら、駄目だと――。
「優人が、連れて行って、くれないなら、ぼくは、ヒッチハイクしてでも、行く。泳いででも、島に行く!」
 もう、僕には言えなかった。
 喘ぐように肩で息をしながらも諦めない広海を止める言葉なんて、僕にはない。
「……約束の時間に、約束の場所へ来られたら、ですよ」
「行くよ……必ず」
 僕のシャツを掴んでいた手が、今度は僕の手を掴む。
 熱い手だった。熱くて、燃えるような手だった。僕の手まで燃えてしまうのではないかと思えるくらい、熱い手だった。
「ぼくは、必ず、行くから」
 僕は黙って頷くと、そっと広海の手を外して病室を出た。急ぎ足でナースステーションの前を取り過ぎる。看護師さんに声をかけられたが僕は振り切るように階段に向かい、一気に一階まで駆け下りると駐車場まで走り、隅に駐まっている車の陰に回ると声を上げて泣いた。
 広海は本当にもう死ぬのだろうか。嘘だと思いたくても、悪すぎる顔色や痩せ具合がそれを否定してくれない。広海の熱い手は命を燃やしているような気がして、その熱がまだ残る手を握りしめて、僕は長い時間そこで泣き続けた。


 僕は瞬たちに広海の不調を告げなかった。言えばさすがに瞬たちが反対する。瞬たちを説得することも広海の決意を無碍にすることも、どちらも僕にはできなかった。
 広海を島へ連れて行く約束をして以来毎日が飛ぶように早く過ぎて行く感じがしていたのに、最後の二日間はジリジリするほど長く感じた。
 いっそ雨になってくれないかと願った。雨ならばさすがに広海も諦めざるを得ない。広海には気の毒だが、無理をさせるよりそっちの方が断然いい。
 しかし、当日は見事に晴れだった。ニュースでは朝から彗星の観測情報を流している。絶好の観測日和だと笑顔で話すアナウンサーを逆恨みだが殴りたい気分だった。
 夕方、僕は家族に大樹の家に泊まると言って家を出た。大樹の家の辺りは田畑が多く夜は明かりが少ないので一緒に彗星を見るとの言い訳はあっさり信じてもらえた。
 大樹の家では夕食をごちそうになり、内心落ち着かなかったが平静を装って彼の家族ともにこやかに話をした。大樹も家族に僕と同じ言い訳をしていて、春菜ちゃんに自分も一緒に見たいと言い出されないかハラハラしたが、幸い大樹の家は小学生の間は遅くても十時には就寝するとの決まりがあって、春菜ちゃんが我が儘を言うこともなかった。
 農業を営む大樹の家はみんな寝るのが早く、僕たちが家を出る頃には寝静まっていた。
 こっそり家を抜け出し、夜の道を行く。僕たちの住む町は田舎で、住宅地の中を選んで進めば車に会うことも殆どなかった。
 病院の裏手に着いたのは約束の時間の少し前だった。瞬もすぐやってきて、僕と大樹が夜間出入り口へ広海を迎えに行った。正直、広海に来て欲しくなかった。が、広海はすでに入り口横の植え込みの陰に座って待っていた。当たり前と言えば当たり前だが、広海はパジャマではなく長袖のTシャツとジャージのズボン姿でちゃんと靴もはいていた。
「・・・・・・広海、体調は?」
「こうして来たんだ。答えるまでもないよ」
 出入り口の暗い明かりを背に広海は笑ったが、僕の後ろに大樹の姿があるのを見て笑顔を消した。
「どうして大樹が」
「瞬もいる。三人でお前を島に連れて行く」
 何か言いかけた広海を「時間が惜しい」と大樹が強引に背負い、僕たちがリヤカーを止めた場所に戻ると、今度は僕と大樹が広海と一緒に「どうして」と驚く番だった。
 待っていたのは瞬だけでなく、旭と美国もいたのだ。
「いきなり来て、一緒に行くって、聞かねえんだよ」
 瞬が困り切った顔で首を振る。
「だ、駄目ですよ。女の子が、こんな夜中に」
 どうやって家を出てきたのか知らないが、連れて行くわけにはいかない。
「ふーん。その夜中に、これから女の子二人だけで帰すつもり?」
 旭が腕組みして悪そうに笑った。
「お願い、一緒に行かせて。私たちも役に立つから」
 美国も旭も一見して女子と分からないように体の線を隠すためか長袖の作業着を着て帽子を被り、大きめのリュックを背負っている。二人の広海を心配する気持ちは分かるが、夜道も海も危険なのだ。女の子を危ない目に遭わせたくはなかった。
 どうにかして追い返さなくてはと考える僕に、旭がきつい眼差しを向けた。
「断ったら病院に知らせるわよ」
 的確な脅し文句を言って、旭は判断を仰ぐような目で大樹に背負われている広海を見た。
「……しかたない。一緒に行こう」
 広海は苦笑し、旭はガッツポーズした。
 そうとなれば先を急ぐ。大樹が広海をリヤカーの荷台に下ろして寝かせた。
「カボチャの馬車は用意できなかった。乗り心地が悪いけど辛抱してくれ」
「用意できたとしても、午前零時過ぎだからカボチャに戻ってると思うよ」
 二人が冗談を言い合う間に、旭がリュックから大きめのバスタオルを取り出して広海の体にかけた。
「上は他から見えないようにシート被せるから鬱陶しいだろうけど、前からは風が入るから少しは涼しいからね」
 まず瞬が塚森町を抜けるまで運転して行き、岩城町に入ってからは大樹、海岸近くになったら僕に代わる予定で一行は出発した。道路の通行状況を探るため大樹が先行し、その後をリヤカー、美国、旭と続いて、僕が殿だった。
「旭、ボートを借りたとき、連れて行けとは言わなかったじゃないですか」
 僕が自転車で走りながら旭の横に並び小声で聞くと、旭は平然と笑った。
「あら、私言ったわよ。ボートは二隻あるから『みんなで』行けるね、って」
 おそらく旭はストレートに頼んでも僕が断固拒否すると見越して、追い返せない時点を選んできたのだ。広海の願いを潰す気はさらさらないから、病院に知らせるという脅しもポーズで、広海が頷きやすいように誘導しただけ。大した策略家だ。
「今日はあちこちで彗星観測をやってるから、警察も特に人が集まる場所を中心にパトロールしてる。赤松海岸方面なんて警戒外だから安心していいわよ」
 相変わらず深く考えると恐い情報をくれる旭だが、細やかな気配りもしてくれた。時々リヤカーを止めて広海に体調を聞き、美国のリュックからストロー付きのボトルを出させて水分補給をさせていた。もちろん僕たちにもだ。その分時間をロスしたが、予定は少し余裕を持って組んであったのが幸いして、気持ちに焦りはなかった。
 岩城町では塚森町以上に車に出会わなかった。みんな体力を温存するため殆ど喋らず、黙々と目的地を目指した。岩城町の住宅街を出たところで、大樹と僕が交代した。ここまではほぼ予定通りの時間できていた。僕で遅れを出すわけにはいかないと、僕はただひたすらペダルを漕いだ。
 海岸線の道路に出ると、途端に潮の香りがした。
「広海、海まで来たぞ」
 大樹と瞬が広海に声をかけ、僕を追い抜いていった。
「先に行ってボートの用意をしておく。頑張れよ」
 頷いて後ろを振り返ると、旭たちもちゃんと着いてきていた。
 もう少しだ、広海。海を渡ればお祖父さんとの思い出の島だ。
 僕はペダルを踏む足に力を込めた。
 僕たちが走る道と平行に続く防風林の上には、月のない夜空が広がっていた。
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