いつか森になる荒野

千年砂漠

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受難

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 学校から帰ってベッドに寝転がり鬱々としていると、由香里姉ちゃんから電話がかかってきた。
「優人、私の部屋の机の上にDVDが入ってる紙袋があるから、会社まで持ってきて」
「え、今からですか」
「そう。五時半には仕事終わるから、会社の玄関まで持ってきて。明日会う友達に返す予定だったんだけど、お互いの都合で今日会うことになったのよ。また暫くその子とは会えないから今日返しておきたいの」
 来ないと後で酷いわよ、と電話は切れた。
 由香里姉ちゃんは有言実行の女。後が怖いと経験で知っている僕は姉ちゃん達の部屋へ行き、紙袋を持ってバス停へ走った。
 由香里姉ちゃんが勤めている会社は納田市にあり、僕はギリギリで約束の五時半に間に合った。姉ちゃんはさすがに悪いと思ったのか、往復のバス代を少し多めにくれた。
 帰りのバスは退社時間のすぐ後で、今朝は雨が降っていたので普段は自転車やバイクで通勤する人がバスにしたせいか結構込んでいた。バス停に止まる度に乗客があり、バスのほぼ中央あたりでつり革に掴まっていた僕はその度に軽く人波に押され、密集する乗客の真ん中にいた。
 誰かの手が僕の腰に触れたのもそのせいだと思っていた――が。
 手は明確な意思を持っていた。腰に当たっていたのは最初手の甲の方だったのに、不意に反転して尻の方へゆっくり移動し始めた。誰だか分からない手が、僕の尻を撫でる。
 痴漢だ。明らかに痴漢だ。僕の尻を這う手は男の手。男が男に痴漢される屈辱。
 でも、僕は声も上げられなかった。恥ずかしくて。
 尻を撫でる手が腰をなぞって股間に伸びた時、バスが停留所に止まった。
「す、すいません! 降ります!」
 僕は人を掻き分け、バスから飛び降りた。今僕を触っていた奴が追って降りて来るんじゃないかと怖かったが、後から降りる者はなくバスは発車した。
 僕はほっとしてバス停のベンチに座り込む。
 不意にあの手の感触が甦ってきて、悪寒がし、顔を覆って俯いた。
 迂闊だった。世の中いい人ばかりじゃない。己の欲望を満たすことに手段を選ばない卑劣な奴はいくらでもいる――と、分かっていた、つもりで分かっていなかった。
 だけど、僕の常識では痴漢は女性を狙う者だったから、十五年間男として生きてきた僕に痴漢へのマジな警戒心なんてあるわけない。僕の身体が女性化したなら別だが、僕の身体は男のままで周りの男の意識だけが変わってしまったのだから、危険を自覚し難い。
 男は狼なのよ、気をつけなさい。これから毎日、自分に言い聞かせることにする。
「どうしたの、君。気分でも悪いの」
 声をかけられて顔を上げると、若いサラリーマン風の男性が立っていた。
「顔色が悪いよ。大丈夫?」
「……はい。あの……ちょっとバスに酔ってしまって」
 そう、と彼は頷くと、近くの自販機でジュースを買って僕に差し出した。
「炭酸系の飲み物、飲める? これで少しは気分が良くなるそうだから」
 あまりに気分が悪かったので、僕はありがたくそれをもらった。バス酔いした訳ではなかったが、炭酸飲料で少し気分は持ち直した。
「無理しないで、ここで少し休んでから帰った方がいいよ」
 彼は笑って僕の隣に座った。
「家はこの近くなの?」
「いえ、隣の町です」
「そっか。じゃあ、この近所で旨いラーメン屋とかは知らないよね」
 彼はこの街に出張で来ているのだそうだ。その土地の旨いラーメンを食べるのが趣味の一つだと笑う。笑うとたれ目になる善良そのものの笑顔が、いやな目にあったばかりの僕の気持ちを和ませてくれた。
 彼の食べ歩いたラーメンの話を聞いているとだんだん腹が減ってきて、腹が鳴った。
「腹が減るくらいなら、もう大丈夫だね」
 彼は快活に笑い、
「だったらさ、奢るから俺と晩飯一緒に食ってくれないか。一人で食事するの、味気なくて嫌なんだよね」
 家に帰れば両親と二人の姉の五人家族でいつも賑やかだから、と言う彼に好感を持ったのは僕と家庭環境が似ていたからだった。
 彼に誘われて僕は彼の泊まっているホテルのレストランで一緒に食事することにした。
 ホテルはオフィス街から少し外れた通りにあった。
「ちょっと待っててね」
 ホテルのロビーで彼は僕を待たせ、フロントへと向かった。
「お待たせ。じゃ、行こうか」
 手には部屋の鍵を持っている。それにレストランは一階の右側、左のエレベーターの方へ向かうのは方向違いだった。
「ルームサービスできるって言うから」
 彼の手が僕の肩に回る。
「俺の部屋でゆっくり食事しようよ」
 僕の顔を覗きこんだ彼の目を見て――僕は全てを悟った。
「あの、すいません。やっばり僕」
「ん? どうしたの」
「き、気分が悪いんで、帰ります」
 僕は彼の手を振り払うと、ホテルの外へ駆け出した。走って、走って、雑居ビルの間の路地へ入る。眩暈がしたのは息切れのせいじゃなく、怒りのせいだった。
 何が一緒に食事しよう、だ。あれって僕を食う気なんじゃないか。それにしても僕はどこまでバカなんだ。周りの男はみんな僕をそういう目で見ていて、実際に被害にも遭うんだと身を持って知ったばかりだったのに。
 気分の悪かった僕に声をかけてくれたあの人は、善良そうだった。けれどそれは見せかけで、僕に声をかけた時からホテルの自室に誘い込もうと考えていたのだとしたら――僕は人間不信になりそうだ。こんなこと誰にも相談できない。
「いきなり逃げるなんて、そりゃないよ」
 息を乱したさっきの彼が僕の肩を掴んだ。僕の後をずっと追いかけてきていたのだ。僕はそれに気づかなかった。
「でも、俺も悪かった。ちょっと急ぎすぎたよね」
 だけど、と僕を見つめる瞳が不穏に揺れている。
「本気なんだ。こんなに本気になったのって君が初めてなんだ」
「ま、待ってください。落ち着いてください。僕、男ですよ。そしてあなたも男です」
「そんなの気にすることないよ」
 いやいやいや、気にしろ。男を口説いている今の自分に少しくらい悩め。
「ね、機嫌直して、俺の部屋に来てよ」
 ふざけるな、と怒鳴ろうとして――思い止まった。葬儀場で僕の大声が引き起こしたことを考えるとやっぱりそれはまずい。
 その時、路地の向かいの雑居ビルのドアが開いて、人が二人出てきた。
 人が見ている、と彼の気を逸らして逃げるつもりだった――のに、出てきた人の顔を見て僕の方の気が逸れてしまった。
 その一瞬がまずかった。ふっと軽く彼に抱き寄せられ、キスされた。
 僕のファーストキスが、見ず知らずの男に。いや、それより。
 僕は彼を思い切り突き飛ばし、雑居ビルの前にいる人影の一人の方へ目を向ける。
 その人はひどく驚いた顔をして、僕の方を見ていた。
 終わった。もう僕の人生は終わった。
 僕は再び駆け出した。その場から一秒でも早く逃れたかった。
 僕が男にキスされたのを見ていたのは、同じクラスの女子、早川旭さんだった。


 仕事を終えて家に帰っていた母に「バス酔いで気分が悪い」と泣きついて車で迎えに来てもらった僕は、食欲がないと言い訳して夕食も取らず部屋に引きこもった。実際明日からのことを考えると食欲なんて起きなかった。
 僕の現在の交友関係は、僕が閻魔様から食らった罰の性的魅力だけによるという空しさですでに傷ついているというのに、男に痴漢されたショックと男にキスされた衝撃。その上その場面をよりによってクラスメートの早川さんに見られて、最早瀕死状態だ。
 実は、僕にとって早川さんは入学式で初めて見た時から気になる存在だったのだ。顔もスタイルもいい、まだ一度も話したことはないけど、できれば仲良くなりたいと願っていた。でも、早川さんは今日見たことで僕を軽蔑したに違いない。彼女が誰かに話すかXにポストでもしたら、瞬く間に話は広がってしまう。男友達に知られれば、僕が男と付き合える人間だと誤解して、今以上に露骨にアタックしてくるようになるかもしれない。
 女子に対しては屈辱を、男子に対しては貞操の危険を感じながら、僕は学校生活を続けることができるだろうか。
 無理だ。
 閻魔様にセクハラ発言したツケが、こんなにも大きく跳ね返ってくるとは。
 その夜僕は殆ど眠れなかった。
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