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父との別れと伯父の真意
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入学試験は思いの外落ち着いて、集中して臨めた。
制服の胸ポケットにお守りを入れていたが、会った事もない神様より弥生の思いやりが力をくれたと思う。ふと思い出す太陽の応援のエールも、私の何よりの味方だった。
合格通知は一週間後に中学校へ来る予定で、人智を尽くした後は天命を待つだけだった。
土曜日の午後、約束通り父が来た。
長い話はしないというので、話は会社の事務所の応接コーナーで話をする事にした。
伯母と伯父が同じ室内で見守る中、父は私が立ち聞きした話を改めて話した。新しい会社の準備で人手がいるため一日でも早く来て欲しいと言われていて、父もそれに応えたいのだと言う。淡々とした口調だったが、父の心はもう母や私に向いていないのが分かった。
「どんなに遅くても、三月の末には向こうに行かなくてはいけない。だから、美咲に会えるのはこれが最後だと思う」
それは父の決別の言葉だった。
私は父からの続く言葉を待ったが、父はそれきり口を閉ざし、代わりにある種の期待を眼の奥に潜ませて、私を見つめるだけだった。
「……だから、何なの?」
悲しみより、怒りが湧いた。
どんな理由であろうと、父が私と母を捨てて行く事実に変わりはない。謝罪の一言くらいあってもよさそうなものを、この人にはそんな殊勝さはないのだ。
「私に『恋人と幸せに暮らしてください』とでも言ってもらいたかったの? それとも『会えなくなってもずっとお父さんの事大好きよ』って?」
瞠目する父に、怒りを通り越して笑いが込み上げてくる。多分父は心のどこかでそんなおめでたい事を本気で私に期待していたのだ。
「お父さんと私は良く似ている」
おかしさを抑えきれなくて、笑みが漏れた。
「お父さんも私も、自分に都合のいい事しかしないし、言わない。自分がする事や考える事は自分では理に適ってると思い込んでるから、理解されない時は相手の方が悪いと決め込む。自分にいい事は他人にもいい事だと思ってて、相手が違う考えでいるなんて思ってもみない」
だから、娘が離婚と再婚に賛成してくれるなんて幻想を抱くのだ。
「お父さんと私が出っ張ってる所をお母さんが引っ込んでたから、今まで上手く回っていた。けど、お母さんが疲れて擦り切れてしまったから、家は止まってしまったの」
父の相手のあの女も私たちにそっくりだ。恋人として並んで回ってる間は同じリズムでいいかもしれないが、家族としてお互いをかみ合わせて回そうとすれば、きっとどこかでぶつかる。でも、それを告げても父は理解しないだろう。
「お父さん、真実を在りのままに話すっていうのは誠意じゃないよ。それは、抱えたものが苦しいから投げ出したってだけなの。相手が聞いて苦しい思いをすることは言わないのが誠意だと私は思う」
太陽、弥生、どうか私に力を貸してください。
父に別れを言う力を。
私は目を閉じ、太陽の笑顔と弥生のくれた手紙の薄緑色を思い浮かべ、目を開いた。
「だから、もしお父さんに私とお母さんに誠意を尽くす気があるなら、これ以上何も言わないで行って」
父に言いたい恨み事は山ほどあった。けれどそれを全てぶつけたとしても私の気が済むだけで、壊れた家族の絆は元に戻らない。
こんな勝手な人でも、父だ。憎み合って別れたくなかった。
「だったら、もう話は終わりだな」
少し離れた所で見守ってくれていた伯父が立ち上がった。
「これから先は弁護士を雇うから、そっちと話をしてくれ」
伯父は私の傍に立ち、父を見降ろした。
「離婚届は、オレが責任を持って喜美ちゃんを説得して判を押させる」
伯父の言葉に父は驚愕して顔を上げた。
「慰謝料なんかいらん。志麻子はお前の女相手に結婚生活を破たんさせた賠償請求の裁判を喜美ちゃんに起こさせるつもりらしかったが、それもさせん」
父は瞬間口を開きかけたが、伯父の強い視線を受けて口を閉じた。
「その代わり二つだけ条件がある。それだけ飲んでくれりゃあいい」
用心深く頷いた父に、伯父も無表情に頷いた。
「まず、一つ。喜美ちゃんの入院費と美咲ちゃんの高校三年間の学費だけは何があっても絶対出せ」
今度は私が驚いて伯父を見上げる番だった。私が悩んでいた学費を、伯父が考えてくれているとは思っていなかったので。
「高校から先の学費はいらん。大学に行く費用まで出せと言ったら、お前の新しい生活が立ちいかなくなる。子供が生まれりゃ金がいる。生まれてくる子に罪はねえのに、お前のせいで不自由させるわけにはいかねえだろう」
伯父の思考の広さと度量の深さに私は密かに感嘆した。伯父は感情をひとまず横に置き、状況を冷静に見る事のできる大人だった。
「美咲ちゃんが大学に行きたいと言うなら、その時はオレが出してやる。金がいるとなりゃ仕事に身が入って丁度いい。専門学校だろうと医大だろう海外だろうと、行きたい学校にはオレが金を出して行かせてやる。だから」
伯父は言葉を切り、一際厳しい目で父を睨みつけた。
「二度と喜美ちゃんと美咲ちゃんの前にそのツラ見せるな」
「――え」
父は理解できない様子で、二、三度瞬いた。
「今後一切、何があっても二人の前に現れるな。連絡も取るな。こっちからも一切連絡させん。美咲ちゃんの成人式の晴れ姿も見せんし、結婚式にも呼ばん。孫が生まれても知らせんし、顔も見せてやらん。それが二つ目の条件だ」
父の目が迷うように泳ぐ。伯父はそれを見て鼻で笑った。
「オレはお前より歳を食ってる分、色々人間を見ているから言うが、お前が今思い描いてるようにこの先のお前の生活が上手く行くとは全然思ってねえ。世の中そんなに甘くはねえ。新しい会社も新しい家族も、お前の想像とは絶対違うものになる。その時に、お前なら『こんなはずじゃなかった』って喜美ちゃんや美咲ちゃんに甘えて、戻って来ようとするかもしれねえ。そんなことは願い下げなんだよ」
分かったら帰れ、と伯父は冷たく言い捨てた。
「条件が飲めねえで離婚するっていうなら、裁判にする。女相手の裁判も同時に起こす。良く考えて、女とも相談しろ」
父は無言のまま立ち上がった。私と目が合うと、父の方が逸らせた。
「それから、もう一つ。女に伝えておけ」
振り返った父を伯父が見据える。
「人のものを盗って幸せになった奴は、この世に一人もいねえぞ、ってな」
顔を強張らせ、挨拶もしないで事務所を出ようとした父は一度だけ私を振り返ったが、何も言わないまま去って行った。
「美咲ちゃん、ああは言ったけどな」
伯父がどかりと隣に座った。
「美咲ちゃんが会いたくなったら、お父さんに会いに行っていいんだ」
切なげにため息をつく伯父を伯母もやはり切なげに見ていた。
「夫婦は別れりゃ他人だけどな、親子は死ぬまで親子だ。今は許せなくても、もっと大人になった時、全て水に流して会いたいと思うかもしれん。その時は会いに行けばいい。親子なのに一生会わんなんて、寂し過ぎるだろう」
そんな先の事まで考えて私に言ってくれる伯父は、本当に情の深い人だった。
「生活の事も心配すんな。お母さんも退院してすぐに働きには出れんだろうから、精神的に落ち着いて仕事に出られるようになれるまでは二人ともうちで暮らしゃあいい」
私は高校の合格通知がくれば、その日にでも三田浜の家に帰れと言われると思っていた。私だけでも十分この家のお荷物なのに、伯父はさらに母まで引き受けようと言うのだ。考えてもいなかった展開だった。
「伯父さんは……私のことなんて嫌いなんだと思ってました」
私の呟きに伯父は仰天して目を見開いた。
「ああっ? 何でそんな」
「だって! 私がこの家に来た日の夜、私と母の事で伯母さんと喧嘩を」
伯父と伯母は顔を見合わせ、揃って首をひねった。
「そんなの覚えがねえぞ」
あ、と声を上げたのは伯母だった。
「もしかして、あれじゃない? 入院費はどうするんだって」
「それです。私の世話と母の入院費を押しつけられて怒ってたから……」
「違う、違う。ありゃあ、猫の話だ」
「――え、ええ?」
私が来る前日、会社の駐車場で怪我をした猫を保護したのだそうだ。
首輪をしていたので飼いネコらしいが、どこの猫か分からず、だからと言って放っておくわけにもいかず病院に連れて行くとしばらく入院が必要と言われ、飼い主が分かるまで伯母が治療代を肩代りして出したという。
「飼い主が分からなかったら、うちで引き取れないかって相談したんだけど」
「だから、それは嫌だと言ったんだ」
伯父は昔犬を飼っていて、病気で死なれた時とても悲しく辛い思いをしたそうだ。それでもう二度と生き物は飼わないと決めたのだそうだが、
「何でか、迷い犬とか怪我した猫とかがよくうちに集まるんだ。その度にこいつが世話焼きやがるんだよ」
「何よ、あんただって連れて帰ったこと何度もあるじゃない」
「見たら放っておけんだろうが」
結局似たもの夫婦というわけだ。伯母たちにとってあれは、喧嘩ではなく日常会話の一部だったのだ。
「だ、だけど、伯父さんにコーヒー淹れましょうかって言った時も『いらない』って不機嫌そうだったし」
「あら、あんたコーヒー好きなのに?」
「子供が楽しみにしてる飲み物を、オレが横取りするわけにはいかんだろう」
あれは、自分に入れる分があったらその分私が楽しんで飲めと辞退してくれたらしい。
「……でも、私とあんまり話してくれないし」
食事時も、居間にいる時も、伯父から話しかけてもらった記憶はない。
「そ、そりゃ、あれだ、その」
伯父は居心地悪そうに身体を揺すった。
「オレは息子は育てたから男の子の扱いはわかるが、女の子は皆目分からん。おまけにこの通り強面で口が荒いから」
伯母と交際を始めたばかりの頃、母に恐がられて避けられたこともあったそうだ。それで私にも同じように逃げられるのではないかと思ったと歯切れ悪く言う伯父を、伯母が呆れたように首を振った。
「私もそんなの気にすることないって何回も言ったんだけどね。美喜子だってすぐ慣れたんだから美咲ちゃんも大丈夫だって。でも、この人これで結構繊細な面もあるから」
受験が終われば私も精神的に落ち着くだろうから、それまでは下手に口出しせず見守るつもりだったと言う。
「じゃあ……私……邪魔者扱いされてたわけじゃないんだ」
「そんなの当たり前だろうが!」
伯父が大声で怒鳴る。
「腹立つ悪ガキなら、姪っ子だろうと何だろうとツラ張り飛ばして追い出しとるわ!」
けどなあ、と伯父は声のトーンを落とした。
「普通なら家が荒れたら悪さに走るもんだが、お前は賢くて健気で、わがままも言わんし、泣きごとも言わん。一生懸命勉強もする。それが余計不憫で、何か喜ぶ事をしてやりたかったんだが、何をしてやればいいのか分からんし」
「美咲ちゃんが三田浜の家に帰った時も、私に迎えに行けって怒ったのよ」
――家が恋しくなって、ちょっと見に帰っただけかもしれんじゃないか。ついでにもう少しあの子の物、持って帰ってやれ。うちに遠慮して、欲しい物も我慢して持って来てないのかもしれん
そう言って伯母を三田浜の家に向かわせたのだそうだ。
「一緒に買い物に連れて行って服でも買ってやりたいと思っても、休みの日お前はほとんど家に居らんし、どうしたものかと」
「……伯父さん」
ありがとうと言おうか、ごめんなさいと言おうか、迷ううちに涙がこぼれた。
私は賢くない。健気でもない。馬鹿で鈍感な子供だ。こんなにも優しい人の気遣いにも気付かず、見守ってくれていた友の思いやりにも気付かなかった、愚かな子供だ。
「お、おおい、ど、どうした。泣くな。泣くなよ。……そうだ。ケーキ、ケーキ買いに行くか? 伯母さんと三人でケーキ買いに行こう」
まるっきり幼い子供をあやすような伯父の慌てた口ぶりが温かい。
「……いらない、何も」
私も小さな子供に戻った気分で、鼻をすすりあげた。
「私は恵まれてるから……伯父さんと伯母さんがいてくれるだけでいい」
「ばーか、こういう時はいつもの三倍、何か高いもの強請りゃいいんだ」
伯父が手荒く私の頭を撫でた。
「お前の伯母さんを見習え。伯母さんが持ってるバッグは、それで手に入れた物ばっかりだぞ。いい女ってのはな、チャンスを逃さねえもんなんだ」
さあ、ケーキ買いに行くぞ、と伯父は笑って私を立ち上がらせた。
「美味いもん食って、笑って、時々泣くのが良い人生だ。今泣いたんだから、今度は美味い物食って笑う番だ」
伯父はそうやって人生を切り開いてきたのだろう。社長を務める伯父のバイタリティーの源が分かったような気がする。
事務所から出ると、庭に植えてある沈丁花の香りがした。
ああ、春だ。人の世界に何が起きようと時は経ち、四季は巡る。
本格的な春までもう少し。
卒業までの時間は残りわずかだった。
制服の胸ポケットにお守りを入れていたが、会った事もない神様より弥生の思いやりが力をくれたと思う。ふと思い出す太陽の応援のエールも、私の何よりの味方だった。
合格通知は一週間後に中学校へ来る予定で、人智を尽くした後は天命を待つだけだった。
土曜日の午後、約束通り父が来た。
長い話はしないというので、話は会社の事務所の応接コーナーで話をする事にした。
伯母と伯父が同じ室内で見守る中、父は私が立ち聞きした話を改めて話した。新しい会社の準備で人手がいるため一日でも早く来て欲しいと言われていて、父もそれに応えたいのだと言う。淡々とした口調だったが、父の心はもう母や私に向いていないのが分かった。
「どんなに遅くても、三月の末には向こうに行かなくてはいけない。だから、美咲に会えるのはこれが最後だと思う」
それは父の決別の言葉だった。
私は父からの続く言葉を待ったが、父はそれきり口を閉ざし、代わりにある種の期待を眼の奥に潜ませて、私を見つめるだけだった。
「……だから、何なの?」
悲しみより、怒りが湧いた。
どんな理由であろうと、父が私と母を捨てて行く事実に変わりはない。謝罪の一言くらいあってもよさそうなものを、この人にはそんな殊勝さはないのだ。
「私に『恋人と幸せに暮らしてください』とでも言ってもらいたかったの? それとも『会えなくなってもずっとお父さんの事大好きよ』って?」
瞠目する父に、怒りを通り越して笑いが込み上げてくる。多分父は心のどこかでそんなおめでたい事を本気で私に期待していたのだ。
「お父さんと私は良く似ている」
おかしさを抑えきれなくて、笑みが漏れた。
「お父さんも私も、自分に都合のいい事しかしないし、言わない。自分がする事や考える事は自分では理に適ってると思い込んでるから、理解されない時は相手の方が悪いと決め込む。自分にいい事は他人にもいい事だと思ってて、相手が違う考えでいるなんて思ってもみない」
だから、娘が離婚と再婚に賛成してくれるなんて幻想を抱くのだ。
「お父さんと私が出っ張ってる所をお母さんが引っ込んでたから、今まで上手く回っていた。けど、お母さんが疲れて擦り切れてしまったから、家は止まってしまったの」
父の相手のあの女も私たちにそっくりだ。恋人として並んで回ってる間は同じリズムでいいかもしれないが、家族としてお互いをかみ合わせて回そうとすれば、きっとどこかでぶつかる。でも、それを告げても父は理解しないだろう。
「お父さん、真実を在りのままに話すっていうのは誠意じゃないよ。それは、抱えたものが苦しいから投げ出したってだけなの。相手が聞いて苦しい思いをすることは言わないのが誠意だと私は思う」
太陽、弥生、どうか私に力を貸してください。
父に別れを言う力を。
私は目を閉じ、太陽の笑顔と弥生のくれた手紙の薄緑色を思い浮かべ、目を開いた。
「だから、もしお父さんに私とお母さんに誠意を尽くす気があるなら、これ以上何も言わないで行って」
父に言いたい恨み事は山ほどあった。けれどそれを全てぶつけたとしても私の気が済むだけで、壊れた家族の絆は元に戻らない。
こんな勝手な人でも、父だ。憎み合って別れたくなかった。
「だったら、もう話は終わりだな」
少し離れた所で見守ってくれていた伯父が立ち上がった。
「これから先は弁護士を雇うから、そっちと話をしてくれ」
伯父は私の傍に立ち、父を見降ろした。
「離婚届は、オレが責任を持って喜美ちゃんを説得して判を押させる」
伯父の言葉に父は驚愕して顔を上げた。
「慰謝料なんかいらん。志麻子はお前の女相手に結婚生活を破たんさせた賠償請求の裁判を喜美ちゃんに起こさせるつもりらしかったが、それもさせん」
父は瞬間口を開きかけたが、伯父の強い視線を受けて口を閉じた。
「その代わり二つだけ条件がある。それだけ飲んでくれりゃあいい」
用心深く頷いた父に、伯父も無表情に頷いた。
「まず、一つ。喜美ちゃんの入院費と美咲ちゃんの高校三年間の学費だけは何があっても絶対出せ」
今度は私が驚いて伯父を見上げる番だった。私が悩んでいた学費を、伯父が考えてくれているとは思っていなかったので。
「高校から先の学費はいらん。大学に行く費用まで出せと言ったら、お前の新しい生活が立ちいかなくなる。子供が生まれりゃ金がいる。生まれてくる子に罪はねえのに、お前のせいで不自由させるわけにはいかねえだろう」
伯父の思考の広さと度量の深さに私は密かに感嘆した。伯父は感情をひとまず横に置き、状況を冷静に見る事のできる大人だった。
「美咲ちゃんが大学に行きたいと言うなら、その時はオレが出してやる。金がいるとなりゃ仕事に身が入って丁度いい。専門学校だろうと医大だろう海外だろうと、行きたい学校にはオレが金を出して行かせてやる。だから」
伯父は言葉を切り、一際厳しい目で父を睨みつけた。
「二度と喜美ちゃんと美咲ちゃんの前にそのツラ見せるな」
「――え」
父は理解できない様子で、二、三度瞬いた。
「今後一切、何があっても二人の前に現れるな。連絡も取るな。こっちからも一切連絡させん。美咲ちゃんの成人式の晴れ姿も見せんし、結婚式にも呼ばん。孫が生まれても知らせんし、顔も見せてやらん。それが二つ目の条件だ」
父の目が迷うように泳ぐ。伯父はそれを見て鼻で笑った。
「オレはお前より歳を食ってる分、色々人間を見ているから言うが、お前が今思い描いてるようにこの先のお前の生活が上手く行くとは全然思ってねえ。世の中そんなに甘くはねえ。新しい会社も新しい家族も、お前の想像とは絶対違うものになる。その時に、お前なら『こんなはずじゃなかった』って喜美ちゃんや美咲ちゃんに甘えて、戻って来ようとするかもしれねえ。そんなことは願い下げなんだよ」
分かったら帰れ、と伯父は冷たく言い捨てた。
「条件が飲めねえで離婚するっていうなら、裁判にする。女相手の裁判も同時に起こす。良く考えて、女とも相談しろ」
父は無言のまま立ち上がった。私と目が合うと、父の方が逸らせた。
「それから、もう一つ。女に伝えておけ」
振り返った父を伯父が見据える。
「人のものを盗って幸せになった奴は、この世に一人もいねえぞ、ってな」
顔を強張らせ、挨拶もしないで事務所を出ようとした父は一度だけ私を振り返ったが、何も言わないまま去って行った。
「美咲ちゃん、ああは言ったけどな」
伯父がどかりと隣に座った。
「美咲ちゃんが会いたくなったら、お父さんに会いに行っていいんだ」
切なげにため息をつく伯父を伯母もやはり切なげに見ていた。
「夫婦は別れりゃ他人だけどな、親子は死ぬまで親子だ。今は許せなくても、もっと大人になった時、全て水に流して会いたいと思うかもしれん。その時は会いに行けばいい。親子なのに一生会わんなんて、寂し過ぎるだろう」
そんな先の事まで考えて私に言ってくれる伯父は、本当に情の深い人だった。
「生活の事も心配すんな。お母さんも退院してすぐに働きには出れんだろうから、精神的に落ち着いて仕事に出られるようになれるまでは二人ともうちで暮らしゃあいい」
私は高校の合格通知がくれば、その日にでも三田浜の家に帰れと言われると思っていた。私だけでも十分この家のお荷物なのに、伯父はさらに母まで引き受けようと言うのだ。考えてもいなかった展開だった。
「伯父さんは……私のことなんて嫌いなんだと思ってました」
私の呟きに伯父は仰天して目を見開いた。
「ああっ? 何でそんな」
「だって! 私がこの家に来た日の夜、私と母の事で伯母さんと喧嘩を」
伯父と伯母は顔を見合わせ、揃って首をひねった。
「そんなの覚えがねえぞ」
あ、と声を上げたのは伯母だった。
「もしかして、あれじゃない? 入院費はどうするんだって」
「それです。私の世話と母の入院費を押しつけられて怒ってたから……」
「違う、違う。ありゃあ、猫の話だ」
「――え、ええ?」
私が来る前日、会社の駐車場で怪我をした猫を保護したのだそうだ。
首輪をしていたので飼いネコらしいが、どこの猫か分からず、だからと言って放っておくわけにもいかず病院に連れて行くとしばらく入院が必要と言われ、飼い主が分かるまで伯母が治療代を肩代りして出したという。
「飼い主が分からなかったら、うちで引き取れないかって相談したんだけど」
「だから、それは嫌だと言ったんだ」
伯父は昔犬を飼っていて、病気で死なれた時とても悲しく辛い思いをしたそうだ。それでもう二度と生き物は飼わないと決めたのだそうだが、
「何でか、迷い犬とか怪我した猫とかがよくうちに集まるんだ。その度にこいつが世話焼きやがるんだよ」
「何よ、あんただって連れて帰ったこと何度もあるじゃない」
「見たら放っておけんだろうが」
結局似たもの夫婦というわけだ。伯母たちにとってあれは、喧嘩ではなく日常会話の一部だったのだ。
「だ、だけど、伯父さんにコーヒー淹れましょうかって言った時も『いらない』って不機嫌そうだったし」
「あら、あんたコーヒー好きなのに?」
「子供が楽しみにしてる飲み物を、オレが横取りするわけにはいかんだろう」
あれは、自分に入れる分があったらその分私が楽しんで飲めと辞退してくれたらしい。
「……でも、私とあんまり話してくれないし」
食事時も、居間にいる時も、伯父から話しかけてもらった記憶はない。
「そ、そりゃ、あれだ、その」
伯父は居心地悪そうに身体を揺すった。
「オレは息子は育てたから男の子の扱いはわかるが、女の子は皆目分からん。おまけにこの通り強面で口が荒いから」
伯母と交際を始めたばかりの頃、母に恐がられて避けられたこともあったそうだ。それで私にも同じように逃げられるのではないかと思ったと歯切れ悪く言う伯父を、伯母が呆れたように首を振った。
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「じゃあ……私……邪魔者扱いされてたわけじゃないんだ」
「そんなの当たり前だろうが!」
伯父が大声で怒鳴る。
「腹立つ悪ガキなら、姪っ子だろうと何だろうとツラ張り飛ばして追い出しとるわ!」
けどなあ、と伯父は声のトーンを落とした。
「普通なら家が荒れたら悪さに走るもんだが、お前は賢くて健気で、わがままも言わんし、泣きごとも言わん。一生懸命勉強もする。それが余計不憫で、何か喜ぶ事をしてやりたかったんだが、何をしてやればいいのか分からんし」
「美咲ちゃんが三田浜の家に帰った時も、私に迎えに行けって怒ったのよ」
――家が恋しくなって、ちょっと見に帰っただけかもしれんじゃないか。ついでにもう少しあの子の物、持って帰ってやれ。うちに遠慮して、欲しい物も我慢して持って来てないのかもしれん
そう言って伯母を三田浜の家に向かわせたのだそうだ。
「一緒に買い物に連れて行って服でも買ってやりたいと思っても、休みの日お前はほとんど家に居らんし、どうしたものかと」
「……伯父さん」
ありがとうと言おうか、ごめんなさいと言おうか、迷ううちに涙がこぼれた。
私は賢くない。健気でもない。馬鹿で鈍感な子供だ。こんなにも優しい人の気遣いにも気付かず、見守ってくれていた友の思いやりにも気付かなかった、愚かな子供だ。
「お、おおい、ど、どうした。泣くな。泣くなよ。……そうだ。ケーキ、ケーキ買いに行くか? 伯母さんと三人でケーキ買いに行こう」
まるっきり幼い子供をあやすような伯父の慌てた口ぶりが温かい。
「……いらない、何も」
私も小さな子供に戻った気分で、鼻をすすりあげた。
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「ばーか、こういう時はいつもの三倍、何か高いもの強請りゃいいんだ」
伯父が手荒く私の頭を撫でた。
「お前の伯母さんを見習え。伯母さんが持ってるバッグは、それで手に入れた物ばっかりだぞ。いい女ってのはな、チャンスを逃さねえもんなんだ」
さあ、ケーキ買いに行くぞ、と伯父は笑って私を立ち上がらせた。
「美味いもん食って、笑って、時々泣くのが良い人生だ。今泣いたんだから、今度は美味い物食って笑う番だ」
伯父はそうやって人生を切り開いてきたのだろう。社長を務める伯父のバイタリティーの源が分かったような気がする。
事務所から出ると、庭に植えてある沈丁花の香りがした。
ああ、春だ。人の世界に何が起きようと時は経ち、四季は巡る。
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(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
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ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
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