早春の向日葵

千年砂漠

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太陽

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 新しい学校での生活はほぼ私の望んだ通りのものになった。
 入試が差し迫った受験生の前では転校生に対する好奇心などすぐになくなり、私の存在は受験勉強中心の毎日に埋没した。
 気晴らしの話し相手に席の近さで私を選ぶ子はいても、わずか三カ月だけのクラスメートになるだろう私と真剣な友情を育もうという奇特な者はいない。受験ストレスの溜まるこの時期に現れた異分子が、ストレス発散のためのイジメにあわないだけましだった。
 私はここでは目立たないよう心がけていた。自分からは話しかけず、話しかけてくる子にだけ当たり障りのない返事を返し、できるだけ聞き役に徹した。
 そうしていると分かった事がある。
 単なる意味のないおしゃべりでも、人はこんなにも自分を主張するものなのだと。
 私は。私が。私の。私を。
 他人の意見はろくに聞かず、隙あらば自分主体の話に持って行こうとする、主導権を争うような彼女達の会話を聞きながら、きっと私もそうだったんだろうと内心でひっそり自嘲した。
 私を怒った三田浜の子たちも、自己主張の強い私との会話はさぞ退屈だったに違いない。
 同じ過ちを繰り返して傷つきたくなくて、私はできるだけ自分を語らない会話を心がけたが、それは単なる発声に等しく、虚しくなるばかりだった。


 そんな私に「つまらなそうだね」と言ったのは太陽だった。
 太陽は少し不思議なところがある子だった。
 彼は教室では全く話しかけて来ないのに、私が一人でいる時、それも何か困っている時に限って声をかけて来た。放課後担任教師に呼ばれた進路指導室の場所が分からなくて迷っていた時は教えてくれたし、通りすがりの教師に資料室までプリントの束を運ぶよう頼まれた時は手伝ってくれた。
 神出鬼没で、いきなり現れて手助けしてくれるのに、ろくに礼も言わさず「じゃあね」と笑ってどこかへ行ってしまう。
 おしつけがましい所がなくいつも明るいので嫌な気はしない。私と親しくなりたいのかとも思ったが、教室内で友人達と笑い合って視線もよこさない彼を見ると、私に特別構いたいふうには見えなかった。
 私ばかりが彼を気にしているようで癪に障り、彼の事はクラスの誰にも聞かなかった。下手に聞いて勘繰られ、冷やかされるのも嫌だった。
 それでも私の目は気付けば太陽を追っていた。私ではない他の誰かに向けられた笑顔でも、見ることができれば心が和む。彼が元気で笑っていれば、私も笑える気がした。
 私にとって太陽は、姿を見れば幸せになれるラッキーアイテムのような存在だと思っていた。
 その太陽に学校外の図書館の前で偶然出会ったのは、一月末の冬晴れの日曜日だった。
 私はできるだけ伯母の家にいなくて済むように、平日は放課後から休日は午後から学校の近くにある町立図書館に閉館時間までいるようにしていた。
 図書館通いは塾の代わりのようなものだった。こちらに来て通える塾を叔母が探してくれたのだが、受験が近いこの時期、どこももう定員一杯で入れる所がなかった。それなら家庭教師を雇おうかと伯母は言ったが、私は塾も家庭教師も断った。自分は受験に向けて何年も前からきちんと努力をしてきていて、わずか数ヶ月塾に行けないくらいで不合格になるような勉強の仕方はしていない、と伯母を説き伏せた。油断や体調不良のない限り合格できる自信もあったが、何よりこれ以上伯母の家に経済的な迷惑をかけたくなかった。
 伯母は何かにつけ私を気遣い、構おうとしてくれるが、正直ありがた迷惑だった。あれこれ学校での事を聞かれるのは面倒だったし、何より、伯父が私を歓迎していないのだから、私に構おうとすればその分伯父が不機嫌になりそうで嫌だった。伯母に「受験勉強の気分転換に、休日に一緒に買い物にでも行こう」と誘われる度、傍で何か言いたげにしている伯父を見て、いつか不満が爆発するのではないかと不安になった。
 伯母には、図書館ではいつも友達と一緒に勉強していると言ってあった。勉強しているのは嘘ではなかったが、友達と一緒ではなく一人だった。伯母は単純に私に親しい友人ができたと思って喜んでくれていたが、私は誰にも言えない孤独を抱えて問題集に取り組む日々を過ごしていた。
「高野さん。今から図書館で勉強?」
 いつもの笑顔で片手を上げて挨拶する彼に、私も自然に笑顔になった。
 彼は図書館に来たというのに手ぶらだった。勉強しに来たのではないのかと思った私の思考を読んだように、僕は本を返しに来ただけと彼は笑った。
 太陽は本当に楽しそうに笑う。きっと彼は愛のあふれる家庭で、伸びやかに育てられているのだろう。
「太陽はいつも楽しそうだね」
 彼は何故か名前で呼ばれる事にこだわって、私が「篠原君」と呼ぶ度にしつこく「太陽だよ」と訂正するので面倒臭くなり、彼が良いならと名前で呼ぶようになっていた。
「楽しいよ」と予想通りの明るい返事の後、
「高野さんはつまらなそうだね」
 さらりと問い返してきた。
「そう……かな」
「うん。いつも目の奥が冷めてる感じ」
 胸の内を見透かされたような気がして顔が強張りそうになったが、
「何か、盗んだバイクで走り出しそうだなあ」
 太陽が冗談めかして笑ったので、何とか苦笑いの表情に変えられた。
「別に社会に対して反感は持ってないし、オザキにも傾倒してないよ」
 支持したのは私たちの親世代だ。世相が違い過ぎるからか、私には共感できない歌詞が多い。
「入試が近いから、それで頭が一杯で余裕がないだけ」
「そっか、受験勉強ばっかりじゃ楽しいわけないよね」
 全くの嘘ではないが本当でもない私の言い訳に彼は笑って頷き、「でもね」と、ふと真顔になった。
「つまらない顔してると、つまらない事しか起きないよ」
 笑顔でない太陽を初めて見た気がした。何の悩みもなさそうな、いっそ能天気と言っていいほどの笑い顔に隠されていた彼の瞳には寂しい陰があり、同時に誰に目にも見た事のない透明な輝きがあった。
 例えるなら、風のない晴天の夜明けの、穢れのない光。
 それも束の間、思わず見入った私から隠すように、彼はいつもの気の良い笑顔でその瞳を覆ってしまった。
「転校して来て、この町や学校がつまらないと思われてるなら悲しいなあって思ってたんだけど、そうじゃないなら良かった」
 私は町や学校には受験を無事に終わらせるためにいる場所程度の認識しかなく、特に感想など持っていなかった。けれどそこに太陽がいるなら、町も学校も素晴らしい意味を持つ場所に変わる。
「せっかく同じクラスになったんだから『このクラスに来て良かった』って、思ってもらいたいなあって……もうあんまり時間がないけど」
 太陽に言われて、今更ながら卒業までもう二カ月程しかないことに気付き、動揺した。
 もう少しで太陽と会えなくなる。屈託のない笑顔を見られなくなる。
 その当然の事実は、思った以上に私の胸を締め付けた。
 痛みの理由は、明らかだった。
 太陽はただの気の良いクラスメートではなかった。ラッキーアイテムでもなかった。
 彼は私の中に強く切ない思いを波立たせる、唯一の存在だった。
 背があまり高くなく柔らかな喋り方をするため時々幼く感じる彼も、手足は私より大きかった。冬の陽に無防備に晒された手は筋張って、大人の男性に近い形になっている。
 その手に触れたいと思うのは――。
「あ、勉強しに来たって言ってたのに、長話で邪魔してごめんね。僕、もう帰るから」
 未練なく去ろうとする太陽を、私は慌てて引き止めた。
「あの、よかったらこれから私と一緒に勉強しない?」
 無自覚だった想いを自覚した今、もっと太陽と話がしたかった。もっと太陽の顔が見ていたかった。
 これまでの自分に対する太陽の言動を思い返し、彼も同じ思いでいてくれているような気がした。なので、
「んー、やめとく」
 笑顔で拒否された衝撃は思いの外大きかった。
「だってさあ、高野さんと二人で一緒に勉強してるところクラスの奴に見られたら『仲良いね』とか『つきあってるだろ』とか、からかわれるに決まってるじゃない。そういう話はすぐクラス中に伝わるから。僕、好きな子がいるから誤解されたくないの」
 さっきよりもっと大きなショックを受けた。
 だったら思わせぶりな親切はしないで放っておいてくれればいいのに、と怒りさえ感じたが、彼にしてみれば他意のない事で、私が勝手に期待して失望した話なのだと気付いた。
「という事は、同じクラスに好きな子がいるんだ」
 私は傷心を悟られないよう笑って、わざと冷やかすように聞いた。
「誰? あ、名前聞いても分からないかも。まだクラス全員の顔と名前覚えてないから」
「Aさん(仮名)」
 私の声に重なった彼の声。
 何と言ったのかともう一度はっきり聞きたくて問い直そうとしたが、彼はいつもの笑顔で「じゃあね」と手を振って走り去ってしまった。
 Aさん(仮名)。
 聞き違いだったのかもしれない。でも、私にはそう聞こえ、病院の屋上で会った少年を思い出させた。
 まさか――彼が太陽だったのか。
 私が覚えていない様子に悪戯心を起して、からかってみたのだろうか。太陽なら「病院の屋上で会ったね」と最初に言いそうだが、私の母の自殺未遂を知るが故に、気まずくならないようあえて知らん顔してくれているのだろうか。
 私は記憶を必死で探る。彼と太陽の背格好は似ている気がするが、ガウンを着た彼はもっと痩せていた。声はもう覚えていない。顔はもっと記憶になかった。そもそも屋上の彼は帽子を目深にかぶっていたので良く顔を見ていない。
 たった一言の偶然の一致だけで同一人物と判断するのは無理があった。
 同じなのは、私の頭上に広がる晴れた空だけだった。
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