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崩壊
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今思い返してみれば、崩壊の予兆は数年前からあった。
私が中学に上がった年に昇進した父は段々帰宅の時間が遅くなり、土曜や日曜にも急に仕事が入ったと言って時々家を空けるようになった。責任ある立場になった父は仕事が増えて忙しいのだと単純にそう思っていた。私は学校生活が適度に充実していて、父の仕事や言動に特に興味もなかった。
しかし母は父の帰宅が遅い事が不満だったのだろう。夜中に帰って来た父と言い争うような母の声を何度も聞いた。以前にも増して父の帰りは遅くなり、やがて出張だと言って帰って来ない日もあるようになった。
近くの書店に半日だけのパートに出ていた母が勤めを辞めたのは、半年前の夏の初めだった。
父が外泊するようになってから体調がすぐれないと言っていた母は、仕事を辞めてから更に具合が悪くなった。朝起きられず昼間も寝てばかりで、家事もろくにしなくなった母に父が文句を言うと、母は父の遅い帰宅と外泊を責める。言い争った後何日かは家庭内の空気が重く湿って居心地が悪かった。
そんな日々を私は努めて無視した。どうしたら良いのか分からなかったし、正直面倒くさかったのだ。高校受験を半年後に控えて、私は自分の事で手一杯だった。何より、ずっと仲の良かった両親だから、そのうち仲直りするだろうと楽観視していた。
それに、母が疎ましかったのも無視する理由の一つだった。
仕事を辞めてから、母は異常に私に干渉し束縛するようになった。自分に見覚えのない物を私が持っているとどうして持っているのか事細かに聞き出そうとし、かかってくる電話の内容も遊びに行く相手も全てしつこいほど聞くようになった。外出しようとすれば帰宅時間を聞かれ、少しでも遅れるとひどく怒った。いい加減母の過干渉が嫌になった私は、冬になる頃にはもう母とろくに口を利かなかった。
十二月に入って、受験一色の生活では息が詰まると仲のいい友人達と日曜日に遊びに出る約束をした。近くのショッピングモールに入っているアイスクリーム専門店でアイスを食べながらおしゃべりをするという他愛もない計画だったが、例によって出かける時になって母にあれこれ詰問され、喧嘩になった。
「お母さんはいちいちうるさいのよ! そんなだからお父さんも家に帰ってこないのよ!」
私は母に爆発した怒りを投げ付け、家を出た。
そんな精神状態で友人と楽しく遊べるはずもなかった。受験受験と毎日のように教師に追い立てられている私に少しも気を配ってくれず夫婦喧嘩を繰り返す両親の険悪な空気に満ちた家で暮らす私のストレスも知らず、暢気に好きな芸能人や流行りのグッズの話で盛り上がる友人たちの気楽さが酷く癇に障った。
不機嫌なまま席に座ってアイスを突く私に、
「美咲、もう帰ったら?」
唐突に、友人が私以上に不愉快そうに言った。
「そんな機嫌悪そうな顔で座られてたら、こっちまで気分悪くなる」
カッとして言い返そうとしたが、他の友人たちも彼女と同じ表情で私を見ている事に気付き、私は言葉を失った。
「前から思ってたけど、美咲って本当に気分屋だよね」
気持ちがコロコロ変わりその都度態度も表情も極端に変わるから、付き合うのに疲れると、彼女は私を責めた。
そう言う彼女だって、十分我儘でマイペースな子だった。そもそもみんなで遊びに行くのは先週だったのに前日になって「家族でおばあちゃんの家に行くことになった」と言って、今日に変えさせたのは彼女だ。そんな彼女が私を「気まぐれ」なんて怒る資格はない。
けれど彼女の意見に他の友達から異論はでなかった。
だったら、何故今日私を誘ったのだろう。
私も何故今まで一緒にいたのだろう。
揃いの表情を浮かべている友人達を見まわし、私は彼女達の何が良くて付き合って来たのか考えて、その答えの内容の薄さに自分ながら驚いた。クラスでの席が近かった。同じケーキ店のファンだった。見た映画の感想が似ていた。彼女達でなければならない確固たる理由は何一つなかった。
私は自分の家のもめ事を誰にも相談していなかった。両親の不仲を告白するのは悲しかったし恥ずかしくもあった。だから私が抱えている悩みや感情がどういう背景で生まれ、私がどう思考しているか彼女達は知らない。
同時に私も単に彼女達の好き嫌いしか知らなかった。それに付随する事情が重いものであったら感情的に面倒臭いので、聞きたくなかったからだ。
それは多分彼女達の方も同じなのだろうと思った。お互い上っ面しか見せない、見ていない間柄。私たちは便宜上友人と名付けただけの知り合いでしかなかったのだ。
胸の内に燃え盛っていた炎が急激に消えたのを感じた。彼女達の一方的な言い分に対する怒りや反論を言語化する労力も惜しいほど、彼女達と付き合う気持ちは失せていた。
私は何も言わずに席を立った。
誰も私を引き止めはしなかった。
真っ直ぐ家に帰る気にもなれず、本屋とCDショップで時間を潰した後、家に戻ったのは五時になる少し前だった。
冬の日暮は早い。すっかり暗くなり街灯の灯った道を歩いて帰りついた家は灯りがともっておらず、母は買い物にでも出かけているのだろうと思った。
鍵を開けて家に入ると、どこかから水音が聞こえて来た。水道から水が出ている音だ。真っ暗な家の中を電気をつけながら音の元を辿ると、水音は風呂場からだと分かった。
母が風呂に湯を溜めているのを忘れて外出したのだと思った。ドアを開くまでは。
風呂場の灯りをつけてドアを開けると、浴室のすりガラスの向こうにうずくまっているような人影が見えた。ガラスに透ける色は私が家を出る時に母が来ていた服の色。てっきり母が風呂掃除の途中で具合が悪くなり倒れたのだと焦って、ドアを開けた。
湯が溢れる浴槽に母は左腕を浸ける形で寄りかかっていた。
「お母さん!」
叫び声に近い私の問いかけに母は無反応だった。蛇口を閉めて湯を止め、母を少しでも楽な体勢に横たえようと身体を抱えて浴槽から引きずり離した。しかし意識のない大人の身体は重く、私は母と床に倒れ込んでしまった。何とか身体を起し、母の様子を確認しようと覗き込んだ私の目を、鮮やか過ぎる赤い色が焼いた。
母の左手の手首から血が溢れていた。
今度こそ私は悲鳴を上げ、半狂乱で手近にあったタオルを母の手首に巻き、居間の電話へ走った。
「助けてください! お母さんがお風呂場で手首を切って」
119番に電話したものの、涙ばかり流れて母の状態を上手く説明できなかった。それでも何とか住所は告げられた。
病院に着いて母の治療を待っている間、病院の人に母を発見した時の様子を色々聞かれた。事件性がないか、一応の調査なのだろう。
「お父さんは今日はお仕事ですか?」
問われて初めて私は父を思い出した。父は金曜日の朝会社に行ったきり、戻っていなかった。母から話は聞いていないが出張に出ているのかもしれないと答えると、連絡を取れるかと聞かれ、携帯を家に置いてきた私は首を振った。病院の人は特に困った様子もなく、それなら父の会社へ連絡してみると言い残して去った。
幸い母の傷はさほど深くなく、出血も命が危ぶまれる量ではなかった。手首を切る前に掛かりつけの医者から貰った導眠剤を飲んでいたらしいがそれは身体に悪影響はなく、目が覚めたら帰っていいと医者に言われたが、母は目を覚まさなかった。例え母が目を覚ましても、一円も持たずに来てしまった私では母を家に連れて帰れない。回復室のベッドで深く眠る母に付き添い父が来るのを待ったが、父はなかなか来なかった。
母が病院に運ばれて二時間ほど経った頃、三田浜に家を建てて引っ越して以来あまり会う事がなくなっていた伯母が来てくれた。
「喜美子……何て馬鹿な事をしたの」
伯母は眠る母に覆いかぶさるようにして嗚咽を漏らした。しかし直ぐに悲しみに揺らぐ心を立て直し、凛として頭を上げて私を抱き寄せた。
「大変だったわね。お医者さんにも話を聞いてきたけど、もう大丈夫だからね」
父の会社から電話があって来たと言う。父の携帯は電源を切っていて何度電話しても繋がらないので、万が一の連絡先として登録してあった伯母の家に連絡が行ったらしい。
頼れる大人が来てくれて私の緊張は一気に緩み、伯母にすがりついて泣いた。
「美咲ちゃん、悪いけど家の鍵貸してくれる? 喜美子の着替えを取りに行きたいの」
母は着ていた服は濡れてしまっていたので、病院が貸してくれた寝巻を着ていた。それに靴もない。伯母は自販機で温かいココアを買ってきてくれ、私から鍵を受け取ると出て行った。
それから一時間くらい経って戻ってきた伯母は何故か手ぶらで、酷く顔色が悪かった。
「美咲ちゃん、お父さんから連絡あった?」
私は首を振った。会社から父の携帯の番号を聞いた病院の人が何度もかけてくれてはいたが、やはり電源を切ったままで連絡が取れなかった。
そう、と頷いた伯母の目は父への強い怒りの色を宿していた。私だって父が来たら怒鳴りつけてやりたかった。しかしこの期に及んでも私は父は仕事に行っているから連絡が取れないのだと信じていた。
「今夜はもう伯母さんと家に帰りましょう。車で来てるから乗せて帰ってあげる」
伯母は来ない父より私を案じてくれた。
「疲れたでしょう? 喜美子は今夜はこのまま病院で様子を見てくれるように頼んできたから」
目を覚まさない母が心配だったが、休まなければ身体を壊すと諭されて私は伯母と回復室を出た。何も食べていない私を気遣い、ファミレスに寄るかコンビニで何か買うか話しながら廊下を歩いていると、夜間受け付けの出入口の方から走ってくる人影が見えた。
父だった。父は私を見るなり、
「お母さんは? 大丈夫なのか?」
整わない息のまま聞いてきた。そして私の隣にいる伯母に初めて気づいたのか、
「ああ、お義姉さん。来てくださったんですか。ご迷惑をおかけして」
すみません、と頭を下げようとした父を、伯母は渾身の力で平手打ちした。
「この人殺し!」
殴られてよろけた父は、頬を押さえながら目を見開いた。
「あんたのせいよ! あんたのせいで喜美子は」
声も身体も震わせて、伯母は父を睨みつけた。
「携帯を切ったままで今までどこにいたのか、言えるものなら言ってみなさい!」
伯母に怒鳴りつけられた父は視線を泳がせ、俯いて黙り込んだ。
家に遺書があった、と伯母は激情を抑えた声で吐き捨てるように言った。
「あんた、何年も前から同じ会社の若い女とつきあってて、その女と結婚したいから喜美子に離婚してくれって言ったんだって?」
今日もその女の所にいたんでしょう、と問う伯母に、父は答えなかった。
「喜美子に『別れるのが嫌なら死ね』とまで言ったんだってね! この人でなし!」
私は耳元で何かが崩壊する音を聞いたような気がした。仲の良かった両親の一時的な気持ちのすれ違いだと嵩括っていた私は、その認識の甘さを突き付けられ言葉を失った。
いや、私は多分心のどこかで事の深刻さを理解していたのだ。
だからこそ真実を知るのが怖くて目を逸らしていたのだ。
「これ以上喜美子を傷つけたら、私が許さないから!」
伯母は立ち尽くす父にそう言って、私の腕を取り歩き出した。
私は歩きながら父が「そんなことはない。嘘だ」と否定してくれるのを待った。
歩きながら、待って、待って、待ったけれど。
父は黙したままだった。
私が中学に上がった年に昇進した父は段々帰宅の時間が遅くなり、土曜や日曜にも急に仕事が入ったと言って時々家を空けるようになった。責任ある立場になった父は仕事が増えて忙しいのだと単純にそう思っていた。私は学校生活が適度に充実していて、父の仕事や言動に特に興味もなかった。
しかし母は父の帰宅が遅い事が不満だったのだろう。夜中に帰って来た父と言い争うような母の声を何度も聞いた。以前にも増して父の帰りは遅くなり、やがて出張だと言って帰って来ない日もあるようになった。
近くの書店に半日だけのパートに出ていた母が勤めを辞めたのは、半年前の夏の初めだった。
父が外泊するようになってから体調がすぐれないと言っていた母は、仕事を辞めてから更に具合が悪くなった。朝起きられず昼間も寝てばかりで、家事もろくにしなくなった母に父が文句を言うと、母は父の遅い帰宅と外泊を責める。言い争った後何日かは家庭内の空気が重く湿って居心地が悪かった。
そんな日々を私は努めて無視した。どうしたら良いのか分からなかったし、正直面倒くさかったのだ。高校受験を半年後に控えて、私は自分の事で手一杯だった。何より、ずっと仲の良かった両親だから、そのうち仲直りするだろうと楽観視していた。
それに、母が疎ましかったのも無視する理由の一つだった。
仕事を辞めてから、母は異常に私に干渉し束縛するようになった。自分に見覚えのない物を私が持っているとどうして持っているのか事細かに聞き出そうとし、かかってくる電話の内容も遊びに行く相手も全てしつこいほど聞くようになった。外出しようとすれば帰宅時間を聞かれ、少しでも遅れるとひどく怒った。いい加減母の過干渉が嫌になった私は、冬になる頃にはもう母とろくに口を利かなかった。
十二月に入って、受験一色の生活では息が詰まると仲のいい友人達と日曜日に遊びに出る約束をした。近くのショッピングモールに入っているアイスクリーム専門店でアイスを食べながらおしゃべりをするという他愛もない計画だったが、例によって出かける時になって母にあれこれ詰問され、喧嘩になった。
「お母さんはいちいちうるさいのよ! そんなだからお父さんも家に帰ってこないのよ!」
私は母に爆発した怒りを投げ付け、家を出た。
そんな精神状態で友人と楽しく遊べるはずもなかった。受験受験と毎日のように教師に追い立てられている私に少しも気を配ってくれず夫婦喧嘩を繰り返す両親の険悪な空気に満ちた家で暮らす私のストレスも知らず、暢気に好きな芸能人や流行りのグッズの話で盛り上がる友人たちの気楽さが酷く癇に障った。
不機嫌なまま席に座ってアイスを突く私に、
「美咲、もう帰ったら?」
唐突に、友人が私以上に不愉快そうに言った。
「そんな機嫌悪そうな顔で座られてたら、こっちまで気分悪くなる」
カッとして言い返そうとしたが、他の友人たちも彼女と同じ表情で私を見ている事に気付き、私は言葉を失った。
「前から思ってたけど、美咲って本当に気分屋だよね」
気持ちがコロコロ変わりその都度態度も表情も極端に変わるから、付き合うのに疲れると、彼女は私を責めた。
そう言う彼女だって、十分我儘でマイペースな子だった。そもそもみんなで遊びに行くのは先週だったのに前日になって「家族でおばあちゃんの家に行くことになった」と言って、今日に変えさせたのは彼女だ。そんな彼女が私を「気まぐれ」なんて怒る資格はない。
けれど彼女の意見に他の友達から異論はでなかった。
だったら、何故今日私を誘ったのだろう。
私も何故今まで一緒にいたのだろう。
揃いの表情を浮かべている友人達を見まわし、私は彼女達の何が良くて付き合って来たのか考えて、その答えの内容の薄さに自分ながら驚いた。クラスでの席が近かった。同じケーキ店のファンだった。見た映画の感想が似ていた。彼女達でなければならない確固たる理由は何一つなかった。
私は自分の家のもめ事を誰にも相談していなかった。両親の不仲を告白するのは悲しかったし恥ずかしくもあった。だから私が抱えている悩みや感情がどういう背景で生まれ、私がどう思考しているか彼女達は知らない。
同時に私も単に彼女達の好き嫌いしか知らなかった。それに付随する事情が重いものであったら感情的に面倒臭いので、聞きたくなかったからだ。
それは多分彼女達の方も同じなのだろうと思った。お互い上っ面しか見せない、見ていない間柄。私たちは便宜上友人と名付けただけの知り合いでしかなかったのだ。
胸の内に燃え盛っていた炎が急激に消えたのを感じた。彼女達の一方的な言い分に対する怒りや反論を言語化する労力も惜しいほど、彼女達と付き合う気持ちは失せていた。
私は何も言わずに席を立った。
誰も私を引き止めはしなかった。
真っ直ぐ家に帰る気にもなれず、本屋とCDショップで時間を潰した後、家に戻ったのは五時になる少し前だった。
冬の日暮は早い。すっかり暗くなり街灯の灯った道を歩いて帰りついた家は灯りがともっておらず、母は買い物にでも出かけているのだろうと思った。
鍵を開けて家に入ると、どこかから水音が聞こえて来た。水道から水が出ている音だ。真っ暗な家の中を電気をつけながら音の元を辿ると、水音は風呂場からだと分かった。
母が風呂に湯を溜めているのを忘れて外出したのだと思った。ドアを開くまでは。
風呂場の灯りをつけてドアを開けると、浴室のすりガラスの向こうにうずくまっているような人影が見えた。ガラスに透ける色は私が家を出る時に母が来ていた服の色。てっきり母が風呂掃除の途中で具合が悪くなり倒れたのだと焦って、ドアを開けた。
湯が溢れる浴槽に母は左腕を浸ける形で寄りかかっていた。
「お母さん!」
叫び声に近い私の問いかけに母は無反応だった。蛇口を閉めて湯を止め、母を少しでも楽な体勢に横たえようと身体を抱えて浴槽から引きずり離した。しかし意識のない大人の身体は重く、私は母と床に倒れ込んでしまった。何とか身体を起し、母の様子を確認しようと覗き込んだ私の目を、鮮やか過ぎる赤い色が焼いた。
母の左手の手首から血が溢れていた。
今度こそ私は悲鳴を上げ、半狂乱で手近にあったタオルを母の手首に巻き、居間の電話へ走った。
「助けてください! お母さんがお風呂場で手首を切って」
119番に電話したものの、涙ばかり流れて母の状態を上手く説明できなかった。それでも何とか住所は告げられた。
病院に着いて母の治療を待っている間、病院の人に母を発見した時の様子を色々聞かれた。事件性がないか、一応の調査なのだろう。
「お父さんは今日はお仕事ですか?」
問われて初めて私は父を思い出した。父は金曜日の朝会社に行ったきり、戻っていなかった。母から話は聞いていないが出張に出ているのかもしれないと答えると、連絡を取れるかと聞かれ、携帯を家に置いてきた私は首を振った。病院の人は特に困った様子もなく、それなら父の会社へ連絡してみると言い残して去った。
幸い母の傷はさほど深くなく、出血も命が危ぶまれる量ではなかった。手首を切る前に掛かりつけの医者から貰った導眠剤を飲んでいたらしいがそれは身体に悪影響はなく、目が覚めたら帰っていいと医者に言われたが、母は目を覚まさなかった。例え母が目を覚ましても、一円も持たずに来てしまった私では母を家に連れて帰れない。回復室のベッドで深く眠る母に付き添い父が来るのを待ったが、父はなかなか来なかった。
母が病院に運ばれて二時間ほど経った頃、三田浜に家を建てて引っ越して以来あまり会う事がなくなっていた伯母が来てくれた。
「喜美子……何て馬鹿な事をしたの」
伯母は眠る母に覆いかぶさるようにして嗚咽を漏らした。しかし直ぐに悲しみに揺らぐ心を立て直し、凛として頭を上げて私を抱き寄せた。
「大変だったわね。お医者さんにも話を聞いてきたけど、もう大丈夫だからね」
父の会社から電話があって来たと言う。父の携帯は電源を切っていて何度電話しても繋がらないので、万が一の連絡先として登録してあった伯母の家に連絡が行ったらしい。
頼れる大人が来てくれて私の緊張は一気に緩み、伯母にすがりついて泣いた。
「美咲ちゃん、悪いけど家の鍵貸してくれる? 喜美子の着替えを取りに行きたいの」
母は着ていた服は濡れてしまっていたので、病院が貸してくれた寝巻を着ていた。それに靴もない。伯母は自販機で温かいココアを買ってきてくれ、私から鍵を受け取ると出て行った。
それから一時間くらい経って戻ってきた伯母は何故か手ぶらで、酷く顔色が悪かった。
「美咲ちゃん、お父さんから連絡あった?」
私は首を振った。会社から父の携帯の番号を聞いた病院の人が何度もかけてくれてはいたが、やはり電源を切ったままで連絡が取れなかった。
そう、と頷いた伯母の目は父への強い怒りの色を宿していた。私だって父が来たら怒鳴りつけてやりたかった。しかしこの期に及んでも私は父は仕事に行っているから連絡が取れないのだと信じていた。
「今夜はもう伯母さんと家に帰りましょう。車で来てるから乗せて帰ってあげる」
伯母は来ない父より私を案じてくれた。
「疲れたでしょう? 喜美子は今夜はこのまま病院で様子を見てくれるように頼んできたから」
目を覚まさない母が心配だったが、休まなければ身体を壊すと諭されて私は伯母と回復室を出た。何も食べていない私を気遣い、ファミレスに寄るかコンビニで何か買うか話しながら廊下を歩いていると、夜間受け付けの出入口の方から走ってくる人影が見えた。
父だった。父は私を見るなり、
「お母さんは? 大丈夫なのか?」
整わない息のまま聞いてきた。そして私の隣にいる伯母に初めて気づいたのか、
「ああ、お義姉さん。来てくださったんですか。ご迷惑をおかけして」
すみません、と頭を下げようとした父を、伯母は渾身の力で平手打ちした。
「この人殺し!」
殴られてよろけた父は、頬を押さえながら目を見開いた。
「あんたのせいよ! あんたのせいで喜美子は」
声も身体も震わせて、伯母は父を睨みつけた。
「携帯を切ったままで今までどこにいたのか、言えるものなら言ってみなさい!」
伯母に怒鳴りつけられた父は視線を泳がせ、俯いて黙り込んだ。
家に遺書があった、と伯母は激情を抑えた声で吐き捨てるように言った。
「あんた、何年も前から同じ会社の若い女とつきあってて、その女と結婚したいから喜美子に離婚してくれって言ったんだって?」
今日もその女の所にいたんでしょう、と問う伯母に、父は答えなかった。
「喜美子に『別れるのが嫌なら死ね』とまで言ったんだってね! この人でなし!」
私は耳元で何かが崩壊する音を聞いたような気がした。仲の良かった両親の一時的な気持ちのすれ違いだと嵩括っていた私は、その認識の甘さを突き付けられ言葉を失った。
いや、私は多分心のどこかで事の深刻さを理解していたのだ。
だからこそ真実を知るのが怖くて目を逸らしていたのだ。
「これ以上喜美子を傷つけたら、私が許さないから!」
伯母は立ち尽くす父にそう言って、私の腕を取り歩き出した。
私は歩きながら父が「そんなことはない。嘘だ」と否定してくれるのを待った。
歩きながら、待って、待って、待ったけれど。
父は黙したままだった。
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