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歩道橋の上に見慣れた影を見つけた瞬間、私の止まっていた時が再び動き出した。
「奈緒、ごめんね。心配かけて」
星志の怪我はほとんど治っていたけれど、少し痩せた感じがする。
「家の人に叱られたでしょ。ごめんね。大丈夫?」
私のことばかり気づかう星志。
私は何も言葉にできず、泣いた。
星志は俯いて泣く私の両手を黙って握り、私が泣き止むまで静かに、静かに見守ってくれた。
私達は会えなかった間のお互いのことは何も語らなかった。
体は同じ時間にこの場所に来られなかったけれど、心はいつも一緒だったから。私達は一瞬も離れていなかった。だから語る必要などなかった。
九時になると星志が家まで送ると立ち上がった。
「これからは毎日家まで送って行くよ。遅くなって、また奈緒が家の人に怒られるのは嫌だから」
私の自転車を押しながら並んで歩く星志の、街灯に照らされて出来る影がこころなしか薄い。
疲れているの?
それともまだ本当は怪我が治りきっていないの?
星志に問いかけようとした時、前方から大きな人影が歩み寄ってきた。
「何でまたこんな時間に出歩いてんだよ」
声で分かる。柚木君だった。今日もまたランニングの途中らしかった。
「女の子が夜にうろうろすると危ない──って、その子、誰だ?」
彼は私の横で目を丸くしている星志を軽く顎で示す。
「あ、弟ってこの子か。似てない──いや、おとなしそうなとこが似てるか」
星志は丸くしていた目をふわりと細め、
「僕、奈緒の従兄弟です。こんばんは」
と、笑って挨拶した。
星志は私が毎日自分の家庭教師をしていてくれて、今送ってきたところだと説明した。
「そっか。でも、できればもう少し早い時間に切り上げて帰らせた方がいいぞ。夜道は二人でも危ないから。──ほら、行くぞ」
何故だか知らないけど、送るつもりらしく、困惑する私達を急かして彼は歩き出す。
「お前、いくつだ」
「十一歳……です」
小さいな、と柚木君は人懐っこく笑った。
「小食そうだなあ。好き嫌いしないで何でも食えよ。食べないと背も伸びないぞ」
はい、と星志は苦笑する。それでも嫌そうではなかった。
柚木君は私を家の前まで送ると、小さく手を振る星志の背中を叩いた。
「次はお前」
「あ、いえ、僕は一人で平気だから」
「久保田が心配するだろ。男が女に心配かけるな」
柚木君に『男』扱いされたのが嬉しかったのだろうか。星志は急に大人びた顔つきになり、あっさり柚木君と帰って行った。
柚木君と何か話しながら遠ざかって行った星志が一度も振り返ってくれなかったのが、たまらなく寂しかった。
何を考えているのか、柚木君は毎夜同じ場所に立って私達を待ち構えて、強引に家まで送る行為を続けた。
私とは殆どしゃべらず、星志とばかり話す。出会って間もないのに兄弟のように仲良くなっていて、買ったきり手つかずだったという問題集なんかを持ってきて星志に押しつけていた。
私以外に星志を気づかう人ができた──喜ぶべきことなのに、どうしてだろう。素直に喜べない。星志が彼としゃべっていると胸がもやもやして、淋しくなる。
「今日も待ってるのかな、柚木君」
歩道橋の上で私は溜息をついた。
「うん、待ってると思うよ。……奈緒は柚木さんが苦手なの?」
「苦手じゃないけど……」
何と言えばいいのか、言葉で表現できない。
「いい人だよ、柚木さんは」
それは分かっている。分かっているけど。
「まっすぐなんだよ。自分がいいと思うことは曲げずに貫く人なんだ。毎晩送ってくれるのだって、僕らを心配して」
「独りよがりの善意は迷惑よ」
星志が彼を庇うので、つい、キツい言葉を言ってしまった。言ってから、すぐに後悔した。柚木君に悪いと思ったからじゃない。星志がとても悲しそうな顔をしたからだ。
「でも……僕らが従兄弟じゃないって分かってるみたいだけど、何も言わないでいてくれるじゃない」
星志がそう言うまで、私は柚木君が星志の嘘を信じているものと思い込んでいた。
「あの人は鈍感な人じゃないよ。僕や奈緒に何か感じて、黙っていてくれてるんだ」
星志は深くため息をつき、私の方を見た。
「奈緒……少し前まで学校でイジメに遭ってたんだって?」
「――どうしてそれを」
「柚木さんが教えてくれた。で、今はほとんど収まってるんじゃない?」
そう言われれば、最近は何もなかった。いつの間にか机の落書きも消されていた。
「それね、柚木さんが同じクラスの友達に色々頼んで、何とかしてくれたみたいだよ。柚木さんは『勝手なお節介だから言うな』って、本当は奈緒には言わない約束だったんだけどね。……いい人だよ、柚木さんって」
だから、と星志は不意に表情を引き締めた。
「奈緒……いつまでもこんなことしてちゃいけないよ」
「こんなこと……って」
「僕に付き合ってちゃ、未来がなくなる」
歩道橋の明かりが瞬いて暗くなった、気がした。
「どうして……そんなこと言うの」
「奈緒は高校に行くんでしょう? だったら僕とこんな所にいないで勉強しきゃ」
それに、と星志は寂しげに笑った。
「お父さんやお母さんに心配かけちゃダメだよ。女の子が毎日、夜に出かけてるなんて、きっとすごく心配してるよ」
その、誰かが言いそうなセリフ。
「柚木君が言ったのね!」
彼以外、星志にこんな嫌な話を吹き込める人間はいない。
「違うよ。僕は自分でそう思って」
「嘘よ! 柚木君が言ったに決まってる!」
星志は首を振ったが、私は信じなかった。
嫌な人。私が夜出歩いているのが気に入らないなら直接私を怒ればいいのに、星志にこんなことを言わせて。星志に優しくしてくれてるなんて、思い違いだった。星志にあんな人を近づけるんじゃなかった。
「僕は奈緒が来ると迷惑なんだ!」
星志は叫ぶように言うと立ち上がり、背を向けた。
「僕は一人で空を眺めるのが好きなんだ! 奈緒がいると、邪魔なんだ!」
そして大きく息を吸い、吐き出すように叫んだ。
「だから、もう来ないでよ!」
強い拒否の意思を滾らせた星志の背中が私を遠ざける。
何かに操られるように、私は立ち上がった。ゆらりと世界が歪んで揺れ──体勢を保てず、歩道橋の欄干に肩を酷くぶつけた。
「──奈緒! 大丈夫?」
「……大……丈夫」
ぶつけた肩でなく、胸が痛い。潰れてしまいそうなほど──胸が痛い。
音に驚いて振り返った星志が、泣いていたから。
「……今日は……帰るね」
泣いてまで私のためを思って嘘をついた星志の優しさが悲しかった。
「……私……明日も……来るから」
「……奈緒……僕は」
背を向けて歩き出した私に、悲しみに濡れた星志のか細い声が届く。
星志の声が追いかけてこないように、私は歩道橋の階段を駆け降りた。
「奈緒、ごめんね。心配かけて」
星志の怪我はほとんど治っていたけれど、少し痩せた感じがする。
「家の人に叱られたでしょ。ごめんね。大丈夫?」
私のことばかり気づかう星志。
私は何も言葉にできず、泣いた。
星志は俯いて泣く私の両手を黙って握り、私が泣き止むまで静かに、静かに見守ってくれた。
私達は会えなかった間のお互いのことは何も語らなかった。
体は同じ時間にこの場所に来られなかったけれど、心はいつも一緒だったから。私達は一瞬も離れていなかった。だから語る必要などなかった。
九時になると星志が家まで送ると立ち上がった。
「これからは毎日家まで送って行くよ。遅くなって、また奈緒が家の人に怒られるのは嫌だから」
私の自転車を押しながら並んで歩く星志の、街灯に照らされて出来る影がこころなしか薄い。
疲れているの?
それともまだ本当は怪我が治りきっていないの?
星志に問いかけようとした時、前方から大きな人影が歩み寄ってきた。
「何でまたこんな時間に出歩いてんだよ」
声で分かる。柚木君だった。今日もまたランニングの途中らしかった。
「女の子が夜にうろうろすると危ない──って、その子、誰だ?」
彼は私の横で目を丸くしている星志を軽く顎で示す。
「あ、弟ってこの子か。似てない──いや、おとなしそうなとこが似てるか」
星志は丸くしていた目をふわりと細め、
「僕、奈緒の従兄弟です。こんばんは」
と、笑って挨拶した。
星志は私が毎日自分の家庭教師をしていてくれて、今送ってきたところだと説明した。
「そっか。でも、できればもう少し早い時間に切り上げて帰らせた方がいいぞ。夜道は二人でも危ないから。──ほら、行くぞ」
何故だか知らないけど、送るつもりらしく、困惑する私達を急かして彼は歩き出す。
「お前、いくつだ」
「十一歳……です」
小さいな、と柚木君は人懐っこく笑った。
「小食そうだなあ。好き嫌いしないで何でも食えよ。食べないと背も伸びないぞ」
はい、と星志は苦笑する。それでも嫌そうではなかった。
柚木君は私を家の前まで送ると、小さく手を振る星志の背中を叩いた。
「次はお前」
「あ、いえ、僕は一人で平気だから」
「久保田が心配するだろ。男が女に心配かけるな」
柚木君に『男』扱いされたのが嬉しかったのだろうか。星志は急に大人びた顔つきになり、あっさり柚木君と帰って行った。
柚木君と何か話しながら遠ざかって行った星志が一度も振り返ってくれなかったのが、たまらなく寂しかった。
何を考えているのか、柚木君は毎夜同じ場所に立って私達を待ち構えて、強引に家まで送る行為を続けた。
私とは殆どしゃべらず、星志とばかり話す。出会って間もないのに兄弟のように仲良くなっていて、買ったきり手つかずだったという問題集なんかを持ってきて星志に押しつけていた。
私以外に星志を気づかう人ができた──喜ぶべきことなのに、どうしてだろう。素直に喜べない。星志が彼としゃべっていると胸がもやもやして、淋しくなる。
「今日も待ってるのかな、柚木君」
歩道橋の上で私は溜息をついた。
「うん、待ってると思うよ。……奈緒は柚木さんが苦手なの?」
「苦手じゃないけど……」
何と言えばいいのか、言葉で表現できない。
「いい人だよ、柚木さんは」
それは分かっている。分かっているけど。
「まっすぐなんだよ。自分がいいと思うことは曲げずに貫く人なんだ。毎晩送ってくれるのだって、僕らを心配して」
「独りよがりの善意は迷惑よ」
星志が彼を庇うので、つい、キツい言葉を言ってしまった。言ってから、すぐに後悔した。柚木君に悪いと思ったからじゃない。星志がとても悲しそうな顔をしたからだ。
「でも……僕らが従兄弟じゃないって分かってるみたいだけど、何も言わないでいてくれるじゃない」
星志がそう言うまで、私は柚木君が星志の嘘を信じているものと思い込んでいた。
「あの人は鈍感な人じゃないよ。僕や奈緒に何か感じて、黙っていてくれてるんだ」
星志は深くため息をつき、私の方を見た。
「奈緒……少し前まで学校でイジメに遭ってたんだって?」
「――どうしてそれを」
「柚木さんが教えてくれた。で、今はほとんど収まってるんじゃない?」
そう言われれば、最近は何もなかった。いつの間にか机の落書きも消されていた。
「それね、柚木さんが同じクラスの友達に色々頼んで、何とかしてくれたみたいだよ。柚木さんは『勝手なお節介だから言うな』って、本当は奈緒には言わない約束だったんだけどね。……いい人だよ、柚木さんって」
だから、と星志は不意に表情を引き締めた。
「奈緒……いつまでもこんなことしてちゃいけないよ」
「こんなこと……って」
「僕に付き合ってちゃ、未来がなくなる」
歩道橋の明かりが瞬いて暗くなった、気がした。
「どうして……そんなこと言うの」
「奈緒は高校に行くんでしょう? だったら僕とこんな所にいないで勉強しきゃ」
それに、と星志は寂しげに笑った。
「お父さんやお母さんに心配かけちゃダメだよ。女の子が毎日、夜に出かけてるなんて、きっとすごく心配してるよ」
その、誰かが言いそうなセリフ。
「柚木君が言ったのね!」
彼以外、星志にこんな嫌な話を吹き込める人間はいない。
「違うよ。僕は自分でそう思って」
「嘘よ! 柚木君が言ったに決まってる!」
星志は首を振ったが、私は信じなかった。
嫌な人。私が夜出歩いているのが気に入らないなら直接私を怒ればいいのに、星志にこんなことを言わせて。星志に優しくしてくれてるなんて、思い違いだった。星志にあんな人を近づけるんじゃなかった。
「僕は奈緒が来ると迷惑なんだ!」
星志は叫ぶように言うと立ち上がり、背を向けた。
「僕は一人で空を眺めるのが好きなんだ! 奈緒がいると、邪魔なんだ!」
そして大きく息を吸い、吐き出すように叫んだ。
「だから、もう来ないでよ!」
強い拒否の意思を滾らせた星志の背中が私を遠ざける。
何かに操られるように、私は立ち上がった。ゆらりと世界が歪んで揺れ──体勢を保てず、歩道橋の欄干に肩を酷くぶつけた。
「──奈緒! 大丈夫?」
「……大……丈夫」
ぶつけた肩でなく、胸が痛い。潰れてしまいそうなほど──胸が痛い。
音に驚いて振り返った星志が、泣いていたから。
「……今日は……帰るね」
泣いてまで私のためを思って嘘をついた星志の優しさが悲しかった。
「……私……明日も……来るから」
「……奈緒……僕は」
背を向けて歩き出した私に、悲しみに濡れた星志のか細い声が届く。
星志の声が追いかけてこないように、私は歩道橋の階段を駆け降りた。
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