翼も持たず生まれたから

千年砂漠

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人に生まれてきたけれど

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 図書館で背表紙の著者名を見た時には、誰なのか気にも留めなかった。借りたのはタイトルに心引かれたからだ。
 『僕らは翼も持たず生まれたから』
 ページをめくって初めてそれが『退屈』で自殺した少年の遺作だと分かった。彼は死ぬ前に相当な数の詩を書き残していて、それを編集した本だった。

『   人に生まれてきたけれど

 僕は人に生まれてきたけれど
 人ではなかった
 僕は人の形をしているけれど
 人ではなかった
 僕にたてがみがあっても
 ライオンではなかったように
 僕に背びれがあっても
 魚ではなかったように
 僕は僕でしかなく
 人ではなかった

 僕は人であって人でなく
 人であろうとした
 無力な者だった
 群れに帰属できず
 だからといって
 一人で生きる力もなく
 ただ 諾々と流されてゆく
 無能な者だった

 行くところも
 帰るところもない
 僕に居場所などどこにもない

 僕は人に生まれてきたけれど                         』

 彼の心情の軌跡がそこにあった。
 ノーベル賞候補にもなった理工系の大学教授の息子として恵まれた環境に生まれ育ち、自身もそれを十分に承知していて周りの期待に応えようと努力もしていた。けれど、成長とともに周囲が彼に望むことと彼が自分に望むことが少しずつ違って行き、かけ離れていってしまった。
 与えられるものと欲しいものが一致しない苛立ちを抱え、それでも賢かった彼は周りを思いやり、一度は軌道修正をしようとした。その苦悩らしき詩も何篇かあった。最後には自分も周りも納得する道を探して彷徨い、そして彼はどこへも行き着けずに果てた。
 彼は退屈で死んだのではなかった。絶望したのだ、何かに──何もかもに。
 誰とも分かり合えない孤独に喘ぎ、純なるが故に傷つき疲れ果てていった彼。
 私には彼の苦しみが分かるような気がした。


 多感な年頃だから、と担任の岩村先生は切り出した。
「一言で言える悩みじゃないかもしれないが、言えることでいいから、何に悩んでいるのか話してくれないだろうか」
 放課後、進路指導室に呼ばれたのも、教師にそんなことを聞かれたのも初めてだった。
「何も悩んでいません」
 私の答えに、先生は溜息をついた。
「御両親は随分悩んでおられるようだが」
 母が私の事を岩村先生に相談しているのは知っていた。先生も人が良い。家庭の問題を学校に持ち込まないで欲しいと言えばいいのに。星志の担任教師だって登校拒否にすらろくに対応していないのだから、母の相談も聞き流せばそれで済む。
「だったら、両親の方にカウンセリングを勧めてください」
「最近の久保田の変わりように、クラスのみんなも心配してるんだ」
「整形手術をした覚えはありません」
「久保田、冗談じゃなくて」
「私は真面目に答えてます」
「だったら率直に聞こう。近頃のその表情の無さはどうしてなんだ。それに誰とも全くしゃべらなくなったのはどうしてなんだ」
「元々私は愛想がないんです」
 そんなはずないだろう、と先生は首を振った。
「一、二年生の時の担任の先生にもクラスメイトにも聞いてみたが、久保田はいつも朗らかで思いやりのある生徒だったと言っていた」
「それは大きな問題を起こしたことのない生徒によく使われる、無難で無害な評価に過ぎません」
「じゃあ、今のお前が、本来の自分だって言うのか」
「そうです」
「なら、今までのお前は何だったんだ」
「周りの勝手な期待による幻想です」
「幻想? みんなが――教師も、クラスメイトも、両親でさえも、みんなお前に同じ期待の虚像を見ていた、と? そんな訳ないだろう」
「……先生、あれが何の木か分かりますか」
 私は窓の外の木を指差した。
「銀杏の木だ」
「今は葉は緑です。それが黄色に変わったら、それはもう銀杏ではないんですか? 葉が全て落ちてしまったら、木とさえも認めてもらえなくなるものですか? だったら、物事の本質の認識の基準は、いつのどういう状態でと誰が決めているんですか? 永遠に不変なものしか、この世では認めてもらえないものなんですか?」
 先生は私の言葉の意味を探るように問いかけた。
「……つまり、お前は今、葉っぱが緑から黄色に変わっただけだと、だけどみんながお前はずっと緑の葉でいるものだと信じていただけだと言うのか」
「違います。私は」
 銀杏の木を見ながら言った。
「初めから、木ではなかったんです。……森に生まれ育ったから、木だと思われていただけだったんです」
「じゃあお前は自分を何だと言うんだ?」
「いくら自分がこういう者だと主張しても周囲が納得しなければ無意味なので、言う気はありません」
 岩村先生はしばらく黙りこむと、やがてぽつりとこぼした。
「……悪いが、お前の言ってることが理解できない。……お前が……何と言うか……疎外感みたいなものを感じているのは分かるが……その原因は何なんだろうな」
「私が私として生まれたことだと思います」
「悲しいことを言うな。自分が自分を否定するようなことを言わないでくれ」
 先生の、その声こそ悲しい色をしていた。
 もしも岩村先生が星志の担任だったら、不登校になった星志に寄り添ってくれただろうか。イジメを解決してくれただろうか。ふと、そんなことを考えた。
「そんな、悲しいこと言うなよ。……まあ、久保田は女の子だから、もし俺には色々話がし難いなら女性のカウンセリングの先生にでも」
 その言葉は性差を思いやっているように聞こえるけれど、結局私を理解できず持て余して、他の適当な人間に押しつけようとしているようにも思えた。
 結局岩村先生も星志の担任と同じで、自分の常識が通る範囲で解決できない問題を抱える生徒には、深く関わりたくないのだ。
 理解し合えない者との会話は酷く消耗する。これ以上の話し合いは、少なくとも私には無意味だった。
「必要ありません。さっきも言いましたけど、私は何も悩んでなんかないです」
 私はカバンを持って立ち上がった。
「失礼します」
 返事を待たず、私は部屋を出た。
「久保田、お前がどう考えていようと、今の孤立した状態は絶対に良くないんだ」
 先生の声が追いかけてきたが、私は振り返らなかった。
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