翼も持たず生まれたから

千年砂漠

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痛み

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「奈緒……今日はこのまま帰って」
 歩道橋の中央の小さな影が、階段を上がってきた私に言った。
「僕ももう帰るから。それに、しばらくここへ来ない」
「どうして」
 星志は顔を背けたままだった。近づこうとした私に、来ないで、と叫ぶ。
「ごめんね……借りてたレコーダー、壊しちゃって返せなくなった」
「そんなの、いいよ」
「いつか、僕が働けるようになったら働いて買って返すから。ごめんね」
 星志の声は弱々しかった。泣いているのかもしれなかった。
「星志……ねえ……どうしたの?」
「ホントは来るつもりじゃなかったんだ」
 分からない。星志が何を言っているのか分からない。
 目眩がする。星志の言葉が理解できなくなれば、私はこの世に一人きりだ。
「でも、奈緒に会いたかったんだ。ホントにホントに会いたくて……」
 だけど、こんなんじゃ会えない、と星志は俯く。
 どうして? どうして会えないなんて言うの?
 今、私達はここにいるのに。同じ星空の下にいるのに。
 足元がふわふわと覚束ない。雲の上を歩くようとは、幸せな夢見心地を言うのではなかったのか。
 私が歩み寄るのに気づいて、星志は立ち上がり走り出した。
「待って! 星志!」
 走り方がおかしかった。ヒョコヒョコ右足を引きずっていた。早く走れない星志が向こうの階段に行き着く前に、私は追いついた。
「星志、どうしたのよ?」
 星志は深く俯いて、答えない。私の方を見ようともしない。
 沈黙が答えなら。
「……私といるのが嫌になったんだ」
「──違う! 違うよ!」
 星志は激しく首を振った。
「だったらどうして」
 昨日まであんなに寄り添っていた星志の心が見えない。
 星志がゆっくり顔を上げる。
 私は星志の顔を見て、声にならない悲鳴を上げた。
 星志の顔は、痣だらけだった。左目は黒ずんで、切れて腫れた唇の血はまだ乾ききっていなかった。髪に隠れた部分にも傷があるのだろう。耳の後ろ側も血で汚れている。顔だけでなく、手の甲にも腕にも青痣がいくつもあった。引きずっていた右足も多分同様に違いなかった。
「……酷い……どうして」
 星志はただ俯く。
「大丈夫? 痛いよね? 酷いよ……こんなの、酷すぎる」
 代わってあげたい。星志の痛みを無くしてあげたい。
 誰かに星志の痛みを全部私に移しかえて。
「誰なの? 誰がこんな酷いことを……ねえ、星志、誰がやったの?」
 馬鹿だ、私は。今は誰がやったかなんて聞いている場合じゃない。
「とにかく病院へ行こう? 手当てしないと」
 けれど星志は首を振る。
「……奈緒……どうしてこの世は辛いことばかりなのかな」
 ぱたた、と星志の靴の上に涙が落ちた。
「奈緒……生きるのは……みんなこんなに辛いものなの?」
 私には──答えられなかった。
「僕は……早く大人になりたい」
「……星志」
 星志の痛みもなくしてあげられない。涙も止めてあげられない。何も出来ない無力な私は、星志を抱きしめるしかできなかった。
 細い体を私の内に抱え込むようにして抱きしめた。星志の腕が私の背中に回る。
 薄暗い歩道橋の上で、私達は抱き合って泣いた。
「僕……大人になって……強くなりたいよ……」
 大人になれば強くなれるのだろうか。そんなこと私は知らない。知らないけれど。
 今の私達は悲しいほど無力な子供でしかなかった。
 その夜、私は初めて門限を破った。


 母からの電話を散々無視して、家に帰り着いたのは日付が変わる頃だった。
 二人で抱き合って泣いた後、門限の時間が過ぎているのに気づいた星志は私を帰らせようとしたが、まだ涙も乾いていない星志を置いて帰れるわけがなかった。
 星志もいつもより気弱だった。
「……じゃあ、もう少しだけ、いてくれる?」
 暗い歩道橋の上で星志は私の手を握って座り、夜空を見上げながらぽつぽつと星の話をした。星志の体温を手に感じながら、私も同じように夜空を見上げ彼の話に相槌を打った。
 地上には私たちの心を慰めるものは、何もない。だから、私たちは地上の話を一つもしなかった。
 少し落ち着いた様子の星志を見て、家に帰って身体を休めるように言うと星志は素直に頷いた。なのに、家まで送ると言う私の言葉は聞き入れず、夜道を奈緒一人で帰らせたくないと強硬に言い張り、怪我をしている身体で私を家の近くまで送ってくれた。帰る前には家に連絡も入れさせられた。
 結局星志は誰に暴力をふるわれたのか言わなかった。夜の街で質の悪い者に絡まれたのだろうか。もしかしたら学校のいじめっ子に会ってしまって、やられたのかもしれない。レコーダーも壊したんじゃなくてその時に壊されたか、取られたのだろう。
「家の人と喧嘩しないでね。謝って、許してもらってね」
 自分の怪我より私を気づかう星志の優しさが悲しかった。
 玄関で出迎えた両親は怒るより先に、まず私の服についた血に驚いた。
「友達が……怪我をしたの。心配で、ずっと……傍に居たの」
 できるならもっと傍にいてあげたかった。何もできないけれど、傍に。星志が病院へ行くのを頑なに拒否したので、コンビニで買える物でしか手当てできなかったから。
 一度も『痛い』と言わなかった星志。大丈夫、心配しないで、そればかり繰り返した。
 友達って誰、と母が聞く。
 馬鹿みたい。面識もないのに、名前だけ聞いてどうするの。
「どこの子なの」
 地球。広い宇宙の、同じ時代に巡り会えた。
「どんな子なの」
 星を持ってる。自分の名前がついた星。だから夜しか姿を現さない。昼間では見つけられない。
「奈緒、真面目に答えなさい」
 私は真面目です、お父さん、お母さん。
 私は──宇宙の迷子なの。
 父は石のように固まり、母はゆっくり顔を歪めた。
「奈緒……何を……言ってるの? 分からない。分からないわ」
 当然です、お母さん。だって私はお母さんじゃない。お父さんじゃない。
 私はお母さんから、人から生まれてきたけれど、姿は人の形をしているけれど。
「私も……分からないの」
 自分が何者なのか。
 だから、彷徨い、探している。
 本当の自分を。
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