アポリアの林

千年砂漠

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12  久住秀雄  その3

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 秀雄は席を立って旧資料室に移動した。
 仕事場で誰にも聞かれずに個人的な電話をするには、ほぼ物置状態で人の出入りがないこの部屋が一番だった。
 妻から聞いた出版社に電話し、勤めている新聞社の名と自分の名前を名乗り、岸原氏に電話を繋いでもらうよう頼むと、保留時のオルゴール曲が暫く流れた後、男性の声で返答があった。
「お忙しいところ恐れ入ります。私は」
「久住さんですね。どうも、初めまして」
 先に挨拶され、秀雄は慌てて挨拶し返し、突然の電話の無礼を改めて詫びた。
「お話は今さっき、羽崎先生から電話で聞きました。息子さんが御無事で何よりでしたね」
 晴彦の話が出るということは、彼が本当に羽崎の知人で一連の事情を承知している証拠だった。
「で、その息子さんを暫くお預かりしたいのでご家族から自分の人となりを問い合わせる電話があったらお答えするよう、先生に頼まれました。なので、何でも率直にお答えします、と言いたいところですが」
 彼は電話口であからさまにため息をついた。
「申し訳ありませんが、羽崎先生については何もお話できません。そういう規則になっております。元々そうして欲しいと言ったのは、羽崎先生の方なんですから」
「プロフィールは非公開とはネットで見ましたが」
「ええ、羽崎先生は私事を他人に知られるのを酷く嫌う人です。作家は作品のみを純粋に評価されるべきものであって、作家個人の情報が僅かでも作品に影響を及ぼすのは避けたいと言うんですよ。だから自分自身に関することは何も公表したくないと」
 それはネット上にも出ていた、羽崎のデビュー作の後書きの一文だった。
 文学に対して潔癖と言うべきか、自分の才能を信じるが故の自惚れと取るか、判断に迷う考えだ。
「うちで先生のデビュー作を出す時に先生がそう強硬に主張されて、編集と衝突したんですが、当時の編集長が『プロフィール全非公表の作家というのも面白くて良いだろう』と先生の意向通りにしたんです。正式にうちの会社と情報非公開を文書にして契約したので、他の出版社もそれに倣う形になったんですよ。それなのに今、事情があるから自分の人柄ついて第三者に語ってくれと言われましてもできませんよ。私があなたに語ったことが世間に洩れない保証はありませんから」
 得た情報を軽々しく口外するのではと疑われたようで、秀雄は不愉快だった。
 しかし岸原はそんな秀雄の胸中を無視して、再びため息をついた。
「自分の言動が原因で私生活や顔写真がネットに一つでも上がれば、高い違約金が発生するのを忘れたわけではないでしょうに、先生も暢気と言うか豪儀というか。まあ、先生も得体の知れない人間が息子さんの傍にいるとご両親を心配させないようにと考えての精一杯の誠意だったんでしょうけど、私としては迂闊に名乗らないで欲しかったですね」
「オフレコと言われれば情報をもらすようなことはしません」
「ええ、あなたは頼めば秘匿してくださるでしょう。しかし、あなたのご家族は? 奥さんや息子さんが、悪気なく誰かに話してしまう可能性もあります」
「そこはちゃんと私が言って聞かせます。ご心配されるような事態にはなりません」
「そうまで仰るなら、誓約書を書いていただけますよね。明日にでもお送りしますので」
 不信感を隠そうともしない彼に、
「もちろん書きますよ。私は新聞記者でマスコミ関係者です。情報の取り扱いの大事さは十分知っているつもりですから。それに今回は仕事ではなく、純粋に父親として息子を助けてくださった方がどういう方なのか知りたかっただけです。他意はありませんよ」
 秀雄が憤慨を込めて言うと、彼は短い沈黙の後、声を和らげた。
「いや、すみません、私の口が悪すぎました。作品が映画化された後、先生の素性を探ろうとしたしつこいフリーのライターがいて、以来警戒心が少し過敏になってしまっていまして、失礼なことを申し上げました。お詫びします」
 素直に謝罪されれば、秀雄も憤りを納めるしかない。
 本来問い合わせ不可の質問をしているのは、こちらの方なのだから。
「いえ、こちらも事情を良く存じ上げず、勝手を言ってすみませんでした」
「事情があるとはいえ、やはり規約のため詳しくは申し上げられませんが、先生は好人物ですよ。少なくとも子供に暴力を振るったり暴言を吐いたりするような人間ではないことは、私が保証します。仕事に没頭するあまり他人や社会との交流が疎かになってしまう面もありますが、真面目で人当たりの良い、良識のある人です」
 渋った割に岸原はあっさり羽崎の人柄を語った。
 この程度の人物評を語るのに随分勿体ぶったものだと思うが、羽崎という作家は存在が謎というところがひとつの価値なのだろうから仕方ないのかもしれない。
 とりあえず聞きたい事は聞けたと安堵した秀雄の耳を、冷ややかな岸原の声が刺した。
「ですが、あなたが息子さんを羽崎先生に預けようなんて考えているのでしたら、私は賛成しかねますね」
「――そ、そんなつもりはありません」
「そうですか? あなたが私に電話してきたのは、羽崎先生がどんな人間か知りたかったからでしょう? その根底には息子さんを預ける相手としてという意識があったのではないですか?」
 反論がとっさに出てこなかった。
 心中を見透かされたようで不愉快になった自分よりもっと不愉快そうな声が、不遠慮に言葉を続けた。
「預ける意思がないなら私の所へ電話なんてせず、さっさと羽崎先生に連絡して息子さんを引き取る算段をしたはずです。情緒不安定で家出した思春期の子供と正面から向きあうのが面倒だからって、他人に預けて対面を先延ばしにしても問題の解決にはなりませんよ」
「失礼な!」
 湧き上がった怒りは無意識に心中に隠していたものを的確に突かれた故だったが、秀雄は意地でも認めなかった。
「私は羽崎さんの所に暫く居たいと言った息子の考えも尊重したいと思っただけです! だから羽崎さんがどんな人なのか気になって」
「自分の意見を尊重してくれる親を持つ子供は、家出なんてしませんよ」
 平然と彼は切り返した。
「もし、家出されたから今度は言うことを聞くというなら、それはご機嫌取りでしかありませんね。子供をつけ上がらせるだけです」
「随分親身な教育論をどうも!」
 携帯を叩きつけたい衝動を抑えて、秀雄は精いっぱいの嫌味を返した。
「あなたの御意見を参考にするまでもありません。息子は家に帰らせますから」
「そうですか。それなら安心です」
 岸原は言葉にそぐわない無感情な相槌を打つ。
「では先程申し上げた制約書はすぐにお送りしますので、よろしくお願いします」
 秀雄が返事を返す前に電話は切れた。
 携帯を握りしめた秀雄の手は、無自覚に震えていた。
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